「ラングーンで会おう!」 ──ビルマ民主化運動の再燃
 ある自由戦士の帰還 1996年8月取材
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写真:学生キャンプで同志に語りかけるトオンジョー(右から二人目)
 転機

 軍事政権の粛清に静まり返っていたビルマで一九九六年十月二十二日、ラングーン工科大学の学生約五百人が、 警官の学生に対する暴行に抗議して街頭に座り込んだ。これを書いている十二月十五日までに、他大学の学生や一般市民も加わり、 軍の警備の間隙を縫う“山猫デモ”に発展、ラングーン市内はもちろん、マンダレーなどの地方都市にも波及している。 これだけの規模の民主化運動は、八八年以来八年ぶりのことである。
 アウンサンスーチーNLD書記長は九六年六月から、軍政の弾圧が十分予測されるなか議員総会や党大会を招集し、 ビルマの不条理を内外の良心に訴えていた。彼女のそうした果敢な行動に応えるかのように学生たちが沈黙を破ったのだが、 これらの二つの転機の間には、もう一つ重要な出来事があった。
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活動家・トオンジョー

 バンコクの急速な発展を忸怩たる思いで祖国と比較するのも束の間、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)初代議長のトオンジョー(42)は早速学生キャンプに向かう。彼の議長時代には、 タイ国境沿いに二十三のキャンプがあり、一万人近い学生がたてこもっていたが、彼のアメリカ亡命から一年余りで二派に分裂、 キャンプはタイ・カンチャナブリ県のビルマ側にメタミーキャンプが唯一残るだけになっていた。第一連隊約二百人がいる同キャンプへは、 いくら「ミャンマー観光年」でもラングーン側から旅行が許されるわけはない。世界が軍政を承認している限り、民主派解放区入りは、 タイからの密入国より他ない。雨季のジャングルをトラックでは途中までしか行けず、徒歩四時間の道程は、泥沼と濁流の繰り返しだった。 こうした悪路がビルマ国軍の侵攻を拒み、解放区を可能にしているとも言える。
 カレン民族同盟(KNU)や二十一の反軍政団体が組織する民主ビルマ連盟(DAB)の本拠地だったマナプローが九五年一月、 国軍に陥とされ、その周辺のキャンプにいた学生たちは、ここメタミーやピンマナ地区へ分散した。 移動部隊となった第二、第六連隊を合わせ、残る学生の総数は千人前後であろう。それ以外の数千人は、軍政に投降するか、 タイの不法移民になるか、第三国へ行くか、または死んだ。ジャングルの厳しい生活に、国軍の猛攻に、タイや諸外国の無関心に、 彼らは民主化への展望を失ったと言えよう。
 ジャングルを切り開いたメタミーキャンプには、本部や兵舎、運動場のほか、住宅、店、病院、学校、図書館、寺院などが建ち並び、 一つの村のよう。非政府援助団体(NGO)の支援が激減し、彼らは畑を耕し、家畜を飼って自給自足の生活をしている。 八八年の民主化デモの中心だった学生たちは、二十代後半から三十代前半に。女子学生に抱かれる乳幼児たちは、 キャンプで生まれた“革命児”だ。民政委譲がない限り、子供たちは無国籍である。
 特筆することには、こうした厳しい環境でも高い士気を保っていることと、今でもキャンプへやって来る若者がいることだ。 兵舎にいた新兵はメグイ・タボイ地区出身で、我が物顔で村へ入ってきて、村人の徴用や、金品の略奪を繰り返す国軍が許せなかったという。 他方、学生たちはタボイ市から八キロしか離れていない村へも潜入し、医療や教育、福祉活動を行っている。村人は学生を支持し、 補給にも不自由しないという。集まった学生を前に「闘争が長引き、疲れてきた人もいるだろう」と、トオンジョーは切り出し、 「英国からの独立運動時代から、ビルマの民主化運動の周期は十年から十四年だ。だから、九九年九月、いやそれまでにも、 再度蜂起があるかも知れない」と演説した。

