「首都市街戦」の真相 ── 1997年8月取材
 日本も自衛隊やボランティアを送り込んだ国連PKO(平和維持作戦)から四年が経ったカンボジア。きな臭い事件が数か月来続いていたが、ついにこの七月その首都プノンペンでの市街戦にまで発展した。カンボジアは九一年のパリ和平調印で内戦を終息させ、宿願の平和のもと祖国の復興に勤しんでいるはずだった。だが、メディアの大勢は「フン・セン第二首相の軍事クーデター」と非難し、反民主的で危険な国と語気を強めている。ラナリッド殿下の処遇を巡ってアメリカは緊急援助以外を凍結させ、ドイツは治安が回復していないと公的援助を再開していない。
 一連の事件をどう見るのか? カンボジアの明日は? 来年の総選挙が予定通り行われるかどうかは、国連PKOの是非にも、援助外交の方向性にも関わる。現地取材をもとに事件の真相を追求し、その背景とも、結果とも言えるカンボジアのいまを報告する。


写真:どちらが第一首相?ララリッドの後任、ウンフート氏(右)と報道陣に応えるフン・セン第二首相

 「戦争を阻止したまで」

  一か月前戦場と化したポチェントン空港に八月十一日、国会議員や政府高官が勢ぞろいした。フン・セン第二首相とチア・シム国会議長、そしてウン・フート新第一首相を、シハヌーク国王が滞在する北京に見送るためである。ラナリッド前第一首相と彼を支持する十四人の国会議員の姿はなかった。
 「新たな戦争が起こるのを阻止したまでだ。欧米の記者たちは旧態依然とした色眼鏡でわが政府を見ている」。情報省キュー・カンヤリ次官は、人民党幹部というより政府スポークスマンとして国際報道への不満を露にする。九六年三月連立政権を降りると公言したラナリッドは自党フンシンペックの軍事力を増大させようと、政府軍を勝手に移動させ、武器を密輸し、そのうえ国会で非合法組織とされたポルポト派のゲリラ部隊を取り込んで七月四日、首都攻撃をかけてきたというのが政府見解となっている。
 ポルポトの虐殺政治でゼロ以下に荒廃したこの国を、東西冷戦末期の孤立無援状態で十三年間治めた人民党の実績は否定しがたい。まだまだ戦禍が癒えないカンボジアを低空飛行でも飛ばしていく手腕は、亡命していたフンシンペック党より人民党が長けている。しかし、立憲民主国家の新生カンボジアでは国連監視下の九三年総選挙の結果を尊重、選挙とは本来無関係な政府官僚人事まで各党の獲得議席数に比例させて入れ換え、もちろん国会は機能していたと、キュー・カンヤリ次官は訴える。
 だが、いずれにせよ首都で武力衝突が起こったことは、やっと平和を享受していた市民と復興を見守っていた国際社会に大きなショックを与えた。「以前は月に十三、四台売れていました。七月十一日から再開したのですが、まだ二台だけです」。日本車販売会社のチェイ・ヌオン・ピトゥさん(28)は、戦闘で壊されたショールームと略奪された車の損害、千四百万ドルを取り返すには二、三年かかると肩を落とす。政府は政府軍兵士も略奪したことを認め、賠償する方向だが、財政難は深刻だ。
 市街戦は二日間で終息した。だが、それから一か月以上たったいま、その余波がボディブローのように効いてきた。国外へ脱出した外国人約七千人の中には、夏休みを取っている人もいるだろうが、まだその大半が戻っていない。外資系企業は雇用問題解消の頼みの綱なのだが、外国人幹部が避難したままだったり、工場が被害を受けたり、先行き不安に事業を縮小したりで、完全失業率は政府筋で三十%、街には五十%ではないかと思うほど失業者が溢れている。また、多くの国がカンボジアへの渡航自粛を解いておらず、ホテルやレストランなど観光客相手のサービス産業の多くも倒産だけは避けようと、従業員を解雇したり、一時休業している。
 沈滞するプノンペンで珍しく活気を呈する建設現場があった。日本の政府開発援助(ODA)で今年末完成予定のテレビ局だ。「工事が止まったのは三日間だけです。八日には作業員たちが出て来てくれまして…」と、現地コンサルタント丸厚さん(56)は誇らしげに話す。カンボジア向けODAの第一弾、通称日本橋(チュルイ・チョンバー橋)の修復から五年間ずっとこの国を見てきた彼は、市街戦の最中もこの建設現場に踏み留まった。「あれはクーデターなんかじゃありませんよ。それより経済が悪化して、治安が悪くなり、投資家や観光客が戻らないといった悪循環は絶対避けなければなりません」。
 国連PKOで生まれた新生カンボジア。人民党の言い分は本当なのか? 政局は安定するのか? 市民の暮らしは? 周辺の途上国に先立ってこの国に民主主義を移植した者には、それが根付くところまで見守る責任があろう。
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 フンシンペック党は取材拒否

