ドイモイの影── 解放二十周年のベトナム、ホーチミン市で、1995年4月取材
 日が暮れても摂氏三十度を超す屋外ステージでは、 「イエロー・スキン」というグループがオリジナル曲を奏でている。ここはホーチミン市の「ミュージシャン・コーヒー・ショップ」。 一九七〇年大阪で開かれた万国博覧会に、当時の南ベトナムを代表して出演したチエムさんが三年前に開いた店である。 この国で取材するのは、五年振り、三回目。 レストランでアルバイトの音大教授や学生たちが、オーボエにエレキギターといった珍妙な取り合わせで、 スタンダード曲をぎこちなく演奏していた前回とは、隔世の感を覚える。 フランスが国営企業との合弁で四半世紀ぶりに現地生産を再開したビールを注文すると、つまみの入ったカゴを頭に二人の少女が現れた。 聞けば、七歳と十二歳。対日輸出の煽りで三倍の三ドルになったスルメを、二人からそれぞれ一枚ずつ買った。
 ベトナムが独立と南北統一を勝ち取ってちょうど今年で二十年。以来、今も共産党独裁の社会主義国ではあるが、 八六年にはドイモイ(=刷新)政策が全国的に採用された。ソ連崩壊で加速したドイモイは、 国際企業の瞬くネオンサインのように眩い光を放つ一方で、めっきり目立たなくなった社会主義のスローガンの看板のように、 目を凝らさないと見えない暗闇を作っていた。


写真:外国客船が入港するサイゴン港。右手前は国防省が建設中のホテル

 どこまで見せる?

 ここ二、三年で観光や商用ビザは、手続きが簡単に、発給が早くなった。しかし、ジャーナリストに対しては、未だに報道ビザを取得させ、外務省の報道局員が通訳ガイドとして随行し、出国の際には取材内容のチェックもある。
 そもそもドイモイの骨子には「市場経済の導入」だけではなく、「性急な社会主義路線の否定」や、「国際協力への参画」も挙げられている。人権や報道の自由など、政治の方のドイモイはどうなのだろうか。前回までは、行く先々で茶菓が用意され、整列した人々に拍手で迎えられ、取材にならなかった。そんな苦い経験から、また額縁の内側だけを見せられるのではと、現地入りする前から不安だった。
 今回、私に付いた報道局員はハノイから出張してきた二十九歳。「あなたの行きたい所へ行けますよ。隠す物なんかありません。ただ、間違った解釈をしないように補佐しているわけです」と、随行の意味を説明する。ド・ムオイ共産党書記長は今年三月ハノイで、「問題を指摘し、その解決法を提起する報道がもっと必要だ。但し、政治社会を不安定化させる言論の自由の乱用は許さない」と、三百三十人余りの地元ジャーナリストを前に批判的報道を一応認める発言をしている。
 一方で、解放前はアメリカの中央情報局(CIA)御用達だったホテルを、国防省が改装し観光客を泊めるくらい、官民ともに事業に躍起になっている今、外国人来訪者の目的に応じて外務省だけでなく各省が旅行社のような便宜を図っている。通訳やコーディネート料などが各省の直接収入になることも、その大きな理由だと、その報道局員は認めた。
 しかし、私より一か月程前に、機材が少なかったこともあって観光ビザでホーチミン市入りした友人のジャーナリストは、「政治の『せ』の字も出さず、経済の話だからと言っても、みんな恐がって外国人ジャーナリストと接触したがりませんよ」と感触を話していた。もう報道局員が言うように、政府や党の批判する言論の自由があるのかも知れないが、市民側がつい昨日までの粛清に対する恐怖を忘れてはいないようだ。
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 チョロンの中国系ベトナム人

