阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

台湾、香港、イギリス、日本移民・難民・英国民1989年1月

道行く人たちの肌の色は黒、茶、黄。多くて当たり前のはずの白の方が少ない。 人種問題に苦慮する英国は移民法を何度も改正し、その流入を厳しく制限してきた。それでも、三百五十万人以上、 全人口の六%台を占める異邦人が暮らすイギリスは今や多民族国家と言えそう。真冬のロンドンに「国際化」を見た。

ホームレス ── 弱者の切り捨て

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焚き火で暖をとるホームレスたち=ウォータルー駅前で

午前零時、ロンドン市内ウォータールー駅高架下。ここにホームレス三百人以上のたまり場があると聞いて出かけた。

凍てつく寒さの中でたき火を囲む約三十人。許可を得て写真を撮ろうとしたら、いきなりアル中らしい男が飛びかかってきた。「カ、カネを出せ。お前のカメラを粉々にぶっ壊してやる」。退散しかけると、一人の男が耳打ちした。「話が聞きたけりゃ、テナンツ(アルコール度数の高い大衆ビール)を持って明日出直せよ」

翌日、段ボール造りの彼の“家”に缶ビール二ダースを担いで出かけた。「サッチャーの引締め策は表向きはよさそうだが、つまりは弱者切捨てさ。失業者は増え、貧富の差は大きくなるばかりだ」。アナーキストを自負する彼の口からは火を吹くような体制批判が続く。

ロンドンのホームレスたちは登録者だけで三万五千人以上。アル中、ヤク中、家のない老人、財政難で閉鎖された施設を追い出された人たちが多い。二週ごとに一万八千円が政府から支給されるが、彼は「サッチャーからは一ペニーも受け取らぬ」と地下鉄で笛を吹く。

「ほら、今から笛を吹くから前を通るヤツらをよく見てろよ」。彼の“仕事場”の地下道は勤め帰りの人で混み合っていた。無表情、無関心を装う顔が通り過ぎていく。「わかったかい。これが英国人、政府の本質さ。あんたが追っかけているこの国のカラード(有色人種)たちもこんな目で見られているってことさ」。彼、ステュワート、まだ三十一歳だという。

タクシードライバー ── 自慢のライセンス

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ハンドルを握るアリさん=リージェント街で

たまたま乗り合わせたタクシーの運転手は珍しくアジア系の顔だった。

「どけッ、このパキ!(パキスタン人への蔑称)」。割り込んできたライトバンの白人が窓越しに汚い言葉を浴びせた。彼は一瞬にらみ返しただけ。二階建てバスと並ぶロンドン名物の古めかしい黒塗りタクシー。バスの車掌に白人を探すのは難しいくらいだが、タクシー運転手に有色人種はまだ少ない。

「そりゃあ、客の中には色々言う人もいるけど、相手にしないことにしてるんですよ」。当方がアジア人と分かったからか、アリさん(33) は少しなまりの残る英語で話しかけてきた。二十二年前、彼は出稼ぎの父を追ってロンドンにやってきた。「初めのうちは永住なんて考えてなかったな。ただ家族が一緒に暮らしたかっただけだった」。母国の家族に仕送りするため暮らしを切り詰めてきた父の世代はひどかったが今は家具もテレビもあるアパートに住める。それだけではない。バカンスもとれる。二年ごとに二ヵ月間、家族と国に帰りゆっくりしてくる。「経済的には何の問題もない」という。「だけどね、私は人に使われる仕事はしたくないんだよ。だから、ロンドンタクシーのライセンスを取って…。これなら白人の運転手と対等だから」。よく知られているようにロンドンのタクシー免許は日本のように運転技能だけで取れるわけではない。

市内の地図を頭にたたき込み客の目的地への最短コースを瞬時に弾き出すことを要求される。彼が知っいるだけでも二十数人のパキスタン系と四人の中国系がそんな英国ご自慢のライセンスド・タクシーのハンドルを握っているという。

