緊急報告・カンボジア最前線 1992年5月取材

写真:地雷で穴だらけになった国道12号をパトロールする政府軍兵士たち=コンポントム県で

 コンポントムで

 「クメール・ルージュは協定を破って攻めてきた。我々は停戦時の位置を動かなかったのに」。プノンペン政府軍第五師団クン・タン中佐(34)が、そう言い終わらないうちに、背後のジャングルで爆発音がした。
「ああ、この辺は地雷だらけですから、ちょっと風が吹いて、木の枝が落ちたりしただけでも、爆発するんですよ」。ここはコンポントム市から、国道十二号せんを十三キロ北上したアンダッシュ村。
武装解除第二段階が始まった翌日の六月十四日、ポル・ポト派この北2キロのジー・オウ村やポン・スレ村を砲撃し、村民が政府軍の抑えるコンポントム側へ避難してきた。日本のPKO協力法が成立した前日でもあった。「ポル・ポト派は、十二号線を切って、プレビヒア県を支配下に置こうとしているし、プノンペンへの橋頭堡となるコンポントムだけでなく、コンポンチャムも抑えようとしています」。
昨年十二月二十三日のパリ和平調印から、記者が訪れた七月七日までに、クメール・ルジュが十二号線沿いに撃ってきた一〇七ミリロケットや一二〇ミリモーターなどは、計四百五十六発に達していた。クン・タン中佐らは、クメール・ルージュが夜間に仕掛ける地雷を毎朝七時半から十個以上処理して、国道の安全を確保、午後二時ごろから二日毎にある砲撃に同程度の兵器で応戦して、これ以上侵攻され被害が出るのを食い止めている。
「早くこの任務を平和維持軍(PKF)に代わってもらって、宿営舎に入りたい。国連が安全に来られるためにも、この道を護っているのに、彼らは怖がってなかなかここへ来てくれないよ」。この一ヵ月に部下二人が死に、二人が重傷を負った。中佐の顔には疲労の色が濃い。日本政府の国連平和維持活動(PKO)調査団も、ここへは来なかった。「歩いてなら、プレビヒアまで行ける」という。雨期のスコールの中、ジー・オウ村まで軍用トラックで行く。二十メートルと間隔を空けず大きな水溜まりが続く。地雷の爆発でできた穴だ。この水溜まりの底に再び対戦車用地雷を仕掛けるのが、クメール・ルージュの手口。万一の場合にも命だけは取りとめられるよう、二メートル位の木の棒に、五十センチ程の鉄製の針を継いだ道具を、泥水に突っ込んで探るそうだ。今朝もそうした地雷撤去作業を行ったという。踏むまでもなく、地雷探知機に反応して爆発する六五二−A型」も混じるので、ハイテク機器は使わない。トラックはロー・ギアーのまま、県境を示すコンクリートの標識を過ぎた。プレビヒアだ。
最前線のキャンプはジー・オウ村のプレイ・ト・テン寺にあった。三体の仏像を背に、重機関銃がジャングルを睨む。薬きょうが散らばる柱の脇に今夜のおかず・・・ジャングルで採ってきた香味野菜とバナナの髄、そしてハエが群がる魚の干物・・・・が置かれている。最前線への補給には限界がある。この日、上空を飛んだ国連ヘリが銃撃を受け、操縦士が負傷、機体は中破。コンポントムへ不時着している。これで攻撃されたのは五機目である。
ここから先は、いよいよ徒歩になる。処理しきれない地雷が、高密度で埋まっているので四輪車では避けきれない。敵に勘づかれて砲撃が始まらないよう音をたてず、地雷をふまぬよう兵士の足跡を正確にトレースする。吹き飛ばされた車の残骸がそこかしこに転がる。両側の農家には、人っ子一人いない。焦げた柱だけが残る民家、庭には放談が炸裂して出来たクレーターが口を開く。二十分も歩いただろうか、無事たどりついた先に見たものはホーチミン・ルートならぬ“コンポンチャム・ルート”。車一台がやっと通れるジャングル・ロードは、国道十二号線とほぼ直角に交差し、森の奥へと続いている。クメール・ルージュがプノンペンの東、コンポンチャムからも迫ろうと兵員や弾薬を運び込んだ戦略道路だという。