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 少数民族は

 反軍政の中心勢力だったKNUの分裂と、拠点マナプローの陥落は、 共闘していた学生組織や他の少数民族などの士気を下げた。また、戦禍が広がり、大量の難民を発生させている。 KNUボーミャ将軍は、軍政によって仕組まれたことで、内部からの分裂ではないという。 軍に王政時代の宮殿をあてがわれていたトゥガナという僧が、KNUの防衛線と砲撃陣地近くに仏塔を建てようとした。 将軍は「建てるなら、もっと風光明媚で安全な場所へ建てろ。大勢の参拝客に敵スパイが紛れ込んでくるから」と反対したが、 トゥガナは強行したという。その後も、彼は要所要所へ仏塔建設を主張し、将軍が反対すると、ついに「仏教弾圧だ」と言い始めた。 それまでカレン族の間で宗教対立など一度もなかったが、軍政の罠に気づかず「仏教徒への差別」を信じてしまったKNU兵士は少なくなかったという。 「奴らはまともに来れば勝ち目がないので、我々を分裂させる道具に宗教を使ったのだ」と将軍は語気を強めた。
 停戦については、DABは第三国での団体交渉でなければ軍政とは話し合わないことを決めていたが、 一つ、また一つとメンバーが脱落して行き、KNU自身も分裂した結果、個別会談に臨まざるを得なくなったという。 だが、停戦協定後も平和は来ず、国軍による村人の徴用や、強制移住など、逆に被害は増えている。カレニーやカチンなど、 他の州でも、国軍は停戦後も侵攻を続け、州ごとの徴税、団体の組織・集会を禁止し、その上、各民族の言葉や文化の教育さえ許さないという。 報道では、全ての少数民族が軍政と停戦を結んだように受け取れるが、協定後のこうした圧政から、力のある少数民族は反撃に転じている。 「停戦というのは和平会議をするためのもの。その後に話し合いがなければ、無意味だ」と、将軍の考えは振り出しに戻っていた。
 また、政治解決を抜きに、地域開発だけは持ちかけてくる軍政を、将軍は相手にしていない。道路を整備した後は、 重火器を投入して武力で抑えつけ、資源を搾取するという軍政の狙いを、早くから見通しているからだ。 それだけでなく「地域開発は、リーダーたちにビジネスチャンスを与えることにもなる。彼らがひとたびビジネスを始めると、 政治への興味は失せ、市民との関係は切れてしまう。現に、軍政と手を握った奴らは金持ちになり、家や車を買っているが、 市民はそんなチャンスに恵まれないので、わだかまりが生じ、バラバラになってしまった」と、将軍の読みは深い。
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 国内は

