カンボジア大波を受けた小国2010年3月
世界不況の波
「工場の撮影は絶対にダメ。お断りだ」。カンボジア衣料工業協会ケン・ルー常任理事は、交渉の余地なしといった剣幕。その理由を聞くと、「イギリスのテレビに許可したら、何千人に一人いるかいないかという小さな子を取り上げて、児童労働だと批判したんだ」と。世界不況の大波をもろに受けたところへ、その報道は”泣きっ面に蜂”だったようだ。
カンボジアの縫製工場のピークは2007年末で、330の工場が約36万人を雇っていた。現在は工場が246、工員は24万人前後と三分の二に縮小している。輸出先はアメリカが断突の65%、EU諸国が25%、残り10%が日本などアジア諸国といった輸出産業なので、外国の景気で生産体制が決まる。
工員採用時の条件は16歳以上という年齢だけで、学歴や経験は不問。ただし、体力的に一人前となる18歳以上を採る傾向にはある。同協会の取り決めでは月給が50ドル、皆勤手当5ドルに住宅手当6ドルの計61ドル。工場の95%以上は外国資本だが、本国に親会社があるとは限らず、ベンチャー企業も少なくない。労組はどの工場にも1つ以上あり、解雇の事前通知や手当はこの国の労働法に則っているはずだという。
農業と観光くらいしか産業がないこの国で、縫製工場は基幹産業と言える。その工場で、3年足らずの間に10万人以上の若者が失業した。日本の人口に換算すると、100万人以上が失職したことになる。だが、国家予算の約半分を外国援助に頼っている政府には公金を注入する余力はなく、事業税を0.8%で4年据え置くといった減税くらいしか出来ていない。
ルー常任理事は「景気回復がどれくらい先になるか分からないが、消滅するには規模が大きくなりすぎている。アメリカ経済の回復にかかっているが、労働者もストライキをするとバイヤーが来なくなることを自覚すべきだ」と、終始苛立った調子だった。
ビアガール2カ月の元工員
ロン・ティアラーさん(19)はそんなプノンペンの縫製工場の一つに2年余り勤めていた。国道4号線でポチェントン国際空港を過ぎ、さらに郊外に出たところ、『アディダス』と書かれたスポーツウェアばかりを作る『QMI』という工場で働き、月給は協会の取り決めより5ドル少ない45ドルだった。だが、ラインが止まり、給料が支払われなくなったところへ、30ドルの退職金を提示され、辞める他なかったという。
レイオフされた彼女は、「稼げる」という工員仲間からの情報を頼りに『ビアガール』になった。ビール販売会社に登録し、その会社が扱うビールをレストランなどで直接客に売り込む仕事だ。ドイツやオランダ、アメリカ、オーストラリア、シンガポール、日本などの輸入ビール、そして国産もあるが、彼女はオランダの『ホーランディア』のビアガール。夕方6時から深夜11時までと、朝9時から午後2時までの昼食時も働く。
カンボジア政府は12年間学校へ行くことを奨励しているが、満了できる子どもは少ない。ティアラーさんは9年間学校へ通え、地方生まれの女性としては比較的高い教育を受けたと言える。男子により高い教育を受けさせるため、女子は小学校すら終えられなかったり、就学年齢が高かったりする。社会でも「男尊女卑」が強く、女性は高い教育を受ける必要はないとされたり、浮気して家庭を顧みない男性に寛大だったりする。
その一方で、夫婦以外の男女が手を繋いで歩いたり、婚外交渉などはタブーだ。女性が肌の露出を控えるのも、日差しの強さからだけではなく、道徳心や恥の意識から。そんななか、ビアガールはミニスカートやホットパンツ姿になって、初対面の男性を親しげに接客する。ティアラーさんにとっても、想像以上の思い切りが必要だったようだ。
彼女は自分が抜いた王冠をポシェットに貯め込んでいる。それは王冠1個が1ドルという歩合制だから。しかし、収入の割合は、王冠よりもチップの方が多いという。カンボジアのビアガールはキャンペーンガールというより、ホステスに近い。店から連れだそうとする客はいるかという問いに、彼女はうんざりという表情で、「数え切れないほど」と答えた。
