阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

カンボジア日本軍の飛行場2005年4月

戦後60年目に

体温を超していよう。カンボジアの最も熱い季節は、日本より3か月ほど早く巡って来る。畦に砂糖ヤシが生えた田が地平線まで続くコンポンチュナン州ルンウェー郡。広大な空き地が忽然と現れた。アスファルト舗装され、中央には線状に煉瓦が埋め込まれている。日本軍が建設した飛行場跡である。土を被り、亀裂に草が生えたりしているが、戦後60年がたった今も小型機なら難なく離着陸できそうだ。日本軍は1941年7月末、仏領インドシナに上陸し、英米領だったインドや華南、マレー、フィリピンの橋頭堡として、ここルンウェーをふくめ少なくとも14の飛行場を建設・接収していた。

現在この土地はカンボジア政府軍の第一旅団駐屯地になっている。滑走路脇の練兵場では22歳から50歳、約2千人の兵士たちが観閲式のリハーサルが行っていた。戦車やミサイルはなく、銃を持った歩哨役を素手で倒す模範演技。30年近くに及んだ内戦から、ゲリラとの接近戦を想定している。

人生の大半が戦争

cbjprunway
戦後60年、その間カンボジアでは戦火が絶えなかったが、旧日本軍が建設した滑走路跡にはアスファルト舗装が残っていた=コンポンチュナン州ルンウェー郡で

旅団長のプルン・ペン少将(44)は、カンダール州に生まれ、18歳で志願入隊した。彼はポルポト時代に母と妹を殺され、ベトナムへ脱出。スパイ容疑が晴れるまで1か月獄中で尋問を受けたが、78年末ベトナム軍に加わって凱旋し、ポト派をタイ国境に追い詰めた祖国解放の英雄の一人だ。

飛行場跡を案内しながら、ペン少将は言う。「子供の頃に空爆が始まり、学校では軍事教練を受けていました。私の人生の大半が戦争でした」。しかし、この基地では兵士が野菜を育て、果樹を植えるといった平和な日々が続いている。国内に敵がいなくなった98年から農村支援が正式な任務となり、田植えの応援をはじめ、干ばつが酷かった昨年は揚水ポンプを持って出動している。「元ポト派の兵士でさえ、『もう戦争は嫌だ』と言っています。イラクのニュースは正直、聞きたくないですね。戦争を知らない人が、戦争をしたがるんです」

ひとたび戦争となれば、日本軍がここに飛行場を作ったように、兵員や物資の輸送力が勝敗を決める。敵は攻撃する前に補給路を断ち、退路を塞ごうとする。侵攻はもちろん、安全を確保するためにも、また、退路を切り開くためにも戦火を交えなければならない。その時、被害を受けるのは、いつも無防備な市民。89年まで最前線で戦ってきたペン少将は、そんな現実を目の当たりにしてきた。

廃墟と化した自衛隊駐屯地

cbsdfbath
水浴びが常識の熱帯で、埃をかぶるバスタブ。「カンボジアが好き」だからではなく、「命令」で来ていた人は、日本式の生活を押し通したかったのだろう=タケオ州で

「日本の土地だろ、父さんから聞いてるよ」。タケオ州トュノテ村の廃墟でタマリンドの実を採っていたソン・サリ君(13)に国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)時代の記憶はない。日本軍の侵攻から半世紀、ここは1992年9月末、戦後初めて自衛隊が海外派兵された地だ。施設大隊が本部や食堂などに使っていたプレハブ棟では、番人が昼寝をしていた。がらんと静まり返り、埃をかぶった特大のバスタブが鎮座し、エアコンが取り外された室内は耐え難い暑さだ。

この建物は解体・運搬に手間がかかると、自衛隊は撤退時にタケオ州に譲渡した。それから3年間は地域職業訓練センターとして、縫製とバイク修理の講習が開かれていた。積み上げられた教科書と時間割が書かれたままのホワイトボードが計画の頓挫を物語る。カンボジア政府が人件費と維持費を負担できずにセンターを閉鎖してから、もう10年近く経っている。

近くの村では当時、農家が自衛官相手に焼鳥屋などを開き、子供は缶ビールやゆで卵などを売り歩き、“日の丸”景気に沸いた。「なぜ帰ってしまったんだろうね」と村人が口を揃えるトロピャンオン村では、自衛官を夕食に自宅へ招いたり、休日にベトナム国境まで観光ガイドを務めたという人にも会った。「あの時、私は12歳でビールを売っていたんだけど、Sさんはよく店にも来てくれて、兄さんみたいな存在でした」。サム・ロットさん(24)は写真と数通のエアメールを見せてくれた。Sさんが帰国後5、6年送ってきた手紙だそうで、破れかかった折り目はセロハンテープで修理してある。「10年待ったけど、一度も来てくれなかったでしょ。だから、結婚しちゃったわよ」。彼女を取り囲んでいた村人が、どっと笑った。15、6歳で結婚する娘が珍しくないこの国では、まんざら冗談ではない。

しかし、23ヘクタールに及ぶ自衛隊宿営地跡の約半分は、村人がキュウリやスイカ、キャッサバを作っていた畑を無償で拠出した土地だった。自衛隊が引き揚げ、職業訓練センターも閉鎖された今も「耕作禁止」。村人は野菜を市場で買い続けている。さらに皮肉なことに、この地も60年前は日本軍の飛行場だった。

