新生カンボジアの行方 1994年8月取材
 昨年五月末、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の監督下、二十一年ぶりに行われた複数政党制選挙で、カンボジアに制憲議会が生まれた。そして、九月二十一日にはカンボジア王国憲法が発布され、十月二十九日には王国議会が新閣僚を承認した。だが、今年七月五日、国会がポル・ポト派非合法化案を議決すると、ポト派はその六日後「国民団結救国暫定政府」の樹立を宣言した。政府は彼らに六か月間の猶予を与えて投降を待っているが、依然北西部を中心に睨み合いが続いている。
 だが、自衛隊が撤退し、明石康UNTAC特別代表が旧ユーゴに転進してからというもの、ぱったり現地情勢は伝わってこなくなった。果してカンボジアは平和と復興に向けて、報らせることもないほどスムースに船出したのであろうか。断片的なニュースからは把握できない実情を見ようと、満一歳を迎える新生カンボジアを訪ねた。


写真:カンボジア国軍に地雷撤去を教えにきたという米軍  外国軍事援助

  八月八日バンコク経由でプノンペンへ向かう成田空港で、ばったり新聞記者の友人に会った。彼は以前語学留学していた上海へ取材に行くという。
 「中国は今や石油の輸入国ですからね。南進政策は軍部だけのものではありませんよ」。クメールルージュへの中国援助は「ベトナムを手なずけるために、彼らを“玉突き圧力”として利用する可能性は、まだあるんじゃないですか」と、彼は意味深に微笑んだ。
 翌九日、プノンペン行きの機内で配られたタイの英字紙は、ポト派は自分たちの被害を拡大したのは欧米の軍事援助だとし、欧米諸国を激しく非難、損害賠償を求める書簡を送りつけてきたと、報じている。プノンペン郊外のポチェントン国際空港に降り立ち、真先に米軍の軍事援助現場を当たることにした。ここはカンボジア王国軍のチャムチャウ軍事技術センター。王国軍兵士約千人に対して四十五人のアメリカ兵が、道路や橋梁工事に必要な重機の運転と、探知機を使った地雷撤去を教えている。
 同センターの最高責任者、カバン・シアム少将は、「この軍事援助は、戦争のためではなく、復興と開発のためです」と強調する。一万キロの道路の補修には重機が、その作業員の安全を確保するためには、先ず全国に八百万から千万個埋まっているという地雷の撤去が必要だと力説する。工事中にクメールルージュが奇襲をかけて来れば、あくまで自衛のために反撃できる工兵でなければならないともいう。「アメリカ軍のこうした援助を、外国人記者は短絡的に『軍事援助』と報道するので、困っているんです」と彼は訴えた。 では、「工兵の養成であることを写真でハッキリと報道しましょう」と、演習場へ案内してもらった。だが、米兵が一切の取材を拒否。「私は国防省から取材許可を取って来ているんですよ」と公式書類を見せると、「アメリカ大使館の許可が必要なんです」と、米兵は治外法権のようなことを言う。「ここはカンボジアでしょう」と返すと、「俺の立場も判ってくれ」と。そこまで話すと、「出て行け!早く。お前がここから立ち去らない限り、今日は座学に変更して、訓練はしないから、待っても無駄、無駄!」と、その米兵の上官の罵声が飛んできた。「カンボジア側では、どうしようもない」と、シアム少将は目配せをした。
 むろん、カンボジアはアメリカの植民地ではなく、両国間に日米安保のような条約締結も未だ聞いていない。カンボジア新憲法、第五十三条の前段では、「カンボジア王国は、永世中立と非同盟の政策を採用する。(中略)その領土内にいかなる外国の軍事基地を置くことも禁じ、(後略)」とあるが、同条のの後段では「軍事設備、武器、弾薬、また自軍の訓練において、外国から軍事援助を受ける権利を有する」となっている。第一条にある「独立主権国家である」も含め、憲法解釈が割れる点であろう。
 カイロ人口会議で人道援助を第三世界外交の基幹に打ち出したアメリカだが、その米議会内で「アメリカの強さ」を誇示する軍事援助をという共和党右派の存在が気になっているのだろうか。それとも単に、外国の軍事援助がクメールルージュを刺激し、カンポートでの外国人拉致事件の引き金となっただけに、米軍も神経質になっているのであろうか。 ちなみに、外国の軍事援助は取材した八月九日現在で、最終的に九十人の兵士を派遣する予定の米国ほか、既に仏が四十七人の兵士を、オーストラリアが二人の軍事アタッシュを送り込んでいた。これら先進工業国は、紛争に巻き込まれることを恐れてか、または国際的道義からか、訓練を施すことに留め、武器弾薬は援助していないと発表している。
 インドネシアの弾薬援助は周知の事実だが、「ティアバン国防副大臣が、チェコから戦車百両のほか、北朝鮮やアジア諸国から新兵器を購入」などといった噂が、現地入りした途端に耳に入ってきた。
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 地元紙

 きな臭い取材を終え、プノンペン市街へ。新聞スタンドには英語はもちろん、タイやシンガポールから輸入された中国語の新聞まで売られている。母国語の新聞は、外国資本がタイで刷っているものが多いが、そんな中でカンボジア資本の新聞が健闘していた。その名も『メタオポン(=母国)』といい、昨年三月十八日に創刊した。僅か四頁の週刊だが、ほぼ全国の都市へも届けられ、発行部数四千を誇る。オム・チャンドラ記者(34)によると、最も力を入れているのは、[1] ポト時代の被害者救済、[2] 植民地化への抵抗、[3] 政府の腐敗防止、だそうだ。
 カンボジア語の新聞でも、国王や連立政府を批判したり、クメールルージュとの対話路線を推奨した『アンタラクム』、『プルーム・バヨン』、『サカン』などは、編集責任者が不審死したり、当局に閉鎖されたりしている。
 同紙が提起する問題の一例を見るためチャンドラ記者の取材に同行すると、「植民地化の現場」と彼が連れて行ってくれたのは、シンガポール資本などのホテルや企業でもなく、日本などのインフラ工事現場でもなかった。そこは、散髪屋や電気屋などが軒を連ねる首都の一等地、「ベトナム人」街だった。選挙前は公務員だったという彼は、旧政府はベトナムの傀儡に甘んじた被害者であり、今もカンボジア人は自国内でベトナム人に職を奪われているという。
 八月二十六日制定された新移民法は、何代も前から定住しているベトナム系カンボジア人をも対象にした厳しいものであったことから、意地悪く見れば、この『メタオポン』は体制派だから、健在とも言えよう。ベトナムの侵入をあからさまに非難するのは、クメールルージュだけではない。カンボジアが常に飲み込まれる危惧を抱いてきた隣国の急成長は、この国にとって新たな脅威なのであろう。但し、移民法はまだ発効されたばかり、どの程度厳しく取り締まるかで、対クメールルージュのポーズか、それとも本心かが見えてこよう。そんなことを考えながら、急増した車やバイクの波を掻き分け、インタビューの約束がある大蔵省へと急いだ。
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 サムランシー蔵相

