メコンを渡る熱風 ── 森の国ラオス、1994年5月取材
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 タイ・ラオス国境のメコン川に今年四月、「ミタパープ(友好)橋」が開通した。 史上初めて両国を陸続きにした友好という名のこの橋が、インドシナ唯一の内陸国ラオスに与えるインパクトは計り知れない。 “友好橋”を渡って、森の国ラオスにもたらされる変化と、人々の反応を追った。

写真:ラオス・タイ国境をなすメコン川に架かったミタパープ橋

  景気づくタイ

  タイのノンカイとラオスのビエンチャン郊外を結んだのは、オーストラリアの援助、約三十億円で建設された長さ千二百メートル、二車線の自動車専用橋だ。記者がタイ側の岸、ノンカイに立ったのは、一般車両が通り始めて四日目の四月二六日。一年で最も暑いとされる乾期の終わり、メコン川を渡る風は穏やかだが、携帯する温度計が三十五度に達する熱風であった。
 この橋の建設援助を、オーストラリアが日本との競争で勝ち取ったのは五年前。
 「戦場から市場へ」の名文句で知られるタイのチャチャイ首相時代であった。彼の政党、国家開発党が開通を祝う看板の向かいには、タイ人観光客をターゲットにした新しい市場が開いていた。手織りの布や銀細工などラオスの手工芸品が並ぶ。だが、中国やベトナム製の陶器、漆器、玩具、電化製品など、ラオスをただ経由しただけの商品の方が多いのにすぐ気付く。ラオスは一九七五年の社会主義革命から、八六年ソ連のペレストロイカに習って、タイとの国境貿易を再開するまでの二十年以上の間、西側に門戸を閉ざしていた。半ば自給自足で暮らしてきたラオスに、工業は殆どない。木材、コーヒーなどの農林産品、水力発電による電力と並んで、こうした中継貿易は外貨を稼ぐ大切な“産業”である。
 「ビエンチャンまで二十二キロ」の標識が立つ出入国管理事務所前には、手続きを待つ長距離トラックが並んでいた。ラオス行きのトラックはどれも荷物を満載しているが、帰りのトラックは空荷が目立つ。ラオスは九三年、輸出で一億三千万ドルを稼いだが、輸入はその倍近い二億三千万ドル。赤字は外国援助で辛うじて埋めてきた。橋を使った流通が本格稼働すれば、貿易赤字がさらに膨れるのは必至である。
 社会主義革命以降、反共ゲリラ活動をしていたモン族だけでなく、豊かさを求めるラオス人の多くが、メコン川を渡って難民となった。その数は、現在のラオスの総人口四百十七万の一割にも達する。この川を挟んで両軍が睨み合ったというのが、嘘のような光景だ。
 バスから降りてきた団体観光客が、ラオスの入国ビザ申請代行店に並ぶ。短期観光でも査証が免除されないのは、ラオスが人と物の急激な流入を、タイが難民や不法就労者の増加を、それぞれ警戒していることが窺える。それでも橋を渡ってラオスへ入国したタイ人は、開通わずか四日間にして二千人を越そうとしていた。
 一方、庶民の足、以前からの渡し船も健在だ。タイ側で買い込んだ洗剤や食器などを税関に申告していたラオス人母子に声をかけた。「船の方がノンカイの中心部に着きますし、ラオス側もビエンチャンからのバスの便が良いんです」。橋はまだ利用したことがなく、二か月毎の買い物や通院に、これからも船を利用するという。両岸を結ぶタイのバス会社によると、橋を渡ってくるラオス人は、一日わずか十人前後だそうだ。橋の名の「ミタパープ」は、タイ語でもラオス語でも同じ「友好」という意味だが、誰のための橋か考えさせられる一方通行状態である。
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 橋を渡ればラオス

 乗合バスは橋を一分足らずで渡りきり、ラオスに入った。タイは日本と同じ左側通行で、ラオスは右側通行。開通式直前まで二国間の国境線の位置や、道交法の切り換え地点で揉めていたが、国境は橋の中央、左右の車線入れ換えはラオス入管となっていた。
 橋はビエンチャン東約二十キロに架かっていて、フロントガラスに初めて広がったラオスの風景は、水牛が遊ぶ田園。ソ連製車両とすれ違い、日本企業の看板が目につきだした地方都市のような街が、人口四十四万人のラオス人民民主共和国の首都ビエンチャンであった。ラオス人民革命党の一党独裁の社会主義のまま、市場経済を導入している。
