世界遺産への道                    ――― 2011年3月取材

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写真:クラスター弾が転がる世界文化遺産プレアビヒア寺院=カンボジアで

 〜カンボジア・タイ国境紛争ルポ〜

 カンボジアとタイの国境を成すダンレック山脈の頂上に位置する世界遺産、プレアビヒア寺院を巡って今年2月初旬、カンボジア、タイ両軍が激しく交戦した。死傷者が出た上に、国内避難民が発生し、世界文化遺産の損傷、世界中で禁止されつつあるクラスター弾の使用など、過去最悪の事態となった。
 11世紀に建立されたヒンズー教寺院、プレアビヒアは「人類の創造的才能を表現する傑作」と、カンボジアでアンコール遺跡に次ぐ二つ目の世界文化遺産として2008年7月に認定された。カンボジアとタイはそれまでの少人数の国境警備兵は置いていたが、観光資源としての価値が上昇するに連れ、両軍合わせて約4千人に及ぶ軍隊を配備し緊張が高まっていた。


 選択の余地はなかった

  プレアビヒア州に別邸を構え、国境を毎日ウォッチしてきたカンボジア軍のチャン・ダラン大佐(60)は2月の戦闘の経緯を、カナダで習得したという英語で説明する。「タイ軍兵士は重機を使って、カンボジアのケリスワラ寺へ真っ直ぐ道路を造ろうとしています。我々は『両軍の話し合いで決めた緩衝ラインよりこちらへ来るな』とずっと警告していたのです。しかし、タイが申し合わせを守らず、武器をこんな風にカンボジア軍に向けて入って来たのです。国を護り、国境を守らなければならない我々に選択の余地はなかったのです。私は証拠映像を持っています」。タイ兵が銃を掲げてカンボジア領へ入って来て、銃撃戦が始まる一部始終を彼はビデオカメラに納めていて、その映像はアメリカのテレビなどで繰り返し放送されている。

写真:2月初頭のタイとの銃撃戦で被弾した箇所を指差すカンボジア軍ダラン大佐

 それぞれの政府発表によると、2月の戦闘でカンボジア側は死者6人、負傷者70人、タイ側は死者2人、負傷者34人を出した。

 カンボジア市民たちは

 この国境紛争について、先ずはカンボジア市民の声を聞いた。タイとの国境貿易の拠点の一つ、アンロンベンの街で食堂を経営するカン・ソペンさん(36)は「プレアビヒア寺院はカンボジアのものです。それを奪い取ろうとするタイには強い怒りを感じています」と。プレアビヒア寺院へ向かう国道12号線の起点、コンポントム市でバイクタクシーの運転手をしているソッカーさん(29)は「プレアビヒア寺院は私たちの所有物と思っているので、タイに侵略され『痛み』を感じています」。首都プノンペンの経済大学に通う学生、チュオン・ビチェットさん(20)は「プレアビヒアが戦闘で壊され、とても悲しい。元々、遺跡の保存状態が良くないのに…」と。   

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 動いた国境

 プレアビヒア寺院周辺の地形は、南のカンボジア側が落差約500メートルの断崖に、一方、北のタイ側はなだらかな傾斜になっている。この寺院が足場の良い北側からの参拝を前提に設計されたのは一目瞭然だ。
 当時のクメール帝国は現在のタイ・ロッブリ辺りまでを勢力下に置き、ここに国境線などなかった。しかし、クメール帝国は15世紀以降、北からはタイに、南からはベトナムに浸食される形で衰退の一途を辿った。現在は石畳の参道はタイ領にあり、門を入った急な石段からはカンボジア領と、境内に国境が走る形になっている。その結果、タイ側からは車で簡単に行けるが、カンボジア側からは谷筋を大きく迂回するしかない。

 1953年にフランス領から独立したものの、タイに国境を押し込まれていたカンボジアは1959年、オランダ・ハーグの国際司法裁判所にプレアビヒア寺院の帰属確認を求め、裁判所は1962年に寺院をカンボジアに帰属するという判決を下している。だが、タイはその時に添付されたフランス製の地図を認めておらず、アメリカの技術支援で作成した五万分の一の地図の国境線との間にできた4.6平方キロの土地(上の地図で黄緑と赤の間)を、国境未画定地域としている。

