阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

台湾、香港、イギリス、日本介護保険実施までもう2年、まだ2年1998年3月

待ったなしの対応が迫られる急速な高齢化。寝たきりや痴呆、虚弱で介護が必要な高齢者数は、 二〇〇〇年には計二百八十万人、二〇二五年には五百三十万人となる(厚生省)。公的介護保険の実施を二年後にひかえ、 全国の市区町村では新ゴールドプランに沿って人員や施設の整備が急がれている。同保険法構想が発表された三年前、 いち早く二十四時間巡回介護をスタートさせた大垣市に、日本の福祉の明日を見る。

誰もが安心な社会保険制度 大垣市の場合

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巡回介護で訪れたヘルパーの手を借りて立ち上がる訓練をする元医師。寝たきりにしないことが大切だ=大垣市内で

「三回くらい失禁して、もうびしょびしょ。奥さんも自分だけでやっとだから、シーツ替えは無理やね」。「今度シャーリングパンツを勧めようと思うんやけど、先生のプライドを傷つけんように言える人、誰かおらへんかな」。巡回介護ステーションで、ホームヘルパー交代時の会話である。

その夫婦宅。門と塀だけで建売住宅が建ちそうな豪邸だ。「ほんと汚くしているんですのよ」。脳出血の手術で失語症が残る妻(63)はカーペットに杖をついて、脳卒中で左半身マヒした夫(74)が横たわる部屋へ案内する。マントルピースのある居間には応接セットの代わりに、二台のスチールベッドが並んでいた。「働きづめで、やっと海外旅行でもと思ったら、最初で最後になってしまいました」。映画『第三の男』の舞台となった観覧車を背にした自分たち、そして孫の写真が壁を埋めている。

夫は元病院長。倒れた八年前に入院患者の受け入れをやめた。四年前に閉院し、病院の建物はデイサービスセンターとして市に貸した。今は朝夕二回の巡回型と、週二回の滞在型介護を受け、週一回は送迎付きでデイサービスに通っている。

午後七時十五分ヘルパーが巡回してきた。医師の彼にとって知己を頼れば入院を続けるのはたやすい。だが、彼に入院治療が必要でないことは、誰よりも彼自身が知っている。必要なものは、栄養を考えた食事、清潔で規則正しい生活、そしてリハビリだ。ヘルパーはまずトイレに行きたいか確認し、外した入れ歯と眼鏡を洗い、熱いおしぼりで顔と手を拭く。

「頑張りましょうね」と抱き起こす。椅子までは二メートル弱だが、バランスをとって一歩踏みだすのが大変だ。歩行器に掴まって椅子から立ち上がるリハビリを五十回。妻と二人だと甘えが出て三十回と続かないが、他人であるヘルパーが適度の緊張感を与える。「こういう病気は時間がかかるが、効果はある」と、医師は首に掛けたタオルを目尻にやった。「昼はセンターで風呂に入って、いい食事をとって。もう、最高(の福祉行政)だ」と彼は評価する。

夫婦には三人の子供がいるが、長女は他市へ嫁ぎ、次女は世界を駆けるキャリアウーマン、長男は東京の病院勤務医で正月も当番で帰省できない。一足先に新ゴールドプランを実現している大垣市だからこそ、子供たちはそれぞれの仕事に没頭できているとも言える。ベッド周りを片付けたヘルパーは「他に何かありませんか」と声をかけ、戸締りを確認。次の巡回先へと軽自動車のハンドルを握った。

「思いやりだけでは勤まらないヘルパー」

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大垣市が高齢者介護事業を委託している社会福祉協議会

松尾芭蕉が『奥の細道』を締めくくった城下町、大垣市。八十キロ平方の平野に十五万人あまりが暮らす。うち六十五歳以上は約二万三千人と、高齢者率はほぼ全国平均と同じ十五%。一般会計に占める民生費も約二十%と平均的だ。なのに、デイサービスやショートステイの施設だけでなく、二十四時間巡回介護が早期に実現したのは「二〇〇〇年実施に向けての助走」という小倉満市長のトップダウン行政と、高齢者福祉への社会的認知が議会へフィードバックされているからに他ならない。

