阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

ラオス、ベトナムキーワードは「サステイナブル」1997年8月

草の根開発の現場で

かつてアメリカが煽撫(せんぶ)物資を運び込むために作ったアスファルト道路が赤土の道に変わると、両側は真っ白な平原に。摂氏三十八度で雪はあり得ない。
ここはベトナム中部のフエ省。山が海に迫る中部特有の白砂地だ。点在する円形墓が、不毛の地といった印象を押しつけてくる。ゲリラを殲(せん)滅しようと枯れ葉剤が撒かれた山は、二十年以上たった今も芝しか生えず、異常になだらかな山肌を晒している。都市のストリートチルドレンがドイモイの光が落とした影ならば、中部の村人には未だその光が届いていない。

現在ベトナムに援助している各国NGO(非政府援助機関)は五百を数える。が、その援助対象はハノイとホーチミン市に集中、駐在員を置かずにカネやモノを贈るだけの団体が大半だ。そのなかであえて開発や援助が遅れる中部で活動する日本のNGOにスポットを当てた。

ドイモイに翳(かげ)り

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夕闇せまるハノイを飛ばすバイクの群

ベトナム社会主義共和国がドイモイ(刷新)政策を正式採用したのは一九八六年末。二〇〇〇年までに全国電化、二〇二〇年の先進国入りを目指し工業化を急いでいる。だが、今年上半期、観光客が初めて減少に転じ、九%台という高度成長の減速が確実となった。慢性的な貿易赤字と財政難を抱えながら工業化を急ぐこの国の外資導入政策は、外国企業にとってうま味のあるものではない。事業立ち上げ中の免税措置がなく、利益の本国送還を厳しく制限されていたところに、駐在員の所得税まで徴収したため、撤収を検討しはじめた外国企業さえ少なくない。

この七月二十日、第十期国会議員選挙(定数四百五十)が全国で一斉に投票された。ホア・ランさん(27) =事務員は「期待って? 選挙なんて誰が選ばれるか最初から決まっているの。単なるパーフォーマンスよ。それに(首脳部)三人が引退しても、顧問は変わらないから…」と、政治には期待できないという。共産党の翼賛組織、祖国戦線が候補者を決める選挙制度のもと、六百六十三候補のうち、共産党員は前回から六ポイント低下したが、それでも八三%を占めた。独立候補はわずか十一人。うち三人が当選したが、体制に影響を与えるには程遠い。

総選挙で揺るぎない独裁を確認した共産党だが、共産党とは名ばかり。社会行政予算を切り詰めるため、地域の医療・教育・福祉サービスの民営化を進め、村内の道路や用水路の管理維持費まで地元負担という考えで十数項目にわたる徴税を行っている。共産党幹部が贅沢な家を建て、合作社の保留地に絡んだ汚職が発覚したタイビン省では今年五月、重税に喘ぐ農民たちが一揆を起こした。今回訪れたフエ省でも、八月上旬に徴税官と地元兵士の喧嘩が殺人事件に発展したと噂されていた。

草分けNGOの草の根援助

日本のNGOの草分け、日本国際ボランティアセンター(JVC)は九三年六月から、ここフエ省で少数民族のパコ・タオイ族と、元水上生活者も多い沿岸部のベトナム人の村々を援助している。彼らの一人当たりの国内総生産(GDP)は全国平均の約三百米ドルの半額。世界銀行が指す貧困ライン以下で暮らすベトナム人五割のなかでも極貧層に当たる。

ベトナムの人口はおよそ七千五百万人。九割はいわゆるベトナム人、残り一割が国土の三分の二を占める山岳地帯に暮らす五十を超す少数民族である。ベトナム戦争中、解放戦線側が少数民族を取り込もうとコメなどを支給したことや、米軍の枯れ葉剤で彼らの生活の場であった森林が破壊されたこと、戦後は都市の過密人口を僻地の「新経済区」に移住させて開拓農業に当たらせたことが、彼らの生活文化を変えるきっかけとなった。

だが、森林を移動しながら自然の恵みに生きてきた彼らは定住農法を知らない。かつて彼らの主食はもち米だったが、今では正月や来客用となり、普段はキャッサバやうるち米、菜っ葉を食べている。バナナや薪、キャッサバ、パイナップルを売って、干し魚や塩、調味料を買う。カロリーも栄養も不足し、子供の六十%が栄養不良とされる。かつてのホーチミンルートを辿ってアルイ郡に訪ねた二村も、そうした典型的な少数民族の村。ホンバック村は二百十戸、千三百四十五人が暮らし、ドンスン村は約五十キロ離れた山村から九一年以来徐々に移住していて、百七十三世帯、九百八十六人になっていた。