 世界遺産への道路

 プノンペンから車で8時間、現地を訪ねた。国道12号線から40度くらいの仰角で見上げるダンレック山脈の稜線に、人工物が見える。プレアビヒア寺院の一番奥、カンボジア寄りにある第1ゴープラ(楼門)だ。車は寺の真下は通り越し、西の谷筋を北へ折れる。救護所と塹壕がある麓の広場で、四輪駆動のピックアップトラックに乗り換える。この先は車高と馬力がある車でなければ登れない急勾配の悪路なのだ。カンカンカンカン…砂煙のなか掘削機が山を削り、ブルドーザーが唸る。カンボジア政府が建設を急ぐプレアビヒア寺院へ車で行ける道路は今年3月現在、一車線は開通していたが、未舗装で崖っ淵にもガードレールは施されておらず、道幅の拡張工事の真っ只中だった。
 この道路は、タイが領有権は係争中とする4.6平方キロの土地にすっぽり入っている。カンボジアは国境の手前で自国領だと主張し、真っ向から衝突している原因は、双方が国境の異なる地図を見ているからに他ならない。当然、互いに相手が領土を侵犯したと非難することになり、ひとたび実力行使に出れば戦闘に発展する。新たな世界遺産はカンボジア領にあっても、第三国からの観光客はタイ側から訪ねさせたい。そのためにはカンボジアに便利な道路を造らせてはならないというタイ政府の思惑が透けて見える。

 一度は観光客にも開放

 タイとの国境地帯に立て籠もっていたポルポト派が消滅し、つまりカンボジア内戦が実質的に集結し、且つ、境内の地雷撤去が済んだ1998年、カンボジア政府はプレアビヒア寺院を観光客に開放した。2001年末、境内からタイの川へ流れ出た汚水に端を発した両国の関係悪化で閉鎖された1年半を除き、プレアビヒア寺院には日本や欧米からも観光客が訪れるようになっていた。しかし、その殆ど全員がタイ側からの観光客で、タイ政府は係争中とするこの土地へ、軍を先陣に宗教関係者や開拓農民を入れるなどして実効支配の既成事実を作ろうとしていた。しかし、カンボジア政府は寺院を世界遺産に申請した2007年、自国領とするこの土地からタイ人らを立ち退かせようとしたところ衝突が起こり、以来、プレアビヒア寺院は現在に至るまで少なくともタイ側からは閉鎖されている。
 だが、プレアビヒア州は人口密度が1平方キロ当たり12人という過疎地で、寺院の近くは急峻な地形ということもあり、カンボジア人の集落もない。民間人はプレアビヒア寺院西側に建つ仏教寺院ケリスワラの僧侶だけ。ただ、岩陰を利用したり、土嚢を積み上げたりしたカンボジア軍の陣地はそこかしこにあり、兵士とその家族だけは大勢いる。耕作地はないので、食糧は米やインスタントラーメン、缶詰などの配給だ。

 世界文化遺産が損傷

 工事中の道路がケリスワラ寺を経由して登り切った終点は、プレアビヒア寺院正面向かって右、つまり第5ゴープラ(楼門)西側の広場だ。将来は参拝客用の駐車場にする予定だろう。広場北端には国旗掲揚場があって、アンコールワットをあしらったカンボジアの旗がはためき、その北東数百メートルの峰にはタイの展望台とポールに揚がるタイ国旗が。その広場からはタイが建設した真新しい舗装道路も見下ろせる。白いラインが引かれ、路肩には電柱が規則正しく立ち並び、太い電線が架かっている。