「七月二日、ジー・オウに二十一発の無反動弾が撃ち込まれてたが、その後は静かだ」と中佐から聞いたのも束の間、その夜(七日)十時ごろ、三発の着弾音がコンポントム市内の宿まで響いた。翌朝、村人に聞きながら着弾地点を絞ってゆくと、どうやら国連平和維持軍のインドネシア部隊の地雷処理教習所を狙ったもので、一キロほど手前の田に落ちていた。また、市内から八キロ、サラス・トラヨン村を抜ける国道十二号線では、バイクが地雷に吹き飛ばされ民間人二人が死んでいた。前線の帰り道、昨夕通った所だ。その地点から前線寄りに住む農民も少なくない。クメール・ルージュはコンオントム市近郊まで潜入してきた。
政府軍は直ちに撤去作業を始めた。兵士たちは地表の変化を目敏く見極め、地雷の埋まる地点に、目印のため小枝を突き立てた。一回に探索する五十メートルほどの区間に、対戦車用が二個、対人用が七個見つかった。
「パンーパパンー」。若い兵士二人が、五十メートル位離れた所から、小枝めがけてAK47小銃を撃つ。五発、六発。兵士の後でカメラを構えていたが、まだ爆発しない。その時、一人が路肩の木立に登った。地中に弾が入るよう、角度を付けるのだ。「ドッカアーン」。樹上からの一発目が、見事命中。対戦車用地雷はカメラのファインダーを遙かにはみ出す土柱を上げた。数秒後には土や石が降ってきた。道路には大人三人がすっぽり入れる大穴があいた。
国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が偶然、記者と同じ日程で派遣した停戦調査隊は、そんな処理作業を最後尾で見守るばかり。夕食で再会した同隊の仏軍ペルーノ少佐は、間隙を縫って最前線を見てきた記者に質問を浴びせかけた。
八日午後、プノンペンの王宮で開かれていたカンボジア最高国民評議会(SNC)では、ポル・ポト派キュー・サンパン議長が「ベトナム兵残留を認め、プノンペン政府を解体せよ」と繰り返し、武装・動員解除の即時実施などを要求する「明石提案」を撥ねつけた。SNCは事実上決裂、国連安保理の非難決議を待つことになった。四派二十万人兵士が宿営舎に入る期日(七月十一日)も延期された。プノンペン政府軍第五師団前線本部の手前一キロ、一段高くなっている国道から落っこちそうな状態で、二両の戦車が停めてあった。泥沼と化す雨期のカンボジアでも動けるようにと、水陸両用「PT七六」である。「武装解除というけど、こいつがなくなったら、クメール・ルージュは大攻勢をかけてくる」と、操縦士ソイ・シップ軍曹(36)は不安を隠さない。斜面に停めてあったのは、緊急出動時にエンジンを“走りがけ”するためだ。軍曹がエンジンをかけてくれた。「ダッダッダッダッ……」。ジャングルの静寂を破り、排気管に溜まっていた雨水を吹き上げる。「この音を聞かせてやるだけで、クメール・ルージュは逃げて行くんだ。今は威嚇のためにだけだよ」と、カバーのかかった砲身を指差した。
「UNTAC、それ何だ?」と、戦車の轟音に道へ出てきた農夫(46)。彼は八人の子供と奥さんを連れて、まず二年前、ベトナム撤兵で巻き返すポル・ポト派から逃れて故郷モレック村(北八キロ)を脱出、さらに今年四月、停戦に乗じて侵攻してきたクメール・ルージュに避難先のジー・オウ村(北五キロ)も追われ、ここタライ村に着いた。途中、長男は地雷を踏んで片足を失い、本人も空中に飛び上がって爆発する(P六九型)に遇って、体中に破片が残っている。それでも彼は雨期の始め、モレック村にある三ヘクタールの自分の田へ田植えに帰ってきたという。和平調印以降コンポントム県だけでも、三千三百二十七家族、二万二百二十三人の避難民が出ている。停戦を逆手に取って侵攻し続けるポル・ポト派の支配地域は、調印前は全国土の十二%だったのが、国連が入った現在は逆に二十%に増えている。
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 日本政府調査団は何を見たか
写真:調査団が泊まった最高級ホテル