アリさんの不満といえば「仕事がら子供たちとすれ違いの毎日でなかなか会えない」ことだ。二十二年の生活でこの国で暮らしていく術を手にした彼の表情はむしろ誇らしげでさえあった。

校長先生 ── 国際色豊かな学校

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子どもたちは肌の色など気にしていないようだが…=コロンビア小学校で

「この学校に通わせると『勉強が遅れる』なんて子供を転校させる親達は人種差別者でしかありません」。ベントレー校長(47)はきっぱり断言する。

十八世紀のフランスからの移住に始まり、アイルランド系、ユダヤ系、パキスタン系そしてバングラディシュ系とその時代々々の最も貧しい移民を受け入れてきたイーストエンド。彼女は七十八年の人種暴動の中心地に近いコロンビア小学校の校長を勤めて四年になる。

児童数は四百前後だが、移動は激しい。八〇%をバングラディシュ系、五%を中国系が占め、四、五年前は半分近くいた白人はわずか一五%しかいない。二年生の授業をのぞいてみた。アルファベットを覚えようする子供もいれば、作文を書く子もいる。一つのクラスを進度別に四つのグループに分けて教えている。

講堂では大きな朱色の紙を子供たちが囲んでいた。「中国の旧正月の飾りを作っているところです」。校長先生によると、ユダヤ、キリスト、モスリム、ヒンドゥーなどその文化圏出身の子が一人でもいれば全員で準備して祝う。

「実は」と校長先生は自身の体験を話してくれた。彼女の二人の子供も隣の小学校に通っている。ところが、このままでは「勉強が遅れる」と心配した祖母から転校を勧められてしまったのである。「バングラの子供たちは小さくても母国語のセラフィー、コーランのアラブ、娯楽ビデオのヒンディー、そして学校や社会では英語と、同時に四ヵ国語を猛烈なスピードで吸収していくのよ。親を含めてあんな勤勉なイギリス人は今のイギリスにはもうほとんどいないのよ」

孫の授業を見て、おばあちゃんも納得したという。学校の近くの空き地の壁に白いスプレーで「XXをぶっ殺せ!」と。その落書きの主の気持ちが読めたような気がした。

帰郷 ── 陰湿になる差別

訪ねた家には「売り出し中」の看板が出ていた。白いフェンスに煉瓦造りの二階屋。イギリスの都市近郊でよく見かける中流家庭の家だ。

ロンドンから北へ特急で約二時間の工業都市ダービー。出迎えてくれたのは移民一世のプレム・シンさん(58) 。「去年、故国に家を買いました。近いうちに帰ろうと思っているんです」。シンさんは英本島インド系労働者協会会長を引き受けて四年目。四人の息子もこの町で働いている。

シンさんはインドのパンジャブで高校の英語教師をしていた。校長まで勤めたが「自分が教える英語の国を一度見て、そこで学位を取ろうと思って」一九六二年、単身渡英してきた。だが、その年「英連邦移民法」が制定され、母国との自由な往来が不可能に。当時、政府はすでに二百万人を越していた移民労働者との人種摩擦に悩み始めていた。

「最初は国鉄の車掌。と言っても貨物列車の、危険な仕事だった。三か月でやめてバスの車掌をノッティンガムで五年。その後はこの街で小商いをしながら、移民の生活改善相談を始めたんです」。ここダービーは有名なロールス・ロイスと名もない織物工場が混在し、近く日本のトヨタも現地生産基地を作るという。大小のほとんどの工場が移民労働者を大量に雇っている。

「二世の中には暴力に訴えたり『差別禁止法』を逆手にとってごり押しする少数民族も出てきた。イギリス人(の差別)の方も陰湿になり、その中身もひどくなってきている」。当然のことながら、話題が差別や権利に及ぶとシンさんの口調は急に厳しくなる。