写真:戦闘で遺跡のあちこちが損壊。これは砲撃で割れ落ちた第2ゴープラ(楼門)のステージ=プレアビヒア寺院で

 チップを無心してきたカンボジア兵は、観光ガイドのように指刺しながら説明する。「ここは激戦地です。我々はこっちから、奴らはあの禿げ山から攻撃して来ている。だから、ここも丸焼けでしょう」。足下に目を移すと、焼き畑をしたように地面は黒々としている。「タイ軍が迫撃砲を撃って、攻め込んで来るのを待ち受けているんです。もう一つの激戦地はあそこ、トロップ山で、タイの歩兵隊が登って来るのを止めています」。東の窪地に目を凝らせば、木々の間からテントの周辺を歩くタイ兵が見える。両軍が対峙するフロントラインは、わずか数十メートル先の茂みの中なのである。
 今年2月、ここで繰り広げられた戦闘は4日間に亘り、プレアビヒア人の壁には深い弾痕が、柱や手すりには飛び散った砲弾の破片で割れた箇所が目立つ。カンボジア軍が寺院を要塞にして攻撃して来たからとタイは言うが、1千年の風雨に耐えてきた石造建築が一瞬にして損傷した。寺院の清掃員は「みんな泣き叫び、私も足がガタガタ震えましたよ。安全かどうか、確かなことは判らないけど、このあいだよりはマシになっていますよ」と。 あちこちに立てられた赤いドクロマークの脇には、かつての地雷ではなく、迫撃砲の不発弾が地面に突き刺さっていたり、クラスター弾の子爆弾が転がっていたりする。両軍が一触即発の状態で睨み合う今、観光客などの姿はなく、蜘蛛が巣を張るレリーフに蝉時雨が降り注ぐばかりだ。
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 机に置くと爆発、5人が死傷

写真:死傷者が出た経緯を説明するソバナラット巡査=プレアビヒア市で

 戦闘から3週間が経っていたが、遺跡の石の床にできた血溜まりは未だ乾き切っていなかった。プレアビヒア市内の自宅で療養中の負傷者、ビット・ソバナラット巡査(24)に会いに行った。「2月4日午後3時から6時の間、タイ軍と戦闘がありました。その直後に麓の警察署からプレアビヒア寺院へ上司らと捜査に行きました。境内で見慣れない武器を発見し、専門家に見せようと署へ持ち帰ったのですが、机の上に置いたとたん、バーンと爆発したのです」。爆弾の形状を絵に描いて説明する腕にも傷があり、リンパ液が滲み出している。それでも、若い巡査は間もなく職場に戻って治安を守ると勇ましい。「私は州都プレアビヒアへ、他の4人はシェムレアップの病院へ運び込まれたんですが、2人が死に、3人が負傷しました」。警察官たちが手にしたのは、クラスター弾の子爆弾だった。
 振動や衝撃で爆発するため、うかつに触れられず、未処理のまま境内に転がっている子爆弾は、テニスボールより小さく、ピンポン球よりは大きく、銀と黄のツートンカラーと別の種類は銀色一色、紐がついた水筒のような形もある。玩具にも見え、車やバイクの部品のようでもあり、草木と土と石しかない野原で目に入ると、子供でなくても、つい拾い上げてしまいそうな代物だ。

 新たな問題、クラスター弾の撤去

 訪ねたカンボジア地雷行動センター(CMAC)プレアビヒア支所の敷地内には、深さ2メートルほどの穴が掘られ、周りを土嚢で固めた上に、赤いドクロマークが立てられていた。穴の底に横たえられていたのは、155ミリりゅう弾砲の不発弾。長さは1105ミリあるという。チム・ソーバニー副所長(51)は「中に子爆弾が沢山入っているクラスター弾の一種です。この種の砲弾はタイ軍による砲撃後に見つかりました。いま集めてきて、調査しているところです」。空爆で使われるクラスター弾は空中で薬莢が開いて子爆弾を撒き散らすが、今回の砲撃で使われたタイプは着弾後に、砲弾の後ろ半分に入っている子爆弾が飛び散っている。
 プレアビヒア州はカンボジア内戦で最後までポルポト派が立て籠もった地方の一つ。安全な農地や観光地に戻そうと、CMACが内戦中にばら蒔かれた地雷を処理している最中、地雷同様に何十年に亘って死傷者を出すクラスター弾という新たな問題が起きた。クラスター爆弾の使用・製造・移動・備蓄の禁止条約はオスロで2007年、46カ国によって採択されたが、タイは参加していない。