 五十万人とも見積もられるホーチミン市の中国系ベトナム人。その大半がチョロン地区に暮らす。解放二十周年を一ヵ月後に控えた街角には旗売りが繰り出し、赤地に黄色い星の国旗と、同配色で槌鎌をあしらった共産党旗が何十枚も、排気ガスの風にはためていた。近藤紘一氏は『サイゴンのいちばん長い日』のなかで、いち早く国旗を掛け替えて解放軍を迎えたチョロン地区の変わり身の早さを特筆している。しかし、その後共産党が彼らの財産を接収し、商売を禁じたため、多くのボートピープルが出たのもこの地区であった。
 「せめて子供だけは逃がしてやりたかったのですが、そんなお金はなかったからね」。路地の喫茶店でコーヒーを飲んでいたアンさん(69)は振り返る。チョロンの小学校教師だった彼は、七五年からは中国語で教えることが禁じられ、ベトナム語が不自由なために失職。以来、彼は新聞配達を、妻は仕立屋をして、十一人の子供を育て上げた。彼が今もベトナム語をよく喋れないのは、彼の学齢期にはこの地区の学校といえば仏語か英語で授業をし、ベトナム語では教えていなかったからだという。「息子は日本語が話せるんです。日本企業に勤めています」と、錆びついてしまった英語で自慢する。
 政府は八六年、中国語の授業再開を許可した。この国への投資額、件数ともにトップを占める香港や台湾、シンガポールなどからの中国系ビジネスマンの便宜をはかるためと受け取られている。しかし、ドイモイのそうした変化も彼にとっては時すでに遅し。彼は歳を取り過ぎていて、学校へ復職することはできず、新しい職を見つけることも出来なかった。「私はまだましな方でしたよ。同僚の二人は、中学と大学で政治的な教科を担当していたので、八年間も再教育キャンプへ送られていました。不運だったとしか言いようがないですが…」。アンさんはもう怖いものなしといった心境なのか、過去二十年間の施政に対する恨みを、こちらがひやひやするほどぶちまけ始めた。
 「彼のベトナム語は、広東語が混じっていて、良く分かりません。歳を取りすぎていますよ」と、報道局員が訳す語数が減りだしたのはこの辺からだった。当局が過去をどれほど客観視しているかを垣間見たような気がした記者は、トラブルを避けインタビューを切り上げた。
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 20年越しの恋

 昼食に入った中国料理店、副店長が愛想良く英語で話しかけてきた。年齢から察して「どこで言葉を覚えたのですか」と尋ねた。彼は南ベトナム軍の軍曹だった。近くフィアンセが待つアメリカに渡るという。突然、両目を寄せ内股で立って「まだ独り者です」と自嘲してみせる。と、今度は目頭が光ったように見え、暫く話題を変えた。
 解放前、彼には既に婚約者がいたのだが、アメリカと傀儡政権の協力者として解放から一年半、刑務所に入れられた。釈放後、中越戦争勃発の七八年に、二人でアメリカを目指しボートピープルになったのだが、沿岸警備隊に捕まり、再び二年間投獄された。フィアンセだけ先に脱出する作戦は、九〇年ようやく成功し、いま彼女はロサンゼルスに定住している。独身の方が難民として受入れられやすいと信じ、二人はずっと入籍していなかった。が、九三年、ホーチミン市へ里帰りしたフィアンセと米国側の結婚届けにサイン、二十年越しの恋を実らせた。現在、彼は家族呼び寄せ制度で渡米できる日を待っている。
 「でも、もう五十を越えてしまったよ。向こうへ行ったって、この歳じゃ、皿洗いか掃除係に逆戻りだろう……」。ビジネスチャンスに沸くホーチミン市へ里帰りした元難民が八万人を超した今、彼は念願がやっと叶う。
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 無一文の失業者から