 ラナリッド前第一首相から通関の催促があったコンテナの中身は「交換部品」ではなく新品の武器だった。三トンにのぼる武器密輸がシハヌークビル港で抑えられたのは今年五月二十六日。武器を保管していたプノンペンの工兵隊基地に勤務するハン・ボナ少佐(36)は「その二週間後、ラナリッドは力ずくで取り返そうと私兵約五十人を差し向けて来ました。やつらが何を考えているのかその時ハッキリ読めました」と七月の首都戦の経緯を振り返る。政府はピストルや小銃は返却したが、台座付きロシア製対戦車砲十門をはじめ、肩に担ぐ対戦車砲二百四十八丁は返さなかった。

写真:政府軍がラナリッドから押収した密輸武器

 首都へ攻め入ろうとするフンシンペック軍は七月五日朝、郊外にあるボナ少佐の工兵隊基地へ砲撃し、歩兵部隊を突撃させてきた。「確かにポト派ゲリラが多数混じっていました。政府軍にはイアリングをした子供なんかいないし、私は十七年間前線でポト派と戦ってきたから一目でわかります。やつらは国を破壊し、開発を遅らせることしか考えていません」と、少佐は砲撃で大穴があいた倉庫の屋根を見上げた。
 フンシンペック党が取材拒否を貫くなか、刺し身と清酒に目がないラナリッドの前軍事顧問、トゥム・ソム・ポル少将(36)を日本料理店に招いた。武器密輸とポト派との連合については「部分的には本当だ。負け組が何を言っても信じてもらえないから」と歯切れが悪い。今はラナリッドに逮捕状を出した政府にも、フン・セン第二首相の政策にも賛成という転向ぶり。それが本心でないことは彼のオーバーな作り笑いから明白だ。一般市民にも十一人の死者を出した首都戦で、兵士三百人を率いていた彼がこうして自由の身でいるためには選択の余地はない。レストランの扉が開くたびに、ポル少将はビクッと身構える。「国境へ逃げた仲間からも、裏切り者と訴えられているんだ」。そういいながら刺し身に箸を延ばす姿には哀れささえ漂う。
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 フンセンの誤算?

 今回の武力衝突でカンボジアは七月のアセアン入りを逃した。政府高官は新たな内戦の芽を摘んだまでとしか言わない。戦闘勃発がアセアン加盟直前だったのは「人民党だけでなく、分裂したフンシンペック党も、ラナリッドを第一首相として国際デビューさせたくなかったからだ」というのが消息通の間で暗黙の了解となっている。欧米メディアは「ラナリッドの留守を狙いフン・セン軍事クーデター」と報道したが、自軍にポト派ゲリラを引き入れ首都攻撃を仕掛けておいて、その前日の七月四日昼に空路こっそり出国していたのはラナリッドであった。
 内戦時代の構図を回避し、ラナリッド更迭にも成功した政府だが、武力行使のツケが回ってきた。プノンペンの目抜き通りにあるレストラン「タマダ」は昼食時というのに客は三組だけ。ダーラ主任(30)は「戦闘のお陰で七割減です。元通りになるのは、次の総選挙まで無理じゃないですか」と浮かぬ顔。サービス業は外国人客の激減で減給やレイオフ、一時休業のいずれかだ。舗道で求人を待っていたセイン・チーヤさん(25)は「UNTAC(国連暫定統治機構)前に比べればこれでも仕事はある方です。前は経済制裁や国交がなかったりで、そもそも外国企業や建設現場がなかったから」と自棄ぎみに話す。
 戦闘直後に起こった略奪は政府軍も入り乱れての仕業と認めた政府は、各種税金の免除や土地使用期限の延長などで弁償することに決めた。が、台湾系縫製工場が投資額の倍以上の五千万ドルを賠償請求するなど外国企業とは折り合わず、フンシンペック党のブー・ソチャレ産業相(38)は自ら汚職まみれだったことを隠そうともせず四輪駆動車八台を盗まれたと訴えるなど、不景気に混乱が追い打ちをかける。
 戦禍と貧困に喘ぐ国を建て直すには強権政府が必要かも知れない。が、アセアン入りを見送る以上に、外資と援助が復興の頼りであるこの国にとって、武力衝突や治安悪化は自殺行為であることを承知していたであろうか。
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 危機管理

