阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

台湾、香港、イギリス、日本消えた九龍城砦、そして返還1989 - 1997年

イギリス、中国、香港政庁の拮抗が生んだアナーキな空間、九龍城砦。十年前、中国政府が取り壊しに合意し、 昨年、香港政庁の手で近代的な公園に生まれ変わった。植民地・香港にあだ花のように咲き、 香港が祖国へ回帰する直前に幻のごとく消えていった。「香港返還」を機に、そんな九龍城砦に今一度スポットを当ててみた。

清朝の石

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夜空に浮かび上がる九龍城砦の威容

一九九七年六月二八日、九龍城砦の跡地に前年十二月オープンした九龍市民公園。歌謡曲に合わせ、黄色やピンクの旗が一斉に宙を切る。婦人会の面々が香港の祖国回帰を祝って踊る。

四年前までは、このわずか二・七ヘクタールの敷地に、三百五十の高層雑居ビルがひしめいていた。壁を共有していなければ、窓の外は隣のビルの室内といった密度で建っていたので、巨大な一棟のビルに見えていたのである。

当時その威容を見上げていて、南側の龍津道の足下に伏せてあったベニヤ板には全く気づかなかった。「おもしろい物を見せてあげよう」。城内で牙科(歯科)を開く鄭凌生さん(当時五十五歳)はその板をずらせた。

大きなドブネズミが驚いて飛び退いた黒い方形を自慢げに指差す。「あれが清朝の城壁だよ。このビルの基礎工事をする時に見たんだが、御影石で幅はあの辺まであったな」。現在の歩道とほぼ同じだから、三メートルは優にあったということだ。

ビクトリア港を挟んで正面に浮かぶ香港島がイギリスに割譲された五年後、一八四七年に完成した城壁は高さ九メートル、東西二百四十メートル、南北百三十メートルで、南を正門に四方に城門があった。当時、城内には六十四の家屋があり清朝の役人ら四百六十余人が住んでいた(香港文化中心調べ)。

第二次世界大戦までその城壁は残っていたが、啓徳空港の拡張工事の石材調達のためにその城壁を崩してしまったのは、他でもない日本軍であった。一九四九年の中華人民共和国成立後、中国から雪崩込んだ難民は城塞跡にバラック小屋を建て、六〇年代からは限られた土地ゆえに高層化が進んだ。

地下に礎石だけが残る城塞は、下水に洗われ、シャンプーの空容器がぷかぷか浮いていた。

迷路

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通路に転がしてあった”文化財”

「一度入ったら出てこれない魔窟」などと当時のガイドブックはおどろおどろしく強調する。

午前十時、外は快晴。迷路と言われる場内へ入る。真っ暗な空間に吸い込まれてしまいそうな蛍光灯の弱々しい光。 頭上を交錯する電線と水道管の束からはしずくが垂れ、真ん中が擦り減って窪んだ通路にはちょろちょろと汚水が流れている。南方約八百メートルにある啓徳空港から漂うジェットの排ガスとドブの腐臭をベースに、料理や薬品などの臭いが入り混じる。 そんな通路が不規則に折れ曲がる度に、階段が現れる。

住居だけでなく工場や商店、食堂、学校、医院など、一歩も城外に出なくても生活はできそうだ。取り壊しが決まった五年前には、 八百七十の店(香港政庁調べ)があったという。

狛犬まである地下のお寺に感心して一階へ上がると、三メートルはゆうにある大砲が二門、薄暗い通路脇に転がしてある。 清朝の城塞から港を睨んでいた大砲で、香港政庁が美術館に納めようとした時には住民が猛反対したいわくつきの代物だ。

突然、ビルに四角く切り取られた青空がぽっかり広がった。城砦の中心である。戦前からの瓦葺きの二階屋があり、老人ホームや幼稚園に使われていた。

立ち退きが完了し、電気が切られた地区では、昼間でも懐中電灯が頼りだ。引っ越して行った人たちが残した粗大ゴミが行く手を拒む。鉄屑やガラス瓶を集めて生計をたてる人もいる東南アジアの都市とは、ゴミといってもその様相が違う。まだまだ使えそうな椅子や戸棚、布団、おもちゃ、扇風機、電話器そして仏壇もが、このビルと一緒に壊されるのをじっと待っている。 当時すでに「社会主義市場経済」路線を突っ走っていた中国。その中国への窓口として活況を呈していた香港では、 月に六千HKドル(当時のレートで約十二万円)を稼ぐ労働者も珍しくなくなっていた。

そのまま反対側へ突き抜けようとしたが、天井まで届きそうな粗大ゴミの山に前進できない。来た道を引き返すと、 ガイドブックの大袈裟な注意書きとは違い、ちゃんと表に出られた。

「三不管」

城内で一休みした飲み物屋。隣の菓子工場で女性も混じって掻き回していた特大マージャンパイの音がここまで聞こえてくる。

「『阿片』なんて言わへん。ここでは『福寿膏』や」。むっとする熱気のなか、パンツ一丁で店番をしていた陳耀南さん(当時三十九歳)、ガラス張りの冷蔵庫から自分用にも缶ビールを出し、ちょっとアブナイ話を続ける。「パイプをこう口に当てて、そこらへんにも、ずらっと寝そべっとったで」。彼の広東語はちょっと荒っぽいが、関西の下町言葉のリズムに似ている。