 航空機リース契約の見返りにフランス企業が改築資金を持ったと噂される大蔵省の二階で、サムランシー大蔵大臣に面会した。彼は第三党の仏教民主党員で、ポルポト派の非合法化の際、シアヌーク国王側について反対した一人だった。
 「力で抑えようとすると、必ず反発があります。つまり戦場となる村から避難民が、徴兵される若者たちからは不満が出てきます」と、彼は武力で征することに未だ反対していた。なぜなら、「彼らと平和的な競争をすれば、その勝者は明らかです。また、クメールルージュの支持者は、この社会の腐敗や貧困の被害者たちなので、不正をなくし、地方開発を進めることが、問題解決の最短距離です」と説く。
 蔵相は続ける。「私たちの最大の敵は、実は、クメールルージュではありません。腐敗や不正といったカンボジア自身の病気です。病気をなくそうとして、病人を殺してしまっては何にもなりません。援助もしすぎると、腐敗を招きますから、金額ではなく、経済倫理というか、経理のノウハウとか、そういったエキスパートの派遣をもっと望みます」。公共事業や民間投資が促進されず、カンボジア復興が加速されない一つの要因は、官僚の腐敗がある。
 一方、国の復興については、「難題山積みのスタートでした。国庫は空っぽで、公務員の給料は払えないし、水道、電気、保健、教育など、最低の公共サービスさえ出来ていませんでした」と、蔵相は振り返る。しかし、大都市は治安が良くなり、清潔になり、交通も整備されてきた上に、「警官や兵士に給料を払いながら、以前は三桁だったインフレを零%に抑えられています」と自画自賛する。それを可能としたのは、密輸や汚職などの不正取締り、歳入を二.五倍増とし、成長率六%の維持しているからだという。そして個人が消費の抑制してくれたからとも。
 並べ立てられた立派な数字を裏打ちする統計資料を請求すると蔵相は、「あまり、ないのです……」と、結局“証拠”はくれなかった。今のカンボジアで物価や賃金の調査が難しいのは理解できるが、例えば、彼の言う「インフレ零%」とは、対ドルレートだけで計ってのことではないだろうか。
 確かに、一ドル二千四百リエルは今年一月に来た時と変わらない。しかし、その二千四百リエルで買えるものはどうなったのか、プノンペンのオルセー市場を覗いてみた。例えば、豚並肉。選挙前は八キロ買えたが、今はその十分の一、わずか七百五十グラムしか買えない。市場でうどん屋をやっているリー・ペンさん(30)は、「材料が上がったのと、お客が減って……。前は一日五十杯は出たんですが、この頃は三十杯そこそこですよ。みんな苦しいんでしょう」という。公務員の月給は今も二万から五万リエルと変わらず、皆サイドビジネスで暮らしをたてている。これではデバリュエーションで、当然市民は消費を抑える以外選択の余地はない。「サムランシーは、援助された米ドルでリエルを買い支え、数字合わせだけをしている」と、前与党の人民党幹部は腹を立てていた。
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 キュー・カンヤリ国会議員

 九日夜、暫定政府の情報省大臣を務めたキュー・カンヤリ議員とグラスを交わす機会があった。早速、七月二日夜に起きたクーデターの真相を尋ねてみた。「拘留しているタイ人十四人は、あの日午後八時から電話を不通にした工作要員だったようだ。私はこの政府を認めると言明したタイ政府を信じているので、タイ政府の関与はなかったと思う。彼らは単に金で雇われた電話技師だろう」。
 カンヤリ氏は肩書が邪魔して言えないこともある。彼と同じ人民党所属のある高官は、「クーデターは、王位も財産も相続できないラナリット殿下が、チャクラポン殿下をカンボジアから追放するために、第一党の党首として地位を固めたラナリットを煙たくも思っていたチャクラポンに、敢えてクーデターのチャンスを与えたのだ」と推測している。また、ポト派非合法化を押し切ろうとしていたフンセン第二首相の失脚を、ポト派との対話続行を主張する一派が狙った、という観測もある。
  しかしいずれにせよ、クーデターは未遂に終わり、フンセン第二首相が選挙前から主張していた通り、ポト派が非合法化されたことで、政府内の権力はフンセン氏に傾き始めている。ポト派排除が国是となった今、シハヌーク国王も穏便な帰国のためには、フンセン氏と同調せざるを得ないであろう。そうなれば、親子で仲の悪いラナリット殿下が、元イギリス大使だった父親をシアヌーク殿下の命で暗殺されたと聞くサムランシー氏に急接近しても不思議ではない。実際、今回のプノンペン滞在中に、フンセン氏の次の外遊中に第二クーデターが起こるなどという話を耳にした。
 また、木材輸出の利権を資金難の国防省に委託するという取決めが六月中旬、両首相とタイのチュアン首相の間で結ばれている。この“密約”を世界世論に問うたサムランシー蔵相に国際社会の支持が傾いたため、三者の間の権力闘争は複雑を極めている。
 カンヤリ議員は、六か月待ってもポト派が降伏しない場合、「軍に新組織を作って、破壊活動を徹底的に阻止するつもりだ。但し、こちらから戦闘を仕掛けることはない」と、人民党の方針を明かす。また、「木材や宝石だけでなく、武器弾薬の貿易もタイ国境までは政府のコントロールが及ばない。だから、クメールルージュ対策としては、軍事面だけでなく、法的にも、経済的にも絞めてゆく」。彼が説くこの政策は、記者の耳にかなり現実的に響いた。というのは、これまでポト派ゲリラの財源となっていた木材を、カンボジア国防省がタイ政府公認の業者へ輸出すると申し合わせたことは、紛れもなくポト派を経済的に締め上げることになるからである。
 だが一方で、国家資源でもある木材を、首相と軍だけで取り仕切ることは、民主的な政策プロセスや環境保護をうたうカンボジア新憲法にも触れる。世界銀行や国際通貨基金が、援助の信用担保を引き揚げると圧力をかけてきたことから、カンボジア復興を遅らせる新たな要因ともなってしまった。
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 西部戦線へ