ビアガールになって2か月。工員の時は月30ドルが精一杯だった仕送りは、その5倍、既に300ドルを送金した。母親に隠してビアガールになっていたが、皮肉にも、仕送りが増えたことで発覚。帰郷してプノンペンの就労事情を説明したが、母親に叩かれ、泣いたという。「ビアガールは周囲から良く見られず、差別されるから、今も嫌い」とティアラーさんは時折表情を曇らせる。
カンボジア人女性危機センターのセイ・バタニー代表は、ティアラーさんは典型的なケースだと言う。「2008年末の大規模レイオフで、解雇された工員の9割が女性でした。一部屋に7、8人で雑魚寝し、故郷へ仕送りしていた彼女たちは、家族の大黒柱。仕送りを止めるわけにもいかず、ビアガールやマッサージ嬢など”危険な仕事”に就く以外なかったでしょう」
マッサージ師は人権NGOスタッフ
ケオ・タァさん(52)は現役のマッサージ師。夫の浮気で離婚し、バッタンボンに3人の娘を残して15年前、単身プノンペンへ出て来たという。最初数か月は住み込みの家政婦をしたが、月給15ドルでは仕送りが出来ず、すぐにカラオケのホステスに。歌が上手く、人気者になったそうだ。マッサージは6、7年前からで、特に訓練は受けてない。いまマッサージ店は看板を出せなくなり、喫茶店で客と契約し、ホテルへ行くパターンが主流となっている。
「人間である限り、仕事が必要です。私は売春も一つの仕事だと思っています。生活のために身体を売ることは、ポルポト時代もやってました」。マッサージだけなら2ドル、本番だと10ドルが相場とか。嫌な客の御三家は、暴力を振るう客、料金を踏み倒そうとする客、泥酔客。これは日本で聞くのと全く同じだ。
「どうしても出来ないという気位の高い人もいるでしょうが、倫理と饑餓のどちらを選ぶでしょうか。子供を愛し、家族を大事にし、母親を病院に連れて行ったりするための立派な仕事です」。こんな風にきちんと意見するタァさんは『統合のための女性ネットワーク(WNFU)』のスタッフでもある。フンセン首相が2000年にカラオケを閉鎖し、多くの売春婦が失業。その翌年、外国からの援助の窓口となる一方、国内の性産業に従事する女性を纏める目的で設立された地元NGOで、2003年には内務省に公認されている。
『売春は仕事』と書かれた旗が壁に貼られた事務所。識字率を上げ、職業訓練を施し、保健サービスを行って売春婦の生きる権利を守ろうとしている。対象はカラオケやバー、マッサージ店の従業員、公園など屋外で客を引く女性、そしてビアガールも。2008年には計5079人を直接援助し、集計中の09年は500人ほど増える見込みだ。
増える人身売買
売春はこの国でも違法だが、おおっぴらにせず、社会秩序を乱さない範囲で、18歳以上は黙認していると当局が明言する。しかし、子供の人身売買は厳しく取り締まっていて、特に14歳以下は重大案件としている。
プノンペン市警中央防犯局ソック・カマリン局長によると、取り締まりの対象は管理売春と性的虐待、それに人身売買の隠れ蓑となっている養子縁組や国際結婚の斡旋だ。噂や情報提供があれば、被害者救出と容疑者逮捕に向けて即座に動いていると、カマリン局長は最近の事件写真を見せる。一ヶ月前には、外国人相手にカンボジア人の子供を売春させていた英国人1人を含む5人組を逮捕。一週間前に逮捕した売春組織は、14、5歳の中国系カンボジア人の少女をバージンだと言って観光客相手に売春させていたのだが、逮捕した5人のうち2人は少女の母親だったという。
警察は管理売春をしている売春宿を摘発した場合、経営者は拘禁するが、女性は美容や裁縫などを教える更生施設に送るか、故郷に親と家がある場合は帰省させている。2009年全国で165件を摘発し、売春婦907人の保護。その内訳は15歳以下が82人、15歳から17歳が82人、18歳以上が743人。231人の容疑者は、90の裁判が開かれ、うち116人が有罪判決を受け、服役している(総理府発表)。2008年には111件だった人身売買事件は、翌09年にはその約1.5倍が立件されている。同年あった工場の大量解雇と無関係ではなさそうだ。
