国境に見るビルマ開国 ――― 2012年9月取材

 初の陸路入国


 タイビルマ友好橋、『サパーン・ミタパープ・タイ・パーマー』が国境を成すモエイ川に架かったのは15年前のこと。それまでは竹を組んだ人だけが渡れる橋だったり、浮かべたドラム缶の上に板を敷いた不安定な橋だった。タイ側の街、ターク県メソートは半世紀以上に亘ってビルマの軍事政権に抵抗する少数民族や民主派にとっての外部世界との窓口で、避難民への援助の拠点でもある。反政府勢力を追い詰めるビルマ国軍が越境してきてタイ軍と交戦したり、砲弾がタイ領に着弾することもあった焦臭さ漂う街だった。そんなメソートを訪れる度に見て来た橋ではあるが、今年9月初めて渡たることになった。


写真:モエイ川に架かる友好橋。地元住民は橋の通行料より安い昔ながらの渡し舟で=タイ側河畔から


 「帰って来たら、ビザは2週間になるけど構わない?」。友好橋の袂のタイ入管で職員は日本人の小生にそう確認した。空路でタイへ入国して得た1か月の滞在許可が、この橋を渡って戻ってくると半分の期間になってしまうからだ。国境橋の通行料はピックアップトラック1台で250バーツ。地元ジャーナリストの助言で、一眼レフカメラとカメラマンベストを鞄に納めたが、荷物をチェックする気配はない。出国スタンプを押されて橋を渡る。対向2車線、車だと1分ほどでビルマに着く。対岸のミャンマー政府の入管事務所にパスポートを預け、晴れて入国。ミャンマー入管は入国スタンプこそ押すが、何日までといったビザのスタンプはない。「遠い所へ行っちゃダメ、分かってるよね」。入管職員のそんな一言だけだった。


写真:ミャンマーの9月5日付けの入国・出国スタンプ

 電気があり、携帯電話も通じる場所なのだから、コンピューターでパスポートを照会することも可能だが、そうした入国審査も何もなし。奇しくも、この6日前の8月30日、ミャンマー政府は公式サイトでこれまで入国を許さなかった外国人1147人のブラックリストからの削除を発表していた。ビザ取得の難しさもあったが、反政府勢力の解放区を除いて、陸路ビルマに入国したのは、これが初めて。15年前に橋は完成したものの、ミャンマー政府によって何度も閉鎖されてきただけに、拍子抜けするほど簡単な入国に、大きな変化を感じずにはいられなかった。
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  国内ではなく国境の理由
 
 ミャンマー政府は今年4月頃から外国人ジャーナリストにビザを出し始め、6月からはラングーン(ヤンゴン)のミンガラドン空港で申請できる、所謂アライバル・ビザの発給を始めた。「東南アジア最後のフロンティア」とばかりに各国のビジネスマンが殺到するのと同様に、多くのジャーナリストがこれまでは非常に難しかったビルマ国内へ取材に向かっている。しかし、小生は開放の質や民主化の度合いを見るには、少数民族が多く、人や物、情報が行き交うこの国境地帯こそが適地と考え、先ずは友好橋を渡ってミャワディーの街へ入った。
 乾季には歩いて渡れるほどのモエイ川だが、その対岸に一歩踏み入れると、看板は虫のように丸いビルマ文字に。銀行のほか、食品や衣料、軽工業品の商店。街角にはビンロウと石灰などを混ぜてキンマの葉でくるむ噛みタバコ『クーン』を売るスタンド。橋からのメインロードを逸れると、すぐに凸凹道。庶民の足は人力三輪車が主だ。水道が敷設さていないので、水を運ぶトラックが目立つ。そのトラックは耕耘機のエンジンを裸で載んだ代物で、轟音ばかりでのろのろ走る。15分前に見ていたタイの街とは隔世の感がある。

