阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

タイスラムからの義援金1996年1月

 「ナムチャイ(気持ち)ですよ」。そういって照れる彼らに深い包容力を感じた。阪神大震災から一年が経ったこの正月、義援金を贈ってくれたバンコクのクロントイ・スラム(人口約三万人)の住民に会ってきた。

阪神淡路大震災から1年

スラムで募金
募金箱を手にスラムの路地を回るボランティアたち=95年1月下旬写す(プラティープ財団提供)

当時タイのテレビにも映し出された地獄絵に「お釈迦様に祈るだけでは」と、募金を思い立ったのは、スラムの社会福祉家のプラティープ・ウンソンタム・秦さん(42)だった。日本からの奨学金を受けていた子供たちが率先して募金箱を手に路地をまわり、二月初頭には集まった百二十万バーツ(一バーツは約四円)を彼女自ら神戸へ届けた。

大晦日のパーティー会場となる路地を飾っていたスワンナさん=飲食店員(24)は「困っているなら、助け合わなくっちゃ。貧富の差なんて関係ないわ」と照れる。ラーメン屋台を営むチャンヤーさん(45)は「共感っていうのかな、とても他人事じゃなかったわ」と。父の廃品回収業を手伝うマヤーちゃん(11)は「頭のよい子になるって、先生が言うから」と、三バーツを寄付した。

「大したことは出来なかったのに、大使館員がお礼に来られて…」と謙遜するプラティープさんは、「災難は沢山ですが、より多くのタイ人と日本人がこんな気持ちを体験し、心通う“兄弟”になって欲しい」と語る。

急成長するタイ経済を底辺で支える彼らの収入は、最低賃金法の百四十五バーツ/一日を割ることさえある。決して楽ではない暮らしから、なけなしの金を寄付してくれた理由を敢えて尋ねてみた。シリマーさん(42)は「タイ人にとって苦しんでいる人を助けることが、即ち徳を積むことなのです」と、仏壇を載せた棚の下、内職のミシンを踏む。バンコクの交通渋滞を縫って走るバイクタクシーのライダー、ピシット君は「僕も死んだら極楽へ行けるだろうから、寄付しました」と、十七歳というのに因果応報を信じていた。

こうした彼らからの義援金は、被災地で活動していたボランティア団体などに手渡され、主に親や家を失った子供たちを慰める催しや、臨時保育所を開くために使われた。
劣悪な労働条件や住環境にあっても、明るく生き抜くクロントイ・スラムの人たち。そんな彼らからの義援金に、熱いエールを感じたのは記者だけではあるまい。
だが、今回スラムで、あの神戸市長田区の惨状を思い起こさせる事件に遭遇した。十二月三十日夜、八千平方メートルが灰塵と帰す大火が発生し、数千人が焼け出されたのである。元日早朝、被害を免れた地域へは、例年通り僧侶が托鉢にまわってきた。タンブン(喜捨)して手を合わせる彼らに、タイの「ナムチャイ」を見た。

(文・写真/阿佐部伸一)

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