「仕事を変えるのは、とても難しい」
WNFUのタァさんは警察署や裁判所通いが絶えない。逮捕されて、収入が途絶え、女手がなくなった留守宅の面倒を見る一方で、いつも減刑を願い出ている。いま掛け合っているのは、アパートで売春しているところを警察に踏み込まれ、管理者として2年半の懲役刑を言い渡されたケース。部屋代を節約するために、売春婦数人でアパートを借りていたことが、管理売春と誤解され、難航しているという。
売春婦は検挙されても、生活のために一日も早く仕事に復帰することを考える。というのも、手に職をつけても自分一人がやっと食べていけるほどの収入にしかならないから。「仕事を変えるのは、とても難しいんです。裁縫などの技術を身に着けても、工賃が安くて、結局この仕事に戻ってきます。食べる物はないし、政府もNGOも助けてくれません。街で身体を売るしかないのです。私たちは売春婦を増やそうとしているのではなく、この仕事の危険性を教えて、自分たちを守ろうとしているんです」
再びビアガール
ティアラーさんは同じ工場をリストラされた2人の女性と、月40ドルのアパートをシェア-している。今の仕事は3人ともビアガール。ルームメイトで、8歳の娘を故郷バッタンボンに残して上京したサイン・ソカーさん(25)は工場で仕上げ工程のリーダーだった。部屋でも一番年長とあって、姐さんといった存在。ソカーさんは、母親がやっている野菜の卸売りの仕事を継ぎたいという。もう一人のルームメイト、オム・リーさん(21)は幼少の頃に両親が病死し、カンポートで養子として育てられた。自分が孤児だっただけに、家庭を持ちたいというが、許嫁と16歳で一緒になった結婚生活は早々に破綻し、カンポートに残して来た2歳になる娘とは、1年以上会えていない。
リーさんは、ソバージュヘアに水玉模様のリボンを付け、赤いミニスカート。とても2歳の娘のシングルマザーには見えない。ラジオのディスクジョッキーのように滑舌が良くメリハリの利いた喋り方をし、カンボジアのジョークで酒席を盛り上げる。「白い雌の亀がきれいな水の池を探して歩いていると、黒い雄亀に出会ったの。『きれいな水の池はどっち?』と聞くと、雄亀は『Hさせてくれたら、教えてあげる』と。そして、黒い亀が教えてくれた方角へ歩いていると、今度は青い雄亀に出会ったの。同じやりとりがあって、青い亀が言った方向へ歩いていると、今度は黄色い雄亀に出会って、池の場所を教えてくれるというので、またまたHしちゃった。その後、白い雌亀は自分が妊娠していることに気付いたんだけど、さて、子供は何色でしょうか?」。客が「白と黒と青と黄色だから…、グレー?分からないよ、教えて」と言うと、すかさず彼女は「Hさせてくれたら、教えてあげる」と。客は何やら自分が亀になったような気分になる。
コケティッシュで捌けているリーさんに対し、二つ下で結婚の経験がないティアラーさんは、ほろ酔いで遠くを見る瞳が愁いを含んでいる。彼女は4人兄弟姉妹の上から2番目。長男は結婚して家を出たきり音信不通。下二人は未だ学校へ通っている。少し纏まったお金が貯まったら、故郷で雑貨屋を開くのが夢だという。母親(45)は2回結婚し、2回離婚。子供は上二人と下二人で父親が異なる。「肺に水が溜まる病気」で入院した母を見舞うため、ティアラーさんはバスで片道2時間半かけて毎週帰省していた。