 カンポートの外国人拉致事件も気になるのだが、西部へ行くことに決心した。なぜなら、以前の取材でも、カンポート州やコンポンスプー州に潜むクメールルージュは、悪路と険しいジャングルに阻まれ、タイ国境の本隊からの弾薬や食糧の補給が難しく、半ば孤立していることを確認していたからである。また、王国政府も対外的な関係で敏感にはなっているものの、彼らはせいぜいヒットアンドラン攻撃や、破壊活動を散発的に行うゲリラで、軍隊を組織的に動かし支配区を広げるような行動には出られないと見ていたからだ。片や、西部では外国人に被害が出ていないので報道こそされていないが、非合法化されたクメールルージュの攻勢が激しくなってきているという。十日早朝、国道五号線を一路バッタンバンへと出発した。
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 クメールルージュ投降兵

 コンポンチュナンの街を過ぎ、僅か五日前にオープンしたというクメールルージュ投降兵再教育センターに立ち寄った。各地の再教育センターを統合するという国防省の政策に従って、先ずプノンペンのセンターがこの地へ引っ越してきた。
 教育棟や寮は目下建設中。屋根だけの廃墟でミン・メアス連隊長(41)が応対してくれた。「以前とは違って、民主主義になり、人権も守られるようになったから投降してくるのです。彼らは投降してきた時点で、既に心を入れ換えていると思います。彼らもクメールルージュに唆されて、間違った考えを吹き込まれた被害者に他なりません」と、穏やかに彼は語る。センターでは、体練、娯楽、人権、軍規、作戦などを一日六時間教え、三か月で元“敵兵”を王国軍兵士に仕立て上げる。プノンペンから移されてきたのは投降兵五十五人と彼らの家族の女性と子供十九人だが、彼らは既に三か月の再教育コースを終え、最終的に気持ちを確かめられる観察期間に入っているという。
 その投降兵の中で最上階級だったチープ・メイ元中佐=ポト派独立二七七連隊(35)は、少佐の肩章の付いた王国軍の制服姿だった。彼は投降の動機を次のように話す。「選挙で選ばれたこの政府は、カンボジア人の政府だと信じています。ですから、戦争を続ければカンボジア人同士の殺し合いになり、生活水準も上がらないと思ったからです」。彼は予め手紙で投降の意思を伝えてあった王国軍少将のもとへ今年四月、部下七人と自分の妻子を連れ投降した。ポト派内部のことを尋ねると、「クメールルージュも八一年から資本主義を導入していて、貧富の差はありました。幾人かのリーダーたちは今も共産主義者ですが、時と場所によって体制は違いました」と。隣で教官が聞き耳を立てているにも、クメールルージュが秩序の混乱から士気の低下を招いていることを示唆する際、確かに「王国軍とあまり変わらず」といった表現があったが、メイ少佐は咎められることもなく、話しにくそうでもなかった。
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 洪水

 平行して走る鉄道や、沿道の村が週に一回はクメールルージュに襲撃されているというポーティサット州を、車は万一の場合を憂慮して、一度も停車せず、全速力で駆け抜けた。間もなく本日の宿泊地、バッタンバンという所で、路肩に粗末な小屋が並んでいた。
 三年ぶりに二メートル近い洪水がやって来て、三キロ離れたソンカイ郡オトック村から一段高くなっている国道に、避難してきたというプレア・ベットさん(47)。「屋根代わりにするビニールシートは、バッタンバン州が支給してくれたんです。四家族当たり百キロの米も配給してくれました」と、被災者であるはずの彼女が終始笑顔で答える。
 この雨期、カンボジア全土で五州が洪水の被害を受け、約五万人の被災民が出たという。以前も赤十字などが緊急援助していたが、地方行政機関が被災民にこうした手当てをしたのは、新政府になってからだ。新憲法には、第六十一条の「・・・僻地の経済開発、特に農民と手工業者の経済開発を推進する」をはじめ、随所に地方農民の保護がうたわれている。穿った見方をすれば、貧しい農民がクメールルージュ支持に回らないようにといった政策でもあろう。
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 ナム・ツン副知事

 十一日、ナム・ツン副知事の近況説明は、心地良い朝の空気に反して、辛辣なものだった。「クメールルージュは今年五月から、襲撃した村には火を放つという作戦に切り換え、ラタナモンドル郡で新たに約八千家族、四万人の戦争被災民が出ています。UNTACが我が兵力を削減したので、被害が大きくなったのです。その後、反撃できるように地方軍を組織して、五月二日には巻き返しましたが、家を焼かれ、田には地雷が仕掛けられ、今も帰られない農民がまだまだ沢山います」。
 クメールルージュが攻撃を依然続行できる理由として副知事は、[1] どこの国とは言えないが、今も外国から援助がある、[2] パイリンを支配区に持っていて、宝石の輸出で収入がある、[3] 政府軍の武器弾薬が不足している、[4] こちらが追い詰めるといつもタイ領に逃げ込む、といった点を挙げた。そして、「タイでなくても、タイを通って弾薬がクメールルージュに売られているはずです。が、我々は確かな証拠を握ぎれないのです。タイが国境を閉めて、協力してくれなくては、王国軍に幾ら能力があっても、クメールルージュを駆逐できません」と、悔しそうな表情を見せた。
 国際ニュースとして流れただけでも、昨年十二月末と今年七月初めタイ領内でクメールルージュの秘密武器庫が摘発されている。また、タイの国道三一七号線沿いには、クメールルージュ支配区から運び出される宝石や木材の市場が点在しているのが周知の事実である。
 「クメールルージュには国民の九十八%が反対しています。二%の支持者は現在の生活に不満を抱いている人と、あとは強盗や殺人を犯し、あちら側に逃げなくて逮捕される悪人たちです。パリ和平調印以来のこちらの譲歩を、クメールルージュはこれまで一度も善意にとったことがありません。ですから、平和を得るためには、もう戦うしかないのです」。軍人ではない地方政府の長も、こうした強行論を主張する。
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 前線へ

