UNTAC撤退直前のカンボジア 1993年8月取材
 ポト派の活発な攻勢はなぜ?UNTAC撤退後、内戦はさらに続くのか?二人首相制の暫定政権の安定度は? ── 現地を踏みインタビューを重ねて深層に迫る。

写真:新政府の”顔”でもあるアンコールワット


 アンコール奪取作戦

 「先月七日にプレビヒア寺を占拠したのを皮切りに、クメールルージュはアンコール遺跡を勢力下に置いて、新政府の“経済のノド”を掻き切きろうと、大規模な作戦に出てきた。自分たちの支配区と引換えに、政府内に永久顧問の座を獲得しようと、その交換条件の重みを増そうとしているわけだよ」。カンボジア人の親友は挨拶もそこそこに、国防省筋からという情報を一気に喋った。七月十日外国通信社の「ポト派が北部へ移動開始」という報道とも繋がる。
 八月七日、国道五号線をバッタンバン、シソポン経由で、きな臭いシェムレアップへ向う。聖地アンコールワットは、カンボジアにとって貴重な観光資源でもある。だが、眼前に広がる境内には、欧米のバックパッカーやタイ人観光客がちらほら。英語の案内口上を丸暗記した少年ガイドや、物乞いの身障者たちの方が多い。今年四月までは毎日十組以上の団体が訪れていたが、今月は一週間でやっと三組だと観光局職員が嘆く。観光客の激減は雨期のせいだけではない。五月初頭にはクメールルージュがシェムレアップ市内まで攻め入り、三十人以上が死傷する市街戦があった。日本とアメリカが旅行者にアンコール観光を自粛させていることが大打撃を与えている。
 スコールが激しく打ちつけるシェムレアップの旧政府軍本部でロン・ソピアップ少将(41)に報告を受けた。「聖地、トンレサップ湖の港、空港、観光資源と揃っているこの州を、連中は首都にしたいのだ」と彼は推る。ポト派の作戦は、八月一日から十日までが第一段階で、アンコールトムから北北西二十八キロのゴックドウ地区に912連隊を、東北東三十八キロのクーレン地区に980連隊を、そして北北東五十五キロのスランノイ地区に本部機能がある606連隊を集結。第二段階は二十日までにトム、バンティスレイ、シェムレアップ市を攻撃し、第三段階は八月末日までで、主な寺院とシェムレアップ市を奪取する計画だという。総指揮を取っているのは精鋭606連隊を率いるタ・モック将軍。北端はプレビヒアまで達する細長いクーレン山の南部に陣取り、980、912連隊のほか、破壊工作を任務とするタ・ホーン司令官の785連隊を動かしている。
 八月三日、ポト派に四発のH−12型ロケット砲をシェムレアップ空港へ打ち込まれた新政府は翌五日、新統一政府軍による初めての対ポト派反撃を決定した。
 旧シハヌーク軍は四個師団一連隊、計一万九千五人、旧ソンサン軍は五個師団、計二万一千人とそれぞれ自己申告している。しかし、同少将は「二派の軍隊は、銃が五十丁しかない小隊に、少将以上ばかりが百二十七人もいたりして、およそ実戦に耐えられるものではない」と、軍統一の難点を指摘する。八月初頭、破産状態の新政府に代わって国連が兵士に月給を払ったが、新三派平等に少将以上は八万リエル(約二十五ドル)で、以下はその半額だったため、旧政府軍は肩書ばかりの二派に不満の声を上げている。
 シェムレアップで八月五日持たれた前線会議では統一の手始めに、新三派とも一桁の番号で呼んでいた師団を、派の名を付けずに区別可能なように、旧政府軍を一桁のまま、二派を二桁とした。また、司令官の交換派遣を決めたが、二派は以前のタイ国境沿いから軍を動かしていない。これで新政府軍はポト派を挟み撃ちに出来そうなものだが、同少将は「昨日までの友達を、今日から敵に回して戦えるかどうか……。それに彼らはゲリラ。作戦を伝えるにも、地図さえ読めない」と、あまり二派を当てにしていない様子だ。
