阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

台湾、香港、イギリス、日本故郷・台湾1992年1月

「政治の話はやめておいた方がいいですよ、みんな嫌がりますしね」。神戸の台湾人にそう言われて、 単なる観光旅行に終わるのではという不安な気持ちで蒋介石国際空港へ降りたった。

東京と変わらない?

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大陸に進出した企業は?証券会社の電光掲示板に見入る投資家

「綺麗な女の子のマッサージどうですか?」。台北のホテルへチェックインすると、ポットを運んできたボーイは、これを言うのが目的だったように切りだした。参考までに聞けば、泊まりで六千元(一元=約五円)。台湾の一人当たりのGNPは一万ドルを超し、ホワイトカラーの平均月給は三万六千元を下らない。

ボーイがつけていったテレビは、カンフーアクション入りのメロドラマをやっている。化粧品、ビデオ、コンピュータ、栄養ドリンク、紙パック入り烏龍茶、カップ麺、「国産オレンジを食べましょう」という政府広告と、CFがやけに長い。

チャンネルを回すとNHKの衛星放送。李鵬首相が「台湾省は我が国の固有の領土で…」と、折しも北京を訪れたアフリカの外交使節を前に演説していた。八八年追認許可されたパラボラアンテナは、台湾全土にすでに四十万近くあるという。

翌日、ホテル近くのブティックの覗く。スカートの値札は五千八百元。「台北の高級指向には、トーキョーよりミラノ・ファッションが合っているみたい」と、接客の合間を縫って鄭嘉菱さん(19)。

ワンレングスの女子大生風の美人が来店。いずこも女心は同じ?嘉菱さんに意見を求めながら、さんざん試着して邦貨六万八千円相当のコートに決めた。が、うら若き乙女でも、そこは中国人。三割値切り倒した上、持ち合わせがないからと手付けの千元だけを置いていった。

所得が上がって

広大なゴミ捨て場を背に、鉄骨スレート葺きの工場が立ち並ぶ新荘市。コンクリートの床に地響きをたてるプレス機に向かっていた工員は、ヘッドホンステレオのイアホンを片方の耳から抜いてボスを呼ぶ。「去年二月に十人のインドネシア華僑を雇ったんだけれど、観光ビザだったから強制送還されちまったよ。連中は本当に良く働いてくれた。だから給料も当然、台湾人と同じだけ払ったさ」。良林企業の黄明立社長(38)は気さくに答える。十台並ぶプレス機のうち、六台は止まっている。「フル稼働には三十人要るんだけれど、今は十五人。あと六人は何としても欲しいんだが、月給を二万一千元出すというのに人が来ないんだ。注文は幾らでも来るんだが…」。彼は政府が今年受け入れる一万五千人の外国人労働者に期待を寄せている。

大陸での経営をする難しさは?「言葉が通じるのも良し悪しですよ。例えば『検討』という単語でも向こうでは、『糾弾』というようなニアンスが強いんです。『報告』は全くもって『密告』の意味ですし。四十年も違う体制下にいたんですから…」と、大手食品メーカー、味全食品海外事業部の梁哲昌協理

カネがとりもつ縁?

大陸・厦門に一番近い台中港へ向けて十五分も走らぬうちに奇異な風景が広がった。煉瓦作りの壁に反った瓦屋根の中国式の農家がぽつんぽつんと残る造成地にそびえるファッショナブルなビル。テニスコート程もある巨大な分譲事務所の看板には「80%低利貸款」とある。大陸との直接通商解禁をもくろんで開発される「第5期重画区」だ。あの世でもお金に困らないようにと「冥幣」を撒きながら墓地へ走る霊柩車を追い越した。計算高い中国人がこれだけ先行投資しているのだから…と、思った。

オフィス街の公園で保険会社の訓練部課長、鄭松安さん(24)と話す。「大陸?私たちの国に決まっています。何なら、その辺の誰にでも聞いてごらんなさい」。口調は丁寧だが、自信たっぷりに断言する。「独立を唱える野党が本当に勝ったら、それも民意だから仕方ないけど、中共が黙っていないよ。私は『統一』を希望してます。統一されたら、向こうには保険というものがないから、いくらでも契約が取れそうで…」。そういって微笑んだ松安さんは、大卒後の兵役では諜報部で軍曹を務めたことを明かした。

