民主化への胎動──総選挙後のミャンマー1990年5月取材
 一九八八年、いまはミャンマーと呼ばれるビルマで、ネ・ウィン長期独裁政権打倒の大デモが起き、 数千人の学生と市民が軍の銃弾によって倒れた。彼らにとって一番の供養となる結果が、総選挙(五月二十七日投票)に出たが、 軍事政権は事実上の戒厳令を敷いたまま民意を汲み取ろうとする動きをまだみせていない。長年の独裁政治がもたらした経済破綻と 厳しい言論統制、軍情報機関の監視、逮捕、投獄におののく市民の「声に出来ない声」に耳を傾けた。

 逮捕にも負けず

写真:ザガナーさんの写真を手に話す母、ジ・ウーさん=ラングーン市内の自宅で

 投票日の一週間前、首都ラングーンの教育大学のキャンパスを埋めた一万人の大群集はわきにわいた。
 「あのシリアムの国営製鉄所、もう長いこと火が消えたままだよ。どうして?って、所長に聞けば 『閉めたら一日百万チャット(約二千五百万円)の損だが、開ければ二百万の損だ』とさ。いいんでしょうか、こんなんで」
 人気絶頂のコメディアン、ザーガナーさん(29)。歯科医だったが、天性の毒舌が人気を呼んで、三年前からプロの“漫才師”に。 当局のおスミ付きでテレビにも出演、映画スターとしても売り出した。
 突然、家に警官がやって来たのはそに日の夕方。ザーガナーさんは懲役五年の刑で、 約二千人と推定される政治犯と一緒にイン・セイン刑務所にぶち込まれたのだ。
 「あんなひどいところはないですよ。一部屋に七人も詰め込まれ、床だけではなく飯にまでシラミが入っている」。 一九七四年から三年間投獄されたことのある雑誌記者の兄(30)は言う。
 最近、鉄格子の中にいる息子に会った母ジ・ウーさんは語る。「あの子ったら、選挙は『どっちが勝ってる』と大声で聞くんですよ。 三人の兵隊がメモを取っているのに。『NLD(国民民主連盟)が四〇〇議席を越したよ』って教えてやると、あんな目にあってるのに、 手をたたいて喜んで……」。 ジ・ウーさんは片言の日本語で「武士道スピリット、大好き」と言った。 彼女は歴史小説を書く女流作家である。
 「何がこの国で起こっているか、見てください。もし何か間違っていると思ったら、あなたの出来る手段で私達を助けて下さい。 軍がNLDに政権を渡すとは思えないから」。兄は一気に訴えた。
 心配になって「名前は出さない方がいいんでしょうね」と問う。「出してください」と答えた兄は、 まるでマラリア患者のようにがたがた震えていた。
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 虎の子が紙屑に

 「政府は強盗だ!」。二十回近く来日したことのある船長タン・ウィンさん(66) =仮名=の拳には満身の力が込められていた。
 三年前に三種類の紙幣が突然廃止になり、庶民の虎の子が一瞬にして紙屑になった。
 「高額紙幣は危ないと二十五チャット札で持っていたんですが、私も二十万チャットがパーになりました」
突然の紙幣廃止は、国民の怒りを爆発させ、八十八年七月から十月の流血デモの引き金となった。ところが、 今度の選挙で腹立たしいことが起きた。「政権べったりの候補者が、廃止した札を新札にかえてやる、と私のところへも来ました。 卑怯な買収行為です」
 ウィンさんの家は熱帯樹に囲まれたヤンゴンの高級住宅地にある。海軍兵士として二十年勤め、 商船で二十二年間船長を勤めた後は二十六年続いたネ・ウィン政権の下でも何不自由なく過ごしてきた。
 高級住宅地のすぐ隣には、アジアのどこにでもあるスラムが広がる。ニッパヤシの小屋に住む煉瓦工のサン・マウンさん(35) =仮名=の一家七人は、石油ランプをたよりに細々と生計を立てていた。月収は八百チャット。同居する店員の弟が二百五十チャット、 お手伝いの妹が三百チャット稼ぎ、しめて千三百チャットの総収入。これは闇のレートでいえば日本円でわずか四千円。 「みんなの収入を合わせても、食べていくだけで精一杯」とマウンさん。
 それに比べ船長の家には、日本製の車、ステレオ、扇風機など文明の利器が揃っていた。煉瓦工の月収の五か月分に相当する日本製時計 、三年分の給与を注ぎ込まないと買えないテレビ。輸入品の山とスラム。ヤンゴンの街角で貧富の差を見せつけられた。
 だが、経済的に恵まれた船長の一家にも辛いことがある。あのデモのあと、 “反政府運動の星”となったアウン・サン・スーチー女史を助けた娘が、政治犯として今も獄中にいるからだ。
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 開拓村 怒りの一票