 翌九日早朝、ロケット砲や機関銃で完全武装した小隊が乗る軍用トラックの先導で前線へ向かう。ソ・ピープ小隊長は記者の四輪駆動車に同乗、戦況を説明した。「パイリンとコンポントムからポト派は三千人以上の援軍がよこしてているが、正規兵は千人以下。残りはポーターで戦闘時だけ銃を持たされる農民だ」と、自軍の方が優勢だという。政府軍側はシェムレアップ県内の三地区で計三千三百人、いま向かっているゴックドウ地区では第四守備隊286連隊の三百人を主力に、今朝六時から反撃開始の予定だったが、午前四時半に国道六号線へ出ようとするポト派785連隊と衝突し、戦闘開始は繰り上がった。

  赤い砂埃を巻き上げ前を走っていたトラックが突然止った。「ここからは歩いて下さい」。双方に各一人の死者が出た本未明の戦闘現場である。「我々への補給や援軍を絶つため、この道を東から西へ横切って六号線のシソポン寄りに出ようとしたんです」と同小隊長はポト派の行動を説明した。六号線コンポントム方面は、プノンペンからの近道だが、既にポト派が何か所かを勢力下に置き、記者も今回通行を許されなかった。軍用トラックの轍をなぞって歩くのは、地雷を踏む確率を下げるため。ポト派が幹道を横切ろうと、その前後に地雷を埋めているからだ。兵士が顎で杓った畦には、ゲリラ兵が万歳したまま横たわり、鋭い目は瞬きもせず炎天を仰いでいた。下半身がパンツだけだったのは、ズボンは無傷だったので、市場で売るために脱がしたという。政府軍兵士の困窮や、衣料品の貴重さは分かるが、敵の戦死者の服を売り飛ばすのには、いささかショックを受けた。
 政府軍286連隊の前線本部はコウチャン村のチャチュ寺に置かれていた。「今朝あんたを歓迎してくれたのはこいつさ」と、先着していたトラックの兵士が掘り出したばかりの対戦車地雷を並べて見せた。交換が決まった旧シハヌーク軍司令官はまだ到着しておらず、旧政府軍一色だ。
 境内では地方軍が出発準備を進めていた。大型トラック二台に武器や弾薬、米、自転車、ラジカセなどを積み込んでいる。少し離れた僧坊の陰で泣いている女性がいた。ボパナさん(32)。農夫だった夫は三年前から兵士に。昨日三か月振りに夫の部隊が帰ってきたが、補給だけで帰宅する間もなく、今また彼女と五人の子を残して百キロ離れた戦場へ出かけてゆくのだという。
 昨日バッタンバンで再会した政策担当セッタ・ロス大佐(41)は、こんな話をしていた。「選挙後ポト派がプノンペン事務所を再開したのは、“平和の使者”を送り込んだように見せる心理作戦です。中央を安心させて、前線がちょっとでも隙を見せるのを、待っています」。彼が担当するバッタンバン県では、パリ和平調印から今年八月までに、ポト派の攻撃を受けた村は延べ四百を越え、うち二十村は常時攻撃に晒されている。累計死者数は政府側六十人、ポト派側二百七十八人。停戦協定は破られるどころか、合意されなかったも同然だ。
 「ポト派から押収した武器は、六割近くが中国製と米国製の新品です。昨年十一月末国連安保理が採択した経済制裁は全く効いていません」と、ロス大佐は訴えた。ポト派がプレビヒア寺をタイ側から攻撃するのを黙認したように、タイの国境警備隊はそもそもポト派との経済関係を営むために置かれているようなもの。その警備隊の庇護のもと、タイ商人は国境を自由に出入りし、宝石と材木を買って、武器や生活物資を売っている、と彼は酷しく非難した。「ポト派はタイの銀行に持っている三十億ドルの預金で武器弾薬を買えるが、こちらは日本からの八億八千万ドルの援助も国土復興に当て、国防費には使えないのです」。ロス大佐は和平達成のためには、タイのポト派支持を止めさせるしかないという。
 一方タイはプラソン外相が四月、プノンペンのフン・セン首相を訪ね、選挙後もポト派を含む旧三派との契約を反故にしないことを確認させている。タイのタマサート大学政治学部ナカリン・メクライラット助教授=近代政治史は、「ポト派と縁を切らないのは、タイ自身の防衛と安定のためです」と説く。タイにとってポト派は、ミャンマーのカレンや、ラオスのライビンと同列で、隣国の政変とは関係なく国境沿いに住むマイノリティーとして捉え、反政府ゲリラという認識は殆どない。「タイ外務省は、欧米や国連との関係があるので、襟を正したことを言います。しかし、そうしたマイノリティーと直接利害関係にある内務省、国防省、公安局、地方の政治家と商工会議所を、外務省は全くコントロールできずに、『新政府擁立』と『ポト派温存』という相反する二枚カードを差し出すのです」。