こうした寒村で事前調査から現在まで農村開発を見守ってきたのが伊藤達男さん(46)。青年協力隊時代に知り合った妻と二人、JVCフエ駐在を務めて五年になる。彼は高校三年の時にビアフラの飢餓を知り「百姓なら世界のどこへ行っても喰いっぱぐれないだろう」と東京農大へ進学。

大学のサークルで韓国やバングラディシュなどへ援助活動に行ったのが、この道に入るきっかけだった。大卒後、社会革命をなし遂げたばかりのラオスで二年間稲作を指導し、軍事政権下のエチオピアで三年半農村開発に当たった。途上国では独裁政権の権威を市民に見せつけるためなど、とかく大規模援助、つまり量だけが重んじられ、地道だが開発には不可欠な人材育成が軽んじられるといった壁にぶつかった。そういう彼はベトナムへ来る前、オランダで開発学を学んでいる。

政府機関を援助しても末端まで行き渡るとは限らない。少数民族や貧困層に直接カネやモノを渡しても、それを有効に使う受け皿が出来ていない。これまでの経験から今NGOの間で開発援助のキーワードとなっているのが「サステイナブル(維持可能な)」だ。JVCでは農村開発の可能性を調査してプロジェクト地を選定した後は、村人たちに「村おこし委員会」を組織してもらい、希望や計画を出させる。JVCは情報を与え、初期資本を提供し、事業の管理運営方を教えるだけ。計画・実行するのはあくまでも村人自身という姿勢を貫いている。なるべく早く村人たちが自らの力で自らを開発できるようになることを目指しているからである。

アルイ郡ブー副知事(41)は「魚をやるより、魚の釣り方を教えるのが本当の援助です。結局、村人に力がなければ何も始まりませんから」と、JVCの理念と同調しているようすだ。この四年間あまりにJVCが山岳地帯のアルイ郡と沿岸部のフーバン郡で実施してきたプロジェクトは、農道や用水路などのインフラ建設、多品種栽培、傾斜地の土壌流出を防ぐ等高線農法、無農薬で収量を上げるアイガモ農法、砂地の土壌を改善する植林、豚の新種導入と獣医の養成、農業拡大資金の貸出しと、枚挙に暇がない。

試行錯誤

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定住し水稲を栽培する少数民族

白砂地にあるビンハー村のグエン・ティー・ラックさん(50)は、「平和になったことが何より一番嬉しいですよ。こんな田舎にドイモイはあまり関係ないけどね」と微笑む。

解放戦線の兵士だった夫は何度も負傷したが、今は傷痍軍人会から恩給を受けながら農業を営んでいる。苦しかった家計は「村おこし委員会」の援助や指導でブタを飼うことで徐々に改善し、農業を手伝わせていた六人の子供を学校へやれるようになった。八人家族で一か月百万ドン(約九千円)の現金が必要だが、子供に高等教育を受けさせる蓄えも出来るという。

ホンバック村の村おこし委員の一人であり、十七歳を頭に三人の子の母であるカン・ベさん(37)は「婦人教育用に養鶏のテキストを揃えたいんです。それに、雨季にも学校へ行けるように道を直したいし…」と暮らしに直結した発言をする。ただ、NGOに頼んでも叶わないことを知っているのか、村に電気、自宅にテレビ、冷蔵庫、扇風機などが欲しくても口には出さない。草の根援助は果して民心を掴めているのか? 村から六キロの郡庁がある中心部には、三年前に電気が通っている。

フエ農林大学が今年六月にまとめたレポートによると、百三十三家族を調査したところ百%がJVCの農村開発プロジェクトは有益と、六七%が生活が安定、三三%が家計収入が増えたと答えている。各村の村おこし委員会はもちろん、郡政府もJVCのプロジェクトを称賛する。だが、全てが上手く行っているわけではない。

失敗の例としては、次のようなものが挙げられる。ローンで飼いはじめた牛が厩舎の不備や毒蛇の被害、予防注射への無理解などで死亡。肉付きが良い豚の新種を導入したが、豚が村人と同じものを食べるため、餌が不足して死亡。委員会は二か月以内に死んだ場合の弁済は五十%という規則を作ったが、その日その日食べるのが精一杯でそれも払えない人がいる。また、井戸掘りなどインフラ整備に援助しても、村にセメントを使える人がいなくて外注するため対経費効果が悪かったり、予算不足から作った用水路が小さすぎて、雨季に溢れた水が道路を浸食してしまったこともあった。開設した託児所は、郡が保母にしかるべき手当てを払わず休眠状態のところもある。