  「七九年が境目でしたね」。南ベトナム軍砲撃大隊の少佐だったトゥアンさん(59)は、その年の豹変を振り返る。「自宅の居間と寝室を工場にして、爪切りを作っていると、人民委員会の人が訪ねてきて、品質が良いことを褒めるんです。で、土地と資金を斡旋するので、もっと人を雇って生産を増やせと…。『労働者を搾取するな』と言われるならわかりますが、信じられませんでしたよ」。
 解放と同時に彼は、家具工場や豪邸、別荘、車三台、専用ヘリコプターなどを没収され、十八か月の再教育キャンプ生活からホーチミン市に戻った時には、無一文の失業者だった。だが、捨ててあった武器を加工して工作機械を作ったり、手製のチラシで顧客を増やしたりしてバイク修理や自動車塗装で成功。一度は、国営工場労働者の約十倍の月収を得るまでになったが、当局に「国家のために働いていない」と閉鎖させられていた。
 ドイモイ政策が全国的に施行されるのは八六年を待たなければならなかったが、彼が今も住むビンタン地区の人民委員会は当時から新進的で、全国に先立ってドイモイの実験が始まったそうだ。当時のホーチミン市長は、現在のボー・バン・キエト首相だった。
 「前はソ連人と喋っても、あとで『何を話していたか』と警察に尋問されたものでしたが、八六年からは、この通り全く問題ありません」と、トゥアンさんも政治の変化も評価していた。しかし、そもそも彼が自分で工場を開いたのは、リセで身につけた仏語も、二度のアメリカへの軍事留学で習得した英語も、そして工学知識も、彼の能力は評価されるどころか、就職すらなかったからだ。
 その後、ハサミに事業展開したトゥアンさんは、持ち前の経営センスでハノイの産業技術コンクールで連勝し、ベトナム一の生産量を誇るに至った。とはいえ、彼のハサミ工場は四棟の木造平屋に国営工場の払い下げを改良した機械が並ぶ質素な構えだ。
 ベトナムの良質な労働力で高品質を目指し、さらに製品価格でも国際競争力を持たせるため、設備投資を二の次にする彼の知恵である。実際、彼はオーストラリアでの得意先開拓から帰国したところで、いま輸出先を東欧から豪、米、日に切り換えようとしている。
 昼食の席で、彼はホーチミン市に日本の高齢者向けの別荘建設計画があることを挙げてこう言った。「広い家で、三人ほど“召使”を雇って優雅に暮らせますよ。この国へ千ドル持ってきたら、一万ドルの値打ちがあります。いいじゃないですか、彼らも仕事が得られて、今より良い生活が出来るようになるんですから」。彼はご機嫌で笑っていた。彼の工場外壁にはこんなスローガンがあった。「一生懸命働こう!自分のために、家族のために、祖国のために」。かつてのそれと優先順位が全く逆で、「社会主義」だった部分は「祖国」に入れ替わっていた。
 どんな体制下にも、本人の意思や努力に関係なく、不運な人たちがいる。ベトナムの経済成長率は昨年、八.三%を記録した。華々しいマクロ経済の指数を底辺から支えるばかりで、拡大する貧富の差と浸透する商品に、却って貧困を感じている人たちが増えてはいまいか。別れ際、「元『南』の人で、まだ差別に苦しんでいる人は…」という問いには、雄弁なトゥアンさんが「まだいます。幾らか」とだけ短く答えた。
 彼自身、九一年まで新経済区で農業をやらされていた砲撃大隊時代の部下を工場長に迎えている。
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 ホーチミン市の夜