写真:国軍とカレン仏教民主軍の襲撃で大火傷を負ったアブラハムさん一家

 停戦は軍政の横暴を許すばかりで、平和だった各州・地方にも混乱が広がり、タイ国境へ難民が続々と出てきている。 メソートから北へ二時間、マナプロー陥落までは人口八千人前後で推移していたバーガロウ難民キャンプは、村単位の到着が増え、 訪れた九六年八月には二万五千百九十九人に達していた。
 カレン族の難民、アブラハムさん(42)は「彼らはキリスト教徒が嫌いなんです。私はキリスト教団体で働いていたから」と 襲撃された理由を推測する。彼は隠れていた穴で、国軍と、KNUから分裂したカレン仏教民主軍(DKBA)が名指しで彼を探すのを 耳にしている。彼と家族は火を放たれた村からの脱出が遅れ、十九歳の長女が焼死し、ほかの四人もみな深い火傷を負った。
 トオンジョーは、痛痒いとケロイドを掻く彼らを、こう言って励ました。「今もし諦めると、軍は子や孫の代までも横暴な振る舞いを止めません。我々は命のあるうちに反撃すべきです。真理のために、 自分たちの権利のために闘っているという自覚を持って」。
 タボイ地区からの難民は「奴らは勝手に人の家に入り、服や鍋釜の類まで残らず持って行く強盗団だ」と国軍への怒りをぶちまける。 村を無人にするため、戦闘を仕掛けることもある。一村当たり六万チャット(百Kは約¥六十五)を払えば無事なこともあるが、 モン族のチョタエンジ村のように、金がなく焼き払われた例も少なくないという。
 強制移住も後を絶たない。カヤト州シャタウでは、山地民族カレニー族の九十六村が九六年五月、 畑や家畜を残して生活環境が全く違う平地へ移住させられ、その後の三か月間に四万人を超す村人が難民となり、 タイ北部のメーホンソンへ逃げ込んでいた。国軍は彼らの村々をゲリラの戦略村とみなし、根こそぎ排除しようとしたのだ。
 また、国軍が徴用に来た時には、日当二、三千チャットと人数、日数をかけ合わせた金額を払わないと、村人を強制的に連れて行くという。 タイ領にある病院で、その被害者(29)の証言を得た。「マラリアで点滴を受けていたのに、連れて行かれました」。三十五キロを担がされ、 十三日目に崩れ落ちた彼を、国軍兵士は銃底で何度も殴り、死んだと思って崖下へ投げ捨てた。 逃亡した仲間が九日かかってこの病院に運び込んだが、マラリアが悪化し、肋骨が折れ、失明し、足は曲がったまま、伸びない。それでも、 生き残った者の義務とばかりに、疲労と粗食で歩けなくなった友が国軍に銃殺されたことを、彼は涙で訴えた。
 メソート郊外、ろくな料理もない売春レストラン。ウエイトレス(17)は「民族の恥だから」と、難民キャンプにいる家族とは会っていない。 両親はKNU兵の息子の居場所を言うよう国軍兵士に拷問され、一家でタイへ逃げてきた。が、キャンプの配給では足りず、彼女はここへ。 十二人いる少女全員がそうしたビルマ難民。不法就労の道しかない彼女の収入は、客一人につき百バーツ(約四百二十円)にしかならない。
 軍事政権は武力で国を治め、財政難を切り抜けるために、国民に労働や金品を供出させようとしている。 だが、そもそも軍政が国民に支持されていないことが、全てのトラブルを引き起こしている。
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 頼りの外圧は

 ビルマ市民が希望を託す外圧なのだが、近年ではアセアン諸国のみならず、欧米や日本にも、軍政擁立の兆しが見える。 その要因として、各国の政府や企業が・景気回復の一助としてビルマの処女市場を狙っている、・ビルマの中国化を杞憂し、 軍政の機嫌を窺っている、・経済開発が民主化を促すといった説を信じている、 ・貧困からの脱出を最優先せざるを得ない国内市民を曲解している、ことが挙げられよう。
 トオンジョーは「タイをはじめアセアン諸国は、ビルマの足元を見て、天然資源や労働力を底値で買えるので、 売国奴の軍と付き合っている」と訴える。そして、中国の南進を軍政承認の大義名分にしようとする動きには、 「この状態で欧米や日本が進出しても、人権や自由がないという点で、ビルマは既に中国と同じか、それ以下だ」と、大国の詭弁を突く。 また、今回国境をまわっている間、タイの新聞はジャカルタのメガワッティー女史の事務所の焼き討ち事件を大きく報じていた。 「経済開発が進めば民主化も、という人がいるが、だったらインドネシアはどうなんだ?旅客機を作るほどの国だろ」と、彼は反論する。 それでも、強権独裁は途上国の開発効率を上げるので、ビルマには軍政が相応しいという意見がある。「軍は命令で動くから、 一見効率が良いように見える。が、その命令が間違っていても、反論できないのが軍だ。 ネウィン(将軍)独裁の二十六年間でビルマは世界最貧国に落ち込み、そうした考えが誤りであることは、とっくに立証されている」と、 彼は一蹴する。
 さらには、ネウィン時代のビルマが、自民党独裁だった日本や、軍政を敷いた韓国のように高度成長しなかったのは、東西冷戦の“恩恵”を 得られる地勢的位置になく、鎖国できたから。また、少数民族の独立闘争が他国にはない負担だったという分析もある。 そして、企業や観光客がビルマへ行くかどうかは、民主政体であるかどうかではなく、 体制が安定しているかどうかに掛かっているという冷めた意見もある。だが、トオンジョーは「腐敗のない安定はないから、 賄賂をたかられ、所詮ビジネスも観光も駄目だ」と断言する。そして「ビルマ市民がどんなに弾圧されているのか知れば、 良心のかけらでもある人なら、軍政との付き合い方を変えるはずだ」と、彼は信じて疑わない。
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 ABSDFの再団結

