ビルマ(ミャンマー)出稼ぎ労働者に見る民主化2013年9月
タイ・バンコクで
ミャンマーとタイの国境は約1800キロに及ぶ。川が国境になっている所は渡し船や橋で、陸続きの所は徒歩で越境できる。両国の入国管理事務所があるのは幹線道路や港がある地点だけ。アンダマン海に面するタイ南部では漁船で上陸することも簡単だ。タイへ入国するミャンマー人は大勢いる。タイの工場で働くため、市場で買い物をするため、病院を受診するため、家族や親戚に会うために。
今回焦点を当てたタイで働くミャンマー人は250万人以上(在バンコクミャンマー大使館)。この国の人口の25人に一人はミャンマー人という計算になる。その大半が不法就労だが、この総計はタイ労務省の推計と一致する。ミャンマー大使館によると男女比はほぼ1:1。職種は非熟練労働者が1位、次いで建設作業員と工員で、それ以外は少数とのこと。出稼ぎの経済規模は”地下銀行”を通じて送金されているので、統計がないという。
予めパスポートを取って空路出国して来る人は少数の富裕層だけ。なので、同大使館は陸路国境を越えてタイへ入ってくるミャンマー人に6年有効の暫定(テンポラリー)パスポートを発給しているが、その数は15万人余り。タイ側が挙げる累計約145万人という数字に対し、同大使館はパスポートを取った約130万人は既に帰国したと見ている。赤い表紙のどの国にも通用するパスポートに対し、暫定パスポートは紫色。ミャンマー政府は2003年からタイだけに有効な暫定パスポートをタイ政府に持ちかけていたが、タイ側が合意して発給されるようになったのは、2009年8月22日からである。
かつては難民を、そして大量の労働者を輩出しているのは、軍事政権が国内産業の振興を怠っていた帰結と言える。テインセイン氏が大統領に就任して2年半、祖国で急速に進む民主化を横目にタイで働くミャンマー人たちを訪ね歩いた。
借金に縛られて…
マウンヌーンさん(27)はイェ市の近くのドンボー村出身。男3人女2人の5人兄弟の三男で、農業をやっていた両親は既に隠居している。タイで働いていた先輩に電話して、2年前バスに乗ってスリーパスパゴダパス(三仏峠)を越え、初めてタイへやって来た。故郷では日雇いで米作をしていたが、日給3千チャット(約300円)にしかならなかった。タイではその3倍以上300バーツ(約930円)貰えると聞いて出て来たという。
最初の1年間はバンコクの南西約30キロ、マハチャイの近くで漁師をやっていたので、パスポートは持っていなかった。帰港時に港町に上陸するだけのミャンマー人船員にはパスポートや船員手帳は不要とのことだ。漁船に乗り組みタイ南部ソンクラ沖へ10日間の巻き網漁を繰り返し、食事付きの月給は4~5千バーツ(1バーツは約3.1円)。漁から戻ると船倉の魚を水揚げし、また直ぐに漁に出る。1隻の乗組員は約20人で全員がミャンマー人だったという。
暫定パスポートは漁船を降りてから、バンコクのミャンマー大使館で取った。漁師を辞めたのは、海の上では誰にも会わず、つまらなかったから。それに、仕事がきつい割に給料が安かったからだと言う。次の建設会社へ友だちの紹介で簡単に転職できたのは、漁業会社に借金がなかったから。しかし、建設会社はパスポート取得代として6千バーツ、労働許可を得るために6千バーツ、計1万2千バーツを払えと。彼は会社に借金することになった。
仕事は飯場に住み込んでのトビや型枠大工。月給は最低賃金法が定める日給300バーツのほぼ1か月分、9千9百バーツ。現場の労働者はやはりミャンマー人ばかりで、本国同様に多民族の寄り合い所帯。モン族の親方からビルマ族の彼は嫌がらせを受け、直近9日分の日当が払われず、昨日その建設会社を辞めて来たという。だが、バスポートはまだ借金が残っているからと、会社が保管していて手元にはない。自分のパスポートを見たのは、大使館へ受け取りに行った時の1回だけ。代わりに財布から取り出したのは、ラミネート加工されたカード。「ミャンマー労働者国籍証明サービスセンター」と書かれ、彼の写真と名前があるだけ、裏面は白紙という簡素な代物だ。