 街路樹のゴールデンシャワーの黄色が映える紺碧の空のもと、日本メーカーの車やバイクが走る。まだ渋滞は起こらない程の交通量だが、環境に対する規制が緩い中古車や現地組立車なので、騒音や排ガスは東京よりひどい。市場には、原色のプラスチック製品が並び、手編みのカゴは押され気味である。ハイテクでなくても、化繊から家電にいたるまでとにかく工業製品は輸入物。タイ製でなければ、中国かベトナム製だ。自国製は生鮮食料品と手工業品だけと言ってよい。
 ビエンチャンの大卒初任給は公務員で一万六千キープ(約二千三百円)、民間企業では四万キープ前後、労働者の日当は三百キープ位だ。主食のもち米は一キロ、二百三十キープ(約三十円)に抑えられているが、輸入に頼る日用品はタイより二割は高くなっている。一人当たりのGNPが二百二十ドル、タイの七分の一以下のラオスだが、やって来る外国人観光客は、ビエンチャンの物価高に驚く。
 公営デパートを覗いた。禁煙が進むアメリカの煙草が山積みになっている。入口正面で売られているのは、音楽テープだ。自国とタイ製の売上比は、二対一だそうで、日に五百本は売れるとのこと。この店主によると、タイのが全て海賊版なのは、政府がタイ製音楽の輸入販売を禁止しているからだ。三か月に一度は当局の手入れがあり、テープを押収してゆくという。また、電気器具売り場はテレビ専門店かと錯覚するくらい、何十台もの日本のメーカーのテレビが並ぶ。店員によると、それだけテレビが売れるのだそうだ。国営放送二局に対し、傍受できるタイの放送は五局。ラオス語はもともとタイ語の母体であり、ほぼ百%タイ語がわかるメコン川沿いのラオス人の間では、バラエティーに富み、比較的自由な内容のタイの番組が人気を得て、日常生活に溶け込んでいる。
 その反面、若者たちの間では、国語とタイ語の区別がつかなくなってきているという。国立図書館に立ち寄ると、ラオス語の本が殆どない。あるのはフランス語、英語、ロシア語、ベトナム語、そしてタイ語の本である。最近改装された植民地風の建物と、日本政府が九一年のODAで送った本棚、移動図書館のバスばかりが目立つ。
 一方、文化情報省では、ラオス語とラオス文化を保存しようと、日本の木かんに相当する「バイラーン」という古文書の編纂事業が、五年前から日本のNGOなどの援助で行われていた。椰子の葉に鉄筆で刻まれている内容は、寺が学校の役目を果たしてきたことから仏典が多いが、物語や歴史、医学、法律、そして実生活の知恵と幅広い。「現代にも通用する内容は、現代文に翻訳して出版しようと思っています。そうすれば、ラオス文化は消滅せず、未来に継承されてゆきますから」。職員はこの事業の意義を語った。
 今回、取材に同行してくれた東欧留学の経験がある国家公務員がこんなことを零した。「ラオス語で勉強しようたって、タイ語の本しかないし、ちょっと専門的なことになると欧米の本になる。学生は皆、表紙だけラオス語に取り替えて、タイの本を読んでいますよ」。タイ語の本を売ることも、読むことも、まだ禁止されているラオスだが、橋の開通した四月、英語週刊紙、『ビエンチャン・タイムス』が創刊された。
 その夜、ここ二、三年のうちにビエンチャンに開店したディスコを回っているうちに、この国の規制緩和の仕方が少しずつわかってきた。九二年頃まではジーンズやスカートを履くと警官に注意されたり、男女で歩くと警察署に連行され説教を食らったそうだ。いつから解禁になったと若者たちに問うと、「そんなの誰も知らないんじゃないかな。勇気のある奴がやってみて、注意されなかったもんだから、だんだん皆がするようになったわけだよ」。どうやら、政府ははっきり公示せず、様子を見ながら序々に緩めていっているようだ。
 それにしても、七十年代のロックで踊る若者たちは、碁盤の目のように並んで、皆同じステップを踏み、四小節ごとに一斉にターンする。隣席のタイ人が茶化す。
 「これがラオス名物“社会主義ダンス”ですよ」。
 市内のホテルで、ラオスの若手作家のリーダー(41)に会った。「この調子だと、ラオスがラオスでなくなってしまいます」と、止めどない異文化の流入を彼は憂う。弁護士志望だったという彼が、作家になった理由をこう話す。「私の学生時代のビエンチャンは、(南)ベトナムやタイ、台湾などからの傭兵が闊歩し、売春や麻薬などアメリカ文化の悪い面ばかりがはびこっていました。人殺しに対しても、失われてゆくラオスらしさにも、法律は全く無力でしたから」。今のビエンチャンがベトナム戦争時代とダブって見える作家は、青年のようにエネルギッシュに語る。
