阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

ビルマ(ミャンマー)新生ビルマのジレンマ2016年3月

昨年11月8日の総選挙ではアウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が大勝し、491議席中390議席と約8割を占めた。スーチー党首には外国籍の子どもがいて、現憲法では大統領になる資格がないため、「ミャンマー」国会は今年3月15日、スーチー氏側近のティンチョー氏(69)を大統領に選出した。軍人出身ではない大統領は半世紀ぶりである。ビルマは名実共に民主化するのだろうか?この大きな節目にラングーンで様々な人に話を聞いた。

なお、今回のビデオリポートは本記とは直接関係なく、開国・経済自由化に沸くヤンゴンをスケッチした。

民主化ならば法の下の平等は?

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日の出前のシュエッダゴンパゴダと鳩

熱帯独特の黒いカビで実際より古くみえるビルの2階に、ロバート・サンアウンさん(62)を訪ねた。名刺には「ハイジニック」をどう訳せばと迷うが、「衛生的法律セミナー CEO」とある。彼はビンローを噛みながら話し出した。「これまでに政治犯として6回投獄されました」。最近では、2008年、アウンサンスーチー氏の誕生日にビラを撒いたことが66年前に施行された非常事態準備法に触れたと、2011年には反体制派の少数民族と連絡を取ったという容疑で逮捕されたという。

「テインセイン大統領の時代、司法は行政の下にありました、特に政治的案件に於いてはですね。新政府になりましたが、改憲しないことには、三権分立は難しい」。改憲には国会議員の76%以上の賛成が必要なのだが、25%は指名された軍人で占められている。護憲派は軍の連邦団結発展党(USDP)だけ。NLDは総選挙で大勝し、議席の約8割を占めたが、それは75%のうちの8割。つまり全体の6割ということだ。22議席を持つラカイン族や15席のシャン族の政党も改憲には賛成で、NLDと一枚岩になれる。もし軍人議員のうちから一人でも改憲派が出れば…?それでも76%以上にはならない。なぜなら、軍はその議員に精神科の診断書を出して入院させ、無効とする戦術を用いるからだという。1988年にも民主派を擁護する軍人には同様の手口を使っている。

NLDが大統領候補者を選ぶ会議をしていた頃、元首相で上級大将のタンシュエ氏は軍人議員団が擁立する候補として、親戚の元中将でヤンゴン管区首相のミンスエ(64)を指名し、今回2人のうちの一人の副大統領 とした。「彼は2007年の僧侶の民主化運動を武力で抑え込んだり、民主派弾圧のために暴力団に赤腕章を貸与したりする人物で、そのうえ賄賂まみれと市民の評判はすこぶる悪いんです」

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顔も名前も出して話すロバート・サンアウン弁護士

民主派の国会議員や弁護士は未だに内務省の軍諜報員に自宅の出入りから、地方の出張先まで尾行されているという。それでもサンアウンさんは名前も顔も出して訴え続ける。民主化が本当にここまで進んでいるのか、彼が開き直っているのかは判らない。

「この国で平和裏に改憲することは、歴史的に見ても、とても難しいと思います。王政憲法、英国植民地憲法、日本統治後のウーヌー首相の1947年憲法、軍事クーデターで政権を取ったネウィン将軍の1974年憲法、88年からの軍事憲法、そして現在に至る2008年憲法。ことほど左様に、これまでに6つの憲法があったが、改憲時には必ず血が流れ、88年には3千人以上が殺害されました。私は流血なしに改憲は不可能だと思います。もしスーチー氏が無血で改憲を果たせば、史上初の偉人となります」

ところで、外圧は改憲に無力なのだろうか?隣国の中国とは険しい山が往来を阻んできたが、中国が道路を造り、今や中国の影響は甚大。軍は欧米や日本より、中国と親しくしている。サンアウンさんは、脱力感を漂わせながら現状を説く。

「中国人は4千5百ドル払うとミャンマー国籍を得られ、マンダレーの中華街には新中国人が住みついて、長年そこに住んでいた華僑は郊外に追い出されています。また、賄賂の見返りに、木材や宝石を大型トラック何百台と好きなだけ持ち帰らせ、さらには、ビルマ人女性を嫁として中国へ送り出しているんです。こんな具合で、この国では中国が”スーパーパワー”となっています」

加えて、中国と距離を置いていたスーチー氏でさえ、選挙を前に対中関係は無視できないと昨年6月に初訪中している。来日は2013年4月が最後。中国の抱き込み作戦の前に、日本や欧米の影は薄くなっていると言わざるを得ない。

横行する強制立ち退き

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記者会見する大佐の写真が載る新聞を手に、裏腹な結果だと話すティンジョー氏