 ロス大佐の話はさらに続いた。この国で展開された国連PKOについて彼は、「平和を乱す者に対して無力なUNTACに、国民は失望しました。我が軍の動きを制限するばかりで、ポト派をつけあがらせて、村々は戦場と化してしまいました。停戦監視も報告が遅すぎます。いつも家が焼け落ち、農民が殺されてからでした。更迭されたロリドン軍事部門代表が言ったようにUNTACがポト派に対して毅然とした態度に出ていれば、もっと早く平和が来たでしょう」と、戦闘回避が至上と信じていても、今も続く戦禍を前にした彼の言葉は重たかった。
 「覚えてますか、あの装甲車を。この前、一緒に前線に行った時の」。別れ際、ロス大佐は思い出したように付け足した。「三月二十七日にタイ国境まで十キロの所で、四段重ねの対戦車地雷を踏んでしまいましたよ」。彼は言外で、きれいごとを言う記者に注意を促してくれたように思えた。
 国連PKOに対する批判は、ここシェムレアップのロン・ソピアップ少将からも聞かされた。「今回の作戦?そりゃUNTACも知っているよ。我々が防戦しなければ、彼らはプノンペンにだって居れないからね」。
 彼はロンノル時代にジャングルでベトコンの教育を受け、七〇年から兵士として闘ってきた。ポト時代の七三年、タ・モックのインテリ殺しに我慢ならず、歩兵大隊ごとベトナムへ逃げ、七八年末にはポト派を駆逐しながらカンボジアへ凱旋した。ここシェムレアッ
プには八五年からだ。「色々な国から来ているのだから仕方ない面もあるだろうが、てんでバラバラで、我々への命令もちぐはぐで困りましたよ」。そうした体験から、自分が明石代表ならUNTACの兵士や事務員全員に・パリ和平協定を把握させ、・カンボジアの歴史と現状を勉強させ、・国連の地位を自覚させた、と苦言を呈した。
 シェムレアップのUNTACは五月末、ノーコーピースとクンカナンの両村を守っていた政府軍を、コウチャンとトレンヨーの投票所警備に駆り出した。ドムアン地区のジャングルに潜んでいたポト派912連隊は、その間手薄になっていた同二村を占拠し、今回のシェムレアップ攻略作戦の橋頭堡にしようとしていたのである。
 今朝六時から政府軍が両村の奪還作戦に出たのに対抗し、ポト派はドムアン地区からさらに二百人を送り込んで八百人規模に増強しようとしている。これからポト派の援軍を阻止するため、ノーコーピースの村はずれへ砲撃するという。
 「ドン!!!」。鼓膜が破れたかと思う大砲撃音。野砲は旧ソ連と中国が第二次世界大戦時代から生産してきた七十六.二ミリ砲だ。古くて手入れが悪いと、より大きな音がする。ソ連の軍事援助は早くに途絶え、ベトナム軍も引き揚げて四年になる旧政府軍の武器は“骨董品”のようだ。しかし砲手の動きは、普段は昼寝か博打ばかりしているように見えるカンボジア兵からは想像できない程、素早く確実だ。紙切れに書いた経緯度をちらっと見て、大砲を微調整するや否や、長さ八十センチ位の重そうな砲弾を装填。指で耳栓をするのが間に合うか合わないうちに、発射される。二発目は意図的に少し着弾点をずらしている。午前十一時十五分きっかり、十キロ先の二地点へ計四発撃った。その二時間後、まだ交戦中だが、政府軍が二村を奪還したという無線が入った。
 街への帰路、装甲車に先導される多連装ロケット砲、「カチューシャ」とすれ違った。
 兵士の数ではポト派を下回る政府軍が、大火器を前線に送り込んでいるのだ。シェムレアップ市内のレストランで夕食を取っていると、かつて「スターリンのオルガン」と呼ばれた独特の連発音が聞こえてきた。