命令で来た日本人たち

ルンウェーの飛行場建設で日本軍に駆り出されたという老人に会いに行った。平均寿命56.7歳のこの国で、当時を知る人は希有。ポルポトの大虐殺時代も生き抜いたヌットゥ・スックさん(80)は、庭で水浴びの最中だった。

「仏軍に通行許可を取っただけど聞いていたが、車と馬に乗った何百人もの日本軍が村に来て、飛行場建設を始めたんだ」。スックさんは今も耳から離れない日本語があるという。「よくない!」。働きが悪いと、日本兵はそう怒鳴ったそうだ。村人を二班に分け、15日交代の重労働。牛車と一緒に駆り出され、一日5リエル。牛車がない農民は、1.2リエル。深い森を切り拓き、約8キロ離れた岩場から運んだ石を敷き詰めた。待遇には不満だったが、銃を構える日本兵に、誰も逆らえなかったという。何百人という他県からの農民、それに、重機代わりにゾウも連れて来られていた。劣悪な労働環境のなか、コレラが流行し、多くの死者が出たという。だが、賠償訴訟どころか、慰霊碑さえない。生き証人のスックさんが亡くなれば、「なかった事実」となろう。

日本兵がカンボジア人たちを牛馬のように扱って、建設工事に従事させることができたのは、ここへ一人の人間としてではなく、軍や会社の命令でやって来たからだろう。裏を返せば、この国の人々や風土が好きで来たわけではなかった。

ハラ氏の妻

cbmenphan
「ハラ氏は恋しい人」と思い出を語るパンさん。出会いも離別も、日本軍がインドシナへ侵攻したから。“より良い暮らし”を求めているうちに、軍や企業に翻弄されていることも=コンポンスプー州ウドン郡で

日本兵の妻がいると聞き、コンポンスプー県を訪ねた。メン・パンさん(79)の家はウドン寺の門前町にあった。「ご飯、食べる?」。老婆の訛りのない、滑らかな日本語に驚く。尼僧のように頭を丸めているが、背筋が伸びた長身に、ハッキリとした目鼻立ち。「誰もが憧れた美女だったよ」というスックさんの言葉通りだ。

「ハラさんが33歳、私が23歳の時でした。結婚式には、200人くらいの日本兵と、100人くらいの村人が来て、それは盛大でした」。ハラ氏は170センチ位で小太り、色白だったという。ハラ氏は43年の雨期、彼女の両親に結婚を申し込み、労働者の年収に相当する700リエルの結納金を渡した。

ハラ氏は年齢と行動の自由さ、車の整備がプロ級だったということから、工兵隊の下士官か下級将校、あるいは、車両を扱う軍属だったようだ。彼は村に建てた新居を妻の両親に譲り、新妻とプノンペンへ。後に明石康代表が勤務したUNTAC本部近くの一等地に、中国系のコックやメイドを雇って新居を構えた。日本軍は終戦までプノンペンに司令部を置いていた。「新しい服を買ってくれ、地方出張へ私を連れて行ってくれたんです。行く先々で膝の上に座れというんですが、恥ずかしくて。そうしたら、『夫婦なんだから、何が恥ずかしい』って」。ハラ氏は一度も手を挙げず、大声で怒鳴ることもなく、とても優しかったという。

終戦で日本軍が引き揚げるなか、ハラ氏はパンさんの実家があるウドンへ戻った。だが、仏軍は45年10月プノンペンを制圧、この国を再び植民地とした。彼は仏軍に連行され、消息不明に。パンさんは通訳からサイゴンへ連れて行かれたとだけ聞いている。

一方、パンさんはハラ氏の子供を身籠もっていたが流産。二人の妹はシハヌーク時代に病死し、ポルポト時代には両親が餓死、弟も殺された。孤児になった親戚の子供を連れてウドンに戻り20年、米作を手伝っていたが、ここ4、5年は高血圧症で家にいる。 「もう一度会えるのならば、『長い間会えずに、切なかったわ』と言いたいですね。だけど、もう彼はこの世にいないと思う。もし生きていたら、絶対に会いに来てくれている筈だから」。カンボジアに残ろうとしたハラ氏は、他の多くの日本人と違って、パンさんというカンボジア人女性と、この国を愛していたからだろう。

60年目の夏

パンさんが60年前に新婚生活を送ったプノンペン。カフェテリアを一歩出れば、赤ん坊を抱いた乞食に取り囲まれ、裸足で空き缶を集める少年に会う。カンボジアは仏領になり、日本の侵攻を受けた。戦後もポルポトが列強との絶望的な格差に、狂信的な農本主義を断行。対ポト派の内戦の火に東西冷戦が油を注ぎ、日本の援助米もゲリラの食糧となった。5歳未満児死亡率135、一人当たりのGNP260ドルはアジア・ワースト1(国連開発機構02年)。戦後60年目の夏、自衛隊が外国へ武力をもって行く意味と、非武装では行けない理由を、カンボジアで考えるのはどうだろうか。

(文・写真/阿佐部伸一)

トップに戻る