他方、村人との価値観の違いによる失敗もあった。例えば、薪になり売れるモクマオという木は積極的に植林するが、砂地の土壌が改良され後々畑にできるアカシアは、直ちに儲けと結びつかないと興味を示さない。村おこし委員に選出されても自分の収入増につながらなければ、辞めていく人もいる。会計が大金を管理するようになって人が変わってしまったり、資金を持ち逃げする件も起きた。援助は金持ちの喜捨と考えているのか、それとも、単に契約概念が希薄なのかという疑問が頭をもたげるが、NGOの目的はその回答を出すことではない。

それより伊藤さんは、NGOが計画のイニシアチブを取らないと自分たちから具体的な提案をしないことや、村人が良い案を出しても無視し、同じ案でも外部からなら受け入れるといった傾向を変えたいという。痩せた土地に新しい植物を根づかせるのも、貧困に喘ぐ村人たちの間に自発性を根づかせるのも、同じように難しい。彼はこれまでのベトナムでの活動を百点満点で六十点と自己評価する。マイナスの四十点は、・村興し委員を人民委員会の幹部が兼任することが多く、NGOの開発論と必ずしも一致しないこと、他のNGOが大きな金額を落とすと、援助額の多少に関心が集中すること、環境へ配慮した生産は経営リスクを伴うのであまり進んでいないこと、だという。

また、日本側の無理解や支援体制が援助を失敗させることもあると、伊藤さんは指摘する。農村開発のほとんどは一年で結果が出るものではないが、NGOは単年度予算を組むこと。援助の形態は現地状況に呼応するべきだが、使途を指定した寄付金が多いこと。プロジェクトの成否は人材にかかっているが、人件費を切り詰めること。

NGOスタッフといえども生活がある。「ボランディア」という言葉は、ややもすると「手弁当で」と解され、本来の「自発的意思で」という意味が忘れられている。企業や政府の海外駐在に比べ、NGOスタッフの報酬や待遇は格段に低く、結婚や子供を諦めている人も少なくない。元より自発的意思がなければ勤まらない条件である。援助はカネやモノを贈るだけでは功を奏さず、事前調査からそれが機能するまで現場を見守る必要があり、休暇にできる仕事ではない。ゆえに、彼ら“プロのボランティア”が必要なのだ。ちなみにJVCのベトナム向け年間予算は、他の活動地を合わせて四千九百万円ほど。総額でも大病院などを建てる政府開発援助(ODA)一件にも及ばないが、これだけ幅広く草の根開発を実施できているのは、ボランティアだからであろう。

新しい修復援助

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ベトナム最後の王朝、阮(グエン)朝の王宮

♪あなたと二人 フエには二度来たわね 甘い恋のすべてを知っているフエ…。

その名も“パーフューム・リバー(フオン川)”を渡る夜風は、どことなく甘くまろやか。昼の焼けつく日差しを忘れさせてくれる。船上では民族衣装をまとった楽隊が古の調べを奏でる。経済格差を逆手にチップを弾むと、阮(グエン)朝の王族に招待されているかのような錯覚に陥る。が、船が潜る橋には、豪華な食卓に指をくわえる市民がいる。

この川を十数キロ遡ったところに、阮朝第二代の明命帝(一八二〇~一八四一在位)の陵墓、ミンマン廟がある。フエ市内の旧王宮とともにユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界遺産」に指定されているここでは昨年八月から、トヨタ財団と建設省、国際交流基金の援助で修復工事が始まっている。崇恩殿前の覆い屋根の下、右従寺が解体され露になった礎石をメジャーで計っていたのは、重枝豊さん(43)=日本大学理工学部建築史。

ベトナムに関わって九年目、ミンマン廟の調査には九四年から延べ二百二十日を費やしたという。日本人スタッフは自分を入れて四人。「解体を始めると様々な年代のものが出て来て、それぞれ記録を取って、材質などを調べなくてはなりませんから、工事をあえて遅らせじっくりやっています」と彼は額の汗を拭う。