 副知事と別れ、パイリンに続く国道十号線を前線に向かう。財政難と軍の士気を憂慮する政府は、軍の整備計画をたて、現在十六万人いる王国軍兵士を三年以内に六万四千人に縮小しようとしている。片や、クメールルージュの兵力は二万五千人とされている。
 王国軍は今年三月二十一日、クメールルージュの本拠地、パイリンを陥落させた。しかし、四月末にはポト派の猛反撃にパイリンを再奪還されている。その四月末の戦闘で瓦礫と化したラタナモンドル郡役場を過ぎると、王国軍が反撃する大砲の音が田園の静寂を破った。王国軍の砲撃陣地ではソ連製の百五十二ミリ砲が、積乱雲が立つ雨期の空を睨んでいた。「周辺の山が画面に入らないように。敵に知られてしまいますから」と、撮影の注意を受ける。射程は十七キロ。クメールルージュが前線を築いている西南西十四、五キロのチェナン村に向けて撃っているという。過去一か月に十五回、一回に四発から三十発ずつ、この日はすでに四発撃っていた。
 ここからは装甲車と軍用トラックの先導が付いた。地雷で出来た大きな水たまりを幾つも越え、トレン村の前線本部へ着くと、第五師団マット・チャラ少将(34)が迎えてくれた。「三派の統合に手間取っていた間に、クメールルージュが攻めてきて、バッタンバンから十三キロのソムポー山まで撤退しなければなりませんでした」。だが、五月一日までには、選挙当時のラインまで押し戻したという。「今は大きな作戦はありませんが、静かに停まっているわけにはいかないんです。そんなことをしていると、ゲリラがまた押し込んできますから」。
 同師団の任務は、ラインを守ること。五月以降、村人たちは自分たちの村へ帰れたが、クメールルージュが新たに仕掛けていった地雷を恐れて、満足に農作業が出来ずにいる。「十日に一人は誰かが地雷を踏んでいます。我々は、地雷処理は上手いんですが、命令がないのと、忙しすぎて、田の地雷撤去はやっていません。ですが、村人のなかにも退役した兵士がいて、彼らが教えて、自分たちでやっていますよ」。
 不足が報じられる弾薬については、確かに以前はソ連やベトナムの援助があったが、今はどこの国からもないという。「不足というのは、長期戦になれば、という意味です。この雨期、今年に限ればまだ十分ありますよ」。
 チャラ少将は、クメールルージュが国に帰ってくるチャンスはUNTAC時代だったが、彼らにとってあれより良いチャンスはもうないと断言する。戦況の展望については、「王国軍がよく組織され、新しい兵器が入れば、前線のクメールルージュは恐れをなして投降してくるでしょう。ですが、リーダーたちは六か月待とうが、十年待とうが、決して降伏してこないでしょう。私は、連中の心理が分かっています」。七九年ベトナム軍と一緒にプレビヒアから祖国に凱旋し、十六年間もクメールルージュと対峙してきた彼は自信を持って予想した。
 そんな彼にカンボジア復興に最も必要なものを、尋ねてみた。「平和ですよ」と、短く答える。その為には、先ず戦争を止めなくてはならないという。そして、止めるためには、もっと武器弾薬が要ると主張する。戦争が止めば、国は安定し、外国資本がやってきて、豊かになるというのが彼の論理だ。別れ際、彼はこう付け足した。「あなたはジャーナリストでしょう。だったら、伝えてください。多くの援助は要りません。それより、誰が正しいか、誰が間違っているか、ということを」。平和のために、さらに戦争をするという矛盾に、マット少将はせめても“正義”という心の支えを欲しているように聞こえた。
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 兵士たち

 マット少将と話していた午後一時半、前線本部三キロ先のオータクレイ橋めがけて七発のロケット攻撃があった。「ここから先は危ないよ」。砲撃など日常茶飯事といわんばかりに、大木の陰でカード博打に興じていた王国軍兵士たちに止められた。「多ければ日に、三、四回。少なければ十日に三回ということもあるよ」と、クメールルージュの攻撃の頻度を説明する。今は昼休みで、この後、またパトロールに出掛けるそうだ。
 「戦争に疲れないか?」と彼らに問いかけた。小隊長のペン・ナット少佐(32)は、「私は兵士だから、国を守るのが仕事です」と模範的な回答をした。が、「それはこの人だけです」と、部下たちの間から軽口が飛んだ。ちなみに、兵卒の月給は三万五千リエル(約十五ドル)、少佐で五万七千リエルだ。軍服や食事は支給されるが、マラリアに罹ったときなどの薬代は自前だという。木材輸出代金が軍に回されることに非難はあるが、彼らの士気を維持するには、この国としては極めて現実的な方策のようにも思える。
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 戦争避難民

 前線からの帰り道、十号線沿い田に、掘っ建て小屋が集落を作っていた。夕餉の煙がたなびく中、片足の男たちが柩を作っている。「今朝、甥が死んで、葬式の用意をしているところです」と、テット・サボウンさん(62)。四月末、故郷のラタナモンドル郡ボンアンピル村から避難してきたとき、甥のメイ・ライさん(36)は病気で、彼の妻は妊娠八か月だった。避難後、ライさんはバッタンバンの病院に入院したが、医師に「この手の病気は治せない」と言われ、金もなかったので、一週間で退院した。サボウンさんの、「何という病気か知らないが、眼が黄色くなって、おなかが膨れてきて、……」という説明から、たぶん肝炎だろう。新憲法の第七十二条には、「貧しい市民は無料で医療サービスを受けられる」とあるが、病院や医師、医薬品と全てが不足するこの国では、“不治の病”がまだまだ多い。
 王国軍が押し返し、約四千家族の避難民のうち三分の二が自分たちの村に戻っている。村に帰れば、地雷を踏む危険はあるが、田を耕し、炭焼きもできるという。しかし、夫が死に、妻が二十日前に第三子を出産したばかりのこの家族や、お年寄りを抱える家族は今も、ここで配給に頼る不自由な生活を強いられている。国際赤十字やバッタンバン州が、一人当たり十五キロの米や、魚の缶詰、塩などを配ったが、それも底を突き、芋や菜っ葉のすいとんで喰いつないでいるという。
 家族はメイライさんの亡骸を、故郷の村に葬りたいのだが、遺体を運ぶ金さえなく、避難先の寺の好意で、明日その境内に埋めるという。
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写真:行く手には地雷や襲撃もあるが、生活がかかっている