活動するタイビルマ人協会
現在、バンコクで洋服販売をやっているミョナインさん(53)は自由と仕事を求めて1990年から10年日本で暮らした経験がある。そして、東京で日本ビルマ人協会(BAJ)の中心的メンバーだった。そんな親睦互助組織をタイでもと、彼が2008年11月バンコクで発足させたのがタイビルマ人協会(BAT)。当初BATは労働者に縫製などの職業訓練を施していたが、近年は労使トラブルの仲介や傷病時の世話が主になっている。BATの活動経費は寄付で賄い、スタッフは無報酬。代表を入れて4人と未だ小さな組織だが、ミャンマー人労働者の間では頼りになる存在だ。
ミョナインBTA代表は、パスポートを返して貰えるようマウンヌーンさんの雇用主に交渉するという。だが、彼は親方の連絡先を知らないので、一緒に親方の所へ出向くことにした。バンコク郊外、スクンビッド通りソイ62、アパートの建設現場の片隅にその飯場はあった。屋根も壁もトタンの窓がないバラックがひしめき、水道はホースで引いて来て、電気は裸電球がぶら下がっているだけ。寝るだけとはいえ、暑い日はとんでもなく寝苦しそうだ。
飯場で売店を開いている親方の妻と話していると、親方が現れた。被っているハットと上着はカモフラージュ柄で、まるで反政府ゲリラのような出で立ち。彼は機嫌が悪く、怒っているのは表情と口調で十分に判った。代表は「パスポートを返してもらいに来たので、喧嘩しに来たのではない」と努めて穏やかに話し始めた。彼はおろしたてのワイシャツと折り目のついたズボン姿。加えて書類カバンを下げ、公務員か会社員のような格好をしている。実はこの日もBAT代表だとも何とも言わずに親方と交渉に臨んだ。ミャンマー大使館と緊密な関係にはあるが、大使館員ではない。しかし、親方は大使館員か、本国の役人だろうと見ている。「こうしないと殺されてしまいますよ」。代表の言葉は、まんざら誇張ではないように聞こえる。
親方は彼には未だ4千バーツの貸しがある、それを返せば直ぐにパスポートを渡すと。他の労働者も同じ条件で、最初に2年有効の労働許可を取るためタイの業者に6千バーツ払っていると説く。彼は既に8千バーツを返しているので、パスポート発行代は完済しているようだが、1年しか働かずに辞め、代わりに新人を雇えばまた手続き費用がかかるという理屈だ。しかし、これでは労働者の権利どころか人権が守られていない。日本では厚生労働省が「外国人労働者の旅券等を保管しないようにすること」という指針を出している。代表は「仕方がない」と引き下がったが、彼が残金4千バーツと引き替えにパスポートを返してもらう時には立ち会うことを約束した。
マウンヌーンさんは母親に10万バーツ仕送りしたら、帰国して農業に戻りたいと話す。翌日から友だちの紹介で別の建設会社で働けるとは言っていたが、パスポートも労働許可もない非合法。生活費とは別に早く4千バーツを貯めなければならない。
12歳から出稼ぎ
日本料理店も多いスクンビッド通りソイ12にある韓国式焼き肉店。モエさん(25)はそこでウェイトレスをしていた。カレン州パワンに近いエドゥマ村出身で本名はモーサンサン、雨太陽太陽という意味だという。彼女はわずか12歳でブローカーを頼ってタイへ。以来13年になる。毎年帰省はしてはいるが、ずっとタイで働き、タイ語ももうペラペラ。最初の6年はメードを、その後は食べ放題の焼き肉店を経て、現在の韓国人が経営する焼き肉店でウェイトレスをしている。メードからの転職の際は、ブローカーではなくタイ在住のミャンマー人仲間の紹介だった。
9人兄弟で彼女が一番上、末っ子はまだ5歳。故郷で雑貨屋を開くのが夢で、あと2、3年は頑張るという。モエさんのように、特筆すべきトラブルには遭っていない労働者の方が多いのは現実で、そうでなければ250万人以上もタイへ来ていないはずだ。
危惧される結核拡大