写真:埃っぽい道を顔にタナカを塗り荷物を頭に載せて運ぶ女性と耕耘機のエンジンで走る給水車


 国境への途上立ち寄ったバンコクで日本語を話すビルマ人とビールを飲む機会があった。ミョナインさん(52)はラングーン大学数学学科を出て中古車店を営んでいたが、89年のソウマウンのクーデターをきっかけに「国にいては何もできないし、何かすれば刑務所に入れられるから」とタイへ脱出。翌90年韓国へ行く途中、在日ビルマ人たちの誘いに成田からトランジットビザで日本に入国、そのままオーバーステイし関東に10年暮らしたという。彼は自分の転機と重ね「去年6月の出来事は今回の民主化への兆しだった」と振り返る。バンコク市内のホテルでミャンマー政府が外国企業向けに開いた商談会で、在バンコク大使のアウンテイン氏が彼に近づいて来て「君の力を貸して欲しい」と大使館に招いたという。当然、本国へ強制送還され刑務所に入れられるのではと警戒したが、今では東京で覚えた日本語を使って日本の政治家秘書やビジネスマンをビルマ国内に案内し、要人と引き合わせたりしている。
 ミャワディー最大のバレンノン市場で物価を見てみた。値段はチャットとバーツで併記され、当然バーツでの支払いも可。しかし、昔のように法外なレートの外国人専用紙幣に強制両替させられることなどない。精米済みのビルマ米は等級によって1キロ35〜62円。タイ製ゴム長靴360円、タイ製デイバッグ770円、タイ製ワンピース2400円、ビルマの韓国系工場で織られたロンジー(ビルマの伝統的腰巻き)280〜600円、中国製クワ510円などなど。


写真:「ロウ」と呼ばれる坩堝

 荒物店のパッサンさん(38)は「開国で仕入れが楽になり、買い物客も増えましたよ。農作業が一段落する雨季明けには、どっと客が来るんじゃないですか」と明るい表情で話す。その店の一角に素焼きの坩堝が大小いろいろと並んでいた。『ロウ』と呼ばれ、金などの貴金属をこれで溶かして蓄財するそうだ。過去何度も紙幣が突然紙屑になって煮え湯を飲まされた経験から、市民はまだまだ政府発行の紙幣を信用していないようだ。
 ビルマの日常食『オンヌゥカスエ』というココナツ麺をはじめ、英領ビルマの名残ミルクティーに菓子パンを出す典型的なビルマ式カフェ『モーニングスター』に入った。ウェイターのマウンアエさん(17)はヤンゴン近郊から5か月前にこの国境のカフェに働きに来たという。「家にいたら、魚獲りの手伝いばかりでつまらないし、どんな所かなと興味があったから」。ちなみに、彼の月給は3200円ほど。市場との境を成す道路に面した店一軒分の土地、間口15メートル奥行き20メートルほどが560万円程度。地方都市の商業地域の地価は日本の4〜10分の1なのに、労働者の賃金は30分の1以下。民主化へ動き出したばかりの国では、まだまだ物価や賃金も歪なようだ。
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 ビルマ人ジャーナリスト

 「2週間前、ミンオンライ最高司令官がタイ政府に軍事訓練に参加したいと申し入れたよ」。テインセイン大統領になって2か月が経った11年5月、ビルマ国内のオンライン新聞に対するブロックが解除された。今では欧米資本を含めて約20紙が自由に読める。その一紙でタイのチェンマイに本社を置く『イラワディ』のスートゥー記者(48)と話した。国内では汚職や武器の輸入、北朝鮮との関係など政府が公表しないニュースを読みたがっている。それでも今のところ検閲はないという。彼は少数民族パアン族出身で25年前からタイに住み、特にジャーナリストの"帰国"は難しいと思い知らされていた。だが今年1月、反軍政を鮮明にしてきたノルウェー系のメディアを含め、記者たちに1週間のビザが出て国内を取材、最初の2日がプレスツアーで後は自由行動だったという。大統領の会見があり、国会議員へのインタビューもでき、遷都先のネピドーをはじめ各地を巡ったそうだ。確かにテインセイン大統領は先月「変化を見ようとしない頭の固い奴は要らない」とメディア担当と中国によるダム建設推進派だった電力相を更迭している。スートゥー記者は「強い意志と力を持っているテインセイン大統領が続く限り報道の自由はありそうだが、健康を理由に次期(2015年)選挙には不出馬の意を表明しているだけに、その先は不透明だ」と言う。

写真:ブラックリストから外された外国人(籍)の人たち=ミャンマー政府公式サイト

小生が国境を取材して廻っていた9月1日、ミャンマー政府は民主派学生リーダー、トオンジョー氏ら(96年『ある自由戦士の帰還』で詳報)を亡命先のアメリカなどから英雄のように招いていた。もし国内に留まっていたならば、政治犯として刑務所に入れられていた人たちだ。