市は九五年七月十二日、要介護老人家庭へのサービス事業を社会福祉法人大垣市社会福祉協議会(以下、社協)と株式会社新生メディカルに委託し、市内五つの中学校区で始まった。九六年十一月には対象者を身障者ら六十五歳未満にも拡大し、今日に到っている。

ホーム€ヘルパーは今年三月現在、常勤三十人、登録二百四十五人。勤務は日勤のほか、早番、遅番、深夜番のローテーション。三時間ほどで介護のほか家事もする滞在型と、三十分以内で主に食事やトイレ、着替えなどを介助する巡回型の訪問介護を行っている。彼女たちは三十四歳からヘルパー定年の六十歳までの主婦。身体介護を伴う場合、時給は千三百九十円、深夜番手当ては五千円。報酬は比較的高額なようだが、肉体的にも精神的にも楽ではなく、老人の家族状況や入院、死亡などで急に勤務が変わり収入が不安定といった声もある。

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ローテーション表を確認するヘルパーたち

人員確保は、毎回受付開始の翌日には定員になるという「ホームヘルパー二、三級」講習会(市主催)の終了者から募っている。だが、一方で実働は登録者数の三分の一、八十四人という数字もある。社協でヘルパーの人事を担当する社会福祉士、山田孝主任(36)は「生はんかな気持ちで登録した人は長続きしません。主婦にとっては自分も忙しい朝夕に介護の需要も集中しますから」と数字の意味を説く。同プランは全国十七万人のヘルパーで始めるとしている。ホームヘルパーといった職名が耳慣れなかった九一年にこの職に就き、ヘルパー一級と介護福祉士の資格を持つ近藤登志子主任(50)は「志望者は優しく思いやりのある人ばかりですが、それだけでは勤まらない仕事なのです」と、その難しさを話す。高齢者との信頼関係が大前提なのだが、感謝される一方で、止めどなく拡大していく要望に応えていては、その人の自立を妨げ、事業としても成立しなくなる。また、性格も家庭状況も一人ひとり異なるため、介護はマニュアル化が難しく、ヘルパーに観察力と判断力が要求される。交代時の申し送りや、引き継ぎ日誌を徹底している大垣市でも、介護のあり方は永遠の課題のようだ。

小林好子さん(47)は父親が寝たきりだった七年間、民生委員に世話になったことがきっかけで五年前ヘルパーになった。「脳梗塞で寝たきりになったおばあさんを介護していると、医師は見込みないと言ってたのに、一言も話せなかったのがハッキリと話せるようになり、字が書けるまでに回復したんです」。この仕事にやり甲斐を感じたエピソードを彼女は話してくれた。

問われる行政の調整能力

目抜き通りに面した民家では、母親が痴呆症で老人保健施設に入り、一人で暮らす身障の女性(54)が床に伏していた。関節リウマチが進行し全介護が必要、毎日滞在型と六回の巡回型を受けている。「施設でなく、自宅で暮らせ)ありがたいです。腎臓の薬でトイレが近いけど、夜も安心です」。ここには高齢者宅と同様にワンタッチでヘルパーや救急車を呼べる電話が配備されている。

被介護者の負担は、全体の四分の三が生活保護者や非課税層で無料、残りは収入にスライドして月額二千円から最高四万円。総事業費一億五千万円のほとんどが在宅福祉事業補助金で賄われている。二〇〇〇年以降は介護保険や税金が投入される反面、必要に応じてサービスを提供している六十五歳未満や身障者は対象外となる。市高齢福祉課係長心得の北嶋勉さん(42)は「介護保険実施で、逆に負担増になる人や、介護を受けられなくなる人が出てきますが、人道上やめるわけにはいきません。市が上乗せしてでも、カバーすべきです」と心強い。また彼は、委託団体の間で「サービス単体の切り売りや、採算性ばかり優先する福祉にならぬよう、行政の調整能力が一層問われます」と、厳しく見守っていく構えだ。