  戦場を行く列車

 十二日、朝もやに包まれたバッタンバン駅は、タイ国境の市場、ボイペットへ向かう一日一本の列車に乗り込む人たちでごった返していた。バッタンバン・ラジオは昨日、数カ所で地雷が爆発し列車が運休したと報じていたが、どうやら今日は走るようだ。
 列車はソ連製のディーゼル機関車が牽引する十両編成。前から有蓋貨車三両、客車四両、有蓋貨車三両の順だ。貨車といっても、中は人で一杯。客車のデッキはもちろん、屋根の上や、機関車にも乗客がしがみついている。ところで、この十両のほかにも、機関車の前に二両の無蓋貨車がつながれている。これは、クメールルージュが線路に仕掛ける地雷から、数少ない機関車を守るための、いわば“捨て駒”なのだが、その車両にも乗客が鈴なりになっている。
  三十分遅れなんてざらの“カンボジア・タイム”に反して、列車は定刻七時きっかりに動きだした。地雷で切られた線路を僅か一日で復旧させたこともだが、カンボジア人たちの復興への心意気を感じずにはいられない。先ずは、錆だらけの客車に乗り込んだ。列車には珍しい外国人を、満員の乗客たちは皆、笑顔で迎えてくれた。その一人、トゥーチ・ポラさん(20)は、「モンコロボレーの母のところへ、米を貰いに行くんです」という。手伝っている田は洪水で絶望的。昨年の米で食いつないでいたが、足らなくなったという。母からの米は無料だが、交通費はしめて五千リエル(約二ドル)。自宅と駅の間のバイクタクシーが往復四千リエル、バッタンバンからモンコロボレーの往復切符は千リエルだ。「列車は好きですよ、安いですから。でも、もし金持ちだったら、車のほうがいいな」。夫はバッタンバン駅で赤帽をやって現金収入を得ようとしている。今日、貰う米は十キロで、夫婦二人の一か月分だそうだ。ちなみに子供は、「お金がないから、欲しくないわ」と、ぎりぎりの生活のようだ。
 ガタゴト、ガタゴト。列車は駅を離れても、スピードを上げない。プラスマイナス数センチの“誤差”なんて許容範囲といった感じで、線路が上下左右に波打っているのだ。脱線しないよう、時速二十キロ以上は出さない慎重な運転だ。ポラさんは車の方が好きというが、天井で頭を打つほどの車の揺れよりは、列車の方が快適な気がする。スピードだって、しょっちゅう大穴を避けて一旦停止する車に比べれば、平均速度ではこちらの方が上だ。カンボジアの凸凹道は大型バスは走れないし、たとえ走れても、これ程の乗客だと、バスなら軽く三十台は必要だ。幾らオンボロ鉄道でも、頻繁にクメルルージュが攻撃対象とするだけのことはある、と変に感心してしまった。
 大きな籠を網棚に載せた娘さんは、ロン・スレイポウさん(14)。「シソポンに仕入れにゆくのよ」。日本では釈迦頭と呼ばれる果物を、キロ三.五バーツで百キロ買って、バッタンボンでキロ四バーツで売るという。五十バーツ(約二百円)の粗利だが、そこからこの日の昼食代と、シソポン往復の千四百リエルを引くと純利は百円そこそこ。中学校三年生の彼女は今、夏休み。将来は商人ではなく、公務員になりたいという。「だって、うちは資本もないし、商売は値が安定しないで、時には損するでしょ。公務員だったら、そんなことないし……」と、しっかりしている。
 子供五人に大人三人。四人掛けのボックスは、まるで託児所のようだ。むずがる乳児をあやしたり、じっとしていない腕白坊主を叱ったり、しかし、明るい笑い声が絶えない。メアス・サムナンさん(25)一家とソエン・ヨーン(29)一家である。「ボイペットの市場へポーターの仕事をしに行くんですよ。向こうには妹の家があるんで……」。タイやカンボジアの商人の荷物を市場からトラックの駐車場まで運ぶ仕事で、一日十〜二十バーツ(四十〜八十円)の儲けになるという。二、三十日の予定だそうだ。「なぜって?洪水で米がパーになってしまったからですよ」と、サムナンさん。
 そんな家族を静かに見つめる軍服の男がいた。カ・テット少尉(27)。「休みを終えてシソポンの部隊に戻るところです」。彼は入隊六年目、第十七連隊でT五四型戦車の操縦士をしているという。前回五月の休暇には、パイリンの戦闘の余波で、国道十号線沿いにあるプノンソンプロー村の自宅から妻を連れバッタンバン近くまで避難したという。昨日、前線へ向かう際に、通過した村の一つだ。
 「戦争は早く終わってほしいですよ。外国が我々に新しい武器をくれれば、すぐにでも終わらせるのですが…」。年代物の戦車に乗務する青年は、「そりゃ、妻は恋しいですからね」と、はにかんだ。
 その時、大きな揺れを感じて、車窓を横転した客車が横切った。揺れは、地雷の爆発で出来た穴を完全に埋め戻せていないので、線路がたわんでいるのだ。次の停車場で、機関車の前に連結されている無蓋車に乗り移った。地雷や襲撃の心配さえなければ、三百六十度の動くパノラマは観光客にも受けそうだ。「知ってますよ。この車が地雷避けっていうことは。でも、怖がってたら、ほかに乗るところなんてないでしょ」と、ピッチ・ソンさん(35)は荷物の麻袋にもたれ、田を渡ってくる風に悠然と吹かれていた。
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 新たな危機