 国境から20キロ地点にも着弾

 タイ軍の155ミリりゅう弾砲は国境から20キロ入ったプレアビヒア州の村々や国道沿いにも着弾していた。スバイチャラム村を通るアスファルト舗装の国道には直径2メートルほどの大穴が。その穴から15メートルほどの国道脇にあるバイク修理店では、トタン製の壁に砲弾の破片が鋭い穴が幾つも開けている。店主のブントゥンさん(51)は「家の裏の塹壕に入っていました。塹壕の近くにも、もう一発、別の砲弾が落ちたんですよ。子供は先に避難させていて、幸い誰もケガはしませんでした」と。だが、周辺にはクラスター弾の子爆弾や不発弾が落ちている可能性が高く、CMACの爆発物処理が待たれる。
 国道の着弾地点から百メートルほど離れた果樹園の中には、カンボジア軍のT59戦車やBM21多連装ロケットランチャーが目視できた。重火器の射程は20キロを超し、特にカンボジア側の国境近くは地形が険しいので、両軍とも国境よりかなり手前から発射したようだ。そして、互いに砲撃地点を狙って反撃した結果、非戦闘員の市民を巻き込んだと言える。

 子供たちが触れないか心配

写真:古タイヤで遊ぶ避難民の子供たち。見かけが綺麗で手頃な大きさのクラスター弾の子爆弾を、この子たちが触ってしまう可能性がある=ステンセン・モノロム避難民村で

 カンボジア側ではタイ軍の砲撃で2,956家族、約1万人が7つのキャンプへ避難した。戦闘から1か月近く経ったステンセン・モノロム避難民村では、未だ村へ帰れない65家族がテント暮らしを強いられていた。タマクラット村から3人の子供を連れて避難しているイェンさん(32)は、村の市場でやっていたというスイカ売りを避難民村でも細々と再開していた。「もう少し状況が落ち着かないと、恐くて戻れません。村ではいつまた始まるか判らない砲撃、それにクラスター爆弾が恐いです。私が仕事に行っている間、子供を見てくれる人がいないので、子供たちがクラスター弾に触れないか、とても心配なのです」
 この避難民村には、隣りの軍の家族用区画と共用だが、ポンプ付きの深井戸をはじめ、食糧の配給や新しいテントがあり、収容人数が多かった時には診療所に医療スタッフも常駐していたという。この国境問題にカンボジア政府が国威をかけて臨んでいるのが、兵士の動員数以外でも見て取れる。  
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 陸続きの国境

 カンボジア・タイ国境をプレアビヒア寺院から西へ約70キロ、ウドンメンチェイ州アンロンベンのチョアム検問所には、世界遺産付近の緊張とは裏腹に、長閑な日常があった。地元の人たちは行商や買い物、日帰りの出稼ぎのために国境を行き来しているが、パスポートは要らない。むろん、そのまま長期滞在したり、バンコクやプノンペンまで行くことは禁じられている。地続きの国境がない日本に住む我々には分かりにくい感覚だ。タイのカンボジア国境寄りにはカンボジア人も住んでいるし、同様に、カンボジアのタイ国境寄りにはタイ語を話せるカンボジア人も珍しくない。少なくとも東南アジアの一般的な領土意識は、国境線の位置よりも、そこに住んでいる人々がどちらの政府に従うかということを重要視してきた。しかし、ここへ来て世界遺産という利権が発生したことで、これまで曖昧にしてきた国境線をハッキリさせる必要が出て来たとも言えよう。
 そのチョアム検問所で越境して東へ戻り、プレアビヒア寺院のタイ側へ廻り込むことにした。タイへ入ると同時に、その整備された広い道路や沿道の家々の構えに国力の差を感じずにはいられない。プレアビヒア州に接っするタイのシーサート県はカンボジア国境に面する地域が、プレアビヒアのタイ語読み『カオプラウィハーン』という名の国立公園になっている。平時は観光地だが、公園入口にはタイ軍の検問所が置かれ、ジャーナリストも閉め出し、前線へは近づけない。

