タイの“援助村”で ──1990年8月取材
 政府間でやり取りされ、とかく評判の悪いODA(政府開発援助)。その一万分の一、八千三百万円が、 一九八九年度初めて、日本の草の根援助団体(NGO)を通じ、アジア・アフリカの町や村に流れた。政府とは立場を異にするNGOが、 市民レベルで対話を積み重ねる、一味違った「援助現場」を、タイから報告する。

  街はきれいになったが……

写真:真っ黒に日焼けしながら土産物を売るソーン・プーンさん=日本政府の援助で完成したアユタヤ歴史研究センターで

 従来のODAの「見本」を、バンコクの北八十キロで見た。古都・アユタヤの中心にある崩れかかったパゴダを過ぎると、コンクリートの大建築が、忽然と現れる。九〇年七月二十二日開館したアユタヤ歴史研究センターだ。日タイ修好百周年などを祝い、両政府間で取り決めたODA=九億九千九百万円=で建てられた。
冷房が良く効いた館内。高価な展示装置の前で、息子に歴史を説く父親に出会った。「日本は私たちの文化に理解を示してくれた」との外交辞令に、控え目にだがこう付け加えた。「立派な博物館より、東北地方に職業安定所を」。ソムチャイさん(46) は貧農の出稼ぎが多い東北・シーサケートにあるバンコク銀行の支店長だ。
地元農家の年収は、同じODAでセンターから南二キロに完成した瀟洒な別館。山田長政で有名な日本人町跡の一角で、観光客の途切れる日はない。
 「ヤスイヨ!センエン」。真新しい別館にレンズを向けると、タイシルクと絵はがきを両腕に下げた娘が、知るかぎりの日本語で話しかけてきた。ソーン・プーンさん、十九歳。「ここ?うん、きれいになった。収入も円高で倍以上になり、一日のもうけは七十バーツよ」
七、八年前のレートを覚えているソーンさん。物心ついた時には、日本人観光客を相手に、土産物を売っていた。八人兄弟の三番目。上二人と母親の行方は分からない。月給二千バーツで精米所に勤める父親と二人で、弟妹五人の面倒をみる。「冷房の利いた事務所で働けたら」とぎらぎら輝く太陽を見上げたソーンさんは、小学校四年で中退している。
ソムチャイさんにもソーンさんにも日本政府のODAは「無縁」だった。この国に何百万人といるソーンさんたちのもとへ、「草の根」伝いのODA資金が流れた現場は、アユタヤからさらに五百キロ・の東北地方である。
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 自給自足で年収倍増

 「日本人が何十反ものシルクを買って帰ったよ。あんたも日本人だろ。うちの娘を嫁にやろうか」。レウさん(44)の冗談に「ラーメン一杯が百バーツ(1バーツ6円)だよ。そんな日本より、ここより物価のもっと安いビエンチャンに行ったら、おばさんだって大金持ちだ」。そう混ぜっ返したら大笑いになった。
 ここは1965年以来、前村長が独自の計画を成功させたタイ東北部のサクーン村。バナナやマンゴーが実る農道、うっそうと茂る桑畑。それに日本国際ボランティアセンター(JVC、東京)がODA(政府開発援助)で作った魚の孵化場、養魚池。単一換金作物を奨励する中央を無視し、自給自足を目指した前村長の独特の哲学に、JVCが共鳴した結果だ。1軒の年収はこの地方の倍、1万八千バーツである。
 もっとも、すべてがバラ色ではない。「娘二人がバンコクの男と一緒になって帰って来ないんですよ」とこぼすクレムさん(46)。都会の魅力はいずこも同じ。レウさんが口を挟む。「先月、隣村の田を日本人が買いに来た。土地を売るのは自分の骨を売るのと一緒だよ」。だが、田ぼを円に換える農民が出てこない保証はない。
 JVCが次の応援を検討しているのが、サクーン村から一時間、東北特有の赤土が舞うムアン・ペック村。「水洗じゃないけれど、トイレも日本よりずっときれい。心のどこかでこの国をバカにしていた自分がイヤになりました」。JVCの研修で村を訪れたボランティア志願の比留間明子さん(21)=法政大三年=は、もっとこの国の人々を理解するため、タイに住みたいと言う。
 真っ黒に日焼けしたブーンミー村長(46)がおずおずと話すこの村の事情は、サクーン村とはかなり異なる。「八年前に農協を作ったけど、皆が信用買いに甘え、農協は破産した。四年前に開こうとした農協金庫も、毎日十バーツの積立金をだれも払えず、ご破産」。
 一家の平均年収はサクーン村の半分。五年続く旱魃で借金の高利(月五%複利)が追い打ちをかける。ここでJVCはコメ銀行を計画している。農民が借金せずに種モミを借りれるシステムだ。
 別の村では、既に水牛銀行が日本の「草の根ODA」で根づいている、と聞き足を延ばした。
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 耕うん機よりも水牛

