阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

タイ心をもらう旅2003年9月

戸籍のない子たち

ムエタイ少年
ムエタイの練習に励むラー君だが、対外試合にはクラスメイトの名前を借りなければならない=カンチャナブリの生き直しの学校で

夢はムエタイのボクサーというラー君は十五歳。彼は物心ついた時、すでに妹のナーンちゃん(14)とバンコクで物乞いをさせられていて、自分がいつ、どこで生まれ、親が誰なのかも知らない。稼ぎが五百バーツ(約千五百円)に満たなかった日に、元締めに押し付けられたタバコの跡は消えたが、殴られたナーンちゃんの鼻は今も低い。

カンチャナブリにある『生き直しの学校』に兄妹がやって来たのは5年前。このドゥアン・プラティープ財団の施設には、ラー君のように親に捨てられたり、虐待された子供たち、三歳から二十三歳までの男女、四十四人が共同生活している。兄妹は、他の子供たちと一緒に村の小学校に通っているが、保護されるまで一度も学校へ行ったことがなかったので、二人とも五年生。しかし、このままでは中学へ進学できない。戸籍がないからだ。融通がきくのは、村の小学校まで。今でも対外試合に出る時、ラー君はクラスメイトの名前を借りている。

戸籍取得に必要な証人を探し出すため、ソーシャルワーカーのモンティエンさん(34)は、兄妹が保護されたバンコク最大のスラム、クロントイ(人口約十万人)へ二人を連れて行くことにした。
タイNGOの草分け、プラティープ財団は、このスラムで生まれ育ったプラティープ・ウンソンタム・秦代表(52)が学生時代、学校へ行けないスラムの子供たちを対象に開いた「一日一バーツ学校」が原点。二十六歳で受賞したマグサイサイ賞の賞金などを基金に同財団を興して四半世紀、貧困家庭の子供の教育を中心に、麻薬やエイズの撲滅運動などにも取り組んできた。

スラム見学ツアー

プラティープ
「教育さえ受けられれば、社会に役立つ人材になります」と、戸籍のない子供たちを分け隔てしないプラティープ代表=クロントイのプラティープ財団本部で

そんなNGOの活動を見学するため日本人の一行がやって来た。大学教授が企画するこのスタディツアーは今年で十三回目。今回も社会人と学生八人ずつ、十六人が参加した。財団の幼稚園で子供たちに迎えられ、プラティープ代表からスラムの歴史や現状、それに、ラー君たちが暮らす『生き直しの学校』についてレクチャーを受ける。学生にとっては授業、社会人には会議のようだが、みんな熱心に耳を傾け、メモも取っている。

プラティープ代表は、「たとえラー君たちが、カンボジアやミャンマー生まれであったとしても、彼らを学校へ行かせるべきだと思います。良い人に育てば、彼らも社会の役に立つ人材になるわけですから」と話す。

ガイダンスを受けた日本人たちはスラムを見学。日本でも昭和四十年代までは川沿いや線路脇に建ち並ぶバラックを目にしたが、今の学生たちにとってはショックなこと。迷路のような路地。一列になり、財団のガイドを追いかける。もともと湿地帯だったので、前日の雨で、通路は方々で冠水。何十年もに亘って捨てられてきたゴミが一面に浮かぶ。小学校もそこそこに働いてきた大人たちは、親になっても低賃金に喘ぎ、貧困からの出口は見えない。そして、そのシワ寄せは、しばしば子供たちに行く。

証人探す孤児

ラーとナン
手がかりが全くなく、ラー君(左)とナーンちゃんを慰めながら、聞き込み調査を切り上げるモンティエンさん=バンコクのクロンントイスラムで

日本人が見学する同じスラムを、モンティエンさんはラー君とナーンちゃんを連れ、証人探しに廻る。だが、トラウマを刺激し、落ち込ませることにならないか。モンティエンさんはいつでも中断できるよう、二人の肩を交互に抱きながら路地を行く。

「この顔に見覚えないですか」。「ないねぇ。この子たち自分のこと何も覚えてないの」。「それが、覚えてないんですよ」。日本では、遺児は普通、保護された場所の自治体の長が名付け、本籍を決め、戸籍を作る。しかし、タイで戸籍を作るには、両親の名前と住所、親が失踪している場合は、親を知っている証人や出産した病院のカルテなどの証拠が必要とされる。周辺国からの密入国者に悩むこの国で、遺児の戸籍取得は難しい。人権を優先し、自治体の長に一任すると、カネで戸籍を売るといった腐敗に繋がりかねない。国境沿いやスラムには、少なくとも百万人の無国籍者がいる。

「この子たちを探しに来た人がいたら、私に知らせてください」と言い残し、三人はもう一軒、また一軒。盲目の小母さんも訪ねた。「この子の住んでいた所を探しているんです」。「どの子? ボーイかい」。小母さんはラーを抱きかかえるように触る。「いや、うちの財団のラーですよ」。「ラーはボーイの友達かい」。「そうです」。ずっと押し黙っていたラー君自身が答えた。「でも、知らないな、ラーの家は」。子供たちの顔に陰りを見て取ったモンティエンさんは、これで調査を打ち切った。