写真:黒こげのヤシの根がころがる“謎の”火災現場

 「私の車の後を付いてきてください」。約束の場所で青年にそう耳打ちされてから、もう四十分も走った。 この湖畔を左手に見るのは三回目だ。尾行がないことを執拗に確認した。
 ようやく着いたのはラ・アウン弁護士(52)=仮名=の自宅。そこに全ビルマ学生連盟の幹部九人が一堂に会した。 「起立」と突然の掛け声。「一、一カ月半以内に国会開催を。二、全権を議会に。三、学生、労働者に結社と活動の自由を。 四、内戦の即時停止。五、文民内閣を。六、……」。クーデターで政権を握ったソウ・マウン将軍(国家平和回復委員会議長)に 明日送るという手紙をリーダーが勇ましく読み上げた。
 二年前の民主化デモ以来、学生、市民の救援に当たってきたアウン弁護士は「裁判では初めから負けると分かっているんです。 イギリス統治時代からの民法、刑法はあるのですが、軍法には全く歯が立たないんです」と語り、 わが子のような学生たちにマンゴーをむき始めた。
  選挙が近づくとナゾの大火が相次いだ。学生たちをかくまったラングーン市内の下町で数千戸が炎上した。焼け出された住民は、 遠く離れた開拓村に移住させられた。「都市再開発のため」との理由も含めるとその数は五十五万人にのぼる、との情報もある。
 ナゾを追って都心から約三十kmの開拓村の一つ、シュエ・ピター村(ビルマ語で幸福村)を訪ねた。 赤茶けた土がむきだしの広々とした畑の中で、国営工場の工員(37)が教えてくれた。
 「私の名前はこの村の選挙人名簿に載っていなかったので、あの日は朝五時に妻や近所の人達と村を出て、 超満員のトラックを四回乗り継ぎ、焼け跡近くの投票所に行きましたよ」。ラングーンの投票率は七十七パーセントに達した。 開拓村の人々は“怒りの一票”を投じたのだった。
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 援助の行方は

 ラングーン港を出たフェリーは機関砲をむき出しにした軍艦の間をすり抜けるようにして進む。 古い木造の客船や貨物船とは対照的にグレーに塗った綱鉄製の軍艦は新しい。 フェリーの甲板では総選挙で圧勝した国民民主連盟(NLD)の機関紙を売っていた。 スーチー女史の大きな写真が載る機関紙に見入る軍服の青年がいた。南東へ約一時間、中国の援助で建設中の橋を過ぎるとシリアムに着いた。
 外国プロジェクトの約六割が集中するシリアム。一九八一年から日本政府の円借款百十億円と経済協力開発機構(OECD)の八十億円で 一昨年完成した国営精油所もここにある。「兵隊が恐い」という運転手に無理を頼み、望遠レンズでのぞいてみた。 コンビナートの周りを小鳥が飛び交い、塀の外ではヤギが遊んでいる。煙突からはかげろうすら上がっていなかった。
 同精油所の元幹部で、国民民主連盟のA候補(当選確実)が内情をそっと打ち明けてくれた。 「日量二万六千バーレルの精油能力があるのですが、現在は三千五百バーレルしか精製していません。 フル稼働させるだけの原油を買う外貨が政府にないのです」
 三菱重工が完成させた最新式のコンビナートはオートメ化され、二百人程度の技術者だけで十分に動く。 だが、ラングーンの街には、何十万人という失業者があふれているのだ。 「経済に弱い軍人たちのミス・カルキュレーション(計算違い)です」とAさんは指摘する。 精油所がこうだから、他の工場ではエネルギーも原料も不足して、日用雑貨まで輸入に頼らざるを得ないというビルマ経済の悪循環。
 「日本が焼け野原から経済大国になれたのは人材があったからだと思います。しかし、今のミャンマーでは、 国費留学生らの頭脳流出が日々続いています。外国援助も不可欠ですが、 若者が存分に力を発揮できる自由で平和な国作りが先決です」とAさんはタメ息をついた。
 外国援助の八十%を担う日本は、軍政ビルマでも、最大援助国である。
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 募る無念の思い

 「心の中で本当に思っていることは、決して口に出さないのが仏の教えと思っています」。 民主化デモに参加した兵士たちを支援し、昨年十二月から獄中にある国民民主連盟(NLD)ティン・ウ議長(63) の妻モ・ワイさん(62) はそう言って質問には答えなかった。「今度、おいでになった時にね……」。 その微笑の裏に充満する無念さが容易にくみ取れた。
 自宅からラングーン空港に送ってくれたのは長男のタン・ゼン・ウーさん(29) 。五部刈りの頭、日焼けしたたくましい体格。 青年将校のようだ。「子供のころは軍人にあこがれたね。今は失業中だけど僕は気が短いし政治家にも向いていないよ」。 一九八三年から二年間、技術研修生として名古屋市の自動車会社で学んだことのある彼は日本語で話し始めた。
 「国防相だった父は毎晩遅かったけれど、中学のとき、観閲式に連れて行ってくれたんです。で、座った所が国旗の前。 政府の映画に僕が大臣たちより大きく映っちゃったよ」
 だが、彼が訪日するころにはすべてが一変していた。「父はネ・ウィンさんに突然『辞めてくれ』と言われたんです。 他のポストも用意されず、二年間仏門に入っていました。僕を見送りに来た父は、もう一般客と同じように、出発ロビーで止められました」
 空港が近づいてくる。タン・ゼン・ウーさんは意を決したように核心に触れた。「このままではNLDは軍になめられて、 六二年にネ・ウィンが武力でウ・ヌー政権を倒した歴史を繰り返すことになるかも知れません。 投獄を察知した父は土井さん(たか子社会党委員長)に手紙を出しましたが、届いているでしょうか。 一刻も早く父とスー・チーさんが出て来られるよう軍への働きかけを日本政府に頼んで下さい」
 アクセルを踏み込むと、話題を切り替えた。「日本はいいね。カラオケで遅くなっても外出禁止令もなく、 地下鉄やタクシーもある。その上、翌日はちゃんと朝から仕事するところが偉いですよ」。 軽くため息をついた彼の口から懐かしい鼻歌がもれてきた。その曲は「矢切の渡し」であった。
(文・写真/阿佐部伸一)

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