 「私が恐れているのは、ラオス人であることを守るために三十年間、革命前から闘ってきたものが崩れてしまうことです」。そんな危惧を抱く彼を、腐敗した政府は「反体制作家」と呼ぶ。「自然と共にあることがラオスなのですが、タイの東北地方など、もう木も自然もなくなってしまいました。そういうことがラオスにも及ぶと、ラオスの文化は失われてしまいます。タイも産業国になって、昔の文化が失われてしまい、大変残念なことです。日本だってそうじゃないですか」。通訳の時間がもどかしそうに、彼は話し続ける。「ラオスにはお客をもてなす習慣があって、誰が来ても歓迎します。村では泊まる場所や食事を提供してくれます。私がソ連や東欧に行った時には、そんなもてなしはありませんでした。こういう心は人間にあるべきものだと思うのですが、ラオスからもなくなってしまうのかと思うと残念でなりません」。
 勧めたスコッチウイスキーが、彼に鬱積していたものを吐露させる。「美しい滝があるパクセーには、ホテルやカジノ、ゴルフ場などが出来るという話ですが、それは権力を持つ者が外国に建設許可を出した結果です。船を漕いで魚を捕って暮らしている住民に、そんなものが必要でしょうか。きれいな川がある村に水道が必要ですか。電気だって、入ればお金ばかりが要るようになります。彼らが必要としているものは、塩とか服なんです」。
 彼は日本人記者の前に、一つの提言をした。「目下ラオスに来ている外国人たちの目当ては金儲けですが、息苦しくなった先進工業国の人たちが、ラオスに来て深呼吸できるような、そんな国になればと、思います。ですが、それはラオス政府やラオス人だけの力では無理です。タイ、アメリカ、中国、そして日本などの大国が、ラオスの自然保護に力を貸してくれなくては」。
 しかし、取材ノートを閉じた後の作家の嘆きが忘れられない。「実際、作家では喰って行けません。妻の収入のほか、私は広告の文案を考えたり、コンサートを企画したりして何とかやっています」。売れるものを書かなければ喰えないという市場原則は、社会主義国ラオスにも早くも浸透しているようだ。
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 奇妙な風景 ── ナムグムダムへ

 ラオス第二の輸出品目は、電力である。翌二十七日、既に稼働している三つのダムの中で最大のナムグムダムを訪ねた。 このダムは一九五九年、日本政府の戦後準賠償で調査・設計が始まり、 世界銀行経由で日本が贈った十七億八千六百万円などの外国援助で七二年第一期工事を終えた。日本はその後も三回に亘って補修のため、 政府開発援助(ODA)を贈っている。ダム湖は四百平方キロを超す広大なもので、現在の発電能力は百五十メガワット、 その八割をタイへ輸出しているという。

写真:湖底から伐られてきた丸太で埋まる湖畔

 ビエンチャンから北へ二時間、ダム湖の汀にたどり着いて驚いた。徳用マッチをぶちまけたように、巨木が積み上げられている。この木は山からではなく、ダム湖の底から伐られてきたものなのだ。
 湖畔には大きな観光船が係留されていて、船はそのまま「ルウヤイ(=大船)」という名前のホテルとなっていた。三年前から政府要人や国賓たちの湖上パーティーにも使われている国営ホテルだそうだが、この日は我々の貸し切だった。
 出された夕食は、ダム湖で採れたスッポンのスープと魚の唐揚げ。流れがないダムの魚は不味い、とビエンチャンの魚屋は話していた。配膳を終えたホテル従業員は香港の恋愛コメディーのビデオに夢中になっているが、ラオス政府は「環境に優しい観光」をキャッチフレーズに、この人造湖に年間百万人の外国人観光客を呼ぶことを目指しているそうだ。
 ホテル脇には、観光客の好奇心をくすぐろうと、水中伐採を図説する看板が建てられている。ホテルからはるか彼方に見えていた雑草のようなものに、翌朝ボートで近づくと、それは湖面から突き出た枯れ木の森だった。鋼鉄の作業船が前後進を繰り返している。太そうな枯れ木に近づくと、継ぎ接ぎだらけのウエットスーツの若者が飛び込んだ。「この辺は湖底まで、十五メートルはありますよ」と、命綱を下ろす作業員。つまり二十m前後の大木が鬱蒼と繁っていた森が、そのまま沈んでいることになる。船上のコンプレッサーから送られる空気が、枯れ木の周りで泡立つ。