 バッタンバンから三時間足らず、予定より三十分早くバンティミンチェイ州の首都、モンコロボレーに到着した。この町には、シアヌーク時代の六六年、日本が戦後賠償として建設し、いまも市民に「ニッポン病院」と呼ばれる病院がある。九〇年から国際赤十字(ICRC)などの援助が入り、わざわざ首都プノンペンから手術を受けにくる患者もいる程の医療水準を誇っている。
 右足をつけ根から飛ばされた男性が、包帯の取り替えを終え、手術室から運び出されてきた。以前ほどではないが、今年も戦傷者の手術が四、五月には百例を超し、雨期に入って減り始めたが、ポト派が非合法化された七月からは、また増加傾向にある。全国平均では、毎月三百人が今も地雷を踏んでいる。
 現在三百二十床の約半分が埋まっていて、医師は外科医四人を含め二十一人、看護婦は十二人。地雷の被害者は乾期(十月から四月)には毎日一人以上が、雨期には月に三、四人が運び込まれてくるという。一方、伝染病は「蚊帳を吊って寝る」、「ボウフラが湧く水たまりを放置しない」といった予防広報が功を奏し、デング熱などは今年から激減傾向にあるそうだ。
 それでも、病棟を回ると悲惨なケースに幾らでもぶつかる。ソエン・コンちゃん(6)は、包帯でぐるぐる巻きにされた両腕を吊られ、か細い鳴き声を上げていた。彼女は取材に訪れた前日の八月十一日、四か月ぶりに父親と再会しようと、父の所属する第七師団が駐留するプノンスロック地方のスピンスレン村を母と訪ね、クメールルージュに狙撃されたという。AK四七自動小銃の銃弾は小さな腕を粉砕した。
 その隣のベッドには、両足を失った農婦、ラン・プレックさん(24)が横たわっていた。記者の来訪に気づいて、慌ててブラジャーを着ける彼女が気の毒だった。八月三日ボントラクオン村の森へ芋を掘りに行って、地雷を踏んだという。付添いが誰もいないのを問えば、本人の口から「離婚して、家族は一人もいません」。そんな彼女にとってせめてもの救いは、無料の医療費くらいである。
 だが、日本の援助でエコー診断装置まであるこの病院にも、新たな危機が迫っていた。ICRCが毎月支給していた医師に五十ドル、看護婦に三十ドルの補助が、来月からカットされるというのだ。政府からの月給は、医師で僅か四万リエル(十七ドル足らず)。今までの援助は新政府が発足したことから、中央へ一括されるという。公平に分配され、地方の医師たちにも届くかどうかは、新政府の行政にかかっている。優秀な公務員が外資系企業や国際援助機関へ転職することに、拍車が掛からなければ良いのだが。
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 僧侶の育成

 バッタンバンへの帰路は、車で国道五号線を走った。途中で脇道へ逸れ、カンボジアのどこにでもあるような農村、ロハッテック村を訪ねた。
 カンボジアでは、村の中心は寺である。この村のシャイ・サタラム寺院には、真新しい金色の仏像が安置されていた。「難民になった中国系の村人が、タイで成功して、贈ってくれたのです」と、本堂で昼寝をしていた老人が自慢気に説明する。そして、その脇には立派な柩が祀ってある。カンボジアでは火葬か、土葬が一般的なのだが、ポト時代に荒廃した寺を建て直し、集まった寄付で学校や病院を建設、三年前八十歳で亡くなったシン・サム和尚は、村人に防腐処理を施され、その中で永眠しているそうだ。
 僧坊から先生の言葉を復唱する声が聞こえてきた。チェン・ポエンさん(27)は、タイ国境の難民キャンプ「サイト二」で、やはり難民になっていた年配の僧侶のもと修行を積み、国連難民帰還プロジェクトに乗って帰国した。ヘンサムリン政権下でも九〇年に規制緩和され、若者でも職を離れて得度できるようになっていたが、「この村には何も知らない若者も入れて、わずか五人しか僧侶がいませんでしたから」と、彼は僧侶学校設立の動機を話す。
 だが、カンボジアの学校の例に漏れず、ここでも教科書、チョーク、ペンがなかったり、足りない。それでも、ポエンさんは村の開発事業の手始めとして、寺で孤児を預かっている。寺なら何とかなるだろうと一人でやって来たコン・ポット君(16)、親戚をたらい回しにされていたセン・ソコン君(13)、持て余した祖父に連れてこられたト・ランタン君(16)の三人だ。彼らは物心つかないうちに、ポト時代や、その後の内戦の犠牲者になった。三人とも年齢を五歳くらい上に言っているのかと思うほど、体格が悪い。死なずに生き抜いて来ただけ強靱なのだろうが、栄養失調である。
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 橋を守る

 十三日、アンコール遺跡で有名なシェムレアップへ向かう。途中の橋は全て、小銃や対戦車砲を手にした兵士が警備している。バッタンバン州の国道五号線に架かるトラス橋を守っていたアン・アタ隊長(31)は、「昨夜は百人規模のクメールルージュが十キロほどの地点まで迫りました」と、田んぼの向こうの茂みを指さす。「あちらにも守備隊がいるので、ここでは撃ち合いにはなりませんでしたが……」。日中は四人、夜間はその三倍の十二人で警備しているが、七月二十五日からは毎晩のように、橋を落とそうと攻めてくるという。
 鉄材がまだ光沢を放っているこの橋は、昨年末爆破され、取材の二日前に開通したばかりだ。国道に平行する道がないため、この橋ひとつ落とされただけで、カンボジアの大動脈が麻痺してしまう。彼らは沿道のオータキ村の民兵で、月給僅か一万六千リエル(七ドル足らず)で、一日置きの二十四時間シフトをこなしている。
 乗用車で国道を行く外国人が、こうした沿道警備の兵士に発砲される事件が、時々起きている。兵士の一旦停止の指示に従わなければ、危険人物と誤認されても仕方がないだろう。また、彼らの献身的な警備のお陰で無事通行できているのに、冷房を効かせた窓を開けもしないで通り過ぎれば、反感をかうのも当然だ。
 私のカンボジア人の友達は、ほんの数秒ほどだが停車し、ねぎらいの言葉をかけ、煙草をやる。すると、何のわだかまりもなく、その先の道路情報をくれたりもする。王国軍の規律の乱れが問題視されるが、彼らもまた人間であり、生活がある。
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 ツーリズム