ご当地政府はヘソに

蒋介石の別荘もあった避暑地、日月潭に到る南投県の山道に忽然と現れた台湾省政府。椰子の並木道に並ぶ議員宿舎、花壇をあしらったロータリーの周りには高校の校舎のような庁舎。他には何もない人工的な街は中興新村と呼ばれる。國府が南京から台北に遷都されたのは一九四九年。「省庁が多すぎる」という理由で、一九五七年から五八年にかけて台湾省の議会をはじめ各省庁は順次この地へ移転してきたという。

なぜこんな辺ぴなところに?「ここが、地理的に台湾の中心なんですよ。中国人は国を治めるのに真ん中にいるのが良いと考えるんです」と、答えてくれたのは人事處秘書室の萬榮水主任(37)。実際「台湾の“へそ”」の標識が北西約二十五キロに建っているが、何だか狐につままれたような気がする。

台湾省議会二十三議席中、二十議席が本省人だそうだ。省会議員は任命制だが、全人口の八十五%が本省人という割合とほぼ合致している。「二年後には省議員も選挙で選ばれると思いますが、この国の民主政治は始まったばかりなんです。先日の選挙で入れ代わった国民大会が憲法をどう改正するかにかかっています」と、彼は改革派であることを暗に主張した。

「私は個人としてお話ししただけです。史実や政府の見解と違っていても、責任は持てませんから…。私たちは決まりでこう断らないといけないんですよ」と、彼は東洋人特有の笑みを浮かべた。

やはり、まだ軋轢?

午後九時を少し回った高雄市の飲み屋でのこと。いきなり十数名の男たちがなだれ込んできた。いわゆる“私服”だ。隣りの客によると、彼らは警備總部や調査局、警政署、憲兵司令部、国家安全局のいずれかに属しているそうだ。目を引いたのは、暗闇でも打てるようキーが発光するT字型のマイコン。身分証の提示を求め、その番号を入力している。台湾製で即座に手配中の人物かどうかを判別するらしい。

「ワシの友達は二・二八事件で逮捕されて、三十年も牢屋に入れられたんだ。出てきたらもういい歳だったから、仕事もなくってぶらぶらしているよ」。駅から乗ったタクシーの運転手、楊忠貞さん(61)は爆発寸前。客が外国人だからぶちまけるんだろうか?それにしても、台北名物の無法道路を片手運転しながら、怒り心頭、右手の拳を振り回す。

野党第三党の工党党員の周克威さん(38)は、巻き舌の米語でまくしたてる。「『どうして高校生が二か月も軍事訓練を受けなければならないのか?銃の撃ち方まで教わらなくてはいけないのか!』って教室で言ったら、クビですわ」。彼が私立高校教諭の職を追われたのは、八九年のこと。三十八年に渡った戒厳令が解除され、二年が経っていた。「總統に立候補した黄華氏のほかにも、投獄されている政治犯はまだまだ大勢いる。今でも『忠誠資料』なんていうのがついてまわる。きっと共産主義社会よりも恐ろしいよ」と。

吉野永次さんこと蓼武雄さん(64)は「許信良(民進党主席)先生の他にも、留学先で博士号を取ってくる優秀な人が台湾には大勢いるんだが、政府の欠点を指摘すると入国させないか、投獄する。民主国家日本に助けを求めたい。それに、言っておくが、『中共が攻めてくる』というのは國民党の口実だ」と、インテリっぽい口調で体制批判する。

一九八八年元日、新聞が自由化され、八九年一月二〇日、野党登録が可能になった。台湾には現在、新聞が二百社前後、政党が六十一もあるという。

希望の新星?民進党

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切られたケーブルが散乱する高雄民主電視台前

昨年十二月二十一日の国民大会代表選挙で、敗退した最大野党「民主進歩党」の本部も、この高雄市にある。脱いだ靴でテーブルを叩きながら怒鳴り、揚げ句の果てはテーブルをひっくり返す同党員の姿をテレビや雑誌で見ている通訳は及び腰。そんな彼を引きずるようにして、党の有線テレビ局「高雄民主電視台」を訪ねた。応対してくれたのは局長で高雄市会議員の黄昭星氏(43)。グリーンのポロシャツに白いジャンパーが若々しい。