 少数民族、カレン族は…
 
 「変化は認めるが、ミャンマー政府は信用できない」。カレン民族同盟(KNU)ナンバー2のディビッド・カポ氏(72)とメソート市内で昼食を共にした。外国語の上手なカレン族の多くが第三国へ移住してしまったが、カポ氏はKNU高官の中でも英語が達者だ。「ミャンマー政府の停戦は開発を急ぐためで、人々を堕落させ、鉱物や木材を搾取し、環境を破壊するばかりだ」。サロウィン川では水力発電ダムの建設計画が進んでいて、再び軍政による民族浄化に繋がる懸念が出ている(07年『戦場をめざすフリーター』で既報)。ダム建設などで外国企業が入ってきて一時的に市民にも少額の収入をもたらすが、環境が破壊されてしまっていて豊かな暮らしは続かない。開発はサステイナブル(持続可能)でなければならない。ビルマの少数民族の人口は約3割。スイスのような少数民族を尊重した連邦制を彼は望んでいる。
 カレン族はタイ北西部からビルマ東南部にかけて居住する少数民族。KNUのカレン民族解放軍(KNLA)はかつてはマンナプローを拠点に解放区を作り、60年以上に亘ってビルマ政府やミャンマー政府からの独立闘争を続けて来たが、今年1月ミャンマー政府と「歴史的な停戦合意をした」と報じられている。そうなったのも、もはやKNUは宗教や指導者ごとに分裂し、一枚岩ではなくなっているからである。
 まずは主流派のカポ氏の話に耳を傾けた。「今のミャンマーの地図は英領ビルマのそれで、拡張主義の結果だ。少数民族同士で互いに非難している場合ではなく、団結しなければ」とも言う。ただ、今回の変化はこれまでとは違うかという問いには、「テインセインは良い奴だと思うが、法整備を急がないと。アメリカやオーストラリアなど西側が中国の南下政策を恐れてミャンマー開発に積極的であることが、これまでとは最も違う点だ」と外圧に期待する少々シニカルな分析をしていた。


 和平交渉の経緯
 

写真:パアンでの和平交渉に民族の正装で参集したカレン族リーダーたち(撮影=スートゥー記者)

 KNUは既にミャンマー政府と3回の和平交渉を持っているが、進捗は停戦合意で停まっている。政府側から和平交渉に出て来るのはアウンミン、ソウテイン両総理府大臣とキンイェ出入国管理大臣、それに政府側のカレン州知事、ゾウミン氏とのこと。
 1回目の和平交渉は今年1月12日パアンで。その時、双方は停戦合意にだけサイン。アウンミン大臣は「ここ3年が正念場だ。その後はどんな政府になるか判らない」と早めの決着を望んでいたという。2回目は4月6日ヤンゴンとネピドーで開かれ、テインセイン大統領も挨拶に現れたものの、合意を目指す34項目中、双方が署名したのは6項目だった。その中の重要項目は第一が「KNU支配地域での住民の安全保障」、第二が「停戦ルールを守ること」。3回目は今月9月の3、4日に再びパアンで持たれた。文書による合意項目は増えなかったが、KNUは口頭で@政府軍のキャンプは村から離れた所へ移動、A今後は村の中にキャンプを作らない、B新しい道路は村の外側に通す、という三箇条を要望した。
 3回目の会議の頃に、現場のKNLA司令官から政府軍の司令官へもカレン州内に300地点にある政府軍キャンプを200に減らせという要望書を手渡している。なぜなら、100地点はカレン族の村の中にあるからだという。一連の会議でミャンマー政府はKNUに対し、武装はそのままに支配地域に居住し、経済開発も自由に行うことを認めるスタンスだという。テインセイン大統領は「銃を持っている人は経済活動をしていない。銃の代わりにノートブックパソコンを持てばよい」と話したそうだが、KNU側では非現実的だと一笑に付した。鉱山も森林も重要な産地は政府軍が抑えているので、KNUは政府軍に「出て行け」と言っているのが現状だ。
 また、カポ氏は和平交渉をミャンマーの内政問題とは位置づけしておらず、交渉に中立な第三国が立ち会っていないことに不満のようだ。KNUは独自にパドゥ・ダマラボ大統領(94)の下、カレン州の最北部KNLA第5師団の拠点パポンで国会を開き、選出された議会と政府、司法が機能し、加えて、KNLAも独自の士官学校や階級制度などがあるゲリラではない正規軍であることを誇示している。
 だが、94年12月、仏教徒グループの民主カレン仏教徒軍がミャンマー軍政側へ離反。95年1月にはDKABとミャンマー軍の攻勢にマナプロウが陥落。その後、DKABの9割を占める主流派はミャンマー政府の国防省への編入案を受け容れ、兵士たちは国境警備隊(BGF)になっている。同じ少数民族であっても彼らは自治を貫こうとするKNUに懐柔作戦を仕掛け、7つあるKNLAの師団のうちタカ派の第2と第5師団を残し、それ以外は既に経済を優先する親ミャンマー政府の立場と取っている。
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  和平後の自治は
   