 タイ側の被害

 検問所の土嚢には、カンボジア軍が放ったロケット弾の燃えかすが立てかけてある。ロケット弾は見える範囲でも、入口詰め所や公園管理人の住居、来園者用トイレに数発ずつ命中していて、屋根も室内も滅茶苦茶になっている。カンボジア政府の記録では、タイ軍の砲撃は2月4日午後3時10分から5時30分、5日午前6時20分から7時、6日午後6時30分から8時5分と11時20分から50分、7日午前7時30分から8時25分と、4日に亘った。カンボジアに言わせれば、それへの反撃だが、ロケット弾もかなりの密度で降り注いだと見え、タイ側にも大きな被害が出ていた。
 国立公園職員のタウィン・ティチャナーさん(44)はロケット弾が飛んできたという国境の方角を指さしながら話す。「2月4日と6日、夕飯を作ろうとした頃に砲撃が始まったので、このシェルターに入っていました」。トンネル状のコンクリート製シェルターは入口に土嚢が積まれ、中はビニールシートが敷かれ、テーブルの上にはテレビと電気ポットが。軍が建ててくれたというシェルターで、温かいコーヒーが飲み、テレビを見ながら、砲撃が収まるのを待てるというタイ側の状況にも、また国力の差を思い知らされる。

 カンボジアのロケット弾が学校直撃


写真:カンボジアのロケット弾が屋根を直撃したプームサロン中・高等学校。右は、三階教室内

 カンボジア国境に接するプームサロン村の中・高等学校にはカンボジア軍のロケット弾が直撃、三階建ての校舎の屋根に大穴が開き、教室内は瓦礫の山と化していた。「校庭で競技を見ていると砲撃が始まったんです。『危険なので、避難して下さい』と校内放送があり、シェルターに入っていました」と中1のシナパー君(13)。幸いスポーツ大会が催され、三階の教室には誰もいなかったため、567人の生徒にも、教職員にも死傷者は一人も出なかった。
 教室が使えなくなったのもあるが、授業はグラウンドの張ったテントで行われていた。中1、エンドゥさん(13)は「特に1年生は、また砲撃があった時に直ぐ避難できるよう、シェルターに近いテントで勉強しているんです」と。校庭の端には、国立公園と同じタイプのシェルターが並んでいる。 カンボジア政府高官によると、偵察隊がタイ軍の砲撃陣地をこの辺りに確認し、反撃した結果とのこと。ひとたび戦闘になると、軍事施設と民間施設を区別できず、市民を巻き込んでしまう。「(戦争は)もうやめて欲しい、恐いから」とエンドゥさん。校内には『NO WAR』という横断幕が掲げられ、寄せられた見舞いや励ましのメッセージからも、タイ市民は一様に政府間の武力衝突を忌み嫌っているのが読み取れる。

 タイの民間人にも死者

 タイ側ではコンクリート製シェルターが要所要所に用意されていたことに加え、カンボジア軍がクラスター弾を使わなかったため、人的被害は比較的小さくて済んでいる。しかし、それでも非戦闘員の農民に死者が出ていた。ソッシーさん(56)は自宅裏の畑へ案内し、「夫はここで死んだ」と塹壕の底を指差す。2月4日午後6時頃、深さ1メートルほどの窪みにも飛んできたロケット弾の破片を首に受けて即死したそうだ。「この辺は危ない地域とは知っていたけど、今回ほどひどい砲撃があるとは思ってなかったですよ。カンボジアと早く仲直りして、戦争は止めて欲しい。今の状態だと、仕事も出来ないから」と語気を強めた。
 村の目抜き通りを行くと、あちこちから電動工具の金属音が聞こえてくる。砲撃で全半壊した民家を、ここシーサケート県の技術学校の学生たちがボランティアで建て直していた。引率のウォーラウィト先生(51)は「費用は全て民間の支援で、7件の住宅を建てています。1軒、50万バーツです」と、どこか誇らしげだ。鉄骨2階建ての家は棟上げを終え、屋根をカラートタンで葺いているところだ。国境まで3キロと聞くが、その南側にはこんな近代的な民家はなく、ここにもタイとカンボジアの経済格差が如実に現れている。

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 タイの内政混乱が原因?

 11世紀に建立されたヒンズー教のプレアビヒア寺院の世界遺産への登録申請に国際連合教育科学文化機関(UNESCO)は「寺院遺跡が国境上にあり、アクセスはタイ側からに限られるという理由で、両国合同で申請するのが望ましい」と、2007年は登録を見送った。しかし、2008年6月タイのサマック政権のノパドン・パタマ外相がカンボジアの単独申請を支持。プレアビヒア寺院は2008年7月にカンボジアの世界遺産として登録されることが決定した。
 しかし、タイは近年、政権が頻繁に交代し、外交政策にも一貫性があるとは言いがたい。サマック首相は自ら「タクシンの代理人」と公言し、彼が党首を務めた『国民の力党』は農民や労働者らが中心の赤シャツグループの支持が根強く、隣国の立場にも理解を示し、柔和な政策を執っていた。だが、反タクシンの黄シャツグループの政治家や市民はカンボジアの単独申請に反対して抗議、憲法裁判所は国会の承認を得ずにカンボジアに同意したのは違憲とし、ノパドン外相は7月10日辞任に追い込まれている。いずれにせよ、対外政策をお家の事情で一転させては、外交関係を悪化させ、紛争の種を作ることになる。