「それは、ひどかったですよ。八月三日から二か月程は連日、多い日は一日に三、四回も、放送用ケーブルや電話線、電力線を國民党に切られました。カービン銃を持った警官に護衛させ、電力会社や電話局の職員らと総勢百人位で押しかけて来るんです」と、黄局長は訴える。選挙を前に民進党のキャンペーンを妨害することが狙いだった。切られては繋ぎの攻防は続き、今も週一回は切りに来るという。

「高雄民主電視台」は一九九〇年四月に開局した民進党最初のテレビ局で、黄局長以下二十五人のプロデューサー、カメラマンらがいる。現在、台湾全土五十六箇所にこうした局があり、「チャンネル4」として二十四時間放送している。契約金千五百元、月極め受信料五百元。高雄市だけで約一万五千世帯が契約している。あくまで政見放送と告発ドキュメントが売り物だが、視聴率を上げるためNHK衛星放送の他、香港のアクション物やアメリカのポルノも流している。

やんわり選挙の敗因を問う。「國民党が買収したからだ!一人当選させるのに二百五十万元はばらまいた」と、そこまでは威勢が良かったが、証拠はあげず又聞きの話ばかり。

「野党同士でも極左グループやカトリック系と団結できなかったし…」と、自分たちのこととなるとしりすぼみになる。スローガンは?「総統直接選挙、台湾独立、身障者福祉向上、公害問題解決、…」と、黄議員は並べたてた。それならばと、噂に聞く中国石油高雄精油所公害の被害と訴訟について尋ねた。だが「補償金十五億元で病院など福祉施設が建設されたが、あんなのは見せかけだ」と言うだけ。聞き方を変えて三回質問したが、従業員や周辺住民の被害実態や対策ついては全く答えてくれない。もし議場でもこんな調子なら、國民党のベテラン議員にやり込められてしまわないだろうか?

今年末には三年に一度の立法院(日本の国会に相当)の選挙がやって来る。

あの女神号は

民主女神号の船主、呉社長は五万米ドルと一年という時間をかけて、外国テレビ局数社から買い集めた計八時間の天安門事件のビデオを見せる。日本のテレビでは見たことがない虐殺シーンや市民の証言が次々と出てくる。BBCのカメラが捉えた累々たる血まみれの死体。その直後、矮小化した死者数を発表する中共幹部を、彼は嘲り笑った。事件直後、李登輝総統自らが「最沈痛的心情」と遺憾の意を表明していたが、今では天安門事件を再放送することすら禁じられているという。「これは私の『最後王牌』だ。今はこっそりあなただけに見せてるが、その時が来れば…」と、音声だけが入ったカセットテープを託した。

ルーツ探し

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四十年ぶりに再会した親戚の浅ましさに失望、台湾に骨を埋めると凧売りの元国軍パイロット

一九八七年十一月、三等親以内の親族訪問に限って大陸旅行が許可となった。だが今や、街の旅行社には大陸観光のパンフレットが堂々と並ぶ。「私が見せたと絶対に分からないように…」と断わりながらも、ある交通局職員は数字への驚きを促すような笑みを浮かべて一枚の書類を差し出した。「一九八七年、二万人(推定)。……。……。九一年、九十九万四千七百十四人」。大陸旅行者の政府統計だ。人口二千二十万人の台湾で、累計は二百九十万人を超えている。

大陸旅行の許可は、香港にある中華人民共和国の外交部査証出張事務所へ申請すれば、わずか三、四日で出る。直行便はないので殆どが香港経由で大陸入りする。台湾政府としては依然、「三不政策(大陸とは接触せず、交渉せず、妥協せず)」を貫いている。

台北市南京東路の旅行社で、OLの陳淑貞さん(22)は「大陸?“クラッシック”というイメージね。中国人のルーツは知りたいけど、衛生状態が悪いらしいから、あんまり行きたくないわ」と、引っ込み思案だ。ちなみに、彼女は台湾基隆市出身。六代目の本省人だという。

宿題で舗道を実測していた中国工商専科学校建築工程科の林柏延くん(18)は「兵役を終えたら是非、北京の紫禁城へ見てみたい」と建築士の卵らしく言う。台湾の故宮博物院へ五回行ったことがある彼は、近代的展示設備には感心したが、彫刻されているはずの装飾がモルタルでそれらしく造ってあるのには幻滅している。

今も続く国共戦?