 カポ氏はDKABには独自のビジョンや政策はないと言う。かつてはKNLAとしてミャンマー軍政と敵対し、戦火も交えたが、今はミャンマー政府の国境警備隊になっているDKAB主流派を訪ねた。ミャワディーから約100キロ北に位置するワンパー。国境のモエイ川には鋼鉄製の浮き桟橋が用意され、エンジンと屋根が付いた立派な渡し船が行き来し、対岸には韓国製のワゴン車が迎えに来た。これら全てはカジノの客のためだ。全部で12大隊あるBGFのうちの4大隊、約1500人を統率するモンウィン副司令官(40)によると、カジノは24時間営業で約100人がシフト勤務、1日平均5、60人の客が来るという。ミャンマーでカジノは禁止されているが、ここでは地域開発として特例的に認められている。営業中のカジノはタイ資本だが、建設中の二軒目は日本人の出資だという。営業権料は初年度が月額35万バーツ、二年目からは50万バーツとのこと。

写真:コンクリート舗装され街灯も並ぶメインストリート

  「和平交渉は未だ100%終わったわけではないけれど、ここは問題ありません」とモンウィン副司令官が言い切るだけあって、カジノ以外にも開発が進んでいた。船着き場から2キロほど続く村のメインストリートはコンクリートで舗装され、大型トラック同士でも対向でき、大きなロータリーや4、5年前に相次いで建設したという立派な学校や病院などが並ぶ。学校は小学校から高校までが入っていて、教師はDKABと中央政府からそれぞれ30人ずつという。「BGFに転身するか否かが最大の問題だった」と振り返るが、BGFにはミャンマー政府から給料が出て、宿舎や制服も与えられている。「戦争をやれば住民が困るし、折角建てた公共施設も瞬時に破壊され、またゼロから始めなければならないからね」とモンウィン副司令官。しかし、開発に対して政府から助成金などはなく、以前同様に木材や鉱物、農産物などの関税、それにカジノからの収入を財源として自分たちでやって行かねばならないそうだ。
 モンウィン副司令官は「和平で失ったものは何もない」とキッパリ言った。未だに抵抗している1割のDKABとも交流はあるが、「彼らはミャンマー政府を信用していないのだろうが、編入を決めるのは彼ら自身だから」と傍観の姿勢を取っている。

 抵抗を続ける「一割」
 
 メソートから国境沿いに今度は南へ約40キロ。赤いバラを屋根より高く積んだピックアップトラックとすれ違った。サトウキビやトウモロコシの畑が続くが、この辺りはバラの産地でもある。エンジンを取り外した舟に乗ってモエイ川を差し渡したロープを手繰り寄せて上陸した対岸は、一応ビルマ領だが、抵抗を続けるDKAB分派の解放区。BGFには編入しておらず、前回2010年の総選挙の際にはミャワディーを一時占拠して抵抗を示したグループだ。ここは24年前に訪ねた全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)のチーボブキャンプがあった所で、殆どの学生は軍事政権に投降するか、第三国へ亡命したが、当時の学生トゥントゥンがDKABの中佐になって本部にいた。腹が出たもう良いオヤジである。

写真:BGFに入った派とは一転、長閑な田園のソンゼミアン村

 KNUと重複している地域もあるが、40万人弱の市民がいて、カレン語で話し、伝統の歌や踊りで祝う『カレン新年祭り』も毎年続けているという。国境貿易では法律はないが、検問で"関税"を取っている。本部があるここソンゼミアン村には自分たちで2008年に完成させた100メートル級のコンクリート橋『ミンガラー・ダダー(=こんにちは橋)』がある。だが、4か月前に着工した150床の総合病院は工事が停まったままになっている。村の目抜き通りには電線が架かっていない電柱の列。戦闘で発電所もろとも破壊されたそうで、現在はごく一部の裕福な家が自家発電しているだけだ。
  応対してくれたのはナカムエ少将(51)、周囲には「ノッカウエ(髭面の人)」と呼ばれている。2011年9月にミャンマー政府と停戦協定を結んだが、武装解除はしていない。それ以来、高官会議が2回あったが、和平交渉は「半分まで」しか進んでいないという。理由を聞くと「官僚の異動が激しくて、返事が来ないから」と。
 1回目の和平交渉は11年11月3日カレン州の州都パアンで。政府側5人とDKAB側6人で開かれた。その時に確認したことは@停戦、Aこの地域にこれまで通りDKABが住むこと、BミャワディーにDKABの事務所を置くこと、C武器を持って移動する時には双方が事前に知らせること、D和平が完結するまで会議は続け、次回の会議の日時と場所は双方の合意で決めるという5箇条だった。
 2回目は同年12月11日で同じくパアンで。@前回サインした事柄を遵守する、Aカレン州はミャンマーにとって重要な国土の一部であり、独立はしない、B「ミャンマーは一つ」という認識を大前提とする、CDKABはスックリとドゥーモエキ(地名)に住める、D麻薬と覚醒剤の撲滅に協力体制を執る、Eは1回目の最後の項目と同じで、計6箇条。
 政府軍はDKABの本部から北は3.4キロ、西は8キロ、南は20キロの地点にそれぞれ駐屯しているが、2回目の和平交渉を持った11年12月以降強制労働やレイプはなくなったという。しかし、これまで政府からの行政サービスや公共事業は全くなく、行政は以前と変わらずDKABが治めている。少数民族が学校で自分たちの言葉を教えても良くなったということもラジオニュースで聞いただけで、政府からは何も言って来ていない。それまでにも学校ではビルマ語の他、ビルマ文字を使ってのカレン語、英語を教えているが、「本格的にやると、また弾圧されるかも」と半信半疑だ。
 