シンさんは、息子や孫の住むダービーをまたいつでも訪れることができるように「イギリス人」として二十八年ぶりに故郷に住むつもりだ。

記者志願 ── 人種問題解決したい

ブリクストン、ロンドンでは“地図にない街”と呼ばれる。かつては高級住宅街だったが、今では住人は有色人種がほとんど。「財布は軽くしてから行けよ」と白人の友人は注意してくれたが、入ってみれば黄色の記者はかえって居心地良ささえ感じる。

街頭では少数民族の間で人気の左翼紙『ネクスト・ステップス』が立ち売りされていた。発行部数約1万。体制批判も鋭いが、人種問題にも理解が深い。新聞売りを手伝っていた一人の黒人青年を近くのカフェに誘った。コートニー君(23) 。カレッジを卒業後、マスコミを志して出願した三つの専門学校からは三か月たっても受験日の通知さえ来ない。

「願書にには先祖の出身地や肌の色の欄がある。これを埋めないと不法入国者と一緒にされる」。彼は英国籍、名前も白人風、きれいな英語を話すのに…。三十五年前、彼の父は家族と一諸にジャマイカから移住し、現在は英国フォードの塗装部門長。しかし、当時わずか十歳だった父はあまり祖国の話をしてくれない。

コートニー君は図書館に通って西インド人の移民史を学んだ。長い大英帝国の植民地支配と独立後の偏った産業構造から出る労働移民。ここロンドンでも五十年代には労働集約型産業で人手不足が深刻になり、ジャマイカなどに求人事務所を置いて、発展途上国の労働力に頼った時期もある。

彼の同窓の黒人で就職できたのは自営も含めて四五%。有色人種の中でも特に黒人の失業は多く、四人に一人は職がないという。「黒人にももっと高い教育を受けるチャンスが欲しい。そうすればこの国ももっとよくなるはずだが、政府はそれを嫌う。黒人は労働者のままでおいておきたいのだろう」。コートニー君はジャーナリストになってそれを訴えたい。だから、志を貫こうと、学校から返事が来るまで願書を出し続けるのだという。

ホァ・マイの花 ── ベトナム忘れない

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アオザイをまとい民族舞踊の「蓮踊り」を練習する子供たち=ロンドン郊外のトンさん宅で

「…われらは今、自由な国にいるけれど、忘れないベトナムを」。子供たちのかわいい歌声をグェン・クォイ・トンさん(40) が訳してくれた。ノルウェーに住む元難民が作ったこの歌は西側諸国に離散したベトナム人の間で愛唱されているという。

ロンドン郊外のトンさんの自宅では全英ベトナム難民協議会の新年会(旧正月)に向けて歌や踊りの練習が盛り上がっていた。壁にはのどかに舟が行き交うメコンデルタの額入り写真。テーブルには鮮やかな黄色の生け花。が、よく見ると、日本の梅によく似たこの花は造花だった。

「記憶を頼りに色紙で作ったんです。ホァ・マイといってテト(正月)には欠かせない花ですが、こんな寒い国にはないからね」。彼はボートピープルになって五日目に英貨物船に救助され、八十一年に来英した。サイゴン大卒の薬剤師だったが、南の敗戦で三年間投獄され、その後も病院勤めをタダ同然で強いられたという。「ヤツらは人の技術は利用するが、知識は否定します」。いつまた秘密警察に連行されるかとびくびくし、何の希望も持てない生活から脱出した。

ニューカッスルに定住して三年目、やっと英国の薬剤師免許を手にすることができた。「かつて同じ難民だった」ユダヤ系オーナーの薬局に職を得てロンドンへ。が、協議会の幹部に決まり、薬局は辞めた。「資格がもらえず、難民に英語を教えている元医師もいますよ」とトンさんは自分のことをまだいい方だという。

脱出当時三歳だった長女は十一歳に、次女は八歳。二人とも母国の花ホァ・マイを知らない。待望の長男は英国生まれの二歳。トンさんはジェームスという英名をつけたが、ミドルネームは「VIETNAM」とした。