選挙前の十一月下旬、中共人民解放軍は大陸東部沿岸で十年来最大規模の空軍演習を行った。台湾での独立の動きに対する軍事的威嚇との見方が強い。

「一九九七年までには攻めてくるかも知れないな。こちらから攻撃することは絶対ないけど」と、陳杏生さん(42)は中共軍の脅威を払拭しきれないでいる。中華人民共和国が成立した一九四九年、彼の両親は香港へ脱出してきた。杏生さんはお母さんのおなかの中にいて国境を越えたわけだ。高校まで香港で学び、台湾大学経営学部を卒業。本省人奥さんとの間に子供が二人、台湾の永住権を持っている。

台湾の男子には全員、二年間の兵役義務がある。杏生さんは一九七二年台湾が対日断交した直後の一年十か月、最前線の福建省金門島で中共軍と対峙した一人。彼は陸軍野戦部隊百二十人を従える少尉であった。「あの頃金門島には五万人もの兵士が駐屯していました。敵陣上空で弾けてビラを撒く宣伝弾を連日撃ち、ビラを入れた風船や浮きもよく使いましたね。こちらは『バナナの皮で飢えを凌ぎながら牛馬の如く働く“藍□蟻”』と、むこうは『アメリカの飼い犬、資本主義的走狗』と誹謗しあいました」。杏生さんは、狂気じみた過去だったと言わんばかりに笑いとばす。「あの頃は、毛澤東は必ず毛“匪”澤東と書いたけど、とっても今は…、中共を不必要に刺激することはないからね」と、冷めた目で見ている。

コーラのペットボトルに入っていた焼酎が底をつくと、彼は戸棚の奥からいそいそと新しい酒を取り出してきた。「客には出さない特別な酒なんだよ」と大事そうに抱える瓶には、黒い甲虫が五十匹以上ぎっしり詰まっている。彼いわく、クワガタ焼酎。「足が取れちゃったりして、売り物にならないのを、生きたまま漬け込むんだ」。それを美味そうに啜ると、エイズに効き、精力剤にもなると言って記者に試飲を勧めた。

だから発展

「今年の元旦早々、香港で政治犯釈放を要求して一千人以上が新華社通信へデモ行進したでしょう。中共は九七年返還後も経済体制はむこう五十年はこのままでと言うけど、不条理な治安法を敷いて民主化運動を弾圧するんじゃないかと、多くの香港人は疑ってますよ。僕もその一人だし、台湾も万一にも統一されると想定すれば、当然台湾人だって」。迫りくる「九七年」を香港生まれの彼は、妻子と暮らす台湾とダブらせて見つめる。

「中共の脅威があるからこそ、ここまで発展したんです」と、逆説的に解くのは産経日報杜の福新編集局長(41)。國民党が強権を保ち、国民がついてきたのは、そうしなけらば中国共産党の支配下に落ちるという恐怖があったからという。また、列強が中華人民共和国と国交を結んで以来の国際的な孤立が、アタッシュケース一つで世界を営業して回るといった“堅忍不抜”な台湾ビジネスマンを育んだという。民進党が四ポイント減の二十四%となった先の国民大会代表選挙についても「独立さえしなければ中共が攻撃する大義名分がないことも、一人当たりのGNPが二十五分の一(三百二十米ドル)の大陸とは統一は無理なことも知っている有権者が安定を望んだ結果です」と、簡単に結論づけた。

若者たちはノンポリ?