 「陸運を担当するカナダは、既に延べ十四万キロ走ったけれど、一回も武器を使うことがなかったそうです」と、有馬竜夫PKO調査団長は七月四日、プノンペンのホテルで記者発表した。
だが、彼らが走り回ったのは、プノンペン政府軍が命懸けで守っている領土内であることには触れなかった。
 仏軍空輸隊を訪ね、ヘリは高く飛べば大丈夫とか、最初二か月は自給自足なので多めに物資を持参した方が良いとか、助言されたという。あとは東京会議にも出席したSNCの幹部たちを“表敬訪問”しただけで、市民の声は聞かず仕舞い。「団員全員カンボジアは初めてなのですが、やはり現地で現場の人から聞くのは、書類で読んでいるのとは大違いです。プノンペン周辺は大体分かりました。明日からは、地方の現場を見い」と、三日目の夕方にして、早くも満足気だ。
  「停戦監視の好例」という理由で翌五日、国連ヘリで視察に行ったのは、平穏なベトナム国境にある「CV6」ポイント。記者団からは「ポル・ポト派が協定破りしているコンポントムや、難民が帰還しているバッタンバンなどへ何故行かない」と質問が出た。「これ以上、UNTACにヘリを出してくれと頼むのも何ですし」と、答ははぐらかされた。
 ちなみにこのホテル「ホテル・カンボジアーナ」は、カンボジアの最高級ホテル。シンガポール資本が経営し、建材や調度品も全て輸入品、最もカンボジアらしくないホテルでもある。従業員の月給は三千円程度なのに、安い部屋でも一泊二万円。記者会見した 部屋は、電力不足どこ吹く風と、四台のクーラーが唸り、肌寒い位だった。
 バッタンバンから戻った国連職員(46)に再会した。国連で仕事を続けるため名前は勘弁してといいながら、「日本の調査団は『ロジスティックス(兵站術)』という意味を全然わかっていない。水や食糧の調達法はもちろん、何をどの程度するのか、どんな人員と機材が要るのか、あんな調査でわかるはずがない。十二月に自衛隊をよこすなら、今すぐ準備を始めなければ間に合わない。二、三人でも残ったのか?」と、辛い採点だ。「カンボジアに明るい国連のカウンターパートは見つけたのかい?防衛庁が現地情報を商社に聞いていてどうするんだ。やめとけ!恥かいて、税金を無駄使いするだけだから」。国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)に参加した後、カンボジアへ。難民の帰還準備で一年以上、現地調査してきた彼は、日本政府と自衛隊の失態を予言した。