 リーダー格の男が、この奇妙な風景の謎を解いてくれた。「ダムの計画を聞いてからずっと伐っているんだけれど、工事があんまり早く進んで、水の方が先に来てしまったのさ。まだ、(伐る木は)二十年そこらはあるね」。一・が三千キープ(約四百五十円)、四人組みで一日二十五・伐採するという。危険な水中作業をしても、水に漬かっていた木は反りやすく高くは売れない。それでも、彼らを含め何百人もに仕事を与え、国は外貨を得られるのだ。
 「よし、いい木だ」。水面に現れた若者が合図する。水中へ動力ノコが降ろされると、一分も経たないうちに、枯れ木は斜めに浮きだした。作業船は寸暇を惜しむように、伐った木を曳いて、次の枯れ木へと移って行った。
 湖畔へ戻ると、オランダからの団体観光客がダム湖をビデオにおさめていた。
 「二十年前の感覚だね。この国には、日本やタイが失ってしまった魅力があるよ」と、添乗員氏が代表して感想を語る。それならラオスはこのまま変わらない方が良いかという質問には、「観光客には素晴らしい国だけど、ここに住む人たちにとっては開発は必要だろうね」と、醒めたコメントを返した。
 ビエンチャンへの帰り、ダム湖に沈んだ村に住んでいた人を国道十号沿いのタラー村へ訪ねた。「書類にサインしたとたん、収穫も終わっていないのに、山から降ろされてしまいました。軍のトラックがやって来て、たった三日しか猶予をくれず、着の身着のまま、まるで戦場から逃げるような引っ越しでした」。六九年ナクア村から立ち退かされたワンカムさん(70)は、当時のことを話すと拳に力が入った。ナムグムダムの建設では、六七年から二十数村の七百五十三世帯が立ち退かされたという。
 もう一人、ウンさん(60)は、政府が用意したパクチェンという代替地は、全くのジャングルで開墾からしなくてはならず、七五年からは協同組合制(サハコー)をとらされたが、それもうまく行かず二年前、ここへ引っ越して来たという。「毎日の生活で精一杯です。金持ちには到底なれないね」。四ライ(一ライ=千六百╂)の田をやっている彼だが、子供が八人いて、一日最低二千キープ(三百円弱)の現金が必要だという。「前の村には市場もなく、服にしても自分で作らなければならなかったのですが、ここは、その点、便利ですよ。でも、前は近くの森で、鹿やリス、野鳥、そして山菜など、いろいろな食べ物が手に入れられたもんだ。もちろんお金なんかなくてもね」。
 二人の老人によると、同じく立ち退きに遇った高地ラオの人たちは、さらに奥地に生活の場を求め、国道沿いに移ってきた彼らも八〇年頃から、ダム湖周辺の山へ帰る家族がではじめ、今では二、三百世帯が森の生活に戻っている。話を聞いていた運転手が「だけど本当は、テレビもあるここの方がいいんだろ」と、混ぜ返すと「そういう面は、いいね」と、老人たちは笑った。
 今回、バンコクで会った国連メコン委員会のタイ代表顧問、サムラン・チュードゥアンガーン氏はこう打ち明けた。「正直言って、ナムグムダム建設時には、我々はまだ環境への影響をあまり真剣に考えていませんでした」。環境アセスメントを始めたのは八一年頃からだという。「しかし、メコン川下流域の人たちは、平均年収二百ドル前後の貧しい人たちです。彼らが生活水準を上げたと思うのは当然で、開発に反対しない人も大勢います。だから、環境が犠牲になっているのです」。
 彼によると、「パーモ計画」というビエンチャン上流二十キロのメコン川本流に巨大ダムを造るプロジェクトがひかえている。「何と七万人の住人が耕す土地を失うのです。メコン委員会では、ヒアリングを徹底し、代替え農地の供給はもちろん、彼らに職業訓練を施すことも考えています。多くの人たちが、もう農業では生計を立てられなくなるからです」。
 ナムグムダムが建設されたのは、この国がアメリカなど西側諸国の援助漬けになっていた革命前だった。そして同ダム完成後三年目の七五年から、ラオスは西側に門戸を閉ざした。だが、ラオス政府は昨年、「西暦二千年への社会経済開発計画」を発表し、年率八%の成長を目標に、来世紀までに二千メガワットを発電すべく、このナムグムダムより大規模なダム建設を、すでに全国八か所で進めている。
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 開発現場へ