 タイでの街頭インタビュー

 タイ国内では、カンボジアとの国境紛争はメディアが大きく取り上げ、誰でも知っている。だが、先般からの赤シャツグループに対する武力弾圧で、市民は暴力に辟易している観があり、この問題でも武力行使する政府を冷ややかな眼で見ている人が多いように感じた。バンコクで無作為に街頭インタビューした一人目は獣医のカニカーさん(35)という女性だった。「両国がそれぞれ自分たちの領土だと誤解しているのではないですか。それぞれの政府は国民にそんな誤った情報を伝えていますが、タイ、カンボジアの国民同士は結婚したり、ビジネスをしたり、別に喧嘩などしていません」と、彼女は両政府とは距離を置いた意見だ。歩道に天秤棒を置きソムタム屋を営むサーヨンさん(50)は「あれは領土問題じゃないですか、お互いここは俺の土地だってね。あの土地はカンボジアにあげてしまえば良いんですよ、そうしたら戦争が終わるから」と、どこかカンボジアに同情的な口調だ。分厚い資料を脇に抱えたタマサート大学経済学部修士課程のスリアポーンさん(24)は「両国それぞれの政治家が国境問題を利用しているのではないですか。タイとカンボジア、二国間の話し合いは難しいから、信頼できる第三国を交えて国際会議を開くべきでしょう」と、現実的な正論を説いた。

 フンセン首相の打開案

 カンボジアのフンセン首相は交戦10日後の2月17日、紛争解決への筋道を次のように示している。(1)アセアン諸国証人の下、停戦協定にカンボジアとタイが調印、(2)両軍にその場を動くなと命令し、兵員を減らして行く、(3)前線の司令官同士で会議を持つ、(4)アセアンの停戦監視団を現地へ派遣する、(5)1962年当時の地図の解釈を国際司法裁判所に問う。しかし、アセアンはこの案を飲んだものの、肝心のタイが(4)に反対し、頓挫している。
 タイ政府はインドネシアの停戦監視団をはじめ、アセアンや国連、アメリカなどの仲裁を拒み、カンボジアとの二国間交渉に固執している。穿った見方かも知れないが、国力が劣るカンボジアとの交渉でなく、第三国の目があるとタイにとって不利な展開になることを恐れているようにも思えてくる。分水嶺に沿わないプレアビヒア寺院付近の国境線も当時、タイとカンボジアの間ではなく、カンボジアの宗主国フランスによって引かれたものだったからだろうか。

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 国際世論が頼みのカンボジア

写真:国旗や仏像を背に政府としての意見を述べるパイシーパン報道官=プノンペンの総理府で

 カンボジア政府は諸外国に自分たちの立場を説明しようと、総理府のパイシーパン報道官が一人の記者の来訪にも丁寧に対応した。「タイ軍は2月、プレアビヒア寺院とその周辺に416発の砲弾を撃ち込んで来ました。その中には世界的に使用が禁止されているクラスター爆弾が含まれています。その子爆弾は触れば爆発し、何十年後まで人々を殺傷するわけですから、タイは正に人類に対する戦争犯罪を犯したと言えます」。報道官はよく整理されたプレゼン資料を大画面モニターに映しながら、流ちょうな英語でカンボジアの正当性を訴え続ける。
 「タイは自領と主張する4.6平方キロをカンボジアから奪取したがっています。国際裁判所が1962年、国際的地図に基づき、その地域は我々に属すると規定したにも関わらずです。1925年と37年、カンボジアとタイは会議で同じ地図の同じ国境線を共に認めていました。タイが1962年までに自国だけで描いた地図は国際裁判所に却下され、以前と同じ地図が使われて来たのです」
 カンボジアが使っている地図は1904年のフランス=タイ条約に基づきフランス当局が作成し、1908年にパリで公刊された地図が元になっている。この地図は20万分の1で、おおむねダンレック山脈の分水嶺に従って国境が引かれているが、プレアビヒア寺院の部分だけは、国境線が分水嶺より北側に引かれ、寺院と寺院への迂回路がカンボジア領に入っている。フランスは仏領カンボジアの利益を考慮して、この部分の国境線を意図的にずらしたようで、当時の地図でも部分拡大し明示している。