 まだ日の高いうちに着けたので、アンコールワットへ散歩に出掛けた。最初に会ったのは、叔父宅の帰り道に立ち寄ったというオッ・コートさん(40)。「家族の幸福と、カンボジアの平和を」を祈ってきたという。パック旅行で来ていた日本人女性は「家族や友達から『どうしてカンボジア?気をつけてね』と言われましたが、来てみれば、そんな危ない目には全く遇いませんよ」と、遺跡のスケールに圧倒されていた。地元ガイドの説明に熱心に聞き入っていたフランス人女性は、「外国人がクメールルージュに拉致されているのは聞いていますが、そんな事件はどこの国でも起こっているでしょう。カンボジアだけが、特に危険だとは思いません」と、醒めている。
 しかし、インタビューをするにも、外国人観光客を探さなければならない程、広大なアンコールワットの境内は閑散としていた。そして、当初の五月から八月に着工が延ばされていた日本の石職人による修復工事は、その八月に現地を訪れたのだが、どうやらさらに延期されたようで作業員は誰一人いなかった。
 ここシェムレアップには九二年まで老舗のグランドホテルが一軒だけだったが、パリ和平調印を機に新しいホテルが続々オープンし、現在は十二軒、計四百八十室の収容能力がある。外国人観光客の来訪は、九一年七千人、九二年一万二千人、九三年七千五百人、今年は七月末現在で八万七千人に達し、年末までに二万人を見込んでいる。だが、その数は政府が掲げる九九年までに年間百万人という目標の、僅か五十分の一でしかない。
 アンコール観光局クースム・サーリェット局長(39)は、「観光客数が思うように伸びないのは、マスコミがあたかもシェムレアップまで危険な所のように報じるからですよ」と、誤解を払拭したい様子だ。今年一月から五月までは月平均千六百人前後が訪れ、三月には二千人を突破したが、六月には七百四十七人に急落している。観光客を震え上がらせた五月初めのアンロンベンの攻防は、ここから百五十キロも離れていた。「外国人記者はカンボジアのことを分かっていないので、ちょっと銃声を聞いただけで大騒ぎします。それより、シャムレアップで戦闘に巻き込まれて死傷した観光客は、八六年から一人もいないことを強調して欲しいですね」。
 彼にインタビューした翌日、十五日早朝にはアンコール遺跡の一つバンティースレイへ地雷除去作業に向かう王国軍兵士らが、クメールルージュに襲撃された。がしかし、観光局はバンティースレイ行きを勧めていないし、どうしても行きたい人には軍の護衛を付けている。治安維持のために主要な遺跡だけで百八十名近い兵士を常駐させているのは事実だが、今回出会ったフランスのテレビ局のように、彼らにわざわざ銃を構えさせてパトロールのシーンを撮るなど、いたずらに緊張を煽る報道が、アンコール観光に水を差していることは否めない。
 シェムレアップ進出に欧米や日本の企業は、まだ様子を見ている。が、国道沿いでは、カンボジア人の手によって寺院の屋根をかたどった近代的なホテルが内装工事に入っていた。「世界がこの国を認めてくれたんで、これからは安定すると思っています。それに、由緒ある寺など殆どなく、花(売春婦)しかないタイでも、あれだけ観光客が来るんですから、カンボジアならもっと。政府の目標百万人は、きっと達成できますよ」と、ホテルのオーナー社長、セアン・ナムさん(41)はホテル建設の動機を話す。
 彼は七九年、ポト時代が終わると同時にプノンペンで不動産業を始め、借金なしでこのホテルの建設資金二百万ドルを用意したという。彼は言葉を濁すが、カンボジアで二百万ドルと言えば正に天文学的数字。UNTACバブルで大儲けしたに違いない。ホテルは五階建て、全百室、来年初頭のオープン予定だ。「七十人の従業員は、顧問に一人だけ西洋人を雇いますが、他は全て地元の人を採用するつもりです」。ちょっと得体の知れないナムさんだが、国の復興と国民の福祉も考えている頼もしい起業家である。
 プノンペンへの帰り、観光客の玄関口となっているシェムレアップ空港を利用した。まだ復興事業が着手されておらず、見せてもらった管制塔にはレーダーも誘導装置もない。あるのは航空無線と、家庭用の気圧計と目覚まし時計だけ。シハヌーク時代には観光客を外国から直接受け入れようと国際規格にした滑走路だが、誘導灯も破壊されたまま。しかし、管制官のマオ・ソピアップさん(27)は、無事故に胸を張る。「もし、スコールや嵐で視界が悪ければ上空で待機させ、二十分経っても良くならない時は、無理に着陸させず、プノンペンへ引き返す指示を出しています」と、彼は安全運行を強調した。だが、彼は一階ロビーまで降りてきて「設備が貧弱なことだけを紹介しないでください」と、念を押した。サーリエット観光局長と同じく、管制官も危険性を誇張する外国人記者の報道に頭を痛めている様子だ。
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 援助論