バンコク都営のスカイトレインの終点から、バスが1日6本しか通っていないプラウェー区に通うのはBATスタッフのテッテッウーさん(43)。ミョウイン代表と二人でBATを始めた彼女は女性問題を担当している。市民の民主化への欲求がゼネストやデモで噴出した1988年以降、彼女は故郷シャン州で国民民主連盟(NLD)の仕事をしていたという。父ナンマトゥーさんがNLD党員で、自宅が党支部だった。父は90年の総選挙で当選したが、その直後から政治犯として2度投獄され、獄中からの指示で働いた。一方、教師が不足していたので、彼女は高校生の頃から8年間小学校で教鞭を取っていた。タイに来たのは、2000年4月のこと。当時シャン州では政府軍との間で戦闘が続き、夫は政治犯として投獄され、自分も身の危険を感じてタイ最北端の町メーサイへ出て来たと振り返る。彼女もミョナイン氏も認定はされなかったが「難民」の一人だった。
都会とも田舎とも言えない殺伐とした工業地区、プラウェー区。前夜の雨で冠水したままの道路に高い塀に囲まれたプラスチックやジーンズの工場。それ以外の区画は廃材混じりの残土に雑草が生い茂る空き地か、4階建て前後の安アパートが建っている。そんなアパートの一室に彼女が届けたのは午前中に病院で受け取った薬。袋にはタイ語で「ミセー様 就寝前に1セット全て飲んで下さい。次は9月19日」と。
ミセーさん(30)は結核にかかって失業した。咳が続き、吐血し、プラスチック工場を解雇されたのは今年2月10日ことだった。国境の街メソートにいる共通の知人を通じてテッテッウーさんは彼女に結核の疑いがあることを知り、病院へ連れて行った。吐血したので他の工員たちが大病だと騒ぎ、それを雇用主が知るところとなった。工場の外国人労働者に療養休暇などはない。彼女の上腕と肩を見ると、左右どちらにもBCG(結核の予防ワクチン)の接種跡はなく、ワクチンのことも、結核が伝染病であることも知らなかった。ビルマでも1988年以前はワクチン接種が広く行われていたが、軍事政権以降は廃止され、民主化した今も復活していない。実際、テッテッウーさんを含め40代以上のビルマ人の上腕部を見ると、そこには見慣れたBCGの跡がある。
暫定パスポートは持っているミセーさんだが、工場を解雇され労働許可がない。他方、故郷の父からは「子どもにうつるから帰って来るな。タイで治せ」と言われている。外出すると警察に捕まる恐れがあるため、テッテッウーさんが一度だけ病院に連れて行き、その後は薬を毎週届けているという。
結核患者のミセーさんは8畳くらいのワンルームに、夫(29)と自分の弟(27)、従兄弟(19)の4人で雑魚寝している。咳が止まって自覚症状がなくなり、日常生活に支障がなくなったと安心している彼女にテッテッウーさんは「ちゃんと薬は飲んだ?」と毎夜電話で念を押している。結核は症状が治まっても薬を飲み続けなければならないという知識がなく、完治に至らないばかりか、周囲にうつす可能性が大きいからだ。
国境なき医師団(MSF)は8月下旬ヤンゴンで結核対策のシンポジウムを開いている。MSFによると、ミャンマー国内では薬剤耐性結核(DR-TB)の罹患率が高く、年間約8900人が新たに感染する一方で、治療を受ける患者は800人に過ぎない。 この日、同居する従兄弟が3か月前から咳をしていることが判明。テッテッウーさんは翌週月曜に彼を病院へ連れて行くことにした。
ショッピングセンターでタブレット
「今日は残業がなかったから」と電話して来たピューニンさん(22)とは、近年東南アジアでチェーン店を大展開しているショッピングセンター『ビッグC』で会うことになった。指定された複合商業施設があったのはバンコク南隣のサムットプラカン県サムロン。ここは古くからの工業地帯で、日本の自動車産業などもタイで最初に工場を作った所だ。
彼女は昨年9月、モールメン近くのチャイマローという町からタイへやって来た。だが、今年4月やはり結核にかかっていることが判明。現在は病を隠してネジ工場で働いている。南部へ向かう国道4号線沿いの地方都市プランブリーの食堂でウェイトレスをした時のこと、咳が止まらず自分から病院にかかって結核と判った。プランブリーの病院は結核患者の退院後の行動を憂慮してBATに連絡。それがきっかけでテッテッウーさんが面倒を見ることになった。BATでは現在、22歳から51歳まで8人の結核患者の世話をしている。
