阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

カンボジア沈黙の陰で1999年1月

生活の糧はゴミ

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えも言われぬ悪臭のなか、膝までゴミに埋もれて換金できるゴミを探す少年=プノンペン郊外のストゥン・ミンチェイ(=希望の川)で

「これを吸ってる時は天にも昇る気分。夜空の星だって掴めそうなんだ。お腹が減ってるのも忘れられるし」。カンボジアの首都プノンペン、午後九時過ぎ。ストリートチルドレンの日課を終えたテ・ビアスナ君(12)は、接着剤を染ませたチリ紙を入れたビニール袋を鼻に押し当て、石のベンチに反り返っていた。「どうして悪いの? やめないよ」

ビアスナ君の一日を追ってみた。彼はビニールシートの下、片付けられた屋台の椅子やテーブルの隙間をねぐらにしている。屋台が仕舞われる午前二時ごろ眠りにつく彼は、日も高くなる九時近くになってようやくシートから這い出してきた。公園の噴水で顔を洗って市場へ。昨日の稼ぎはゼロだったが、ここではタダで朝食にありつける。客が残した粥を見つけた彼は、周囲の視線に頭を掻きながら器を取った。

空腹を満たすと“仕事”。この日は運良く、店先のゴミの中にガスコンロをみつけた。身長百三十センチ足らずの小さな身体にそれを背負って向かった先は 、廃品回収店だった。カンボジアではくず鉄一キロおよそ三円、銅は百二十円もの高値で売れる。くず鉄はタイへ売り、ゴムは国内でゴム紐に再生するという。これで彼は約六十円を稼ぎ出した。「廃品の一割は子供が持ってきたものです。一日に二十~三十人の子が来ます」と店主のヴォン・ヴィラクさん(25)が言うように、子供たちは少しでもカネになりそうな金属やプラスチック、ゴムなどを拾い集めては売りに来るのだ。

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くず鉄屋に運び込んだガスコンロを分解するビエスナ君=プノンペン市で

ストゥン・ミンチェイ、クメール語で「希望の川」という名のゴミ投棄場を訪れた。腐った果物と燻るビニール、えもいわれぬ臭いが鼻を突く。自然発火したゴミの煙のなか、街から到着するダンプカーに、我先にと百人以上の人が殺到する。ここでもその半数以上が子供。膝まで埋もれてゴミの山を突ついていた男児が、煤だらけのプラスチックの塊を拾い上げた。

カンボジアが国連景気に沸いたのは早七年前。その後、アジアのバブル経済崩壊で、頼みの外国投資は激減、この国の一人当たりのGDPは三百ドルと伸び悩んでいる。GDPが百三十倍の日本ではゴミ問題に悩み、再資源化を火急な課題としているが、産業がなく貧困にあえぐ人たちにとっては、ゴミそのものが日々の糧なのである。

家なき子を蝕むドラッグ

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カメラを向けても接着剤を吸い続ける片足の少年=プノンペン市で

カンボジアの首都プノンペンでは今、五十人に一人がストリートチルドレンであるという。人口百万人余りの首都で、社会福祉省は路上生活している子供たちを約二万人と推計する。さらに、そうした家なき子に薬物が追い打ちをかける。

ゴム接着剤とは名ばかりで、吸引用に密造された得体の知れない接着剤のほか、「ヤマ」、「ヤバ」と呼ばれるアンフェタミン系覚醒剤がタイなどから密輸され、子供や若者たちの間に広まっているのだ。麻薬警察のロア・ラミン副局長は、「子供たちは最初、空腹を紛らわそうと接着剤を吸引します。ギャングはそれにつけこんで、盗みや売春など違法なことをさせようと、子供たちを薬物漬けにするのです。今や全国的な現象です」と実状を吐露した。麻薬警察が過去五年間に押収しただけでも、ヘロイン百十一キロ、アンフェタミン三十一キロ、マリファナ八十トン以上、逮捕者は三百四十人に上る。

地元NGOのひとつ、「クルサール・トゥマイ(=新家族)」の夜間パトロールに同行した。午後八時半、イム・ソレイン指導員(27)は、プノンペン中心部のモニヴォン通りに車座になっている子供たちを見つけ、救急箱を手に駆け寄った。対人地雷で左膝下を失った子供も接着剤を吸っていたが、彼はそれを取り上げる代わりに擦り傷の手当てをし、お菓子を与えながら話しかける。「まずは彼らと友達になって、治療してやるんです。手に職を付けて自立させることが目標ですが、たいへんな時間がかかります」。保護施設に来る意志のある子供には衣食住を提供し、小学校へ通わせる。各NGOではカウンセリングのほか、クメール舞踏など伝統芸能にも親しませ、貧困や麻薬で荒んだ子供たちの心のリハビリにも取り組んでいる。だが、職業訓練を受けて自立するまでに、街へ戻ってしまう子供が少なくないという。