 プノンペンへ戻り、日本の非政府援助団体(NGO)の人たちと会った。八七年カンボジアへ赴任して以来、自動車修理工の養成を中心に七年余りボランティア活動してきた馬清さん(42)の口から、予想外の「援助論」が飛び出した。
 「私も考えが変わりましてね……。カンボジアの復興に必要なのは、お金だけでいいんじゃないですか」。資金だけでなく、継続的な人的援助を、という昨今の援助論とは正反対のことを提言する。馬さんはカンボジア人たちの“甘え”を計算に入れて、敢えて異論を唱えているのだ。つまり、資金の管理を含め、復興事業の運営自体をカンボジア人に任せ、失敗して痛い目にあうのも自立への大切な勉強だということらしい。
 実際、馬さんの教え子で、既に先生格になっているケオ・トウチさん(35)は、彼をこう評価する。「他の先生と違って、何かにぶつかっても突き放し、私たち自身に解決されるところが馬先生の良いところです」。馬さんは情熱を失ったわけではないが、もう二、三年前から直接的には指導しなくなっていた。
 たまたま、馬さんに相談にきていた国連支援交流財団の長林昭宏さん(28)にも、彼独特の「援助論」を聞く機会があった。「移住こそが、海外協力です」と、彼は極めて端的なフレーズで表現した。九三年十月から二度下見に来た後、この五月からはプノンペンに住み、小学校建設と義足工場の管理・運営をしている。今年十一月には、カンボジアを知るため下宿した家の娘さんと結婚するという。「援助するなら、自分がその国の経済圏に定住して」という彼の言葉通りの人生だ。そこに住んで働けば自分のためだけではなく、やがてその国のためにと働くことになるからだという。当然、援助では喰えないので、日本人相手に旅行業を始めたが、それとてカンボジア復興の一端を担うことは確かだ。
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 地元NGO

 カンボジアのNGOも社会に根を張り、着実に活動を広げているようだ。「プンル・クメール(=カンボジアのともしび)」は新憲法の理念に沿って、[1] トラブルを法律に照らし仲裁する人権擁護活動、[2] 家畜の飼育、金の貸借法などを教える農村開発、[3] 女性にも社会参加を呼びかける市民意識の啓発、[4] 孤児や貧者のための学校運営、[5] カンボジア文化を尊重し、国民に一体感を持たせる文化奨励などに、全国五十五のNGOと共に取り組んでいる。
 ところで、プンル・クメールは昨年、「クメールルージュと戦うのではなく、彼らを受け入れなければ、カンボジアに真の平和は来ない」というコンセンサスを、全国のNGOを通じて纏めていた。だが、ポト派が非合法化されたいま、「クメールルージュに限らず、法を犯し、国を破壊する者は、法律の保護の外に置かれて当然です」と、プオン・シット会長(44)は言い切る。六か月待っても投降して来なければ、「私たちに選択の余地はありません。逮捕され、刑務所に入ってもらわなければなりません」と、答える。シット会長自身、ポト時代には父と叔父、兄、甥を亡くしているが、「証拠なく突き出したり、個人的な恨みでリンチしたりしてはいけません。そうしたことが起こらないように監視するのも、我々の仕事です」と、感情の昂りは見せず、カンボジアNGOのスタンスを規定した。
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新生カンボジアの行方

 今年三月十、十一日東京でカンボジア復興会議が開かれ、総額七億七千七百万ドルの対カンボジア援助が決定している。因みに、日本は一国で二十七か国から寄せられた二国間援助の三分の一を占める九千百八十万ドルを供出している。そうした外国の力を借りて、戦禍からの立ち直りを急ぐ王国政府だが、ポト派の破壊活動をはじめ、権力闘争に揺れる政府、官僚の腐敗、それらが起因する低い信用などが、復興の出足を挫いている。
 今回の取材最終日、八月十七日。ラナリット第一首相がマレーシアへ旅立つポチェントン空港には、出発の二時間位前から見送りの政府高官や国会議員、各国の駐カンボジア大使らが集まってきた。フンセン、ラナリット、チアシム、ソルケン、サムランシー各氏らが、共通する利害のもと連合を組みつつ、既にシアヌーク亡き後の権力争奪戦を繰り広げている。ラナリットの到着を待って、一見和やかに談笑している彼らも、敵同士かも知れない。ここで必要なことは、どの勢力にとっても、クメールルージュの反政府活動を裏で利用したり、社会の未整備や混乱に乗じて私腹を肥やすことなどが、割に合わなくなることが必要だ。そのためには、UNTACが撤退した今こそ、マスコミが目を光らせていなければならない。
 次々と車から降りてくるVIPを、外国人記者団が取り囲む。欧米人記者の焦点はカンポートの外国人誘拐事件の進展。政府は既にクメールルージュに身代金を払ったなどという未確認情報が飛び交い、解放はいつかと殺気だっている。クメールルージュは外国の軍事援助停止を人質解放の条件にしているだけに、この事件が一人歩きし新たな軍事介入の火種にならぬことを祈りたい気持ちだ。背広姿の一団の中に、顔見知りの外務省高官、チュンブンロン氏を見つけた。
 今回の取材の纏めとして、彼にこの一年の感想を語ってもらった。「復興のスピードは遅いですが、問題は一つ一つ克服していっています。私はカンボジアの明日を楽観視しているんですよ。シアヌーク国王に万一のことがあっても、人民党とフンシンペックは離反しないでしょう。なぜなら、カンボジア復興のためには外国援助が不可欠です。その援助を引き出すには、一に平和、二に安定が必要なことは、彼らも良くわかっているはずですから」。確かに、記者が初めてカンボジアにやってきた八七年とは比較にならないほど、モノが増えて便利になり、行動も言論も自由になり、街は活気に沸き、人々も明るくなってきている。
 タイを挟んだ隣国、ミャンマーでは四年前総選挙で民主派が大勝したものの、軍事政府が居座り続けている。カンボジアでは、国連監督下の選挙を経て、ASEAN諸国にもまだないような民主憲法と民主政府が誕生した。だが、ポト時代に徹底的に破壊されたカンボジアは、一九六〇年代にあったインフラや人的資源さえも持ち合わせていない。国際社会の波を受け、独立国の体裁を保ってゆくには、カリスマ性を持った指導者が必要だろうし、そんな指導者が議会を飛び越して強権発動することもあり得るだろう。旧知のタマサート大政治学部ナカリン・メクライラット助教授は、「タイのように、クーデターは起こるかも知れないが、それは政府内部のことであって、カンボジアという国は安定に向かうだろう」と、希望を込めて語っていた。
 フンセン第二首相は「健康状態」を理由に姿すら見せなかったが、消息筋はもっぱら、「留守中のクーデターが心配だからだ」と憶測していた。ラナリット第一首相も混乱を避けるためか、恒例の即席記者会見の時間を作らぬように、マレーシア航空機に直行した。雨期にしては雲の少ない空に吸い込まれてゆく首相機を見送りながら、暫くはカンボジア人たちの奮闘を見守ろうと思った。
(文・写真/阿佐部伸一)

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