 2回目の会議でサインした政府側の高官たちは異動し、3回目の和平会談は持てていない。今年8月24日には「大統領と会談したいので、日時を決めて下さい」という手紙を送ったが返事がない。「KNUとの和平交渉が全然進んでいなかったので、今はあちらとの交渉に忙しいのでは」とナカムエ少将は推測し、KNUのカポ氏の話と合致する。DKAB分派も経済開発の前に先ずは平和が必要と考え、交渉を続けたいのだが、政府が無視しているという。「この和平がホンモノかどうかという見極めは難しい。以前の会談が立ち消えになったように、今回も話し合いが途切れているからです」
 
写真:迷彩服に小銃で身を固め、隊長の話を聞くDKAB兵たち

 帰り際、本部前の庭でDKAB軍の点呼があった。約50人の迷彩服を着た兵士がM16小銃などを手に装備の点検結果を報告している。総兵力は1600ほど。真っ向から戦火を交えるつもりはないだろうが、自衛と交渉カードの一枚として独自の武力を保持している。
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  未だ不信感に帰還せず

 谷の斜面に広葉樹の葉で葺いた小屋が密集するメーラ難民キャンプ。このキャンプは95年にでき、6つのキャンプを吸収しながら現在に至っている。他のキャンプは閉鎖され、跡地はジャングルに帰した。9月現在、4762世帯、2万6千293人が収容されていた。その64%が戦禍を逃れ、残り36%が家屋や土地を接収されて難民となったとのこと。ピークは2004年で約4万人。タイ政府と国連難民弁務官事務所(UNHCR)が合同でインタビューして難民認定してきたが、2004年の停戦以降新たな認定はないという。

写真:広葉樹の葉で葺いた屋根が連なるメーラ難民キャンプ

 06年からは第三国への移住が始まり、今年8月までに3万2千162人が、多い順にアメリカ、オーストラリア、ノルウェー、ニュージーランドなどへ旅立っている。ちなみに日本へは45人。民主化をアピールするミャンマー政府だが、UNHCRは未だ安全が確認できないからと本国帰還プログラムは始めておらず、9月中旬現在「民主化」報道以前と同じペースで毎月200人程度が第三国へ出国し続けていた。ただし、キャンプから国境まで約10キロなので、自主的に歩いて帰国した人はいるという。
 今年3月の調査では、@帰国したい人は187人、A第三国へ行きたい人は1万319人、Bタイに住みたい人は、第三国希望とほぼ同数の1万737人だった。それぞれの理由は@が、故郷には農地があるから、民主化されたから、言葉が分からない所より生まれ育った地が良いから。Aは子供の教育のため、暮らしが良くなるから、自由とチャンスがあるから、平和な国だから、すでに親戚が定住しているから。Bはミャンマーよりタイの行政が良いから、チャンスがあるから、タイ生まれだから、民主主義国だから、ということだ。難民キャンプに勤務するタイ内務省チャチャイ事務次官は「みんな祖国の変化は知っているが、同時に少数民族との和平交渉が上手く行っていないことも知っていて、未だ様子を見ています。完全に安全になれば帰国すると思いますけど…」と話す。
 ちなみにキャンプ内は撮影禁止。キャンプを管理しているタイ政府が最も写されたくないものは、豊かな村のように見える雑貨屋や理髪店、飲食店が軒を連ねる目抜き通りだ。難民キャンプといえども17年の歴史があり、村と化すのも自然な成り行き。難民キャンプ故に、タイの街や農村へ働きに行くことは禁止されていて、大人一人当たり米12キロの他、豆やサラダ油、塩、味噌、炭などの配給が毎月ある。その上、NGOが古着や文房具などを配り、養鶏や養豚を含め職業訓練も施している。こうした欧米や日本からの援助があるからこそ、難民キャンプといえども豊かに見えている。独自に経済が回っているように誤解される写真や映像は、援助が減ったり、打ち切られる材料になるので御法度というわけだ。
 辛うじて撮影許可を得たメーラ第二学校には、5〜16歳まで478人と教師24人がいた。キャンプ生まれの無国籍の子供も多い。ミャワディー生まれで10歳の時にキャンプに来たというニワさん(22)は、7、8年生を教えている。「チャンスがあれば、オーストラリアかアメリカへ行きたいですね。英語と地理をもっと勉強して、故郷の人々の役に立ちたい」とニワさんは話した。