 二国間や世界銀行、国際機関からの援助だけでなく、橋の建設に機を合わせたように、外国企業の投資が目立って増えている。九二年度の歳入、一億五千七百万ドルに対し、同年の外国投資は一億五千九百万ドルと、それを二百万ドル上回った。
 高まる市民の要求と、財政難のジレンマにあるラオス政府が、環境への影響が考慮される開発援助ではなく、開発事業を外国企業と商業ベースで契約しているためだ。この方式はBOT(Build-Operate-Transfer) と呼ばれ、開発業者が完成後の施設を、資金を回収するまで運営し、その後、施主に委譲するという契約である。
 無償援助は“紐付き”と批判されても、病院や図書館、消防署など直接生産に繋がらないものでも対象としてきた。しかし、BOTの場合、利潤追求が目的の私企業との契約なので、所謂「儲かる」事業しか扱われないのは明らかだ。
 そのBOT方式の開発プロジェクトの中でも、完成すれば六百メガワットとラオス最大となるナムトゥーン第二水力発電ダムの建設予定地へ行ってみることにした。ラオス南部のタイとベトナム国境の中間辺り、ベトナム国境に源を発するナムトゥーン川が流れるナムハイ盆地そのものが、その予定地である。地図を見ると、
 下流にダムを作れば、両側の山がそのまま堤となる、ダム建設に最適の地形のようだ。四、五年前には、高原の恵まれた環境が破壊されると、世界銀行が融資を断ったという曰く付きのプロジェクトだが、オーストラリアを中心に、タイやフランスの民間企業が、今年中に調査を終え、年末にも着工されようとしている。日本は民間企業ではなく、ODAで発電機の援助を計画している。
 現地へは、メコン川とほぼ平行して走る国道十三号を南東へ約三百五十キロのカンムアン県の県都ターケーを経て、ベトナム国境の方へ国道十二号でさらに百五十キロほど入って行く、延べ十四時間のドライブとなった。だが、道中は退屈するどころか、驚きの連続であった。
 ビエンチャンから数十キロは、スエーデンの援助で既に改修され、快適なドライブだった。まだ橋の多くは、箱型に組んだ鉄骨を差し渡しただけの架設橋だが、その横にはコンクリートの橋柱が建ち、橋桁が届くのを待っていた。
 時折、丸太を満載した大型トレーラーとすれ違う。迫ってきた山肌は、あたかも一面芝生が敷かれているように滑らかだ。高木は一本もなく、一部で崖崩れが起きている。路肩に目を落とすと、不要な枝や根がごろごろと切り捨てられていた。
 先出の国家公務員は車の中で、こんな軽口を飛ばした。「我々はソ連製オンボロ車で保護林を見て回り、材木業者は冷房付きの新車で森を買いに来る。やってられないよ」。民間企業の半分以下の給料では、公務員の士気や忍耐にも限界があるようだ。
 ところで、七年前訪れたタイのナポー村やビナイ村のラオス難民キャンプは、メコン川を隔てて丁度このあたりの対岸にある。国連の方針でビナイキャンプは九二年末で閉鎖されている。帰還難民村、ターゴンに立ち寄った。七八年友達と二人タイへ渡り、十四年振りに帰国したという青年と話した。「この国には、難民帰りに対する差別や、外国に憧れる人に対する弾圧はないですよ」。
 当局を恐れて、きれいごとを言っている様子は、彼にはない。「アメリカへ行けば、金持ちになれると聞いて難民になったのですが、国連のインタビューでついてなくて……」と、屈託がない。
 そして、こう呟いた。「カネさえあれば、この国でも何だって手に入るし…。ビデオだって」。だが現実は、政府から与えられた土地は、ブルトーザがなければ木の根を排除できず、炭焼きや機織りのほか、親戚と国連の援助で何とか喰いつないでいるという。難民キャンプで結婚した妻を一瞥した彼は、チャンスがあれば今でもアメリカへ行きたいと訴えた。しかし、こうも付け加えた。「もし、ラオスでちゃんと食べられて、楽しく暮らせたら、勿論アメリカなんかに行きたくないですよ」。橋開通のニュースを知っていた彼は「橋を渡って、物や仕事などの援助が、どんどん入ってくればいいんですが…」と、力なく微笑んでみせた。
 国道から百メートル位入った丘のあちこちから煙が上がっている。六月からの雨季の種まきに備えて、焼き畑をやっているのだ。政府は森林破壊になると焼き畑を禁止している。しかし、この伝統農法を何世紀も続けてきて、豊かな自然が現代まで残ったのは、人口の急増がなく、焼き畑と森の再生のバランスがとれていたからであろう。八〇年代四十七%だった森林率は今、三十%台に落ちたと見積もられている。森林破壊が進んだのは、経済開放してからのここ数年に於いてである。