 その夜、彼の言う「幾らか」を確かめるべく、繁華街を徘徊した。路上の靴修理屋や物売り、そしてベトナムの輪タク、シクロは経歴を問われずに就ける仕事だ。国営企業の月給は五十ドルが相場で、シクロ運転手の方が安定こそしないが、実入りは良い。老舗のホテルの前で客待ちをしてたシクロの運転手に声を掛けた。彼は家族を養うのに月三百ドル必要だが、シクロだけで稼いでいるという。「大盤振る舞いする外国人観光客が増えたことだけは、ドイモイ様々だ」と、彼も認めている。「ところで、俺に何が聞きたいんだ。まあ乗れよ」と、当てもなくサンゴン川の方へ向け走りだした。二人乗りのバイクが次々と擦り寄ってきて、「今夜、花は要らないか」とうるさい。二年前の一斉手入れで売春婦は郊外に追い出され、今はミニホテルを利用した“自由恋愛方式”が主流だそうだ。「俺は南ベトナムの軍曹だった。刑務所から出てきたら全然仕事がなかったんで、ずっとシクロをやっている」と、いかにもフレーズごとに耳から覚えた米語で喋る。
 投資実績で香港、台湾、シンガポールに次ぐ第四位の日本企業だけで、昨年六月までに六十社前後がベトナムへ進出し、五十数社がホーチミン市に駐在員事務所を構えている。首都ハノイ以上に外国企業の進出が著しい同市では、当然外国語ができるベトナム人が求められている。しかし、外国企業は原則として現地スタッフを新聞広告などで直接募ることはできず、公営の労働サービス事務所に求人を申請し、同事務所が推薦する人を派遣してもらう恰好になっている。この運転手は仏語と英語ができ、外国企業で働きたいのだが、「検挙歴」のある者は同事務所に登録すらできないという。
 「外国人とお喋りしただけで、四年も入れられた。八五年のことだ。もう、二度と御免だよ。俺には六人の子供がいるんだから。このごろはシクロ運転手の中にも、共産主義者のスパイがいて、チクリやがるんだ。もういいだろ」。彼のシクロは何もなかったかのように、夜の街に溶け込んで行った。
 この夜、記者に同行してくれた友達は大学で経済学を学び、英語ができるのだが、父親がゴム園主、兄が南ベトナム軍大佐だったため、解放以来十七年間は低賃金の国営企業に勤めざるを得なかったという。しかし、「街で出会った外国企業の重役が、私を認めてくれたので、直接雇ってくれるよう頼んだんです」。彼の表向きの職種は経営に関与しない下働きだが、ベトナム社会を良く知っている彼のアドバイスは重宝がられている。彼の月給は、以前勤めていた国営企業の七倍、三百五十ドルに増えた。「その分、一生懸命働かなくてはね。要望があれば早朝や深夜、日曜でも働いてますよ」と、前回会ったときには見せなかった笑顔で彼は語った。
 ホーチミン市で二千軒を超えたというカラオケ・バーを覗いてみた。「卒業しても、仕事がなかったものですから……」。フエンさん(20)は先月ハノイから出稼ぎにやって来た。北部では改まった席でしか着ないというが、アオザイが良く似合う。彼女はまだ試用期間中で、幾ら貰えるか知らない。それでもハノイより多いのは確かだ。
 もう一人のホステスも今年二十歳。彼女たちに解放戦争の記憶はない。「服を作るのが好きなの。縫製工場で働きたいんだけれど…」。自分のドリンクにはただの水を取り、客のビールを三杯も立て続けに飲んだホステスが吐き捨てるように言った。「こんな所、イヤ!」。先輩ホステスが嗜め、作り笑顔で場を取りなす。
 若い人たちの雇用が限られているのは、やはり長年の戦争で民族資本が育っていなかったところへ、軍が八七年から数十万規模の兵力削減をし、ドイモイで赤字国営企業が人員整理をしているからだろう。ちなみに、ベトナム統計総局によると失業率は八.一%(九二年)だが、一般的には労働人口の五人に一人が失業者と言われている。別のカラオケでは、ホーチミン大学法経学部二回生のホンさん(21)が、なかなかの美声を聞かせてくれた。「ドイモイ?お陰でお腹一杯食べられるようになったわ」。
 彼女が子供だったころは、朝の暗いうちから配給切符を持って並んでも、前の人で品切れになってしまうことがしばしばあったという。「学費が年六百ドルなんです。父は洋品店をやっているのですが、とっても……。昼間授業を受けられて、学費を賄える仕事なんて他にありませんから……」。英語、中国語、日本語の歌がそれぞれ一割。残り七割はベトナム製のカラオケソフトだ。しかし、歌の内容と全く関係ないハワイの海岸やアルプスの雪景色に、ベトナム語の歌詞だけをテロップで入れた作りには唖然とする。「シンガポールやタイに続いて欲しいですね。二〇〇〇年には、ベトナムもアセアン諸国と肩を並べると思っています」と、何かの記事で読んだのか、固い話題もOKだ。
 ホーチミン市は、南ベトナムの首都サイゴンとして五五年から二十年間、資本主義経済を経験している。一人当たりのGDPは同市が全国最高。公式発表は八百二十ドルだが、妬みから悪い噂がたつことを嫌って、過小申告している節があり、実際は既に千ドルを超していると見積もられている。対して、ハノイは六百ドル、全国平均は二百五十ドルと、北部や地方との格差は最大四倍に開いている。
 授業料を納めなくても学べ、一生懸命働かなくても給料が貰える社会主義経済では、もはやない。ドイモイは、全体では人々の勤労意欲や競争心をかき立て、生産性を上げているが、一方で、大学の授業料が年収そっくり注ぎ込んでも足らないという現実をも引き起こしている。
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 解放戦線発祥の村