 タイの学識経験者は

写真:裁判記録など基に論評するチャウィン教授=バンコクのタマサート大学で

 一方、タイのタマサート大学経済学部のチャウィン・リーナバンチョン教授(52)は「国際裁判所の判決をカンボジアが誤解しているのではないですか。1962年の判決は、プレアビヒア寺院はカンボジアに帰属するとしていますが、国境については触れていません。当時カンボジアは仏領で、タイはフランスとの間で分水嶺を国境とすると決めていましたが、フランスが作成した地図はプレアビヒア寺院のところが自然(分水嶺)に則していないのです」と、学者らしく論理的に説く。寺院の帰属確認を求める前提資料として添付された地図だが、その地図の有効性は裁判で問われる対象にならなかったことが現在の争点になっているという。
 しかし、タイはフランスとの間で国境は分水嶺に従うという条約を結んでおきながら、地図の作成をフランスに委ねた。また、1934年に実施した測量で国境線が分水嶺と一致していないことを確認しながら、その重要性に気付かなかったのか、フランスに抗議していない。タイ政府は世界遺産登録の話が出て来る近年まで、その地図を黙認していた。チャウィン教授は「なぜタイ政府があの地図を認めていたかは、一般のタイ人も知りたいところです」と過去の政府の姿勢に不満を露わにする。そして、今回の国境紛争は「カンボジアにプレアビヒア寺院の世界遺産登録を許してしまったことが、やはり背景にあると思います」と分析している。となると、タイが武力衝突を仕掛けたことを、タイが自ら認めたことにはならないか。

 長引きそうな国境紛争

 タイはクーデターを繰り返しても、経済発展は順調に遂げてきた。世界遺産も2005年までに古都アユタヤやドンパヤーイェンカオヤイ森林地帯など5件が登録されている。一方、30年近く内戦が続いたカンボジア。なかでも、プレアビヒア州と西隣のウドンメンチェイ州は、国連暫定統治の後もポルポト派の勢力下にあって、内ゲバやポルポトの死などでポト派のゲリラ部隊が弱体化する1998年頃まで、プノンペン側の人間はヘリコプターでピンポイントに訪問する以外、この地方へは立ち入れなかった。そのため今も道路や農地などの開発が遅れていて、プレアビヒア寺院の世界遺産登録を機に、首都プノンペンやアンコールワットがあるシェムレアップを結ぶ道路の整備が急ピッチで進められている。
 今回の取材中、タイ人ジャーナリストと話す機会があった。彼はバンコクでテレビ局の報道デスクを務めているのだが、まるで一党独裁国家の国営メディアの記者のような視点だった。歴史的経緯をはじめ、カンボジアの事情や言い分を客観的に理解しようという姿勢は全く見られず、現政権と同じスタンスで意見を捲し立てる。彼が編集するニュース番組は、タイのタカ派世論に油を注ぎ、解決の糸口を遠ざけているのではなかろうか。他方、第三国のメディアやジャーナリストは紛争の種がエネルギー資源などではなく、自分たちの国益に直結しない文化遺産だと静観していることが多いのが現状だ。
 この現地取材の後、4月には再び大規模な武力衝突があり、カンボジアは国際司法裁判所にプレアビヒア寺院の帰属確認を要請。国境紛争は長期化の様相を呈している。なぜなら、小国カンボジアに有利な歴史的経緯があり、国際世論やタイの赤シャツ勢力もカンボジアに同情的だからである。それが分かっているカンボジア政府は内心、国境問題がスッキリと解決しなくても良いと考え、暫くはタイを牽制する外交カードに使って行きたい節も見え隠れしているからだ。
▲ 上にもどる (文・写真/阿佐部伸一)