写真:平穏なプノンペンで銃を構え本部を警備するUNTAC兵

 UNTACにも頭に来ていると彼は続ける。「(プノンペン)政府軍が命賭けで安全確保している地域を、我が物顔で車を乗り回し、その車も援助でタダだからと、荒っぽい運転をして、すぐ壊してしまう。前線には行かないくせに、プノンペンの市場へ、国連兵が弾倉を着けた自動小銃を担いで買物に来たのを見たよ。みんな何事かと、びくびくしていたよ。その上、警備は午後七時で止め、毎夜、酒と女だ。お蔭でバッタンバンでは、NGOが四件のピストル強盗に遭っている。UNTACがでしゃばって、プノンペン政府の警察官がやる気をなくしたのも災いしている。カンボジア人は何も言わないけど、彼らの心のうちが分かっているのか!そして自衛隊はそんな奴らを『後方支援』しに来ることになるのだ」。彼は、カンボジアPKOがナミビアに比べ格段に劣っている理由に、潤沢すぎる資金と、体を張らない国連を挙げた。
 カンボジアで自動車修理を教えて六年目のNGOスタッフで、現地日本人会会長でもある馬清さん(45)も、歯に衣を着せない。「手前の都合で『後方支援』なんて言っているけど、カンボジア人が本当に望んでいのは地雷撤去、クメール・ルージュの駆逐ですよ。武力を持つならともかく、怖くもないUNTACの言うことなんかポル・ポト派が聞くわけないでしょ。カンボジア人の自立のために、地雷撤去の方法を彼らに教えて』なんて綺麗ごと言っているけど、国連軍は怖がってるだけ。それに、シャドー・キャビネットだか知らないけど、カンボジアまで来ておいて『自衛隊に来て欲しですか』なんて質問する。そんなの、カンボジア人は、何でもいいから助けて欲しいに決まってるじゃないですか。国会の原稿作りに来ているんじゃないっていうの」。
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 国連景気

 プノンペン政府の昨年度予算は、歳入が七百十七億四千百万リエル(約七十七億円)。歳出は千七十一億三千四百万リエルだった。実際の歳入は、総額の十三%を占める国際援助で七百九十億リエル程になった。GNPは二億八千八百万ドル、人口八百十万人として一人当たりGNPは三十六ドル足らず。世界最貧国と言われるラオス、ビルマでも百五十ドルを超している。
 軍を除いた公務員の数は十四万人。物価高騰に遅ればせながらスライドして、昨年の倍以上になったという月給ですら、中央政府職員で三万九千リエル(約四千円)、国営工場の工員で一万五千リエルほどだ。
 カンボジアの村々では水、食糧、農地が十分ではない。「ぎりぎりの生活をしていた村に、豊かなキャンプ生活に慣れた難民が帰ってきて、井戸を枯らせてしまったり、池の魚を採り尽くしてしまって、いさかいが起きている所もありますよ」と、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)職員(46)。それなのに、UNTACは助けるどころか、兵隊用の水が足らないと、国連国際児童緊急資金(UNICEF)の井戸掘り機を持っていってしまったと、帰還難民の世話をしている彼は激怒している。「これまでに帰せた難民は、まだ五万人ほど。到底、予定の今年末までには終わらない。この調子だと早くて来年六月までかかりますね」。