 難民が訴える国内情勢や、少数民族が憤慨する停戦協定は、アウンサンスーチー書記長が言った「 団結の時」の意味をトオンジョーに再認識させた。分裂していたABSDFの一派、モーティゾン議長は「分裂の主因は、 政策や作戦の違いよりも、内部にスパイがいるのではという疑心暗鬼だった」と振り返る。軍は複数の工作員をもぐり込ませ、 意見の違うリーダーを支持させ、派閥名を付け、メンバーにどちらかへの所属を強い、そして、喧嘩を始めた。 「あの頃は、私も経験不足だったので、そんな手に乗せ轤黷トしまった」。初代議長が再団結の話を切り出すと 「あなたの顔を潰したりはしません。我々にとってより多くの代議員を出すということは、大した問題ではありません」と、 彼は共通のゴールを見据えていた。
 もう一派のナインアウン議長は「時間はお互いの不信感を取り去ってくれた」という。歳月が学生を当初の七、八分の一まで淘汰し、 民主化のために人生を投げうつという筋金入りの闘士だけを残した。「我々の分裂は、少数民族や国内の学生にも悪影響を与え、 軍政を喜ばせるだけだった」と、彼も軍政の罠に気付いていた。
 トオンジョーの根回しから一か月、二派は総会を開き、新議長にナインアウンを、新副議長にモーティゾンを選出、再団結を果たした。 だが、その直前、国境の学生が大量帰順したといった水を差すようなデマが流れた。 事実は、妻子を人質に取られた二十人がやむなく投降したのを、国営テレビが誇大に報じたのであった。 彼らの団結のインパクトはそれだけ大きく、軍が潰しにかかってきたのである。
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 八八年とは違う

 この国境での出来事は、後ろ楯を失っていた国内学生たちを大いに勇気づけたことであろう。が、 記事の趣旨に反するので、その因果関係には触れない。ただ、外国人ジャーナリストを追放する軍政に対し、 ABSDFは地下組織とインターネットを駆使し、ビルマ国内と世界とのリンクを強化している。 八年ぶりに学生デモが起こった九六年十月二十二日以降、この原稿の締切りまでに入ってきた主な情報は次の通り。 逮捕された学生のうち八十七人が未だ釈放されていない。二人のNLD党員が裁判なしに七年の刑で投獄された。 NLD支持者のクリーニング店主が国軍兵士に撲殺された。モールメンとタウンジーでも民主化デモが発生。 ラングーンでは中学以上の学校が閉鎖され、寮の学生は故郷に追い返され、市内に通じる道路や橋では検問が行われ、 市内に戦車十五両が配備された。電話が通じにくくなり、現地通貨のチャットが急落、市民はドル換金とコメの買いだめを急いでいる。

ABSDF情報はlurie@mozart.inet.co.thへメールを

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 亡命先のアメリカへ戻る空港ロビー。 「今は八八年とは違って国内に強力な政党があり、国境の学生たちは再団結し少数民族や海外民主派との連帯を強化している。 この内外二つの勢力が協力すれば、八八年よりもっとマシなことが出来るはずだ」。トオンジョーは、こう展望を話した。 「SEE YOU IN RANGOON!」。彼とラングーンで再会できる日は着実に近づいている。
(文・写真/阿佐部伸一)

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