コン・カーン君(13)はフランスのNGO「グッドー」の施設で、薬物中毒からのリハビリ中だ。両親は離婚。四人兄弟の長男である彼はバッタンボンで路上生活をしていたが、ブローカーにタイへ連れて行かれた。「一日三千バーツもうかると言われてついていったけど、乞食をやらされて全部で千バーツしかもらえなかった」。彼がタイ警察に保護され、強制送還されたのは、五度目に国境を越えた昨年のこと。施設の指導員に聞こえることも気にせず、「また行きたい」という。「だって、食べ物がたくさんあって、美味しいケーキもあるだろ。ドラッグも、またいつかやるかもね」。飢えや貧困から一日も早く抜け出したい彼らには、日銭を稼ぐことがその近道に見える。

ストリートチルドレンにならなくても、この国では家計を助けて働く子供の姿は珍しくない。チュム・ルーン君(12)は三年前に一家でプノンペンに来た。両親と兄弟六人、一家総出で郊外のレンガ工場で働き、小学校は一年しか行っていない。「学校へやれないのが気がかりですが、他に仕事もなく、こうするしかないんです」と母オム・ファニーさん(41)は弁明した。

また、戦争孤児や捨て子のなかには売春を強いられる少女もいる。この二年間で売春宿から保護された子供は六百十人に上る。ティットさん(仮名・15)は知り合いに騙され、半年前に売春ブローカーに売り飛ばされた。「抵抗するとベルトで殴られ怖いので、言うとおりにしています」。一日十人もの客を取らされ、月給は五千円に満たない。「生理中も腹痛をこらえ、綿を詰めて仕事するんです」。休みはおろか、昼食もとれないのだという。

一方、プノンペンで路上生活するビアスナ君には、スラムに住む両親と三人の弟妹がいた。だが、マク・ボンさん(37)は母親と信じられない言葉を発する。「あの子が帰って来なくても別に気になりません。勉強は嫌いなんでしょう」。一本三円のアイスクリームを売り歩いている両親はタイ国境の難民キャンプで結婚、国連難民帰還プログラムに則って農村への定住を試みたが、生活苦からプノンペンに出てきたという。

ビアスナ君一家が住んでいたバッタンボン県スール村は、国道から悪路を二時間ほど入った水田の真ん中にあった。辛うじて車が走れる幹道沿いには以前からの村人が居を構え、帰還難民たちはさらに畦道をたどった奥地を耕している。ニッパヤシ葺きの小屋で家族と夕食を囲んでいたドゥーン・プルンさん=農業(34)は、「多い年は二十トン採れるのに今年は二トン。数え切れないほどの人がプノンペンやタイへ行きました。でも、私はなんとか家族を食べさせられるので、行きません」

内戦時代に育った親たち

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外国NGOの更正施設で集団生活を送る元ストリートチルドレン=ボイペット村のグッドーで

カンボジアでは基本的なインフラ整備が優先し、社会福祉に割かれる予算は全体のわずか一、二%。情報省キュー・カンヤリ次官は、行政の手が回らない部分を農村文化が担ってくれることを期待している。「都会人が利己的なのは万国共通ですが、田舎ではコミュニティの大人たちが、礼儀や生き抜く術を子供たちに教えています。そうした伝統に期待したいものです」。だが、いま親になっている世代は、二十年以上にわたった内戦の最中に育ち、地域や小学校での教育も十分に受けらていない。これも戦禍。子供たちに悲劇をもたらしている。

国境の街、ボイペットには国内で食い詰めた人たちがスラムを作っている。タイのアランヤプラテートへの出国時、義足の元兵士や裸の乳児を抱いた子供が手を差し出してきた。ここを境に、約七倍の経済格差が歴然とある。工場の月給がカンボジアでは約七百円だが、タイでは五千円を超える。

タイに入国し、サケオ県ナビン・カンタヒラン知事に会った。「私たちは彼らを助けたいのです。あの国は農業が発展しない限り仕事がないのですから、いまの出稼ぎは仕方ありません」と、意外にも寛大だった。

ふと国境のジャングルを振り返ると、頭に籠を載せたカンボジア人が草を掻き分け密入国してくるのが見えた。

(文・写真/阿佐部伸一)

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