 新政府の下、三派の軍が統合されたため、UNTACは預かっていた武器を七月下旬から返却し始めた。インドネシアは弾薬と新軍服の供給を、フランスは軍事専門家による教練を既に約束している。
 「シェムレアップに責め寄るつもりなら、やつらの手薄になっている西部の拠点を陥とすことだって出来る」とロン・ソピアップ少将が匂わせていた通り、八月十八日、新政府軍は旧三派の“首都”トマポークへの反撃を始めた。ポト派は十九日、「攻撃は国連や米、仏、豪が指揮し、資金を与えている」と非難の声明を出した。また、二十一日からは、かつて同盟関係にあった旧シハヌーク派軍と旧ソン・サン派軍に自分たちへの攻撃を止めるようラジオで呼び掛けている。それと平行して、ポト派キュー・サンパン議長は、タイを通じて円卓会議の開催を求めているが、新政府はポト派が破壊活動を続ける限り、取り合わないとしている。
 新政府が世界に認められた今、投降しないポト派はアウトローのゲリラ組織でしかない。この構図が崩れぬ限り、内戦へ逆戻りすることもなく、カンボジア紛争は終息に向かうであろう。
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 連立新政府の安定度

 友人の旧政府外交官(40)に、先の総選挙の分析を聞いた。フンシンペックの勝因は、前政権の腐敗を正し、ポト派を取り込んで戦争を止めさせるというスローガンが、貧困に喘ぎ、戦争に疲れた有権者の心を掴んだこと。また、タイで選挙運動のやり方を勉強した運動員が、村々に入り込んで票を纏めたこと。他方、人民党は、現治世者として現実的にならざるを得ず、バラ色のスローガンを打ち出せず、そして、ポト派を実力で駆逐できる自信をみせたことで、人民党が勝てば戦争が続くと思わせたことが敗因になった。
 さらに同外交官は選挙を巡るこんな推理を披露した。カンボジアPKO要員に米国人は少数だが、アメリカの大きな影が動いていた。UNTAC情報部門代表で、CIAと噂される米国人ティム・カーネイ氏は七月末、情報相に就任した旧プノンペン政府副首相キュー・カナリット氏を訪ねている。彼はユネスコも欲しがっていたUNTACラジオ局の譲渡と引換えに、フンシンペックとポト派の政策分析をカナリット大臣に密かに依頼したという。
 米国はプノンペン政府の十四年間にわたる統治実績と、ポト派を押さえられる軍事力を評価し、援助してくれる国ならどこでも歓迎することを表明した前政府(人民党)を勝たせたかった。だが選挙の結果は、フンシンペックが第一党となり、さらには、アメリカ嫌いとされるシハヌーク殿下が、自ら元首となって王制を敷いた。ベトナムの隣国カンボジアで、米国は民主選挙を通じて親米政権を樹立させることで、ベトナム戦争の屈辱を晴らし、越米国交正常化でより有利な立場を得たかったのではないか。だが、米国が期待したインドシナでの民主化ドミノ現象は不発に終わり、米国が圧力をかけるポト派の扱いについても、極めてアジア的な駆け引きがなされている。国連安保理がUNTAC後もカンボジアに別の国連機関を設置することを諮っているのも、人民党を復権させるためのアメリカの時間稼ぎではと、この外交官は勘繰っている。
 ポト派の虐殺政治を忘れないために、政治犯刑務所を当時のまま保存し、一般公開しているトゥールスレン博物館。「ここはいつになったら閉めるのか。もう全カンボジアは統一されたのに」。七月上旬やって来たフンシンペック党の幹部たちは、同館の専属ガイド氏(36)に詰め寄った。フンシンペックは選挙で第一党となったのだから、貧弱な軍しか持たなくても、もはやポト派の後楯は必要ないはずだ。しかし、前線では彼らの一部が新政府軍からポト派に寝返った噂も耳にした。
 新政府は二十八省ある内閣を、仏教民主党などから四省の大臣を選出したほかは、フンシンペック党と人民党で十二省ずつ二分した。ポト派と十二年間も連合していた旧シハヌーク派(現フンシンペック)と旧プノンペン政府との連立に軋みはないのか。