「このケースは特に難しいですね。出生を知る手がかりが全くなく、我々も途方に暮れているんです。でも、このままでは…」と、モンティエンさんはため息をつく。三人は気を取り直して、クロントイ港の警察署に立ち寄ることにした。兄妹は五年前、この警察署の床に寝ているところを保護されたからだ。

「やぁー、誰かと思えば、暫くだな。この子、勉強は」。「学校でもトップクラスですよ」と、モンティエンさんは自慢げだ。「お巡りさんに名前を付けてもらって、覚えていますよ」。「そうそう、あの冷房機の裏に寝転んでたろ」。指差す警官は当時の様子を思い出したようだ。ずっと物乞いをさせられていた子供たちは、言葉の発達が非常に遅く、保護当時は自分の名前すら言えなかったという。

ヒットしたアブラヤシ計画

アブラヤシ
苗の実物を前に、アブラヤシ事業の説明を受ける日本人たち=生き直しの学校で

一方、日本人の一行はスラムツアーの後、『生き直しの学校』に到着していた。見学者は四月と八月をピークに年間約千人。うち八割を日本人が占め、バスを仕立ててやって来る団体が多い。同校は薬物中毒の少女の更生を目的に一九九三年にオープンした。世界的な不況のもと、財団では経済的自立に向け、アブラヤシの植林事業を昨年立ち上げている。「人間も二十五歳にもなれば、独り立ちしなくでは。財団も同じですよ」。プラティープ代表は、創立二十五周年の年にアブラヤシ事業を始めた理由を話す。

この事業は、アブラヤシの苗一本につき五千円で支援者を募り、学校隣接地三十二万平方メートルに四千四百本を植え、十年後には年間運営費約八百七十五万円の六十五%をその売り上げで賄おうというもの。代表は六月上旬キャンペーンに来日、二か月を待たずして目標を超した。石けんをはじめ、低公害燃料にもなるアブラヤシ。それに、子供の成育とダブっても見える成長の早い熱帯樹。また、支援者の名前プレートを付けるといった条件がヒットしたようだ。

太鼓の音や歓声が同校ホールから聞こえてくる。日本人たちと子供たちは言葉が通じないので、交流はもっぱら歌やゲーム。なかには子供買春の犠牲になった少女もいて、子供たちはそれぞれ過酷な過去を背負っているのだが、どの笑顔にも屈託がない。ボクサー志望のラー君に対し、妹ナーンちゃんは、「私はマッサージ師。お年寄りの世話をするのが好きだから」という。そして、ここへ来る日本人たちについては、兄妹ともに「たくさん支援してくれ、思いやりのある人たちだと思います」と答えた。

休暇に私費で来るワケ

スラム人形
バラックが途切れた湿地帯を覆い尽くすゴミ。教育を受けられなかった親のもと、しばしば子供が貧困の犠牲者となる=クロントイスラムで

日本人たちは全員、職場や学校の休暇を利用し、私費でやって来ている。生き直しの学校のプラコーン校長(55)はそんな日本人を、「この子たちを見て、『自分の悩みなど小さいものだったんだ』と思いたくて、来るのではないですか」と見ている。

子供たちにヤキトリや素麺など和食をご馳走し、日本の童謡を披露する日本人たち。彼らは休暇を温泉やリゾートで過ごすのではなく、敢えてタイのスラムや田舎で子供たちと触れ合うことを選んだ。参加者それぞれに得るものがあると思うからこそ、スタディツアーに参加したはず。その答えは、三日間の施設滞在の最終日、お別れ会で耳にすることができた。

「今度いつ来られるか分かりませんが、皆さんが大きくなった時に、必ずまた来たいと思っています」。冒頭、音楽の教師をしているという参加者は嗚咽しながら、これだけのことを一分以上かけ押し出すように話した。通訳はあるが、一体なにを大泣きしているのかと、ラー君たちは唖然とした表情。

また、公立中学教諭の古川正博さん(52)は、「スラムや施設のスタッフの情熱に接して、自分の萎えかけていたモチベーションを高められました。一緒に来た学生には、日本にもいる不登校児や非行少年、あるいは、進学しない子供に、もっと関心を持って欲しいと言いましたが、それは我々教師も自戒すべきことなんです」と、感激している。

里子支援している男児を膝に乗せた大学職員の村上多恵さん (29)は、目を潤ませながら、こう話した。「日本では仕事のストレスがあって、心に余裕がありませんでした。ここへ来て、子供たちの笑顔に癒されたのですが、彼らの過去を知った時に、癒されている自分が恥ずかしくなりました。もう、心を頂いたというか、そんな旅でした」

日本人は休暇に手弁当でわざわざやって来る。逆境のなか頑張る子供たちと接し、自らのカタルシス=浄化を求めているのは、日本で暮らしている人なら想像に難くない。が、好き好んで逆境に生きているのではないタイの子供たちにとって、こんな日本人の行動は不可解なものだろう。それでも、互いに関心を持てたことは、何にも代えがたい収穫である。

(文・写真/阿佐部伸一)

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