 帰国は次の選挙しだい
 
 今年24年ぶりに国外に出られたアウンサン・スーチー議員を歓迎するため、メータオクリニックの病棟外壁には、彼女の写真を大きくあしらった垂れ幕がかかったままになっていた。結局、スーチー議員は6月2日メーラ難民キャンプを訪ねたが、当クリニックでは表の道で停車するだけで、垂れ幕は目にしなかったようだ。この医療施設はシンシア・マウン医師(53)らタイ国境に逃れて来た民主派学生6人が1989年に開設。当初は戦傷者やマラリア患者で溢れ返っていた野戦病院だったが、既に総合病院の体を成している。ただ、タイ政府の手前、入口のゲートにもクリニックや病院の表記は一切ない。

写真:20年以上、医療だけでなく、教育などにも尽力してきたシンシア・マウン医師

 200床は常時満床。80〜100床が小児科でマラリアや下痢の患者、60床の産人科では出産後24時間で退院して貰っているという。そして、40〜50床が外科で事故などの負傷者が入院している。1日平均400人ほど受診する患者はビルマ人で、国境を越えてビルマから来る人と、メソートに住んでいる人は半々くらいだという。ミャワディーにも病院はあるが、眼科や耳鼻科などはなく医療スタッフや設備が貧弱なため、わざわざ国境を越えて当クリニックへ来ている。シンシアさんは「ビルマの病院と連携するにも、ネピドー(ミャンマー政府)から指示が来ないので、何も進んでいません。今までさんざん停戦と言いながら、難民を出し続け、その裏で勝手な憲法を作っておいて、急に民主化と言われても…」と戸惑いを隠さない。
 経済発展の前に人権擁護と社会福祉が必要という考えのシンシアさんは、医療以外にも教育に力を入れてきた。彼女の2002年マグサイサイ賞受賞で広く知られるようになった当クリニックを拠点に、タイ側に出てきているミャンマー人のために学校や孤児院を5カ所設け、約3千人の子供たちの面倒を見ている。また、看護士を養成し、カレン州5カ所に診療所を開いている。「今後、ここに残るか帰郷するかは、少数民族の問題を含めて国内の行政しだいです。国会の四分の一が軍人に占められたままですが、とりあえずは2015年の総選挙に期待しています」とシンシアさんは話す。
 「60万ドルの予算不足に直面しています。あなたの助けが必要です」。インタビューでシンシア医師は財政難について全く口にしなかったが、クリニックの掲示板には英文でこんな緊急アピールがあった。援助で成り立ってきた医療と教育福祉の事業なのだが、「民主化」を機にドナーが支援先をミャンマー国内へシフトし始めたからである。

 突然「民主化」しても
 
 メソート市があるターク県にはビルマからの出稼ぎ労働者が登録しているだけで約7万人いる。未登録も入れると30万人は下らない(メソート市役所調べ)。テーディキット市長(55)は、この町は既にビルマ人なしには経済が回らないと認める。確かに、街を歩けば、飲食店店員や運転手、肉体労働者らは殆どがビルマ人だ。タイ生まれのビルマ人も年々増えて、出生届は受理しているが、タイ国籍は与えていない。かといって、彼らはミャンマー国籍もなく、無国籍だ。国境の向こう側には昔ながらの農業以外の産業がなく、こちら側は教育システムまで整っているため、タイに居着くことになっているという。