来日の夢 ── 疲れ果てる先生たち

ビクトリア朝に建てられた年代物の三階建て建築が並ぶロンドン・ランベス区はカラード(有色人種)の街。リリアン・ベイリス中学校はこの街の中心部にある。いずこも同じ都心の環境劣化に伴うドーナツ化現象で、移民、難民たちは白人が捨て去った都心の古い家に住んでいる。

一時限前の職員室はあわただしかった。「今朝は五人も先生が休んで、休ませるクラスを決めるのが大変だったんですよ」。ム・ドリー教頭(52) は教師不足を訴える。市教委からの特別予算で給料を上乗せし、求人広告を出しても先生が来ない。

生徒五百六十人に先生は四十人。日本と単純に比べれば多い。だが「ハローも知らない子供が毎月二十人は入学して来る。母国で教育をまともに受けられず定規を使ったことがない生徒はもっと多い」。その上母国語の種類は十以上。在校生の半分は英語力に問題があるそうだ。

「崇高な理想だけど現場はカオス(こんとん)ですよ」と要援助生徒担当ハウ教諭(31) は実情を無視した市教委の行政に批判を向ける。英政府は五、六十年代の異文化統合政策の失敗から個性を尊重する政策に一八〇度の方向転換。それを受けた教育改革でこの学校でも七年前から毎土曜、母国語別に課外授業をしている。完全週休二日の英国だが、先生たちは休日出勤せざるを得ない。

義務教育は中学まで。就職の世話も教師の仕事だから人種差別にはいつも直面している。「私を見てごらん。教育学で博士号まで取っているけど…」とムードリーさんは口を濁した。彼自身南アフリカ出身のインド系。教師の世界でもカラードは昇進が遅れると言いたかったのだろうか。

「日本の高校で教えるか、日本の大学で研究したいんだがねえ」。報われぬ努力に疲れ果てたこの教頭先生は英国脱出に夢を託すようなまなざしだった。

お金の色 ── 儲けて差別に勝つ

ソーホー区の中華街。その異国情緒を強調する再開発が進んでいる。ここは香港ではないかと錯覚しそうな店でワッハッブ記者(26)と会食した。

彼はバングラデシュから家族と一緒に生後八か月で渡英した。ロンドン大を卒業後、少数民族向けの一般紙に三年勤め、現在はフリー。民族問題を主に扱っている。移民、難民というと、どうしても差別の話になりがちだが、彼の考えは実に明快だ。

「有色人種が差別に勝つ手っとり早い方法は、祖国の習慣にこだわらず、早く経済的に白人より有利な立場に立つことですよ」。そう言えば、ロンドンの一等地に大きな電器店を一族で構えるウガンダ出身のインド系パテル店長(35) も言っていた。「肌の色は変えられないけど、私のお金に色が着いているわけじゃない。よく働けばもうかるし、もうかればペイも増えるから、ウチにいる四人の白人も満足してるんじゃないですか」

ワッハッブ記者はさらに数字をあげて説明してくれた。「八十三年総選挙では回教徒の八一%が労働党に投票したが、八十七年は五七%に減った。そして保守党に二三ポイントも流れた。要は、経済的に安定すると保守的になるという例の原則が移民の間にも働いてるというわけだ。だから労働党は今度は黒人票を取ろうと三年前から黒人議員を四人も入れてるよ」

私たちのテーブル係は中国系の女性(32)。「白人もなかなか入れないような良いアパートに、今では難民だというとすぐ入れてくれるでしょ。それに積極的に仕事を探さず失業保険で食べて…」。まだ援助も十分なかった十五年前に香港からやって来て、この大きな料理店のマネジャーまで登りつめた彼女にはそれが面白くないようだ。