写真:井戸堀りの援助団体が掘り当てた水脈に大喜びする子供たち

 もとより厳しい自然。二十年以上の内戦で荒れ果てた土地。相変わらず農民は旱魃と洪水の繰り返しに悩まされている。UNTACからの復興援助金、五億九千五百万ドルの配分は次の通りだ。難民帰還ルートに当たる国道五、六号線の道路補修に五十七%、鉄道に二十四%、電気などエネルギーに五%、水道に3.7%………。帰ってくる三十七万五千という人数は、全人口の僅か四.四%に過ぎない。国民の八十二%を占める農民は、車も電化製品も持っていない。そして、帰国した難民の大半も農業に就く。人々の死活問題を左右する農業水利には僅か一.一%しか割いていない。
 一方、国連が管理する難民センタ−で給食調理員の職を得たリ・ヴァナさん(45)は笑いが止まらない。それもそのはず、「月給九十五ドル」だそうだ。公務員の優に三倍である。この仕事にありつけたのは「赤十字で働く甥にね……。
 でも、ここがなくなったら、また田んばをするしかないんだよ」。こうした国連景気がいつまで続くかわからない。が、確かに一部の人は潤っている。コネや金、才がある人と、どれもない人との格差は、一気に拡大してゆく。「全くのゴースト・タウンで、子供を連れて住むのが怖かったものですよ」。ポル・ポト時代ベトナム国境へ疎開していたイ・キム・サンさん(58)は八十年二月、十人の子供を連れて、プノンペンの廃墟を我が家とした。しかし、彼女と会ったのは、プノンペンのバサック川の岸に現れたスラム街。彼女は今春、失業中の息子(18)と、警察官と結婚したが新居のない娘(25)一家と一緒に、ここへ引っ越してきた。子供が成長し、もう一室必要になったが、昨年の五倍、五千ドル以上に跳ね上がっていた部屋には手が出なかったという。二百ドルで買ったというバラックには、水道も電気もトイレもない。汚水の水溜まりが、あちこちにあり、蚊の襲来は想像に難くない。
 日本調査団が泊まったホテルは、このスラムから二百メートルほど遡った同じバサック川右岸に建っている。だが、ちょうどホテルの窓からスラムを隠すように、建設現場の防護壁が連なっていた。
 タイ人実業家スチラート氏(45)は、プノンペンの目抜き通りに「百万ドル以上した」ビルを買い大改装。今年六月九日「パシフィック・チャイ」というレストランを開いた。
 九月には会場のホテルもオープンさせる。「どの派が政権を執っても、ここの経済は今より悪くなるこたないさ」。百%タイ資本。合弁ではない。バンコクから連れてきたコックが、カンボジア人にフランス料理を教えている。シャンデリアの下、蝶ネクタイの給仕がきびきび動く。ハエの飛び回る街の食堂で六百リエルの焼きそばが、ここでは二千リエルもする。それでも満席。客の八十五%がUNTACだそうだ。
 「『以前の契約は保証の限りではない』と国連が言っているのは、ポル・ポト派がタイと結んだルビーやチーク材の契約のことだろ。けど、とりあえずこのビルだけで、SNCの様子を見るつもりだ」と、したたかな中国系タイ人は目算している。
国道三号線沿いの土地も、すでに都心から二十五キロを華僑が買い占めたそうだ。六月末、カンボジアに進出した外国企業は百社を超えた。日本からは昨年末、沿岸油田の採掘権を得た日商岩井や、ジャパン・ホテル・クーポン、協和貿易、丸紅、ニチメン、岡田木材などが名を連ねている。
 投資法も、外為法も閉鎖経済時代から整備されていない。こんな調子ではシハヌーク時代末期に逆戻りしないかと、友人の外務省職員(39)に聞いた。「しかし、経済開放しないと、この政府は腐敗を極めて自滅してしまう。国民同様に、政府も配給を横流ししないとやっていけないほど貧しいんだ」。そう答える彼は、珍しく眉間に皺を寄せていた。
 一方、外資系企業を退職後、NGOスタッフとしてプノンペンに駐在する名倉睦生さん(61)は「市場経済では、本当に必要としている所へ物が行かない。まだ、この国は管理経済の方が良いと思う」と危惧する。以前、教科書を小学校に贈ったら、教育省から県、県から郡、郡から学校という三段階で少しずつ着服され、市場に出回ったという。
 プノンペンから国道五号線を郊外へ十一キロ。田圃の真ん中を左へ折れると何と幅十メートルはある大通りが出現する。原色の豆電球で縁取られたベトナム娼館が軒を連ね、この国ではまず見かけない超ミニの娘が客の車に群れる。
 チェイさん(20)に話しかけてみた。「カンボジアは嫌い。だって、カンボジア人はベトナム人を嫌うから」とハッキリいう。ベトナム経済も左前だが、カンボジアの三倍は稼げる。彼女たちの目当ては、ベトナムにはいない三十九か国、一万七千人の“ガイジン客”。この店の十七歳から二十一歳の八人も、全てベトナム人。この街で、ドアに「UN」と大書された日本政府供出のカローラに出くわした。フラッシュを光らせると、血相を変えたUNTAC兵が追っかけてきた。
 「来てやってるんだぞ」と花代を踏み倒した挙げ句、障害事件まで起こした某国兵士に七月初め、明石康国代表は「国連の名を汚すことなく、慎むよう」と戒告している。だが帰り道、もう一か所の娼館街「ツール・コック通り」にも立ち寄った記者が目撃したUN公用車は、この夜合計六台にのぼった。
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 和平の行方