写真:弁当箱を手に下校する「ミャンマー学校」の子供たち=メソート市内で

 タイで三世代目が生まれている今、ターク県の『ミャンマー学校』はシンシア医師が支援する学校を含めて74校に上っている。「タイ社会に適応でき、自立できるように」とタイの公立校に準じたカリキュラムを採用し、タイ語の他に母国語のビルマ語を教え、少数民族の言葉の夏期コースや伝統文化を継承するための行事もある。子供たちの内訳は、最も多いカレン族を10とした場合、ビルマ族が4、パオ族が2、モン族が1といった割合とのこと。
 うちメソート市内にある40校の中の一校を訪ねた。マンチュアイミン校長(50)は、494人の児童生徒に対し、人件費や教材費などの年間予算はこれまで700万バーツだったが、今年は40%カットせざるを得ず、教員の確保が難しくなっているという。校舎は日本からの援助で建ったそうで、ミャンマー学校の建設・運営は第三国のNGOや個人からの援助で成り立ってきたのだが、ここでも「民主化」が報じられたことで援助が激減している。
  「既に建物と設備はあるので、出稼ぎ労働者の賃金が上がれば、保護者からの寄付や授業料で存続できるかも知れません。しかし、それが無理な場合は、子供たちをタイの公立校へ編入させて閉校せざるを得ません」と校長は険しい表情を見せた。一方、テーディキット市長はIDカードを持っている子供ならば支援できるし、経済特別区の法律が国会を通れば無国籍の子供たちも受け容れられると話していた。
 教室にいた卒業間近な高校三年生7人に将来の希望を聞くと、教師が4人と最多で、医師、建築業、コックがそれぞれ1人ずつだった。だが、ミャンマー学校を卒業してもタイ国籍は取れず、タイの大学で進学できるのは外国人枠の国際コースだけ。そんな不利益や差別はある。「それでも、タイには限られてはいても安全と自由があります。ミャンマーでそれがあるかどうか…。まだ祖国の教育の質が全く分からないので、帰還計画は白紙です」と校長。今のところメソートのビルマ人たちは、今回の民主化云々とは関係なく、とにかくタイでの教育と就労を希望しているような印象だった。
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 カレン族を通して見る「民主化」

 今回の国境を取材していると、奇しくも日本からのスタディーツアーと遭遇した。近畿大学総合社会学部の秦辰也教授(53)率いる男女学生19人だ。秦教授が今回この地域を選んだ第一の理由は、少数民族とミャンマー軍政との衝突がなくなって安全になったから。もう一つの理由は、カレン族という一つの民族が国境で分断され、国籍や生活環境を異にする現実を学生たちに目の当たりにしてもらいたいからだという。

写真:カレン族の子供たちに支援物資を手渡す近畿大生

 自分たちの暮らしや文化を守れる線で和平交渉に臨んでいるビルマ領のカレン族、難民キャンプに留まって第三国に新天地を求めるカレン族、そしてタイへ入植し山を切り開いて暮らしを立てて行こうとしているカレン族。
 彼らが訪ねた山間のメーラムーン村学校は小学生から高校生まで全1045人の殆どがカレン族で、うち2割は最近移住してきたばかりで、未だタイ国籍がない。文芸学部の伊藤文香さん(22)は「貧困のイメージをこちらが勝手に描いていたので、家電があったことに驚いた」と話す。この村では夜8時から2時間の時限給電があり、テレビや電話は衛星で繋がっている。また、「解決すべき課題はいっぱいあるのに『不安はない』という人が多くて、選択肢があり過ぎる日本の方が目の前のことが見えなくなっているように感じました」と、経営学部の藤田晴香さん(20)はカレン族の生きる力に感慨深げだった。
 秦教授は「紛争時代を知らない学生たちにこの平和が分からないのは仕方がないことです。むしろ、これからの世代としてビルマとタイの間の往来が飛躍的に盛んになっていることと、二国間の際立つ経済格差を見てくれれば良いのですが」と学生に期待している。

 給与生活者になった少数民族                      
 
 メソート最大の縫製工場『TKガーメント』。タイ領にありながら、工員約2000人のうち1700人がビルマ人だ。「向こうでは仕事がなかったから」と創業以来16年働くパオ族のオムさん(37)はカレン州コーカレー出身。一番多い時は9人兄弟中4人がここで働いたが、今では彼以外の3人が既に帰郷し、兄はバイク修理店、弟は公務員、妹は美容師をやっている。
 最低賃金法でターク県の日当は226バーツ。しかし、オムさんのような熟練工は300バーツを超し、月給1万バーツ以上の工員も少なくない。「あと5年くらい働いて、40万バーツ貯めたら、故郷で雑貨店を開くつもりです。タイは便利だけど、向こうには家族がいるので帰りたい」とオムさん。民主化で彼が肌で感じる変化は、教科書の無料化と家へ帰るまでに5箇所あった検問が1箇所になったことだという。それに、去年まではタイ入管の入国許可書だけだったが、今ではミャンマー政府発行のパスポートにタイ政府からの労働許可のスタンプが押されていることだ。