「美麗島事件?何言ってんのよ!世代が違うじゃない」。ミニスカートから伸びた脚は美しいが、そう答える表情は怒りをかったようで険しい。「麥當勞=マクドナルド」でコーラを飲んでいた娘は、呉美娟さん(22)=マーケティング・リサーチャー。台北のアパート代はすぐ下がるだの、中国人が多すぎるアメリカへは行きたくないだのと世間話をした後、果敢にも再び“若者の政治意識”を探った。「もし私の生活と政治が係わっているとすれば、弟が今、軍事訓練に行っていることと、私が國民党員になれば一寸出世が早くなること位じゃない」と、案外話してくれる。

彼女は昨年末、生まれて初めて投票したという。「議場で暴れる民進党は大っ嫌い。國民党はそれより嫌い」、じゃー?「あなた!この国に國民党と民進党以外に政党があるって言うの?」。市民運動家が寄ったような議席をもたない政党は、彼女の目には入っていないようだ。「工党に力がないのもそう。父は建設会社をやっているけど、労働者だって給料次第で、どんな詰まらない仕事でもするわ。この国ではお金よ。お金で権力も幸福も得られるわ」。どこで仕入れた知識か、誰の入れ知恵か知らないが、二十二歳にしてはえらくシラケタ答えが返ってきた。

カラオケ・ナショナリズム

台湾ではパチンコとカラオケが爆発的な人気を博している。頭文字をとって「KTV」と呼ぶカラオケに「□南語」や「客家語」の歌が増えたと聞き、台中市の雑居ビル地下にある「聖羅蘭(セント・ローラン)」を覗いた。

この日の客は高校生の男女七人組みとサラリーマン風の男性グループが二組、歌が途切れることはない。リクエスト帳を見る。國語(北京語)の歌が六割、□南語が三割、客家語が五分、他は日本語と英語といった割合だ。北京語は國共内戦の敗北で渡台してきた國民党が一九五〇年に國語に制定した公用語。日本語は五十一年間の植民地の名残。□南語と客家語は、いわば台湾語、清朝以前にそれぞれ福建省と廣東省から台湾へ移住した本省人の言葉である。テレビは國語が聞き取れない年輩者向けに漢字字幕付きで放送している。外省人が多い台北市以外では、若者でも学校では國語だが、家では□南語で話すことが多い。

リクエストのナンバー1は「堕落天使」、2位が「恋恋恋」、3位は「如果□是我的傳説」。ナンバー2は□南語の歌である。八七年以前には数える程しかなかった台湾語の歌が、どんどん増えている。高校生が□南語の歌をデュエットしだした。曲名は「故郷(コヒョン)」であった。

日本語で観光

日本人団体客も必ず立ち寄る観光地「九族文化村」=南投県。先住民族の文化を展示する民営の野外博物館だ。彼らは日本植民地時代には「高砂族」と、現在は「山地同胞」と呼ばれ、人口は約三十二万人、言語や風習の違いから九つの部族に大別されている。一九八八年には「還我土地」運動連盟が「我々に土地を返せ」の大デモを繰り広げている。

観光客の視線を浴びてヤミ族の丸木船作りを手伝っていた王仁盛さん(61)はピナン族出身。四年前、遠洋漁業の船を降りて「九族文化村」へ再就職した。自宅は台東なので社員寮に住む。現在月給は一万五千元。「ミウラ先生も、モリ先生も、ヤマジ先生も私を蛮人呼ばわりする子供を叱ってくれましたよ」と、まるで母国語であるかのように日本語で話す。本省人と一緒に遊び、働いてきた王さんは、少数民族に対する差別を感じないという。「再婚した今の家内からして本省人ですもん」

ツオウ族の首狩祭を再現した「クバ(祈りの場)」で、修学旅行の女子高生がイミテーションの頭蓋骨を手に記念写真を撮っている。少しはなれた小屋で機織りの実演をしていたブヌン族の全玉燕さん(63)は「年寄りは今でも他の部族と話すときはお互い日本語ですよ」。彼女は自分の部族の言葉と日本語だけ。國語や□南語は片言しか話せない。