 ソン・サン派(仏教民主党)のプノンペン事務所では、同派代表としてパリ調印の草案作成に携わった予定候補(61)が出てきた。内外に五万人の党員を擁する同派では、百二十議席に対して百二十人の候補を立てるという。「まだ言論の自由がない」と、匿名でと頼まれた。「5月22日プノンペンで党大会を開いたのですが、フン・センに妨害され、四十六人が逮捕されました」。出席者八千人は国内の支持者で、公務員と学生、サイト2(同派のキャンプ)、解放区からの参加は禁止された。調印以降十三人の党員が、何者かに暗殺されているという。だが、UNTACの指導で「弾圧」が徐々に薄れていることは認めた。
 「フン・センこそ本気でポル・ポトを説得する気があるのか!」と、元はポル・ポト派と同じ共産勢力だったフン・セン派を疑っている。取材中「プノンペン政府」と口を滑らせると、彼は嫌悪感をむきだしにした。当然、彼はそれを、政府とは見ていない。
 ポル・ポト派が頑なに主張するベトナム兵の残留については「ベトナム兵はいます。ゲリラだから、捕まらないだけ。日本だって、もし北朝鮮人がビザの発給も受けずに雪崩込んできたら、どうしますか?合法的に入国してくるのは結構だ。しかし、ズルズル入ってきて、居つかれては困るよ」。根拠として彼は、このごろ夜になると王宮前広場などに、ベトナム兵が集まってくると主張する。記者には妄想としか思えない。
 そして、UNTACが十月末を期限に進める国防、財政、治安、情報、外務の主要五行政分野の管理。監督の移管にも、不満気だ。「各省庁の官吏も、支持率に見合った人数を各派から、というのが我が党の要求だ。但し、フン・センの官吏を辞めさせても、失業対策もないから、要員を増やすことで良いのだが」。
 次に、ラナリット派(ファンシンペック党)のウン・フート政策顧問(45)の話を聞いてみた。「UNTACがやるならナッシング・オア・オールだ」。国連がプノンペン政府に事務や作業を委託していることに、苛立ちを隠さない。SNCがカンボジアの最高機関であることを強調した後、立法と行政をはっきり分立させるなら、フン・セン派が行政を続けても仕方ないという言い方をする。だが「SNCや、選挙で選ばれた政府が議決した内容に、UNTACがとやかく言う権利はない」という彼の言葉は、この党を応援していたタイ人実業家を思い出させた。
 同派のプノンペン事務所では庭に机を持ち出し、党員登録を受け付けている。この日も約二十メートルの行列が出来ていた。多い日は三百人がやって来るという。新規党員は七月中に三万人に達し、タイ国境や外国の党員を合わせると二十万人を超すそうだ。
 「カンボジア人は二十二年のうちに三つの政権を経験し、いろいろ学んだと思う。我々は欧米で勉強した人材を多く起用して、真の民主主義を実現させます。それには国民の教育が必要なことも、まだ国民の欲求が『お腹一杯食べたい』というその前の段階であることも理解していますから、ステップ・バイ・ステップです。UNTACには総選挙の管理を通じて『権利』や『自由』の基本的概念を国民に教えて欲しい」。ウン・フート氏は、大きなジェスチャーを交え、いかにもフランス人風の尻上がりの英語で雄弁に語った。どちらの党も第一党になろうと、ベトナム兵残留の疑いでフン・セン政権を非難するチャンスを窺い、また選挙戦でプノンペン政府に少しでも有利に働く行政もSNCやUNTACに移管することを望んでいた。しかしながら、「傀儡」、「腐敗」と評されても、プノンペン政府には三派の誰よりも長い十三年間の統治実績がある。