 まず人民党のキュー・カナリット情報大臣に政策を聞いた。憲法の草案作成は───「順調に進んでおり、予定通り八月末には出来上がる。フンシンペックと政治的な食い違いはなく、もしあればそれは技術的な問題だ」。軍の統合は───「安定と平和がなければ、投資家も観光客も来ない。まだ、それぞれの司令官が以前の部隊を率いているが、シェムレアップでは(新)三派の軍が合同で防衛している」。ポト派の扱いは───「名誉顧問でなら考慮するが、国会や政府の一員にするつもりは断じてない。しかし、今回の反撃は彼らを押し戻すだけで、完全に駆逐するものではない。新政府の統治地域を広げてゆけば、彼らを自然消滅させられる」。ポト派受入れに対する米国の圧力は───「我が国に対する援助は、多い順に日、仏、中、豪で、アメリカは大した援助国ではない。また、米国の人権外交というのは、我が国を含め大半のアジアの国々に通用するものではない。
 例えば、囚人の待遇をとやかく言うが、一般市民の方が、もっと酷い生活を強いられている」。ベトナム人問題は───「一刻も早く入国管理法を施行して、地域が受け入れる意向なら、期限付きで彼らがカンボジアで働けるようにしたい」。財政難と聞くが───「税をもれなく徴収し、国財の管理をきちっとする。増税はするつもりはない。私たちの手で復興させたいので、援助よりも投資を歓迎したい」。シハヌーク殿下の不在は───「ノー・コメントだ(意味深な笑みと共に)。向こうに親友がいるんだろう。好きな映画を作ったり、病院に行ったりしている。しかし、北京とはファックスで、平壌とはテレックスで連絡を取り合っているから、別に不都合はない」。
 他方、フンシンペック党の政策ブレーンだったウン・フート氏は、通信大臣になっていた。憲法についてはカナリット情報相と同じく、問題ないという。ただ「民主と人権の擁立を強調する」というあたり、行政や国軍を実質的に握る人民党の巻き返しを警戒しているようだ。ポト派の扱いは───「今頃になって(我々が勝って)、政府に入りたがっている。彼らとて自由で公正と認めざるを得ない選挙に参加しなかったのだから、国会にも政府にも入れるわけにはいかない」と、この間まで連合を組んでいたポト派をきっぱり切り捨てる。だが「シハヌーク殿下の新国軍に、党意を捨てて入るなら、顧問として受け入れる用意がある」と、カナリット大臣同様、彼も柔軟性を示す。しかし、新政府軍への攻撃や、ベトナム人虐殺を止めない限り、話し合いのテーブルに着くつもりはないことを強調した。この問題がいつ解決するかはポト派次第だと、両手を広げる欧米式お手上げポーズを取った。「ベトナム軍の残留」を非難していたが───「私は今も、ベトナム人は大勢いると思う。しかし、ベトナム軍はもういないし、どこにも証拠がない」と、昨年まで「夕方になると王宮前にベトナム兵が集まってくる」と主張していた同一人物とは思えない。
 山積する国土復興の課題については「緊急度は道路、電気、水道の順だが、その前に治安を回復しなければ。強盗や殺人が横行していては落ち着いて仕事もできない。現在、三百人の警官がUNTACの特訓を受けている」。資金は───「ココン島の関税収入の例で言えば、新政府が発足する二か月前までは月五億リエルだったのに対し、先月は一挙に三倍の十五億リエル(六千万円強)になり、公務員の給料も目処がつきそうだ。それに昨年六月に決まった八億八千万ドルの復興援助の早期実施に向け、日本が積極的役割を果たしてくれている」。外国投資の対応は───「すでに投資委員会を設けた。カンボジア五十一%、外国側四十九%にするつもりだが、契約の内容に拠るだろう」と、威厳を保ちながらも、自国資本がないことに歯痒そうである。