「何か手に職を付けないかと言って来る人はいるけど、そして、訓練に行っても良いんだけど、そのあいだ誰が私の家族をみてくれるのかが問題です。勉強することは大事だと思うし、自分のためにもなると思う。でも、そう簡単じゃない。1年、長ければ4年くらいかかるし、それで良い仕事にありつけるかも知れないけど、そのあいだ仕送りが出来なくなってしまう。そのあいだに母が死んでしまうかも知れない。だから、私は自分の将来より、家族を選んだの」。ティアラーさんは、カンボジアの伝統食、魚の塩辛『プラホック』が好物で、この日もご飯や生野菜に付け合わせに注文した。「身体が不自由なお金持ちが通ってきて、チップを毎回50ドル以上くれたんだけど、一人の客の女になろうとは思ってません。ただ、自分が病気しないかと気になってる、だって、私が倒れると一家の収入が途絶えるから」
エイズ村
セックスワーカーは他の仕事に比べて高収入を得られるが、HIV感染の危険に曝される。首都プノンペンの南約17キロ、ダンカオ郡ドゥールサンボー村。ここは去年6月にプノンペンのスラムから強制移住させられたHIV感染者の新しい村で、46家族約170人がトタン葺きの仮設住宅に身を寄せている。
プレイベン県で米作をやっていたベン・ティさん(36)は、農業だけでは生活が苦しく、建設現場で働こうという夫、プロム・ペルさん(67)と一緒に11年前プノンペンに出て来たと話す。ティさんがHIV感染していることを知ったのは6年前。下痢が続いて診療所へ行くと、HIV検査を受けるよう勧められ、その結果が陽性だった。「たぶん夫から移った」というが、感染経路は定かではない。
村人は月一回プノンペンの病院に通っているが、薬代はNGOの支援で無料。だが、主に食費として一日当たり1万リエル(約220円)は要る。しかし、農業をしようにも土地がなく、HIV感染しているため体力的にも難しい。べン・ティさんは、『カンボジアンニットコム』という会社から、指人形の内職を請け負い、月8万リエルの収入を得ている。この仕事は虚弱なHIV感染者にもでき、彼女を含め18人が請け負っている。不足分は、比較的元気な家族が街へ出て、建設労働やバイクタクシーで稼いでいる。
二人とも再婚。夫は前妻がアルコール中毒だったから、妻は前夫が浮気者だったから、それぞれ別れたそうで、今は夫婦喧嘩をしたことないほど仲が良い。「歳の差?(笑い)この人は辛抱強くて、言葉を荒げることもないし」とベン・ティさんが言うと、「彼女は文句を言いたいことがあっても口に出さず、いつも笑顔を絶やさない」とプロム・ペルさんが返す。
加華大廈、カナディアタワー
プノンペン駅前の一等地に2009年11月完成したカナディアタワー。32階建てと、この国で一番高いビルだ。ティアラーさんたちの暮らしも、眼下の街のどこかにある。プノンペン市街が一望でき、これまでヘリコプターをチャーターしなければ拝めなかった絶景だ。「宣伝すれば、観光の新名所になること間違いないのですが…」と、ビル管理会社『メガアセット』の社員は恨めしそう。
このビルは中国の銀行が建て、1階に自行のプノンペン支店を開き、上層階は事務所やレストランなどを入れる予定なのだが、まだ半分しか埋まっていないという。入居済みという「半分」でさえ、銀行が投機のために抑えているだけで、実際には使われている部屋は少ない。
世界不況の打撃を受けているのは不動産だけでなく、観光産業も。客が減った上に、カネを使わなくなっていて、ホテルやガイド、タクシーなども開店休業状態。一昨年は一日に20ドル稼げたタクシードライバーが、去年は2ドル50セントしか稼げなくなった。シェムレアップの老舗ホテルが廃業したり、プノンペンの一流ホテルで給料の遅配が起こっている。
「カンボジアには金融市場が存在しないし、銀行が独自資本でやっているので、連鎖倒産といった社会不安には発展しないんです」。こう話すのは、カンボジア開発研究所のカン・チャンダララット所長(40)。彼はドイツの奨学金を得て、ベルリン自由大学で12年間学び、経済学の博士号を取っている。
チャンダラット氏にカンボジア経済の概況と展望を聞いた。「縫製工場は競争力をなくし、レイオフされた工員たちは、他の工場に入ることもできず、大半は故郷へ戻っています。去年8月の大量解雇は、ちょうど雨期で農業に人手がいる時期だったのが不幸中の幸い。人々は不況が長引くと判断し、マイクロ金融から元手を借りて、キャッサバ畑や養鶏などを始めています。