ラングーン中心部から北へ約18キロ、ノットオクラパス近くでハイウェイを西に入った。その道沿いにテントを張って暮らす人たちは、2か月前までは3キロほど離れた野菜と花を作るプランテーションに住んでいたが、立ち退かされたという。竹竿に張り渡された真っ赤な横断幕には『2015年の新政府を支持 ポスクル塗料工場横 土地接収被害者の会』とある。  被害者の先頭に立っていたティンジョー氏(63)は元全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)の一員で、1988年8月タイ国境のジャングルに立てこもった一人だ。

彼によると、今年1月26日、ティンアウントゥン大佐の下、約2千人の警官とブルドーザーによって、子どもや高齢者、妊婦を含む1千人以上285世帯が約224万㎡の土地から追い出された。同大佐はその時、新聞記者たちを前に水と電気がある代替地を用意していると発表したが、来てみると何もない荒地だった。当時の新聞記事を手に、ティンジョー氏が怒りを露わにする理由はまだあった。「警官たちに追い出された日は高校入試の3日前で、約50人の子供たちが受験できなかったんです。この地域には約200人の高校生がいましたが、ほとんどが親戚などを頼って引っ越して行きました」

「入試が近いので少し待ってくれと、3日以内に出て行けというのは無茶だと、そして、住環境が整った土地ならば引っ越しても良いという条件で話し合いたかったのですが、武力を投入して期限通りに立ち退かせ、住民側の条件は何も聞き入れられませんでした」。地主は軍だったが『ミャワディー・プランテーション』として2003年から土地の賃貸契約を交わしていた。その契約は一方的に破棄された形となった。また、プランテーションを破壊しないと言っていたが、すでに荒地になっている。跡地はをピャンマービン工業団地とする計画だが、まだ何の工事も始まっていない。

プランテーションを立ち退かされるまで、ほとんどの人は農業に従事し、一部が工場や建設現場へ働きに行ったり、三輪タクシーの運転手などをしていた。しかし、今は職を失い、無収入になってしまった人がほとんど。援助団体の見舞金でかろうじて食いつないでいる。新たな仕事が見つかった人から、アパートなどを借り、ここから出て行っているという。一方で、郡役場に相談に行くと、すでに代替地を用意すべく会議を開いているとのこと。それでも、住民が失った土地家屋などは役場が検証しているので、どのくらい補償されるかは分からないとも。

初めて立ち退きの話があったのは今年1月17日で、2回目が23日、そして26日には出て行けと。その命令書は「No.1533」と。全国各地でこうした強制立ち退きが横行している。

ティンジョー氏は赤い横断幕の下でこう訴える。「選挙に負けた軍が新政権になる前に急いで土地を売ろうとしたのだろう。我々は何も違法な事はしていないので、純粋な被害者だ。プランテーションの人たちは全員NLDに投票したのだから、新政府に助けてほしいと願っている」

工業団地の周辺や計画地では土地の強制摂取が行われているが、再開発が目覚ましいヤンゴンではそれと正反対の野放し状態になっている。道路を占拠して商売をしようが、車を好き勝手な場所に駐めようが、警察は取り締まらず、行政も指導しなくなった。一見整合性がないように見えるが、どちらも目先の利益に繋がるならば、居住権もモラルも無視するという点で共通している。

所有権を認めない裁判所

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「新政府に期待している」と、自宅前で喜ぶタンタンミンさん

ミャヤワディープランテーションから車で15分ほど、2年半前にやはり立ち退きを迫られていたシュエーピター区ジーゴン村へ向かう。その後どうなったのかと心配していたが、フロントグラス越しに当時と変わらぬ家並みが見えてきた。

村の入り口にある家のザニーウィンさん(42)は経緯をこう話す。「私たちは裁判所に軍の侵略だと訴えましたが却下され、家屋や電気、水道、家財などの財産を略奪されると訴えて、6、7か月裁判所へ通いました。そうすると、去年11月5日に立ち退きは延期という判決が出たんです」。実質、当面の居住権は認められたが、土地の所有権は認められなかったという。「ここを売って出て行くこともできないけれど、判決以降は軍人が姿を現わすことも、嫌がらせも今のところありません」。今のビルマではあちこちで起こっていることだからか、判決時にもニュースにはならなかった。「裁判所が土地の所有権を認めなかったのは、軍を怖がっていたからだと思います。軍が勝つ判決は下せても、市民の勝利はあれが精一杯だったような…」