 ターケーまであと百キロ程になると、車は土地の起伏そのままに上下し、大木を避けて蛇行する脇道に入った。何のことはない、これが元の十三号線だ。その旧道と森を隔て、大型重機が唸り、新道が造成されていた。幅十メートル以上ある新道の真ん中に立つと、山と森がV字型に削られ、道は一直線に地平線まで続いていた。「西暦二千年への社会経済開発計画」の二本柱の一本は、道路建設。ここではその計画通り進んでいるようだ。そして、もう一本の柱、水力発電にも、大量の資機材をより早く運べるハイウェイは大きく貢献することだろう。
 西日が染める車窓に、規則正しく並ぶ低木が延々と流れる。植林されたユーカリだが、この森は村人たちに食糧を恵んではくれない。『ODAとその問題点、九三年度版、通産省刊』によると、日本国際協力事業団(JICA)は既にラオス南部の農業開発に調査団を派遣し、ラオス政府はアジア開発銀行に「工業用木材(主にユーカリ)植林」へ千九十万ドルの援助を申請している。ユーカリはバルプの原料。ラオスにはまだ製紙工場はなく、タイのコンケンにある工場へ送ることを前提に植林されている。そのタイの製紙工場は、製品を日本や韓国へ輸出している国策工場で昨年夏、川に無数の魚が浮く排水垂れ流し事件を起こし、一週間の操業停止処分を受けている公害工場でもある。
 メコン川のフェリー乗り場へ下ってゆく丸太を積んだトラックの後を、夕闇迫るターケーの街へ入った。この丸太は、明日訪れるナムトゥーン第二ダムの建設予定地から、いずれダム湖に沈むものと急ピッチで伐り出されているものだ。無数の電灯に浮かび上がる対岸のタイ、ナコンパノムとは対照的に暗いターケーの岸。その闇の中に、日本製のブルトーザやロードローラーなどを二両ずつ載せたタイのトレーラーが七、八台停まっていた。これも、先出の資料に円借款の予定に上がっていた「国道八号建設機材整備計画」と合致する。八号線は、ナムトゥーン川沿いにダム予定地へ向かう、もう一本の国道である。
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 森の国

 翌朝、いよいよ最終目的地、ナムトゥーン第二ダム建設予定地へターケーを出発した。中国の桂林のような紡錘状の山々をすり抜けると、路肩の雑木林を刈って、電柱が建てられ始めていた。沿道には、小さな集落が数キロごとにあるだけ。ビエンチャンでも、テレビや電熱器、冷蔵庫など電化製品の普及率がが突出していることに驚いたが、この国では学校や病院がまだない村へもいきなり電気が入ってくる。
 それにしても、丸太を積んだ大型トラックとよくすれ違う。直径一メートル近い松を、それぞれ七から十本積んでいる。朝から十六台まで数えていたが、それ以上は数えるのも馬鹿馬鹿しくなってしまった。
 ナムハイ盆地へ入る前、道はつづら折りに、そして凸凹がひどくなった。ここまで来ると流石に、眼下に広がる森林は豊かだ。四輪駆動車のエンジンを切ると、鳥の囀りに混じって、「ホー、ホー、ホー」と猿の鳴き声も聞こえる。トラックのエンジン音に掻き消され、こちらも出発すると、この道沿いにさえ伐り出された丸太が何本も転がっていた。ターケーを出て四時間、ようやくダム建設の前線基地に着いた。ほかの全ての建
物が“天然素材”だけで出来ているなか、外国資本のプレハブ事務所が異様に輝い
てみえる。早めの昼食に入ると、英語を操る店主が迎えてくれた。「ここはナッカイマイという新しい村なんです。まず、オーストラリアが来て、タイ、中国、フランス、日本人も木を買いに来ていますよ。ミスター・タナカ知っていますか?」。ラオスの檜は日本国内のものに似ていて大変な人気らしいが、日本の商社は松も買いに来ていた。
 英語はどこでと、彼に尋ねると、「ベトナム国境の方で、長い間、勉強していました」と。革命後、流暢な英語が災いして、改造キャンプへ送られていたというブラックユーモアである。店の棚には、外国人向けに高級ウイスキーが並ぶ。英語を
活かして、新しい商売を始められた彼は、「大歓迎ですよ、開発は」と笑顔が絶えなかった。