写真:内外記者団に取り囲まれるキュー・カンヤリ代表

 プノンペン政府キュー・カンヤリSNC代表(41)に聞いた。「SNCでは、次官級会議を週三回開いています。お互い和平に向けて協調していますが、ポト派だけは『忙しい』なんて言って、よく欠席してますね。彼らもバカじゃありませんから、我々を揺さぶり、間にひびを入れ、時間切れを狙っているとしか思えません」。
 攻撃を再開したクメール・ルージュの対策を聞いてみた。「まずベトナム兵が残っていると言い張って攻撃を止めないなら『パリ調印以前に戻ろうじゃないか』と言いたい。連中が国連ヘリを撃ったのは、ヘリが和平を説明するビラを撒くからです。そんな聞く耳を持たない彼らを説得する妙案はないですが、ポト派の解放区へも援助して、農民たちが、クメール・ルージュを支援しないように仕向けることですね」。
  ポル・ポト派の未来は?「幹部たちはたとえ中国に亡命しても、各国からの糾弾は免れないでしょう。中国が匿えば、中国自身が制裁を受けるでしょうし。もし選挙で議席を確保したなら拒めませんが、そんなこと初めからあり得ません」と、本音は「ポト派抜き」であることをのぞかせた。
 三派は国際援助を政府の財政に使うな、政府の権力を剥奪せよと言ってますが……。「エネルギー、医療、教育、交通など公共性の高い行政に、どうして使っていけないでしょう。政策的なことには使っていない。それに五省、それもトップ以外にはUNTACはいないのに、国土の九割を治めている当政府がするしかないでしょう」。
 「まだ、どの党に入れるかは決めていません。この生活を楽にしてくれる党に投票しようと思っています。ですが、ポル・ポト派だけには絶対に入れません」。今回取材で会う人、会う人に尋ねてみたが、判でついたように、こうした答えが返ってきた。プノンペン政府の調査に拠ると、ポル・ポト時代三百三十一万四千七百六十八人が殺され、十四万千四百四十八人が身障者になり、約二十万人が孤児となった。そんな虐殺政治が終わって、まだ十三年しか経っていない。
 今川幸雄カンボジア大使は次のように記者団に明かしている。「昨夜遅く『会ってほしい』と電話があって、今朝(七月四日)キュー・サンパンと会いました。彼は『二度と政権は取ろうと思っていません。日本共産党のように、一野党として存続できれば』なんて言っていましたよ。国際人権裁判にかけようとしている欧米との間に、日本が入って欲しそうでした」。追い詰められたポル・ポト派は、何とかして生き残る手立てを探している様子だ。
 「選挙に向けて有権者の希望は 1平和、 2お金、 3仕事、ですよ」。プノンペン政府のある高官は、選挙結果を次のように予想した。ポル・ポト派は支配地域を広げ、アメに相当するトラクターと、ムチにあたる銃で言いなりになる農民を増やし、五%、東欧民主化と、欧米の豊かさに影響された社会風潮からサン・サン派は、十五〜二十%、ラナリット派は十五%まで。フン・セン派は、プノンペン政府の士気低下と腐敗、そして、ポル・ポト派との防衛戦で政府軍が結果的にいつまでも戦っていることから国民感情を害し、和平調印時より十ポイント減の、二十五〜三十%。
 コンポントム市内の食堂。難航する四派停戦会議を見守るUNTACインドネシア将校アリフさん(35)が、放心したように椅子にもたれかかっていた。彼は飲み残したコーラのグラスを手に、炎天下、店の前にうずくまる老女とポリオの少年の前にしゃがみこんだ。外国人を恐れたのか、二人はなかなか口を付けない。「ドリンク・アップ!」。ジェスチャーする彼に、男の子は氷だけを大事そうに塩ビの銭受けに取り出し、グラスを自分が飲む前にお祖母さんに差し出した。テーブルに戻ったアリフさんに声をかけた。「この国は大好きさ。祖国と同じくらいにネ。優しく、親切な国民性が……。日本もインドネシアも、この国にチャンスと時間を与える義務があると思うよ」。
(文・写真/阿佐部伸一)

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