 ベトナムの教科書にも載っている南部の解放戦線発祥の地、ベンチェ省モカイ郡を目指す。ホーチミン市から南へ約百五十キロ。国道四号線を車で四時間。途中、メコン川支流をフェリーで二回渡る。このあたり、つまりメコンデルタは、海抜ゼロメートル地帯。海水中の硫化物が、干満と日照りによって泥質の土壌に濃縮され、飲み水の確保が難しく、水瓶の表面に膜を成す金属石鹸をミョウバンで沈殿させている。雨期には道は泥沼と化し、人々の足は専ら川や運河伝いの船になる。髪の長い女と椰子が多く、そして共産党も多いと歌われるベンチェ省の田舎は、そうした貧しい僻地でもある。
 しかし、幹線道路はアスファルト舗装されていて思いのほか快適である。途中から同行した地元の人民委員会によると、アメリカ軍が、解放運動を封圧するために兵隊や弾薬を運び、また、住民の懐柔作戦として援助物資を送り込むために作った道だという。それも六十年代半ばには、解放戦線側が寸断したため、アメリカはヘリ輸送に切り換えた。モカイ郡ディントゥイ村の中心に建つ革命記念館には、仏領時代の地主を追い出す際に使用した手製の銃やナタ、こん棒なども展示されている。ホーチミンの真っ白の胸像と並んで、壁にはセピヤに変色した村の英雄たちの写真が掲げられている。そのうちの三人が、この村に存命というので、早速会いに行った。

写真:祖国解放の英雄、ピックさん(左)とディンさん

 フイン・バン・ディンさん(77)とフイン・バン・ピックさん(69)兄弟の家は、クリーク沿いにココヤシやバナナが生い茂る解放戦線の本部跡にあった。兄は一九四四年から、弟は四八年から、それぞれ祖国の独立を勝ち取るためゲリラに参加したという。五四年のジュネーブ協定で、弟はハノイへ移り住み、再編成された解放軍で情報担当の将校になった。
 「私は敢えて南に踏みとどまり、地下活動を続けました」と、兄は長大な作戦を採ったことを明かした。兄は、同志の家などで秘密会議を開いて、地主に搾取されていた農民を纏め、次第に大きな運動とし、地主や役人を包囲していったという。
 「傀儡ジェムは五九年、共産主義者を殺す法律を作り、無実の人を拷問しては腹を割いたり、ギロチンで首をはねたり、女性ならレイプしたり、もう酷いものでした」と、兄は語調を強めて振り返る。そうした弾圧に、村人たちはジェムの写真を焼いたり、命令に従わないといった消極的な方法で反抗を示していたが、ついに六〇年一月、政府軍から分捕った銃や原始的なこん棒などを手に蜂起し、この村をメコンデルタで最初の解放区としたのである。現在のベトナム共産党の前身、労働党が南ベトナム民族解放戦線を結成したのは、その年の暮れであった。
 兄は「我々を搾取する地主や役人に対して自分たちで決起したので、ハノイから来たオルグに纏められ、導かれたのではありません」という。兄弟はハノイで革命の方法を学んできた先輩の指導を受けたが、当時ハノイからの連絡は手紙で、幾人もの同志の手を経て三か月から五か月要していたので、作戦の連携は無理だった。ちなみに手紙は特別な薬液に浸すまで、ただの白紙といった細工をしてあったという。
 解放戦争が本格化してからは、米軍のヘリの着陸を阻止するため、ローターが当たるよう広場に丸太を何本も突き立てたりもしたそうだ。そして、サイゴン解放の日、彼はやはりこの村にいて、ホーチミンルートを通って南から回り込む正規軍の後方支援をしていた。「傀儡の追放、祖国の統一という念願が叶い、それは嬉しかった。解放後、共産党の指導者たちは人々に十分な食糧と服をくれ、何よりも我々を人間として扱ってくれました」と、兄は満足そうに語る。
 ドイモイについて兄は、「この村にもバイクが増え、電気が来て、農村が近代化されるのは嬉しい。国の利益や自分たちの幸せのために、人々は新政策にもっと注目するべきです」と、推進派の立場をとる。だが、八二年に軍を退役するまでハノイに暮らした弟は個人的意見と前置きしながら、「政府は市場経済を導入したが、強まる人々の需要に供給が追いつかない点で、以前より悪い状態になっています」と、急激な変化に慎重な姿勢をとる。
 また、かつての敵国、仏、日、米の再進出について兄は、「平和的に開発できず、血を見るのはもう御免だが、他国と協力することは良いことです。『三人寄れば文殊の知恵』というでしょ」と。一方、弟は「再び植民地にならないためには、開放政策は特定の国に対してではなく、分け隔てなく付き合うことが大切です。外国とベトナム双方の利益になるなら賛成です」と。革命家兄弟はそれぞれに新しい関係を歓迎し、祖国発展の期待を寄せていた。
 彼らの家へは四輪車では行けず、村の中心からバイクの荷台にに載せてもらって行った。村の英雄を取材するためだったが、バイクはちゃっかり有料。道の両側には、日用品、洋服などの店、食堂やTVゲームを置いたゲームセンターまでが軒を連ね、社会主義革命の発祥の地も市場経済花盛りといった様相だ。店は村人たちの副業だが、彼らの農業自体も、米と野菜、果物、家畜といった自給自足型ではなく、すでに単一種の換金作物、サトウキビに変わっていた。
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 エビの頭