 店主が期待を込めて話した「村人たちに仕事を与えることになる」中国の製材所の建設現場を過ぎ、ナッカイタイ村に入る。ナッは「田」、カイは「遠い」、タイは「南」という意味なので、さしづめ「南遠田村」である。百三十世帯、六百六十人、ラオスの主食、もち米を作る農村だ。集落は山の中腹を走る国道の山側に、田は谷側にある。集落の裏を含め、周囲は森林である。ニン村長(41)は「食べ物を買うことはありません。おかずは毎日、誰かが森へ行ってとってきます」という村人たちがどんな生活をしているのか、彼に森への案内を請うた。


写真:自然の恵みで自給自足の暮らしが成り立っているナッカイタイ村

 上半身裸だったニン村長はシャツを羽織り、民族調のショルダーバッグと籐の鞘に入ったナタを着けると、裏の家で細長い銃を借りて、すたすたと裏の森へ歩きだした。「暇な時は、私もこうして食べ物を探しに行くんです」。同系色の下草に埋もれ、記者など全く区別がつかない藪へ、さっと腕を伸ばして五十センチ程の竹の子を抜く。低木をしならせて、樹冠の新芽を摘む。「パクティーユといって、酸味のあり、そのまま食べるんです」。
 彼が指さす枝には、ラグビーボールを縦にしたような灰色の物体が付いている。「あれは、蟻の巣。二月ごろ白い卵が詰まり、それが美味しいんだ。今は親だけだから、まだ採らずに置いておきます」。炒めて食べるという蝉には、もう少しと言うところで逃げられた。
 村長は上ばかり見て歩いている。樹上のリスや鳥を探しているのだ。しかし、この森も高木は疎らになってきている。村長が行く道にはタイヤ跡が残り、広場には切り倒された松が何本もトラックを待っていた。ここは村の集落より山側で、ダムが出来ても沈まないとされる森なのだが。
 彼は、その一本の丸太に腰かけ、銃に弾を込める。もぐさのような火薬を長い棒で押し込み、一センチにも満たない弾を後から詰める単発銃だ。村長宅には内戦の名残、AK四七自動小銃もあるが、小さな獲物を傷めないように、この特殊な銃を使うそうだ。木の幹に銃身を固定して、息を潜める。「パーン」。銃声が深いジャングルに長くこだました。
 兎、ネズミ、川魚、トカゲ、蛙なども森が恵んでくれる食物だ。各戸で豚や鶏を飼っているが、主に現金が必要な時に売るためで、祭など特別の日以外に村人自身の口に入ることはない。この日の収穫で作った夕食は、リスの素焼き、竹の子のスープ、パクティーユなど山菜のサラダ、そして薬味の唐辛子とおこわであった。村長には四人の子供がいて、妻との六人家族。妻が栄養失調ぎみに腹が出た末子を膝に乗せ、小さなリスの肉をとってやる。
 外国人記者の来訪に、壺にストローを差して飲みあう地酒、「ラオハイ」を出してくれ、集まってきた村人たちと壺を囲んだ。米は売っているの?「いいえ。自分たちで食べる分だけです」。現金が要る時は?「村の人たちに必要なものを聞いて、町まで買い出しに行き、その駄賃で自分のも一緒に買ってきます」と、中年の女性。
 働き盛りの男性は「立ち枯れの木の情報を集めておいて、材木商が来たら案内する仕事をやって」現金収入を得ている。彼によると「昔から伐ってよいのは死んだ木だけ」だ。今ダム湖予定地でどんどん伐っているのは、「ちょっと悲しいけど、お上のやっていることで、俺たちには関係ない」と、彼は突き放した。しかし、村の裏の森が伐られていることには「おかしいので、村長と一緒に町役場まで文句を言いに行ってきたところです」と、怒りを隠さない。
 ダム建設への賛否を村長に聞いた。「賛成…何と言えばいいか…村人の一人としてはあまり歓迎したくないのですが、上の決めた計画なので……。まあ、田や森が沈んでも、その代わりに湖で魚を捕って売るから、生活も少し良くなるんじゃないですか。それに、水が近くなるし、道路も良くなって、便利になるだろ」。確かに、この村の井戸は集落から百メートル程は離れた窪地にあり、大人も子供も天秤棒を担いで往復しなくてはならない。そして、県都ターケーまでは乾季でも数時間かかり、雨季には徒歩で行かなければならない陸の孤島と化す。
 隣家の床下では、四、五年生くらいの少女が脱穀作業をしていた。話しかけても、杵を振り上げる手を休めず答える。「お父さんも、お母さんも死んじゃったから、(自分が)何歳だか知りません」。姉の嫁ぎ先に同居しているのだが、姉が出産して人手が足らず、毎日こうしているという。「学校へは一度も行ったことありません」。ラオスの小学校就学率は平均でも三十八%(ユニセフ調べ)である。ダム建設によって生じる損得を見積もり、納得した上での「賛成」なら、それも選択の自由だ。しかし、開発の後にやって来るものは、彼らが想像し得る範囲を大きくはみ出しているのではないだろうか。