 実際、彼の通信省にも電話網整備の契約を取り付けに外国企業が殺到しているが、まだ断っているという。「私は業者との付き合い方を知っています。まず、自国の状況を調査して、我々が作ったマスタープランを持って契約に臨みます」。現在、都内と近県だけ辛うじて通じる電話は、半世紀前にフランスが施設したもの。そういって「ミニ・マスタープラン」とあるレジュメを見せる大臣に、大国に翻弄され続けた歴史に終止符を打とうとする気概を見た。
 二大臣に会ったが、少なくとも公言する範囲では、二党の基本政策にさしたる隔たりはなかった。その後八月二十二日には、フン・セン氏を「侵略者ベトナムの傀儡」と、かつてポト派と口を揃えて罵っていたラナリット首相が、そのフン・セン首相と共にハノイを訪ねた。連立政府は“踏み絵”を踏んで、一枚岩であることを立証したのである。
 だが、国民の命を直接預かっている前線の将校たちとは違い、いずこの政治家たちも具体的にはモノを言わない。世論はどうなのか。カンボジアの十四のNGO(非政府団体)は六月初頭、民意を国会に反映させるため「プンル・クメール(カンボジアのともしび)」という市民連合を結成した。カンボジア和平の成否を決める「ポト派の処遇」について、一万人以上の会員が全国各地でヒアリングした結果、「ポト派を除け者にしておいては、いつまで経っても平和は来ない」といった意見が過半数を占めたという。ポト時代に一人の家族も亡くしていない人に会うのが難しいのが今のカンボジアである。だが、そこまで「平和」を変え難いものとし、国民は渇望しているのである。
 「プンル・クメール」ネン・キム・テン副代表(36)が語った「ポト派受入れ最終案」は、こんな六か条から成っていた。・国会からポト派を疎外しない、・ポト派を含む全ての党は全武器を国防省へ提出する、・UNTACと国防省は各党に武器の隠匿がないことを確認する、・ポト派は新政府内で重要な地位に着かない、・ポト派指導者は国民の前で、この国の将来に向けた理念を明らかにする、・外国援助団体は、政府行政区とポト派支配区を区別せず平等に、かつ直接国民に届くよう援助する。この原稿が掲載される頃には、既に国会に提出され、審議の原案になっていることであろう。「お互い許し合うことです。ポト派指導者を裁判にかけようとすると、また戦争になります。それは、やっと血が止まったかさぶたを剥がすようなもの。いま必要なのは薬ではなくて、時間です」。僧侶でもあるテン副代表は、柔和な笑みを浮かべて、そう話した。
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自衛隊とボランティア


写真:カンボジア人たちと親睦を図ろうと盆踊りを披露する自衛隊

 プノンペンから自衛隊が補修した国道三号線を二時間、タケオに着いた。初めてカンボジアに来た六年前から、三号線は比較的状態が良くて飛ばせただけに、自衛隊員には悪いが、あまり有難みが感じられない。
 石下義夫大隊長は「全員無事帰さなければと何時も思っていましたから、“敵性分子(と彼は呼んだ)の動向で緊張が高まった時には、規則内でどう対応するか悩みました」という。もう一つ困ったことは、マスコミが危険を誇張して報道し、日本の家族たちが余計に心配したことだそうだ。どちらも幸い杞憂に終わろうとしている。
 「道路と橋に関しては、『やることをやったな』という感じです。が、カンボジアに何を残せたかと考えると、他国の軍が文民活動として、カンボジア人に農業や医療の技術を教えたように、我が施設大隊としては、道路補修のノウハウを伝授したかったと思います。
 日本政府から禁止された訳ではないが、時間がなく、前もってそういうアイデアを持ってこなければ、なかなか出来ない事だということもわかりました」。大隊長は四月の着任時よりはカンボジアが好きになったが、「得体の知れない恐怖がある所」で、休暇でも再訪は「あまり積極的には思わない」という。