 タイ東北部、カンボジア国境に近い難民キャンプのそばに、ポワン・トゥック村はある。国連や各国政府の豊富な援助物資が届くキャンプに比べ、孤立無援、貧困と闘う村である。
 ここで八九年「水牛銀行」が開かれた。「日本国際民間協力機関」(NICCO、京都市)の山田一彦さん(25) が、4台の耕うん機を買える百八万円のODA(日本の政府開発援助)で、水牛二十頭を購入したのだ。
 「アイアン・バッファロー(耕うん機)よりこいつの方がいいよ。ガソリンも飲まないし、壊れないし、糞は肥料になる。この間、子牛が生まれた時なんか家族が一人増えたみたいにうれしかったよ」。村の約三百戸中、水牛を持っているのは三割。水牛を借りてばかりいたセイタノンさん(43)は水牛銀行を絶賛する。
 無料で五年借りられ、餌代と治療費は借り手持ち。毎年生まれる子牛は、銀行に返す第一、三子を除き自分の物となる。山田さんは本当に援助を必要とし、信頼できる農民の選考に三か月かけた。外務省に申請したのが八九年の七月。政府から予算が出たのはその八か月後、翌年の三月だった。
 「対応が遅いと村民たちの折角のやる気が、なえてしまう。だから、今回はNICCOの自己資金で立て替えたんです。もう一桁(けた)大きなプロジェクトだったら無理でしたね。ここの時間はゆっくり流れているようですが、贈り物にはタイミングが大切ですから」。こう話す山田さんは、バンコクに妻子を残し、村から車で一時間の町、スリンに常駐する。彼がいつも抱くのは「同じ人間なのに(日本人と)どうしてこんなにも境遇が違うのか」という疑問である。
 その答えを求め、独学のタイ語で軽口を飛ばしながら、国境の村々を回る。月給は一万バーツ、邦貨約六万円である。
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 未来託す保育所建設

写真:栄養のバランスを考えたおやつの時間。煮豆をパクつく子供たち=スリン県サワイ村の保育所で

 聞き慣れぬ農民の会話が耳に飛び込んできた。クメール語だ。ここはタイ族のほかラオス、クメール族が一緒に暮らすタイ東北部のサワイ村。
 曹洞宗ボランティア会(JSRC、東京)は、ここで八九年8月、保育所を完成させた。建設費の半分二百五十万円は日本のODA(政府開発援助)である。高い切り妻屋根の教室棟と食堂棟の白壁が眩しい。L字型に囲まれた園庭には、紫や黄色の百日草が咲き乱れ、遊具に乗った子供たちの歓声が響く。
 JSRCの現地職員、ティーラポルさん(44) は青年の様な目で話す。「ここでタイ語を教えるので、クメール系の子供だって小学校で落ちこぼれないし、母親も仕事に精が出せる。親の平均月収はわずか八百バーツ(一バーツは約六円)。家で教育する習慣も、余裕もないんです」。現在百二十五人の子供たちに五人の先生があいさつや歌、踊り、タイ文字などを教えているという。
 「NGO(民間援助団体)を経由したODAは、困っている現場に直接届くので大賛成です。役人の手を経ると、街から運んできた氷みたいに、こんなに小さくなってしまいますから」。保育所の隣にある小学校のプラサート校長(50) は、ジェスチャーを交えながら、苦笑いである。

 この小学校でも、JSRCを経由した日本のODA百八十万円で、八九年三月、校庭で鶏五百十六羽を飼い始めた。今は千百十羽に増えた。卵や鶏肉は給食に、余りは売って校費に充てている。だが保母の給料や給食など年間四十万バーツの運営費は、到底捻出できない。人件費はODAの対象にならず、JSRCが自己資金で援助を続けている。
 バンコク最大のクロントイスラムにあるJSRC事務所。「物をポーンとあげてしまって終わり。それなら簡単ですよ。事前に村人と一緒に考え、事後も彼らの手で運営していけるところまで手助けしなければ、あの保育所も今の子たちが大人になるころには、村人たちに任せたいのですが……」。秦辰也所長(31)は軽く溜め息をついた。
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 カネよりも「経験」を

 「ここでは、遅れても『マイペンライ(どうってことないよ)』でしょ。『郷に入れば…』ですよ」。日本のODA(政府開発援助)を充てたバンコクの工事現場で、NGO(民間援助団体)の日本人スタッフは、こう言った。
 建設ラッシュのタイで今年初め、セメントが底をついた。日本政府が援助した工事も遅れた。しかしODAは、現地の事情を全く考慮しない単年度予算。年度内に予算を使いきれず、あるNGOは表向きは三月に完成したことにし、別のNGOは予算を返却した。
 こうした日本政府の援助金を使いきれないNGOに同情するタイ人もいる。日タイ合弁企業のパイラット社長(40)は「タイで工事が遅れたら、途中でも他の業者に変えないと、日本政府のの希望には沿えませんよ」。
 バンコクの洪水は昔から有名だが、今のそれはクルマだ。おかげでチュラロンコン大学のスリチャイ助教授(41)に会うのに、十分遅れた。氏は日本のODAやNGOとは別の援助を期待して、こう話す。「都市・農村の格差や自然破壊、交通問題はひどくなるばかり。市場論理に基づく経済援助より、近代化の過程で起こるこうした社会問題の解決法を、日本自身の経験から教えるという援助をしても、内政干渉には当たりません」
 バンコク最大の歓楽街、パッポン通りには、出稼ぎの娘が多く働く。地方の現場を回って二週間振りに戻った日本のNGOスッタフとグラスを交わす。「いくらODAをNGOに流しても、日本政府の様々な制約で縛っていてはダメ。私の月給?五万円ですよ。日本のお役人以上に、昼も夜も公私の別なく働いて」。このNGOはスタッフがパッポン通りで遊ぶことを禁じている。「私の担当する村の娘が暮らしに困り、出稼ぎに来ていないか、気になるんですよ」。自己弁護に聞こえそうな彼の言葉はしかし、本音である。
(文・写真/阿佐部伸一)

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