 ラオスの農村開発を目指す日本国際ボランティアセンターの松本悟ラオス代表は、明解な援助論を力説する。「援助とは、カネとか、モノをあげることではないのです。村人たちに力をつけて、彼らが自分たちの村を自分たちで開発してゆけるようにすることです」。目下彼は、開発の弊害が著しい東北タイを、ラオスの村人たちに見聞してもらうスタディーツアーを企画している。
 今回の取材中、先出の英字週刊紙「ビエンチャンタイムス」はこんな記事を出していた。「ナムトゥーンダム建設当局は四月二十日、農業用水を建設することで周辺の農民と合意」。ちなみに、見出しは「ダム建設は環境を脅かさない」、後段は「稼働すればナムグムダムの三倍の外貨を稼ぎだす」と期待を寄せていた。
 翌朝、タイへ出国するため、メコン川の渡し船を待っていると、その前の空き地にホテル完成予想図の看板が建っていた。タイ側のナコンパノムの街でこんな噂を耳にした。第二架橋の候補地点として、以前のサバナケット・ムダハン間から、ここターケー・ナコンパノム間が有力になってきたのは、どうやら政治家が土地を転がしているといったものだ。タイ側の岸には既に豪華なホテルがオープンしていた。
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 喧騒の都、バンコクで

 バンコクへ戻る飛行機は、森林率が十三%に落ちたという東北タイの田畑を上昇する。二年前リオデジャネイロで開かれた環境サミットでは地球規模の環境保全が、また今年のマラケッシュでの閣僚会議では国際的な労働基準が先進工業国によって唱えられた。資源を乱獲し、環境や人権を犠牲にして先に工業化した国々の身勝手と、開発を減速させられかねない途上国から不満が噴出した。バンコクの悪名高い車の洪水をかきわけ、タマサート大学へセクサン・プラサークル政治学部長を訪ねた。「もう世界は十分に工業化され、世界中に製品を行き渡らせることが出来ます。が、ラオスの美しい自然は、世界に僅かに残った貴重な自然です。私は個人的には、ラオスが工業化されるのに反対です」。
 そして教授はこう提言した。「ラオスは環境破壊にならぬように注意深く観光開発し、あの類稀な自然を世界の人たちに開放すればよいのです。そうすれば、観光収入で、道路や病院、学校もでき、国民の収入も増えるはずです」。但し、教授はそれに厳しい条件を付け足した。「日本やオーストラリア、タイなどが、ラオスの自然の重要性を認めて、工業化への投資を控えなければ実現しません」。
 だがしかし、今、流行りはじめた「エコ・ツアー」のように、自然を求めながらも、豪華ホテルに泊まり、ついでにゴルフ場やプールなどで楽しみたいというレジャー嗜好が主流を占めているうちは、観光開発は環境破壊と同義語になってしまう。
 セクサン教授は、タイが今のラオスのようだったベトナム戦争時代、反体制学生のリーダーで、当局の弾圧を逃れて東北タイやラオスに立て籠もった経験の持ち主だ。「冷戦では西側が勝ちましたが、資本主義に欠点がないという意味ではありません。問題は解決するまで問題で、解決するまで論議しなくてはなりません」。国立大学の学部長におさまった彼に、往年の闘士の片鱗がのぞく。
 急成長と引換えに森を失ったタイでは、干ばつと洪水の繰り返しで農村は疲弊し、喰い詰めた農民はバンコクに雪崩込んで低賃金労働者となっている。さらには、国土は公害で汚染され「微小の国、タイ」も世知辛くなってきた。
 開発すれば人々の生活は便利に快適になること、そして、多くの住民たちが開発を望んでいることを認知した上で、教授は言う。「もし、あなたがラオスのリーダーなら、自分たちの将来というものは、もっと先を読んで決めなくてはなりません。ラオス人は、それが分かる人たちだと信じています。そして、我々を反面教師として、学んでほしいのです。その情報は幾らでも提供できるのですから」。
 別れ際、セクサン教授は次のように言いながら力強い握手をくれた。「向こう側の肩を持つアカなどと呼ばれずに、こうした論議ができるようになりました。そういう意味では、良い時代になったものですね」。ラオスにも経済だけの自由化などあり得ず、自由な開発論議ができる、そんな時代が来ることと信ずる。
(文・写真/阿佐部伸一)

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