ミャンマーの学制は中学4年まで、その後2年高校となるのだが、彼女は中学2年までで働き始めた。「学校は続けたかったが、お金がなかったので…」。4人兄弟の一番上で妹が2人、末の弟はまだ10歳。両親は離婚し、タイでそれぞれ新しい相手と暮らし、ピューニンさんとも別居。故郷の家族は長女からの仕送りが頼りになっている。「病気が治っても、タイで仕事を続けます。祖母と下に3人いるから」。収入から生活費を引いて残った半分を貯金、もう半分を祖母に送るという。
テッテッウーさんから彼女は経済的に困窮していて栄養のあるものを食べられていないと聞いていた。だが、着メロが鳴って鞄から取り出したのは携帯電話ではなく、いまタイでも大流行のタブレット。5千バーツは下らず、ほぼ彼女の月収に相当する。病気の療養もできない生活と最先端の情報通信機器、そして、家族思いの健気さとのアンバランスは、彼女が十分な教育を受けられなかった貧困でしか説明がつかない。
彼女は結核にかかったこともあり、在タイ1年で6回仕事を変えている。最初の食堂は結核を理由に3か月で解雇された。その後バンコクの南でプラスチック工場と未明に業務用豚肉を配達する企業に入ったが、どちらも重労働だったため、それぞれ2日と1晩だけで辞めた。次いでロープ工場に勤めたが臭いが酷くて再び咳が出始めたので2週間で辞め、枕工場へ1か月。しかし、給料が安すぎたので、現在のネジ工場へ移って1か月だという。彼女が1年間で働けた期間は結局6か月にも満たない。
ベトナムからも
メイさん(23)とは取材の帰りに立ち寄ったビアバーで出会った。黒髪に白い肌、二重まぶた、タイ語になまりがある彼女はベトナムの首都ハノイ出身だという。バンコクの水商売で働く女性が東北タイ(イサーン)からの出稼ぎ娘という相場は前世紀のこと。この店での勤務時間は毎日午後5時から翌朝3時まで。近くにはマッサージ店やソープランドも多数ある。所謂3K仕事はミャンマーなど周辺諸国からの外国人労働者が担っているのが現在のタイだ。ミャンマーとのような二国間協定はベトナムとはないので、メイさんは不法就労。もとより水商売では労働許可証は出ない。直接間接かは分からないが警察や入管に目零し料を払って、ここで職を得ていることには違いない。それでもバンコクで3か月働いて2週間帰るというローテーションはもう3年目。ベトナム人の彼女たちは最も安い移動手段、ラオス経由のバスで丸1日かけて往き来しているが、毎回2万バーツくらいを米ドルに両替せず、タイバーツのまま持って帰っているという。ラオスやカンボジアからも出稼ぎが押し寄せるのが頷ける。
大使館も民主化
チョーチョールゥィンさん(45)は在バンコクミャンマー大使館付きの労働省職員。タイに働きに来ているミャンマー人に暫定パスポートを発給したり、タイ政府へ労働許可を申請したりする他、労使間の問題解決や傷病者の援護にも当たっている。大使館近くの2階建て長屋の一室を月1万5千バーツで借りている事務所には、ひっきりなしに労働者やブローカーが訪ねて来る。スタッフは彼ともう一人だけ。大使館に登録している正規労働者の対応だけで多忙で、手が足りていないのが現状だ。それでも、政府が出稼ぎ労働者に対して行政サービスを施すようになったのも、民主化の産物。以前は大使館も民主派勢力を取り締まることに力点を置いていて、一般市民は近寄りがたい所であった。
ブローカーによってまちまちのパスポート発給と労働許可取得の料金だが、大使館の公式な料金は次の通りだ。パスポート発給料550バーツ、ビザ発給料500バーツ、健康保険料1900バーツ、労働許可発給料1900バーツ、合計4850バーツ。早ければ手続きは3日で済み、労働許可だけがタイ側の都合でたまに1か月かかることもあるという。パスポートなしで来タイし、プラスチック工場で働くある労働者は、ブローカーに今年2月パスポートと労働許可代として1万バーツを払ったが、パスポートを受け取ったのは7月、労働許可は未だ手続き中とか。その暫定パスポートには2013年7月1日発行と。タイのビザのスタンプも入国した2年前の某日ではなく今年の7月1日となっている。ちなみに、ビザのスタンプ下欄には雇用主を明記し、保証人がサインする必要があり、自分で自由に勤務先を変えることはできない。大使館の発行手数料と比較すると、ブローカーは倍から3倍の料金を取りながら、まとめてゆっくり手続きしていることになる。