ソフトクリームを舐めながら園内をぶらついていたカップルが、音楽のする方へ急ぎ足で行く。「皆さん、國語でいいですか?」と、集まった観客に民族衣装の司会者は尋ねた。お年よりが多い時は□南語でするそうだ。「ショーが國語なのは仕方ないですよ」と、國語で答えるのはルガイ族の柯菊英さん(44)。部族名ではトゥーコ・プールーサムランさん。三女と一緒にここで踊っている。「私たちのムラルガイ語には文字がないから、部族は長い歴史を持つのに、大分損をしたと思うわ。祖父母や父母が記憶力の良い人ばかりとは限らないでしょ…。でも、國語は上手だけれど部族の言葉が喋れない若い人を見るとやっぱり悲しいですよ」。いずこも若者は都会で別居する。「でも、私の故郷で屏東県の小学校でムラルガイ語が選択科目になるんです、実験的にですけれど」と、嬉しそうに言った。本省人の尤清氏が県長に民選された台北でも、小学校で□南語の授業が試験的に始まっている。

伝統の歌舞ショーが終わり観光客が去った劇場からは、エレキ・ギターの調べが流れてきた。

アメリカに夢?

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台北のビル街を学校から塾へ向かう小学生たち

出入国管理局の統計によると、両親と一緒にアメリカなどへ旅行したまま帰国しない少年少女は七割近い。兵役逃れと、より良い教育を受けるためと見られている。

「私の友達にもアメリカに永住したのがいるけど、私はやっぱりここが好き」。姚嘉□さん(37)の英語にはどこか倦怠感を漂う。ここは三年前台北市敦化南路にオープンしたアメリカン・バー。「友達も手紙に書いてくるけど、東洋人とは“感情移入の仕方”が違うのよね。言葉のせいじゃなくって、どうも芯からは付き合えないわ」と嘉□さん。彼女は喫茶店のオーナー。ワイキキの砂浜に寝ころんで休暇を過ごすのはすきだが、外国に移住するつもりは毛頭ないという。

カウンターにはシェイカーをぎこちなく振る白人青年と、英語ペラペラの中国人娘がいる。カウンター嬢は張暁伶さん(27)。台中市生まれだが、十六歳の時に家族とカナダへ移住、十一年振りに里帰りしたという。「バンクーバーの高校を出て、むこうでは美容師をやってたんだ。故郷がどんなに変わったか見てみたかったの。それとオカネ」。“Uターン出稼ぎ”した彼女。台湾の印象は「MORE EXCITING HERE」

台南市では米ウイスコンシン大卒で、昨年は英ケンブリッジ大の夏期講座に行ってきたという王淑麗さん(30)に会った。「八八年に帰国して、台湾の進歩に驚いたわ。でも、アメリカは大きすぎるから難しいだろうけど、どうしてこの小さな台湾で環境汚染や汚職などに手が回らないんでしょうか」。彼女がアメリカ留学していた四年間に、台湾は戒厳令や報禁、党禁を解除した。そして英国へ行くまでの三年間は国立中山大学で英語講師をした。「田舎の人なら、まだ石鹸をあげるだけで買収できるわ。彼らは『ありがたい』と思うだけで、それが賄賂だという認識がないんですもの。新聞も数え切れないほど出たけど、台湾の人たちは民主主義下での権利がわかっていないと思うわ。自分たちに何ができるか、ということを」。淑麗さんには不満だらけの母国のようだ。

彼女の父親、王清草さん(74)は「一等国民になるという精神は不要だが、どんどん自由になる台湾で人の道を学ぶのに、教育勅語は復活させてもいい」という意見の持ち主。

淑麗さんは清草さんに教育勅語の一節「身体髪膚 受之父母 不可毀傷 孝之始也」を聞かされて大きくなった。その彼女がウイスコンシン大の卒論で取り上げたかったテーマは「プロテスタンティズムと儒教」。大き過ぎて諦めたという。「人は一人では生きて行けないんだから、本当に自分を大切にしたら、先ず人の幸せを願うことになるわ。東洋では個人より集団の和を大切にするけど、結局は同じものを目指していると思うの」。ちなみに、こうした話を中国語が全くわからない日本人と英語でできることが、彼女はうれしいという。