政府は今回の経済危機に際し、社会主義政権下の統制経済を復活させることはあり得ず、農業に力を入れています。肥料の使い方など生産技術の指導や流通の改善、資金の貸し付けなどです。その結果、コメの生産量と質が上がり、無農薬のカンボジア米にベトナムやタイから引き合いが来ています。
この国には未だ保護すべき産業がなく、開発のためには輸入が必要で、外国資本にも入って来て貰わなければならなりません。保護貿易は一般市民にとっても、不利益をもたらすだけです。世界経済に翻弄されるのも、資本主義の宿命で、今の時代、独立経済はあり得ません。自分たちのペースでは開発できないけれど、外圧で開発が早まることもあるのですから。
カンボジアはまだまだ農業経済。工業は黎明期なので、都会の工場で現金収入を得て、農村へ送金するという出稼ぎの段階で、軸足はまだ農村にあります。地方には必ず農地があり、食べ物や住む場所があるので、工業国ほどには世界不況の脅威を感じていません」
ティアラーさん帰郷
ビアガールになったティアラーさんが、コンポンチャム県タボンクモン郡チューン村の実家へ帰るという。チューン村へは県庁所在地のコンポンチャム市から、日本のODAでメコン川に架けられた『絆=KIZUNA橋』を渡って、国道7号線をさらに35キロほど北西へ向かったところ。入院していた母、トゥーン・ピーランさん(45)が退院したからだ。
プノンペンの縫製工場で働く前、ティアラーさんは故郷で服屋の店員をしていた。母親は農繁期に日雇いで農家の手伝いをする以外は、『ヌンメンチョック』というカンボジア式ぶっかけ麺の行商をしている。ここでは殆どの村人が農業を営んでいるのだが、実家には田がないのだ。ヘン・サムリン政権はポルポト時代直後に、各戸に農地を500平方メートルずつ分配したが、親たちは分配後にこの村に引っ越してきたためだという。
往路ティアラーさんは市場へ立ち寄り、母の好物だと言って蚕のサナギのローストを買う。また、近所に配るための果物も選んだ。実家は未電化で、バッテリー生活。むろん固定電話はなく、携帯電話も持っていないので、電話がある隣家へ帰省を伝言しておいたが伝わっておらず、帰宅すると弟しかいなかった。弟は自転車で市場へ行っていた母と妹に報せに行き、ほどなく家族4人が揃った。
病気をする以前は63キロあったという母親のピーランさんは、やせ細っていた。リューマチで膝も痛いといい、高床式の家への出入りには手助けが必要だ。「娘がプノンペンへ行ってしまって、そりゃ悲しいですよ。でも、貧乏なので、仕方がないんです」。村では彼女は未だ工場に勤めていることになっていて、ビアガールになったことを知っているのは母親だけ。毎月200ドルはかかる生活費に加え、今回郡病院に1か月入院した費用300ドルは、ビアガールの収入で工面できている。だが、妹や弟、親戚、隣近所の手前、それと分かる質問は出来ない。「娘にどんな風になって欲しいとか夢は特にありません。私は強制できないし、娘しだい。彼女が容認できることなら…」と、母親は仄めかした。
そうこうするうちに、村中から親戚や友達が大勢集まってきて、実家はちょっとした祭りのよう。母方の祖母、ポック・サムオーンさん(82)ら年長者に、ティアラ-さんは伝統的な挨拶をする。盆の供物のように皿に果物を盛って、その上に1万リエル札(約220円)を載せて差し出す。カンボジアの通貨は国連統治下の98年、初の民主選挙直後に示した最高値1ドル2000リエルから下がる一方だ。贈り物を受け取った祖母は経を唱えだし、彼女は合掌する。母が名残惜しそうに言う。「いま村に『ラカウン』が来てるんよ。今夜あるから、泊まって行かない?」。ラカウンとは、カンボジア伝統のオペラだ。だが、仕事は完全歩合制、政府も誰も助けてはくれない。ティアラーさんは弟に100ドル手渡すと、今夜の仕事に間に合うよう、プノンペンへ取って返した。