写真:2千人が働く縫製工場。9割近くがビルマ人だ

 チャイワット社長(53)はカンボジア人より給与は高く、タイ人より習得が遅いが、ビルマ人は辛抱強いと見ている。創業当時はチャチャイ首相の「戦場を市場に」という政策で、国境地帯への投資には減免税があり、外国人労働者の雇用が認められた。最初はビルマ人工員一人につき5千バーツの保障金をタイ入管に預け、3ヶ月毎に連れて行く必要があったが、数年で不要になったという。「ビルマ国内にはプラスの信号を感じていますが、道路や電力、通信のインフラが未整備なので、進出は8年くらい先ですね」。長年ビルマとのビジネスを展開してきたチャイワット社長は加熱するビルマ国内への投資を横目に、冷静に構えている。

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 メソート市長の展望

 「いま経済特区法が通るよう国会に働きかけています」。テーディキット市長は、ビルマ民主化を機にメソート市はインドシナ物流の中心になると明るい展望を語る。和平交渉はこの先も頓挫せずに停戦が続き、完全な平和が来るという観測に立っているからこその考えだ。バンコクとヤンゴンから共に約550キロ、ラオスと中国の国境まで共に約600キロという地政学的に重要な位置にあることが、インドシナの中心になるという論拠。国道1号線に出る間にある山には通行料で建設費を返済する方式でトンネルを通し、将来的には年間200万人が往来する要所となると踏んでいる。

写真:メソートの明日を熱っぽく語るテーディキット市長

 北はメーサリアン、南はカンチャナブリまでの580キロ程に及ぶ国境地帯に住む約1500万人のビルマ人を彼は魅力的な労働力と見ている。一方で、ビルマ国内で貿易港開発が予定されているダボイを視察して来たが、着工までにも暫く時間がかかると読む。それに対し、ここメソートの開発は早くて着実だと胸を張る。
 ビルマ側では昨年12月初頭、ミャワディーから8キロ入った所に『ワンストップセンター』という入管と税関の機能を兼ね備えたチェックポイントを設け、すでに物流の円滑化を図っている。但し、その先の道路は未整備で、行き違えが出来ない道幅のため、鉄道の単線区間のようにトラックは車列を組んで日替わりで往き来しているそうだ。
 市長は「2年以内」と明言して、タイ側もチェックポイントに事務を集約させ、商人や観光客、投資家、労働者のスムースな移動に便宜を図ると同時に、37平方キロの経済特区には工業団地を造って宝石や家具、食料品加工業などを誘致する予定だという。経済特区が成立すれば、不法入国となっている労働者たちも、そこでは問題なく働けるようになるとバラ色の未来を歌い上げる。
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 第二友好橋も

写真:友好橋のタイ側ゲート。入管と税関が入っているが、審査や検査は空港なみに簡便だ

 この記事を書いていた10月、第2友好橋の建設計画をタイ政府が認可したというニュースが入ってきた。約6億バーツの予算でモエイ川に400メートルの新しい橋を架け、タイ側には税関や物流基地などを備えた工業団地を造成する計画だそうだ。テーディキット市長のビジョンが本当に2年以内に実現しそうな勢いである。
 東南アジアで最も経済発展を遂げている国の一つタイと接しながら、軍事独裁政権が自らの延命のために永らく鎖国した結果、後発開発途上国(LDC)となってしまったビルマ。タイとの間で今、正に堰を切ったように往き来し始めた人とモノと情報。今回の「民主化」を受けて、世界銀行も25年ぶりに対ミャンマー融資の再開を決定、オバマ米大統領もネピドーを訪問した。だが、北部ではカチン族との武力衝突が止まず、バングラディシュ側の国境ではロヒンギャ族が弾圧され続け、民主化の星・アウンサン・スーチー議員も根深い少数民族問題には積極的に取り組もうとしていない。
 カレン州などビルマ南東部と、タイ西部に住んでいるカレン族やビルマ人たちの生活も、いま激変しようとしている。停戦が恒久化し戦火から逃れることはなくなっても、これまでの仕事では食べて行けなくなって新しい職を求めて引っ越ししたり、家族が離散したり、新たな家族ができたり、…。政治と経済、法律のシステムをはじめ、人権や福祉においても、ビルマとタイの間には半世紀ほどの格差が歴然とある。大きな格差が乱開発に拍車をかけ、急激な変化に様々な社会問題が続出することが危惧される。人々はその中を藻掻きながらも泳いで行くしかない。待ちに待った「民主化」や「開放」という明るいニュースが飛び込んで来たのだが、これまで以上にこの国境から目を離せなくなった。
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(文・写真/阿佐部伸一)