「逆説めくけど、人は差別され、逆境に出会ってこそ発奮できると思うよ。僕はこれからだけど」。ワッハッブ記者はいたずらっぽくウインクして当方に同意を求めた。

英国人── 時がたてば分かる

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地下鉄車内で経済紙を読む黒人ビジネスマン

ピカデリー・サーカスに近いレストランで偶然相席になったリサさん(22)はオーストラリアから二年の予定で“出稼ぎ”にきている。仕事は秘書だという。「クニとの違い?ここではまだタイプライターにカーボン紙を挟んでたたいてるわね」と笑う。オーストラリアでは電子タイプが普通なのに、英国は遅れていると言いたいらしい。

あの工業国、西独ですら安易に安い外国人労働力に頼って技術革新を怠ったためハイテク時代に乗り遅れたと言われている。向かいの席のジョンさん(46) =広告会社勤務=は生粋の英国人だがなかなか辛辣だ。「夜勤や週末は外国人に任せて、英国人は早く郊外の家に帰って今夜はどんなビデオを見ようかなんてことばっかり考えてるよ」と。

その夜、旧知の弁護士、ガーネーさん(64) 宅に招かれた。彼は英領ケニア生まれで八歳の時に本国へ引き揚げた英国人。「仕事というのは人種で向き不向きがあるんじゃないかな。それと、あんまり暑い国や自然の恵みが豊か過ぎる所から来た人は生活意識に英国人とズレがあって当然だと思うよ」。だから平等に扱わなければ、とよく分かっていても実際にはなかなか難しいともいう。「英語を習おうとしない回教徒の女性や、朝の四時過ぎまで騒ぎ立てる陽気な黒人たちにはとても付き合いきれないよ」

しかし、今や彼らの労働抜きでは英国経済が成り立たないのも事実である。「近所にアイルランド人が住んでいるが、今ではもう周りに溶け込んでだれも気にしない。時がたてばお互い付き合い方も分かってくるし、二世はちゃんと英国の教育を受けるからそんなに心配することないよ」

「この間、友人の息子が中国人と結婚したよ。ウチの子供たちも、さあ…どこの国の人と巡り合うことか…」。植民から移民受入れと英国現代史を自ら歩いてきたガーネーさんは、ジレンマの中でそう考えている。

強制送還の行方 ── 受け入れ国に貢献

「難民ではない」と昨年末、香港からベトナムに強制送還された五十一人のその後を現地調査してきた労働党右派のライソン議員らの記者会見をのぞいた。「彼らのいるハイフォンでは処罰も差別も認められなかった」。ライソン議員らは調査結果に自信たっぷりの様子だったがわずか二日の現地視察で出された結論に、集まった報道陣は懐疑的だった。

ベトナム人の民生委員、ミンさん(46) は「香港だけでなく何十万の難民が第三国定住を待っています。これをきっかけにアセアン諸国が右へ習えば、大変困った事態になります。どうか日本ももっと受け入れてもらえませんか」と怒りを抑えて訴える。

日本語の話せる元南ベトナム人に出会った。昭和三十八年から八年間、北大農学部に学んだムウォンさん(46) 。しかし、彼は日本を選ばず英国を選んだ。「私は英語を学べば祖国に近い東南アジア諸国でも働けるだろうとこの国に決めました。ベトナム人は日本にあこがれているのですが、片言の英語なら話せても日本語は全然駄目という人が多いのです。それに英国の方が家族も呼び寄せやすいのですよ」。各地の難民を気づかう彼の口調は慎重で控え目だったが、ベトナム難民が日本を選ばぬ理由は必ずしも言葉の壁だけとは言えまい。

人種問題に苦しみながらも英国はベトナムからだけでも、すでに約二万五千人の難民を受け入れているが、日本はその四分の一。「英国もそうですが、日本も経済大国の名に恥じないようもっと努力が必要でしょうね」。ヒースロー空港の難民到着担当代表、バックハムさん(44) はそう言った後、さらに言葉を継いだ。「長い目で見れば難民はきっと受け入れ国に貢献してくれますよ。帰される経済難民や不法移民だって向上心があるから祖国を出る決意をするのですから」。バックハムさんの意見は、そのまま日本へのメッセージのように聞こえた。

(文・写真/阿佐部伸一)

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