タイの裏通り ── 1988年8月取材
  
 急速な近代化のなかで

写真:シゲルをわが子のように抱き寄せるオンシーさん=バンコクのスアンプルスラムで

 タイの首都・バンコクのスアンプル・スラム。十一ヵ月ぶりに訪ねて驚いた。プラスチック製品、動物の死骸など、ありとあらゆるゴミを浮かべて悪臭を放っていた野球場ほどの広さの沼が、新築のバラックで覆い尽くされている。バンコクの人口は約六百五十万人。このうち約百二十万人がこうしたスラムに住む地方からの出稼ぎの人という。
 杭に板を渡した迷路のような通路をぶらつく。殆ど聞き取れないタイ語のざわめきの中から「シゲル、シゲル」と日本人らしき名前を呼ぶ声がする。トタン屋根の穴から熱帯の太陽が光線を引くだけの暗い部屋に、むずがる赤ん坊をあやす若い女性、オンシー・ルーチャイサーさん(22)がいた。
 「シゲル」は実の子ではない。日本人バーのホステス、スリーポーンさん(17)と客の間に生まれた。「自分の生活が精一杯」と泣きつかれ、引き取った。「シゲルが可哀そうで仕方なかったから…」。彼女とて、生活が楽なわけではない。高い粉ミルクには手が出ないのだろう。この日は練乳をうすめたものだった。が、オンシーさんの顔には屈託がない。「この子をきちんと学校に行かせ、お父さんを探しに日本に行ける子に育てたいんです」
 この取材の前年一九八七年には、三十四万人の日本人観光客がタイを訪れた。日本企業の投資額は八八年夏、タイの外国資本の四割を占めつつある。急速な近代化が進むタイ。が、その陰には何千、何万のオンシーさんがいる。彼女の軌跡をたどった。
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 生活苦…姉妹で夜の仕事へ

 七輪に火を起こすため、ナタで板を割りながらオンシーさん(22)は話を続ける。彼女がタイ東北のノンプラノーイ村の小学校を卒業したのは十二年前。当時、タイの小学校は四年制で、オンシーさんは十歳だった。長女の彼女は、六歳の頃から弟たちの子守と家事を引き受けた。幼い肩に天秤棒を担ぎ、一回一バーツ(約五・五円)の水運び。一家にとっては貴重な現金収入だった。「おかずは醤油だけ」という日が続いた五年前、村を出た。
 バンコクのスアンプル・スラム。六畳ほどの貸間に五人で住む。長男ソンピエットさん(19)、二女ポンペンさん(18) 、三女ソムディさん(16)、そしてシゲル(十ヵ月)。二女と長男はオンシーさんがバンコクに出てきた翌年、オンシーさんと三女の後を追ってきた。
 三姉妹が最初に働いた大衆食堂の月給は九百バーツ。これでは村に仕送りは出来ない。姉妹は夜の仕事を選んだ。平均月収三千バーツ、多い月は五千バーツになる。工事現場で働くソンピエットさんの月給は千七百バーツ。小学校卒の彼女たちが大卒並みの収入を得るには売春しかない。
 オンシーさんを訪ねた日、村から母ブンペンさん(41)がバンコクに出てきた。「干ばつと洪水で植えた半分も収穫できればいい方。家族で食べる米さえ買っている始末で。四月に水牛が足を折り五千バーツの借金が出来た。古い家はシロアリにやられて建て直さなければならない」という。夕食が出来た。「料理が上手ですね」と言うと、オンシーさんははにかんだ。日が暮れると、三姉妹は身繕いに立った。
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 好きでやってんじゃない

写真:外国人客の粘りつくような視線のなか、裸同然で踊る娘たち=バンコクのパッポン通りで

 オンシーさん(22)ら三姉妹が勤める店は、バンコクの歓楽街パッポン通りにひしめくゴーゴー・バーの一軒。日本式ナイトクラブやカラオケバーが並ぶタニヤ通りは、すぐ東隣にある。原色のライトに映る全裸に近い若い肢体。客にタイ人の姿は見えない。耳をつんざく音楽の中で、彼女たちはデートの契約を取りつけようと、カタコトの日本語や英語で懸命に話しかけてくる。
 その時だ。ガチャンという酒瓶の割れる音で振り返ると血相を買えて束になってかかっていく娘たちに、客の一人が追い出された。デートをやんわり断ったら乱暴しだしたという。厚い化粧に包み隠した彼女たちの誇りが、時に爆発する。
 「私は美人じゃないし、もう年だから月に五、六人客がつけばいい方よ」とオンシーさん。売れっ子ではない三姉妹は、嫌な客を避けてばかりはおれない。「好きでこんなことしてるんじゃないわ。みんな、事情があってやっているのを分かってほしい」オンシーさんのいるゴーゴー・バーは、十五歳から二十代半ばまでの女性四十数人が所属する。月給はない。五百−千バーツを客が直接彼女たちに払う。
 タイの人気バンド「カラバオ」は歌う。
  ♪政府は外貨欲しくて観光に力を入れる
    その一番の稼ぎ手は「パッポン」の女の子たち
 オンシーさんは、この晩も客がつかなかった。「一万バーツ(約五万五千円)たまったら村に帰り雑貨屋をしたい」。仕送りと生活に追われ一万バーツがいつたまるか、彼女自身わからない。
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 「出稼ぎ必要ない社会」はいつ……

 バンコクから車で十一時間。ラオス国境に近い農村に、オンシーさん(22)の実家があるサコーンナコーン県ノンプラノーイ村はあった。ちょうど雨期。村は田植えの真っ最中だった。
 副村長のプラバンさん(44) に会った。七百五十六人の村民の内うち二百人近い若者が村を出ているという。「電気が入ったのは十年前。それからですよ。テレビが村から若いもんをさらっていったのは」
 出稼ぎ先はやはりバンコクが圧倒的。若者の仕送りでテレビや扇風機の普及率は七−八割。バイクから化学調味料まで、この村でも日本製品の氾濫はバンコクと変わらない。
 「今も昔も旱魃はどうしようもないが、昔は食べる米がなければ貸し借りしてしのいだ。いまは、貸した米は何バーツと計算するようになり、この村も世知辛くなった」
 オンシーさんら三姉妹が出たノンプラノーイ小学校を訪ねたくなった。三女ソムディさん(16) の担任だったプラサート先生(38) に会う。「あの子は児童会の委員長もしまして、この教区七校の中ではトップの成績で進学したんですよ……」。ソムディさんの近況を聞いてプラサート先生は絶句した。
 タイからの日本入国者数は一九八七年、三万一千百六十三人。うち「観光」名目の短期入国者は一万六千百七十五人(入管調べ)に上り、この中には実入りのいい日本への出稼ぎ者も多い。帰りの機内。隣は三人連れの若いタイ女性だった。「観光」と言う。三人連れが三姉妹にダブって見えた。
(文・写真/阿佐部伸一)

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