外国で働いているミャンマー人労働者の間で不評だった大使館に納める10%の所得税は去年廃止された。廃止前はその納税証明書があれば、国内で不動産や車を買う際に免税になっていたが、同時にその制度も廃止され、今は購入の際に消費税のような形で納税することになった。 正規・不法を問わず、命に関わるようなトラブルは、その人がタイ政府の労働許可かタイ企業からの給与支払証明を持っていたら、チョーチョールゥィンさん等はタイの社会福祉局へタイ人に準ずる福祉サービスの適応を要請している。
窮地での助け合い
テッテッウーさんとバンコク都心にあるラビティー国立病院を訪ねた。6人部屋の窓際のベッドで膝を立て痛みに耐えていたのはメーシーさん(19)。ここはタイ人ならば基本的に無料で治療を受けられる公立病院。点滴をチェックしに来た看護士は「未だ食べられないから、退院はあと1週間くらいかかるでしょうね」と。彼女はタイへ来てすでに1年経っている。だが、マハチャイのネジ工場で働き始めて2か月で虫垂炎になって手術を受け、それ以来働けていない。というのも、虫垂炎で病院にかかった際、腎臓が悪いことが判明、体内にチューブを入れた。
母は幼少の頃に亡くなり、僧侶だった父は1か月前に死亡。一人娘で故郷にも頼れる人はいない。手術は無事済んで一旦退院したが、結石で腰が痛く働けない。しかし、タイで宝石研磨の仕事をしているミャンマー人のディンドゥンさん(24)と出逢って同棲、彼はこの日も付き添っていた。体内の管は4か月後に取り出す予定だったが、彼も日当400バーツの低収入。手術代が貯まらず、レントゲンで親指大に映る二つの結石で、痛みは増す一方。座ることも出来なくなった6月、二人は大使館に助けを求めたのである。大使館はメーシーさんの救援をBATに依頼、BATが彼女をこの国立病院に入院させ、テッテッウーさんが次の手術代と入院費3万バーツを払うという保証書にサインした。
彼女は「ビルマにいる時も人助けをしていたけれど、タイで働く名もない労働者を支えたいので」とBATでボランティア活動をしていると話す。民主派も分け隔てなく支援していたBATは発足当時、ミャンマー大使館とは敵対関係にあった。だが、今やミャンマー政府にとってBATの活動が大変有益なことは明らかだ。2年前の6月に大使の方からミョナイン代表に声をかけて来て以来、両者は急速に良好な関係となり、少数民族で民主派の彼女も大使館に住所やメールアドレスを明かそうかと考えている。
大使館が医療費の一部、1万4千バーツを出したことを確認にした病院は取材の二日前に手術を敢行。残りの1万6千バーツは退院時に請求されるが、タイ社会福祉局から医療費が出ない場合は、それも大使館が払うつもりでいるという。
認識がない『労災』
チョウさん(42)はマンダレー区のミッティア出身。サロウィン川に架ける橋の工事にも加わった腕の良い左官だ。だが、今年7月13日建設現場の4階から転落し、右足を骨折した上に頭を10針以上縫った。それから2ヶ月が経っていたが、今も左脇と腰が痛いという。タイの建設現場で働いているのは周辺諸国からの出稼ぎ労働者が主で、ヘルメットや安全帯など着けている作業員を見ることは殆どない。
事故当日タイ人の35歳くらいの女ボスが病院へ連れて行きはした。治療費が6日間の入院費を含めて4万バーツ。頭から大量出血し、他の作業員たちはチョウさんが死ぬのではないかと怯えていたことから、ボスは彼らの前で「治療費は私が全額持つ」と言っていたが、結局半分の2万バーツしか出さず、その後も見舞いや補償は全くないという。