淑麗さんは現在、台南市内の語学学校の一教師だが、将来は自分でカリキュラムを組んで教えたいという。「生徒が英語を通じて異文化を知り、なんていうのかしら鏡に映る自分というか……を見てくれたら、民主主義を自分のものにする日も近いんじゃと、考えているんです」と、彼女の夢は長大である。

今年はバルセロナ・オリンピックが開かれる。台湾の“東大”、台湾大学のキャンパスではバスケットボールの練習が盛んに行われていた。国名の呼称についてメンバーチェンジを待っていた林楡洋さん(21)は「『チャイニーズ・タイペイ』?なかなかいいと思うよ」と、躊躇せず言った。一緒にいた三人は彼と同意見だったが、一人は「『中華民國』ですよ。でなけりゃ、あっちも『チャイニーズ・ベイジン(北京)』と呼ばないと…」

台湾人作家の見方

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「これは台湾で作っているんですよ」と、旧日本軍の帽子を誇らしげに被る老人たち

十日間の台湾滞在もあと一日。いろんな人たちと話してみた。先住民族と本省人、外省人。お年寄りと若者。彼らが渾然一体となって暮らす台湾を見た。

台湾を去る前日、黄春明氏(53)と台北市の自宅で会えた。作家であると同時に、映画監督、ジャーナリストでもある彼は、著作「さよなら・再見」を日本語でも出版している。

貧しい少数民族などの娘を餌食にした買春ツアー。中美村盲学校でのカネミ油症に代表される公害輸出。未だに心臓部に当たる技術は移転せずテレビすら百%は台湾では作れない“経済協力”。経済侵略されているような昨年九十億ドルに達した対日貿易赤字。日本が絡む問題を列挙し、彼は「小説は普通、自分の国の人を対象に書くが、あまりにも日本人が歴史から学んでいないから」と、日本語出版の真意を明かした。

台湾を訪ねて以来ずっと疑問に思っていた、お年寄りが日本時代を賛美する訳を、春明氏はこう解いてくれた。「日本人への社交辞令じゃなく、本心からでしょう。四十七年前の八月十五日、あの玉音放送を聞いて、おじいさんたちは笑ったが、皇民化教育を受けて育った青年たちは“気を付け”して涙を流したんだ。その青年たちが今のお年寄りたちなんですよ…」。五十一年という歳月は足かけ三世代に渡った。

「戦後、大陸から逃げてきた國軍には強盗、強姦、殺人など悪いことした奴もいる、國民党は圧政も敷いた。中国人は五千年の歴史の中でずっとその時代時代の皇帝に支配されていたからか、今でも“民主主義”という概念が希薄なのです。だから、日本時代を知っている六十歳以上は『同じ支配されるなら』と無意識に条件付けて『日本が良い』と言うわけですよ」

選挙結果についても意見をきいた。「台湾の中年は今、初めて車を買い、初めて家を持ち、初めて子供が大学へ行っているんです。彼ら“中産階級”はやっと手に入れたそれらを何としても保ちたい。そんな安定保守が國民党の政策と一致するわけです。経済がどん底まで落ち込んだり、無政府状態にならなければ革命はおこらない。民進党は『独立』は暫くタイミングを待って、もっと具体的な憲法改正案を打ち出して“中産階級”を掴まなければ…」

「ほんと淋しかった。昨年、沖縄であった『シンポジューム・戦争と文学』に参加したんだが、五十一年という世界で一番長い間に日本に統治され、二十万人という一番たくさんの若者が日本軍の兵隊に取られた台湾が、全然話題に上らなかったんですよ。南京大虐殺は少し出てきたが…。政府間の外交はともかく日本人の台湾、中国に対する姿勢の違いなんですが」と、春明氏は最近の来日の印象を語る。

「今の台湾と日本との関係は利害関係ばかり、旅行者は多くても市民同士の交流はそれほどありません。日本人は反省して、台湾人は自覚してから、もう一度握手したいものだ」と、黄春明氏が結んだ。

この原稿を書き終えた一九九二年二月七日付けの朝刊は「台湾からの慰安婦派遣、軍最高幹部が関与」と一面トップで報じた。ちょうど五十年前の出来事である。

(文・写真/阿佐部伸一)

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