市では一人暮らしの高齢者を週一回訪問し、介護ニーズが発生すれば通報する福祉協力員を五十世帯毎に一人配置しようとしている。市民によるボランティアだが、すでに約四百五十人が活動している。また、テレビ電話で要介護者と結ぶ「テレケアシステム」を駆使し、主治医や訪問看護センターなどの医療機関とも綿密な連携を進めている。同プランで各中学校区に一か所とされる在宅介護支援センターも、九区中七区までがオープン。家族に無理なく在宅ケアができ、一人暮らしのお年寄りでも安心して暮らせる福祉先進都市には引っ越してくる人も出てきた。

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。享年五十一歳の芭蕉、当時としては長寿の方だったであろう。それから三百余年、日本人の平均寿命は男七十六・七〇歳、女八十三・二二歳、共に世界第一位である。

「福祉で街がよみがえる」— 福祉と経済は両立 神戸看護大学 岡本祐三教授=老人医学・福祉経済専攻

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著書を手にする岡本教授

「介護保険がイデオロギー的に論じられなくて良かった。もう、待ったなしのタイミングでしたから」。日本の福祉行政の発達を遅らせ、医療費を際限なく膨れ上がらせたものは、お上の施しを受けるのは家の恥としたかつての日本人の思いと、福祉を“お荷物”と考える政治家や世論の存在、そして「福祉VS防衛」といった旧革新系のナンセンスな対比だったと岡本祐三教授(54)は分析している。

治療は終わっているが、介護の人手がないために退院できない老人。彼は医療現場の第一線で、病院の機能低下と家族の困窮の板挟みになり悩んだ。「年老いた子が共倒れ寸前で親を介護しているのを見て、これは大変なことになると肌で感じました」。英、米、北欧の高齢者介護を研究した彼は、新たな社会システムでしか問題は解決できないと確信。福祉の充実と経済成長は両立し、そうした社会こそが本当に豊かであると、近著『福祉で街がよみがえる(日本評論社刊)』でも訴えている。

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デイケアーセンターで働く若い女性

全国約九割の自治体が財政難を理由に介護保険の前提となる新ゴールドプランの二〇〇〇年達成は不可能と回答し(NHK調べ)、長引く不況に失業率が戦後最高を記録している。

だが、彼は景気回復や雇用対策には従来の建設より福祉への公共投資の方が効果があると、大阪自治研究センターの試算を引く。一千億円の公共投資を北九州市にした場合、雇用創出効果は建設部門で一万五千八百八十九人、福祉部門なら二万九千二百六十六人。建設はすでに機械・合理化が進んでいるが、福祉は手つかずの労働集約型産業だからである。ちなみに大阪府、島根、静岡両県でも同様な試算結果が出ている。「福祉は医療と同じで需要が供給を引っぱり、すでに高齢者福祉は大衆化しています」。彼は求められる福祉投資は、景気回復と社会活性化の切り札だと言い切る。茨城県高齢福祉課は昨秋から県下市町村に「他の公共事業に遜色なく雇用や地域活性化に効果がある福祉の基盤整備を」と呼びかけている。

岡本教授は老人医学の専門家として介護保険が公正に機能するよう厚生省の「介護認定調査要綱」作りのブレインを務める一方、福祉経済学者として持論が立証され、真に豊かな二十一世紀が到来すると信じている。

【ことば】『公的介護保険制度』

介護が必要な人にホームヘルパー派遣などの在宅介護サービスや、特別養護老人ホーム入所など施設介護を提供する社会保険制度。区や市町村へ申請し、介護認定を受けた後に福祉サービスを選ぶ。利用者は費用の一割を払い、残りは四十歳以上から集めた保険料と税金で半分ずつ賄う。原則、六十五歳以上が対象。政府は二十四時間介護の提供には約四兆二千億円が必要と試算。当初の保険料は月額二千四百円余りとしている。その半額は会社員なら企業側が、国保加入者なら国が負担する。

(文・写真/阿佐部伸一)

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