 駐屯地では九月十五日からの撤収に向け、一年足らずの間に四、五万キロずつ走った三百台の車から、カンボジアの泥を落とす作業が始まっていた。北海道出身の準陸尉(44)は、「四月の摂氏五十度には参りましたが、今は寒い位です」。手元の寒暖計は三十二度を指している。トラックのバッテリーを盗まれてカッとなったこともあったが、今は「泥水で飲んでいる村々に井戸を掘ってやりたい」と、初めての国際貢献の現場に思いを残す。炎天下の工事を何キロも追いかけて来たランちゃん(8)たちも、初めは自衛隊の冷たい水が目当てだったようだが、アンチョコ片手に話すうち、土嚢積みや廃材処理を手伝ってくれた、と真っ黒に日焼けした顔で目を細める。「あの子供たちが、五年、十年後どうしているか、もう一度会いに来たいものです」。カンボジアの太陽の下、大粒の汗を流した自衛隊員たちは命令にはなかった貴重なものを得たようだ。
 日本にとってはカンボジアPKOは初めての経験ばかりだったが、ベテランの国連職員(39)は国連PKOに疑問を抱いていた。彼は自ら希望して和平調印前の八九年からカンボジア援助に携わってきた。「開発と同じで、和平もカンボジア人の手に任せなければ、本当の平和は来ません。時間がかかってもです。国連が軍隊を送り込んだり、経済制裁を課しても、意義を成さなかったことは、この国でもポト派問題が全く解決されなかったことで明白です。一歩地方へ出れば、今も『銃が法』で、昔のまま。いがみ合っています。
 国連は人道的な援助とそのモニターだけをして、政治的介入は一切差し控えるべきです」と、世界各地で展開するPKOに率直な疑問をぶつける。
 一方、UNTACの明石康特別代表は、停戦、兵員解体、四派参加の選挙が和平協定通りに遂行できなかったことを認めた上で、「我々は民主主義の種を蒔いただけです。あと水をやって育てるのはカンボジア人の仕事ですよ。英、仏、米だって民主主義が定着するまでに二百年以上かかって、まだ完全なものではないでしょう。国それぞれのプロセスがあり、カンボジアらしい民主主義で良いということです」と、独立自治の尊重とも、責任を限定した逃げとも取れる言い方で、カンボジアPKOの意義を振り返る。ポト派の扱いについては、「カンボジア人が合意の上ならば、例えば上院を作って、その一部を任命制にしてポト派を受け入れれば」と提言した。そこには「ベトナムも十年かかって、ポト派を消し去れなかったように、国連もこのままでは泥沼にはまってしまうのでは」という不安があるようだ。国連PKOにあり方については「例えば今回、オーストラリアが食糧やプレハブ建物、通信機器などのビジネスの面で際立って大きく関与していますが、PKOを神聖視して、それを『けしからん!』と避難するようでは、国際貢献は長続きしません。もっとも私は『国際貢献』なんて、みな思惑があってやっていることですから、『国際的義務』と呼びたいですね」。
 帰国前夜、日本のNGO(非政府援助団体)スタッフたちと鍋を囲んだ。「休暇でプノンペンへ戻ってた日本の警察官が、ちょうどそのテーブルで食べてたの。私たちが日本人と判って、何て声をかけてきたと思う?『あなた達、志願していらしてるんですか?』だって。で、『私たちはカンボジアが好きで、来ています』と答えたけら『ボランティアって、日本ではハミダシ者なんでしょう』。大きなお世話よ」と、大笑いになった。
 国連や政府、企業から来ている人は、昇進かお金のためと醒めた目で観ていたNGOスタッフだが、この警察官には日本人の認識度を見たようで、ショックを受けたという。スタッフの一人が語った。「この国で内戦が続いたのも、安保理のような大国の武器援助があったから。PKOはその罪滅ぼし。兵器援助を一切しなければ、何も援助しなくてもカンボジア人たちだけでやって行けます。この国はそのくらい豊かですから。でも、それには外国の搾取を避けるため鎖国しなくてはならないから、非現実的ですけど……」。地鶏と露地野菜の鍋に舌鼓を打ちつつ『援助談義』は白熱した。
(文・写真/阿佐部伸一)

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