「ドイモイが功を奏し文化財が注目されるようになってきましたが、これも考えものなのです。観光客誘致を急ぐがためにデタラメな修理をやっているからです」と杞憂する。

これまでの修復は外国がカネを出し、ベトナム人が作業するといった構図で、学術調査を伴った修復には程遠かった。だが、このミンマン廟の修復にはベトナム政府も資金を出している。「ベトナム人技術者も真剣さが違いますよ。これを試金石に、科学的な修復保存の体制がベトナム側に出来れば良いのですが」と重枝さんは話す。だが、彼は政府のためにやっているのではないと調子を強める。「文化財を修復したいという志を同じくするベトナム人と一緒に研究しているんです。だから、技術移転なんてしようとは思っていません。彼らと力を合わせてベトナムの建築・修復技術を掘り起こしたいのです」と言葉を継いだ。

今回のフエ滞在中に研修ツアーの日本人グループと話す機会があった。「小学校の数が足らないのでは?」とNGOスタッフに問う。限られた予算ならば、校舎など大掛かりなハコモノ援助ではなく教科書や教材、二部制授業、僻地の教師養成などを支援する方が先決ではないか。また「この国にはタイのようになって貰いたくないわ」という感想も耳にした。非衛生的だとベトナムの氷を口にしない人たちが、未開発で不便な暮らしに甘んじる覚悟があっての文明批判とは思えなかった。「もっとアジアの人たちと一緒に汗を流す機会を作れば友達もできますが、掛け声のように最初から友好や交流を目的にやって来てもアジアを深く知ることはできませんよ」。重枝さんとの世間話のなかに奇しくも、その研修ツアーへの提言があった。

互いに補いあって

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NGOの援助で、農道にコンクリートの橋を架ける村人たち

村々を回る四輪駆動車に揺られながら伊藤達男さんは話す。「ベトナム人の多くは未だ明日の飯をどうしようかと悩みながら生きています。片や日本では若い世代は先人の苦労も知らずに、なぜ人間は生きているのかといった基本的なことを考えることもなく、動機不明の殺人事件などが続出しています。交流することで、お互いを補い合えると思うのです。ベトナムは開発の弊害を抑えようと、社会主義のモラルを維持して、社会の公平さを保とうと努力しています。私はベトナムの経済開発が加熱しすぎ、モノが豊かになる一方で精神が退行し、日本のような歪んだ社会にはなって欲しくないのです」

東西冷戦が終わって流行りだした畳みかけるような論調がある。工業国の人が自らの苦い経験からいくら助言しても、途上国の人は自ら痛い目に遇うまでわかろうとしないし、持てる者のエゴでしかないといったそれだ。途上国の開発援助に半生を捧げてきた彼はこう反論する。「選択の権利は彼らにあり、私たちにはありません。しかし、事前に情報があるかないかで選択肢が違ってくるはずです。だから、やはり彼らに伝えることは伝え、彼らが岐路に立ったとき、そのことを思い出してもらえれば、それだけでも良いと思うのです」

途上国の政府はより高額で、より短期に成果が上がる援助を歓迎するが、JVCの草の根開発はフエ省の副知事や農業局長の理解を得て五年目を迎えている。とはいえ、彼らの自立を妨げない時期に引き揚げることも、援助を成功させる大切な条件。伊藤さんはフエ省での活動はあと二年以内と決めている。「今は口ばっかりの百姓です。そろそろ自分で畑をやりたく思っているんですよ。日本のどこか田舎で…」。白いものが混じる口髭がもぞっと動いた。

雪原のような白砂地にあるビンハー村。チャン・トン副村長(37)はハキハキとした口調でこんな話をしていた。「豚や牛が死ぬなど個人的な事情で困っていても政府は助けてくれません。村では台風で家をなくした人に建築資材を持ち寄ったり、積立金制度もあります。これからも作物の種類を増やし、畜産を広げ、ポリオを絶滅し、用水や道路の整備し、…、いろいろとしなくてはならないことがありますが、トップダウン方式じゃなく、みんなの意見を聞いて優先順位を決めようと思っています」。トン副村長は村おこし委員を兼務しながら、自らコメやサツマイモ、レモンなどを作っている。民主主義者のようなことをいう彼だが、れっきとした共産党員。先出のブー副知事も、そうだ。政治信条は違ったとしても、目指すところは同じ。総選挙の結果は代わりばえしなかったが、ベトナム共産党はその内側から確実に変化しているようだ。それが草の根開発のせいかどうかは、当局の判断に任せるとする。

※JVC(日本国際ボランティアセンター)の公式サイト

(文・写真/阿佐部伸一)

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