同じジーゴン村で前回 こめかみに青筋立てて怒りをぶちまけていたタンタンミンさん(62)は、穏やかな笑顔で迎えてくれた。「ここに住み続けられるということは、とても大事なことです。でなければ、道端で乞食のような生活をしなければならなかったところです。夜に物音がする度にブルドーザーが来たのかと不安で眠れませんでした。もし選挙で軍が勝っていたなら、あの状態が続いていたでしょう」。当時と変わらずアパートを経営していて、記者に部屋を半額で貸すけど住まないかと冗談を言う。「NLDが勝って、本当に幸せです。この村は全員がNLDに投票したのだから、新政府に期待していますよ」。軍が立ち退けと迫ってきた日、彼女の母親はもう歩けなくなっていたが、体を支えさせて境界線のところまで行き、村の長老として「ここは百年以上前から私たちの土地だ」と宣言した。だが、その母は判決を待たず、88歳で亡くなっていた。

NLD国会議員は

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癒えた傷を見せながら「あれは選挙妨害だったと思っている」と言うナインアンリン議員

今回NLDに取材を申し込むと、スーチー党首の意向で、議員が個別に取材を受けることを禁じていることが判った。しかし、NLDのナインアンリン議員(39)はヤンゴン市の市議会で会ってくれた。彼は大けがをしながら国会議員になっている。選挙遊説中の昨年10月29日、マンピェで休憩していると、群衆の中の男が同行の運動員に喧嘩を仕掛けてきたと話す。サトウキビジュースを飲んでいたナインアンリン候補は、男が剣を取り出して、その柄で無抵抗の運動員の肩を叩き始めたのを見て、止めに入ったところ、男にその剣で切られた。左腕を19針、頭を14針縫う怪我で1週間入院したが、大きなニュースになって有権者は同情し、選挙戦には追い風となった。

貧困層が多く暮らすタキタ選挙区から選出された彼だが、土地の強制接収については「地主が転売しているケースが多く、複雑で微妙な問題です」と。また、改憲については「軍が敏感になっているので、一度に全てを変えると大変なことになってしまいます。忍耐強く、少しずつ変えて行かないといけません」と、党のスタンスと同じく慎重かつ、無難に答えた。アンリン議員の受け答えからもNLDの結束の固さが分かる。

ジレンマ

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デモを起こすのではなく、シンクタンクになりたいと語るミョーアウントゥイさん

16歳からキャンパスでビラ撒きをしたり、デモに参加するなど政治活動に参加してきたミョーアウントゥイさん(42)は、テトラエイトで多くの先輩や同級生が殺されるのを目の当たりにし、軍に対して強烈な怒りを覚えたという。国境へ立てこもったABSDFと連絡を取り、ラングーンに武器を取り寄せようとした時、スパイに密告され武器を受け取る前に逮捕されてしまった。以来2009年2月までの18年間を政治犯として刑務所で暮らした。思想改造しようとする軍に、暑い獄中で十分な食事も与えられずに殴られ続けたと振り返る。

釈放後の2010年初頭、ラングーンのアメリカンセンター内で『ヤンゴン自助救済機構』というグループを同志と立ち上げた。仕事がなく経済的には何もできなかったが、精神的に多くの政治犯を支えたという。翌11年8月には『ヤンゴン政治学学校』を設立し現在に至っている。学校には15歳から50歳までの学部生40人と院生20人がいて、政治の理論や知識を学び、現状分析や外国人講師によるセミナーなどを開いている。去年、調査部門を新設し、将来はシンクタンクになりたいと話す。

その彼が言う。「公平な民主選挙をやったから、民主主義国家になったとは言えません。選挙だけでは不十分です」。NLDは奮闘しているが、国会両院も地方議会も軍が25%の議席を占めている中で、その軍が賛成しない限り改憲は不可能だ。「それに、国防、国境、内務の各大臣は軍からの天下りで、どうして民主主義と言えますか。スーチーさんが政治犯を釈放すると言っても、平和的なデモでも、内務大臣がノー、違法だと言えば釈放できないし、デモのリーダーは投獄されます」。シャン州で長引いている内戦が終結しないのも、国境大臣にかかっている。

テインセイン大統領の過去5年間にも、軍は「25%」を手放さなかった。「新政府は殆どNLDが構成しているだけに、非常に微妙な状態になっています。NLDは外国からの投資には注視し、土地の強制接収や腐敗とは闘っていますが、改憲に関する戦略は何一つ明らかにしていません。国会だけでは不十分です。詰め寄れる立場には立てたので、2008年憲法の某条項は変えるべきだとデモを起こさないと…」。だが、NLDは法による国の安定を望んでいる。「私たちがデモを起こすと、『新政府は国を安定させられない』と軍の思う壺です。なので、我々の当面の戦略は、デモはせず、市民が求めるものを調査し、新政府の諮問機関になることです」