タイに来たのは6年前。ブローカーに1万バーツで斡旋してもらった建設会社で働き、やはりタイで鍵工場に勤めていたミャンマー女性、タピューさん(32)と知り合って4年前から事実婚状態に。1歳半の男の子がいて、二人目の子どももお腹に。男の子の出生届は大使館に出し、現在はミャンマーの姉に預けているという。今年4月にその建設会社を辞めて家具工場に転職したが、腕の良さからボスに連れ戻された矢先の事故だった。
チョウさんが暮らすここはバンコク都のバンボン区という魚の缶詰や靴、縫製などの中小企業が多い工場地区。職住接近とばかりミャンマー人が集まって住んでいて、その人口は2万人を下らないという。「もう帰ろうと思いながら、ずるずると6年が経ちました。ここはつまらないですよ。警察が言いがかりを付けてきたりして、パスポートを持っていても自由がないから」。彼はどの国にも通用する赤い表紙のパスポートを持っていて、月に9千から1万バーツ稼いでいたが、生活費以外は仲間と飲んだり喰ったり、あちこち遊びに行ったりして消えてしまい、貯金はできなかった。
奥さんは夫の看病で休みがちになっていると、先月工場を解雇された。今は近所のミャンマー人仲間に借金して食い繋いでいるが、2週毎に行かねばならない病院代が1回1500バーツかかるという。テッテッウーさんは用紙を二人に渡して結婚届を大使館に出すように勧めた。どちらかが死んでも、給料や補償金を受け取れるからと。安全など二の次の労働環境ではブラックジョークにもならない。
ギプスはあと2か月で外れるが、障害が残って仕事が出来なければ、帰国すると決めている。いずれにせよ、もうあまり長くタイにいるつもりはない。なぜなら、子供は故郷で育てたいし、郷里に妻が働ける衣料工場が出来ていて、月に170ドル稼げる見通しもついたから。加えて、ミャンマー国内でも建設工事が増えていて、チョウさんのようなタイで経験がある技能者は引っ張りだこだからだ。
ミャンマー政府は現在、マレーシアともタイとのような二国間交渉をしている。より多くの自国労働者が出稼いでいる国の順で協定を結ぼうとしている。しかし、その一方でテインセイン氏が大統領になった2011年3月末以降、暫定パスポートの発給は減少傾向にあり、帰国者も増えているという。ミャンマー国内のインフラ整備はこれからであっても、ミャンマータイ国境の自由貿易区に生まれた市場や工場で雇用が創出されている。
ミョナイン代表は「労働災害なので、ボスに治療費を請求する方針です」と。だが、チョウさんはその女ボスに長年雇われていても「ジェー(姐さん)」としか呼んでおらず、名前も連絡先も知らない。代表はチョウさんが泣き寝入って帰国する前に、彼女の車のナンバーから名前や住所を割り出すと話す。
労働者の人権宣言から5年余り
軍事政権による迫害や戦禍を逃れて外国に出ていたビルマ人も、ミャンマー大使館に出頭しビルマ語が話せ、出身などを言えれば、以前のように政治犯として収監されるのではなく、だれでもパスポート(国籍)を持てるようになった。出国当時のパスポートや身分証明証を紛失していても可能だという。国外に逃れていた民主派リーダーたちを昨年9月ヤンゴンやネピドーに招いて厚遇したのは、民主化をアピールするポーズだけではなかったようだ。
タイ政府はミャンマー人に対して連続6年の労働許可を出していたので、ミャンマー政府はそれに合わせて暫定パスポートの有効期限を6年としていた。だが、タイ政府は今年8月突然、労働は連続4年までとし、一旦帰国してタイへの再入国は1年後以降とした。ミャンマー人労働者には勿論、彼らを頼りにしているタイ企業にも混乱を招いたため、すぐに帰国して1か月以降と改正され、さらに1日帰国すれば戻って来られるようになっていた。ミャンマー人労働者はそれほどタイ経済に欠かせない存在となっている。
東南アジア諸国連合(ASEAN)は第12回首脳会議で「移住労働者の管理の保護に関する宣言」を採択している。その中で「差別、虐待、搾取、暴力などの被害を受けた場合は救済や司法、社会保障などへのアクセスを促進することや、賃金や労働条件の面で移住労働者の公平な扱いを促進」と唱っている。宣言から5年余り、その極一部ではあるが、漸く現実のものとなり始めた。