 「あんなに近くで銃弾が炸裂するなんて初めての経験でした。足がすくみました」。国際協力事業団(JICA)の新井博之プノンペン事務所長(45)らが七月六日、避難しようと表に出た時のことだった。彼は市街戦発生当日の五日夕方までに関係者八十九人の安否を確認。翌六日には被害の恐れがある地区に住む人と、海外に慣れない人たちを市内の安全な場所へ避難させた。その後、大使館の勧めもあり、所長ら四人を除くJICA関係者全員がバンコクとクアラルンプールへ一時避難した。個人的意見と断って自衛隊機派遣について彼は「遅ればせながらタイまで来たのは進歩でしょうが、危機に際して法律論議をやっている人たちは現地の同胞のことを考えているのでしょうか。他国の飛行機に自国民を割り込ませる日本政府は尊敬されません」。痛烈な皮肉のようだが、彼は八十九人の部下を抱えて一人で危機に対応したのである。
 カンボジアの二国間援助で日本はその五割近くを占めるだけに、米国のように凍結できない。JICAは八月初頭、継続中の三件を再開した。だが、新規ODAはタイ航空などの定期便復旧を待つ方が良いという。「経済落ち込みの歯止めも急務ですが、いま事故が起これば定期便どころか、数年先まで新規は見合せなんてこともあり得ますから」。新井所長は中長期の危機管理についてもバランス感覚を持ち合わせているようだ。
 一方、ODA現場の一つ、母子保健センターのチョン・ヒアン医師(45)は「お陰でここは大変な人気なのですが、診療所へ来る患者が激減して…」と口ごもる。月給は五十ドルのまま。生活のためにしている院外アルバイトの患者を最新設備に奪われたという意味だ。テレビ局建設援助も、政府はゲリラの温床となる北西部の教育振興にバッタンボンを希望したが却下されたという。民心や相手政府のニーズを捉えた援助が政情を安定させるなら、根っこからの危機管理になろう。
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 次期選挙は、カンボジアの明日は?

 フンシンペック党は四派に分裂していた。タイに逃げたラナリッド前第一首相派の十五人。プノンペンに残ったウンフート新第一首相派と、最初の第一首相候補だったシェムレアップ県のトンチャイ知事派、トンチャイ派から分派した元人民党員オンポン率いる一派。ウン・フート新第一首相支持という一点で三派四十三人が結束しているが、元より低かった軍や官の支持だけでなく、分裂することで議会でも力を失い、今回の武力発動で国際評価も下げた。シハヌークビルの大型観光開発をラナリッドと契約していたマレーシアの「アリスタン社」もフン・センに乗り換えるなど財界の支持も急落した。
 「国民の七、八割は今回の事件の真意を理解しているし、人民党を円熟した仕事のできる党と認識しているので、次期選挙で人民党は第二党を大きく引き離し、四十五から四十八%取れると思います」と、キュー・カンヤリ情報相次官は雄弁に語った。ただ、来年予定通り選挙を行うために、その経費三千百万ドルを政府が出すと、大変なインフレを招くので日本政府に援助を打診中だという。
 カンボジア駐在十一年の大ベテラン、NGOスタッフの馬清さん(48)はこの国の人々を愛するが故に苦言を呈する。「王族は文化の象徴に、国会議員の二重国籍は認めないという改憲をしなければ、ちょっと帰国しては甘い汁を吸おうといった輩ばかりで、本気で政治をやる人は出て来ないでしょう。ここ数年が運命の分け目です。現在一千万人の人口の半分は二十歳以下ですから、二十年以内に倍増することが確実です。ビジョンを持った強力な指導者が出てきて、農業インフラに一刻も早く着手しないと、NGOの草の根援助などでは間に合いません。世界的な食糧危機が来たとき、一番痛い目に遇うのはカンボジアのような弱い国です」。
  さまざまな批判を浴びながら、全権を手中にしたフン・セン第二首相。彼の肩にかかる荷は、全国民の体重に等しい。
(文・写真/阿佐部伸一)

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