ミョーアウントゥイさんはこうも換言する。「発展途上国の民主主義は、どこの国も安定平和を保ちながら、さらに民主化させるのが課題です」。しかし、この国には4つの大きな課題が横たわっているという。(1)軍人ビジネスと新興ビジネスの均衡の取り方、(2)民主化の障害となっている腐敗や汚職、(3)宗教などが絡み法では解決しない少数民族との紛争や難民問題、(4)軍幹部の受け皿。「皮肉なことに、軍にとって有利な状況になっています。市民があまり声を上げるとNLDは仕事ができなくなり、軍への手が緩んでしまうんです」。半生を民主化に捧げてきた彼は”動くに動けない”ジレンマと闘っている。

ガーデンパーティーで

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ミスインターナショナル代表(左から2人目)も華を添えた新興経営者らのガーデンパーティー

「軍相手の方が袖の下で融通が利いたので、仕事はやりやすかったですよ」と、ある商社マンは言っていた。酷暑も凌ぎやすくなった薄暮、濃い緑の公園に隣接したレストランには40代を中心に、カジュアルだが良い身なりをした男女が集まって来た。

十数人と名刺交換をし、そのなかの一人とグラスを交わしながら世間話になった。「これからが面白いですよね。だけど、野党が勝って若い議員ばかりになって、果たして仕事はできるのかと心配です」

今回の取材でこれまでに会ってきた人たちとは住む世界が全く違う。観光や建築、出版、インターネットなどの企業経営者たちのガーデンパーティーだ。軍人の子弟や帰国子女が多い。「まだ8割を占めている無学な農民たちは、政府が変わると全てが直ぐに変わると思うでしょう。それが怖いんですよ」。法整備や社会の人権意識が大多数の国民の期待に追いつかないと、騒乱が起こるという意味で「怖い」と言っているのだ。「セインウィンの5年で世界労働機関(ILO)の意見も受け入れて変化し始めてはいるんですがね。私なんかは自分の事業も、ここまで来るのに何年もかかったので、そんな早い変化は期待していませんが…」

テーブルでは中国料理の豪華なコースが始まった。パーティーに華を添えていたミスインターナショナル「ミャンマー」代表は、観光客誘致のために世界を回るのが思いのほか激務だと言いながらも微笑んでいる。彼女も加わってのカラオケ大会に、1993年のクリスマスの夜を思い出した。スーチー氏が軟禁されているなか、関係者に話を聞くために紛れ込んだダンスパーティー。匿名であろうが民主派の人たちが外国人記者と安全に接触できたその場所は、当時の西側外国公館の庭だった。あれから早23年、牛歩のような民主化である。

8888=テトラエイトを知らない世代が・・・

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この国「唯一」というパンクハウスに集う若者たち。新たなムーブメントは彼らが…

それでも今回、この国で全く新しいムーブメントに出くわした。ラングーンのスーレパゴダは、東京の日本橋に相当する場所。その周辺ではビルの新築や道路の改修工事が進んでいる。ビルマは未だロンジー(腰巻き)にゴム草履が主流だが、若者向けにスニーカーを並べている露店がある。夜8時、その店に金髪に染めたり、タットゥーやピヤスを入れたりした若者たちが集まってきた。中には自毛を熱帯の鳥のトサカのように立てた青年も。

千から5千チャット(約百~5百円)ずつ出し合って、菓子や果物、飲料水などを買い、ビニール袋に分け入れる。パンクロックを愛好する若者たちが毎週月曜、ホームレスやストリートチルドレンたちに食糧を配っているのだ。「リーダーはいません」と言いながらも皆をリードするチョーチョーさん(28)は衣料店の店員から独立し、Tシャツのプリント販売を生業にしている。「ビルマは貧しく、家どころか食べ物にも困っている人がいます。歌っているだけでは何も変わらないので、3年前に始めたんです」

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以前と変わらぬ光景、托鉢に回る少年僧。福祉行政の行き届かない部分は、昔ながらに寺院も

まだまだ社会保障制度など機能していない中、一気に浸透する自由経済。急激な発展に取り残され、物価は上がっても収入は増えず、外資が進出してきても仕事にありつけない人々が大勢いる。失業率は97年に公表し始めてから、不思議と変わらず、ずっと4%。だが、そんなはずはあるまい。

彼のバント『リベル・ロイット(=反抗者の暴動)』は2007年に結成、オリジナル曲は20ほどあり、『住むところがない!』が代表曲だそうだ。3か月に1度、高架下などで演奏し、フェイスブックやビラで公演を知った100から150人の聴衆が集まるという。そこでもこのボランティア活動への寄付を募っている。

民主化を求めて蜂起した市民に軍が発砲し、3千人を超す若者たちが亡くなったのは1988年8月8日、テロラエイト。それはチョーチョーさんが生まれた年だった。定かにされなかった犠牲者の数を検証することも新政府の仕事だと言われている一方で、テトラエイトを知らない新世代がパンクバンド”反抗者の暴動”の活動に共感し、デモではない静かな民主化運動を行っていた。

(文・写真/阿佐部伸一)

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