 ベンチェの市場には車海老の頭だけが盛られていた。さぞ大きかったであろう身の部分は、ベンチェ川沿いの冷凍倉庫で日本への出荷を待っているそうだ。「メコンデルタ名物の海老も、形の良いものを食べたかったら、予め馴染みの魚屋に頼んでおかなければなりません」と、非政府援助団体(NGO)の駐在員はぼやく。
 彼と話し込んだのは、元米兵がベトナム人妻と一緒にかつての激戦地へ戻り、今年オープンさせた「カリフォルニア・カフェ」という店だった。コーヒーは街の喫茶店より五円ほど高めだが、アメリカ人オーナーと英語で話すのが目当てで来ている常連も多いそうだ。「南ベトナム政府の関係者だった人は未だに公職から追放されていますが、最近の英語熱のお蔭で、元将校がこっそり自宅で英語塾を開いたり、彼らの生活もやっと上向いてきました。ですが、弾圧を逃れるため登録書(住民票)を取らずじまいの人も多いですから、彼らが老人になった時が、また問題ですが…」。
 ベトナムはアセアン加盟の意思を表明し、一昨年からメコン開発会議にも出席している。ここメコンデルタはベトナム屈指の米作地帯だが、上流の各国が発電や灌漑のダムを建設すれば、海水の逆流が必至である。職業訓練で農漁村を回る彼は、「政府は淡水を維持するため小規模な関を日本のODAで建設し、表向き上流の開発に反対していますが、開発資金を世銀やアジア開発銀行からより有利に融資してもらうためのカードの一枚でしょう。この国はコメでは儲からないという考えで、農業を犠牲にしてでも、工業化してゆくつもりだと思います」。ベトナムの労働力は質が高いと評価されていても、アセアン諸国に二十年遅れで同じ道を追いかける工業化を、彼は疑問視している。
 取材を頻繁に受ける彼は、ドイモイの良い面ばかり取り上げ、手放しでドイモイを賛美するメディアに不満を募らせる。急激な工業化でありがちなことだが、人権や環境の問題は山積している。「円高の折、バラ色のベトナム投資を謳う記事や番組が多いですが、訪ねてくるビジネスマンたちは『ベトナムで資金運用して、一儲けできれば』といった姿勢の人が多く、私の見る限り、リスクの小さい原材料調達や不動産投機、委託加工が殆どですね」と、彼は底の浅さに先行きの不安を漏らす。
 南ベトナムへのアメリカの経済援助は、ベトナム側が社会改革や国土開発の抜本的計画を持ちあわせていなかったことを良いことに、民衆を買収し、親米政権の延命を図るため、その場限りのバラマキ援助だったことは、何よりも現状が物語っている。
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 目こぼし

 サイゴン川の夕景を撮るため乗った観光船で、ベトナムの明日についてハノイからの報道局員に意見を求めてみた。「ベトナムでは天安門事件のような騒ぎは起きないでしょう。外国からの情報は一般的には国民を煽ることもあるでしょうが、ベトナムの場合は違います。デモやスト、テロなど実力行使に出ればどうなるかを、人々は外国の例から逆に学び、自分たちが得るものと失うものを天秤にかけていると思いますよ」。船がくぐる橋の上には、何組もの若いカップルが夕日を見つめている。「九一年までのカンボジア派兵まで半世紀以上ずっと戦争が続き、国民誰もが戦争はもう沢山。平和と安定が一番という思いを持っていますから」と、いうのが報道局員が展望の根拠とするところだった。
 「それにしても、あなたあの晩は一人で一体どこへ行っていたのですか?ホテルには私服がいるから、分かりますよ」。話を聞かせてくれた人たちが気になり、尾行されてはいなかったかと自問自答する。ノートやフィルムを没収されるかと、冷や汗が首筋を伝った。が、それ以上のお咎めはなかった。
(文・写真/阿佐部伸一)

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