六十年代半ばにはアヘンは値上がりし、その上、吸引するにも横になって時間がかかることが疎まれ、若者から次第にヘロインに移っていったという。「もう、あんなおおっぴらにはやってへんけど、なんやったら…」

なま返事する私に「『脱衣舞』って知ってるか? インテリは『淫舞』やなんていうけど、なんも言わんと一枚一枚脱いでゆくのはホンマ芸術やで」。今、通ってきた龍津道は別の名を“不夜天”といい、ストリップ小屋や売春窟が七十年代前半まであったという。

「廟街や上海街なんかより、ここの『妓女』は何ちゅうても若うて安かった。そやから、客はポン引きに連れて来られた外からの人の方が多かったで」。親や恋人に売り飛ばされた娘たちが、最低四、五HKドル(現在の千円位の感覚)から売春し、下は十二、三歳の子供もいたという。そういえば、さっき階段の上り口でねばっこい視線を投げかけてきた女性は、名残のその筋の女か。燿南さんの話を聞くまでは、化粧気のない中年女性を気に留めることもなかった。

香港政庁は何度も不法建築の取り壊し計画を発表したが、その都度、中国政府の圧力と住民の抵抗に断念。増殖し続けた九龍城砦は警察の立ち入りも阻み、以来ここは香港政庁も、中国も、イギリスも管理できない「三不管」の地となった。同時に、中国大陸からの密航者や香港の犯罪者の格好の逃げ込み先となり、売春や麻薬、賭博など違法行為の巣窟ともなったのである。

一歳くらいの子供を抱いた小柄な女性が店に入ってきた。四歳年下の奥さん、許恵心さんと、一人娘の菁敏ちゃんだという。妻子を前に彼は話題を急きょ“硬派展開”する。「一、二年前やったかな、大陸から逃げて来た男がここで捕まりよってな。そいついうたら裁判所で、国境の向こうから九龍城の地下までつながっているトンネルを通って来たんやから、香港の領土は犯してへん。ここは清朝からずっと中国やし、と言いよったそうや。
新聞に出てたから、間違いない」。その男の話が本当なら、トンネルの延長は二十五キロにもなる。

燿南さんの腹にある大きな傷痕が、ビールで赤く染まってきた。もしや、若い頃は黒社会(やくざ)で鳴らして、香港映画ばりの乱闘を繰り広げたのか、と気になる。「ああ、これかいな。胃潰瘍で切ったんや。いまも時々クスリ飲んでるねん」。ほっとするやら、気が抜けるやら。陳耀南さんの饒舌に、もう一本ジュースを買った。

生まれ故郷

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「ここが私のふるさと」と美珊さん

「そんな怖いところじゃないわよ。ただ何かされても警察は来てくれない所だから、住人の方がよそ者を警戒するのよ」

陳美珊さん(当時二十一歳)は小学二年生の時、城内の細い通路で恐喝にあったことがある。犯人はTシャツ姿の彼女の知らない四、五歳上の少年だった。被害額は持っていた二十ドルのうち十二ドル。「仕方ないねー」と両親は諦め、警察には届けなかった。「あの時、私はその男とは違って、家に帰れば、ちゃんとご飯を食べれるから、まあいいやと思ってお金を渡したの。ちょっぴり悔しかったけど、怖くはなかったわ」と、子供ながらに追い詰められた少年の境遇を読んでいたようだ。「仕事がなく、食うに困ってのこと、本当の悪人なんかいないわ」と、ここで生まれ育った娘らしく答える。

美珊さんはきれいな英語で、はきはき話す。英語で授業をする英文中学では「MAXINE」というニックネームを名乗り、高卒で貿易会社のOLになった。が、電話番とコピー、伝票整理ばかりの毎日に嫌気がさして一年で退社、現在は求職中だ。既に家族と公営アパートに引っ越している彼女は、記者と一緒に再度、九龍城砦を訪ねてくれた。

「この辺で友達と『捉迷蔵(かくれんぼ)』してよく遊んだものよ。私はトイレや老人院に隠れるのが得意だったの」と懐かしそう。なるほど、ここはかくれんぼには最適の場所だと思うが、卓球やバトミントンもよくしたというのには、一体どこにそんな空間があるのかと疑う。

「不便だったこと? そうね、飲んだら病気になるからと、家の蛇口の水はシャワーと洗濯だけに使い、飲ませてもらえなかったことかな。井戸水を一階から運び上げるのが私の仕事だったわ」。最も低いビルでも七階建て、十四階建てもある九龍城砦だがエレベーターは一台たりともない。ちなみに彼女の家は七階にあったという。

掃除もよく手伝ったが、ゴミは階下に掃き落とすのがここの習わし。下の人はまたその下へと掃く。下層階ほど大量のゴミと格闘したことになるが、ゴキブリやネズミも多い一階の人たちはその分家賃が安いので文句を言わなかったという。

階段ですれ違う人はみな知り合いか親戚。アクセサリー作りの仕事で両親が忙しかった時は、近所の家に上がり込んでいた。「私が子供だったからあんな温かさを感じたのかしら。でも、大人になってもここは友達と会える大切な所には変わりないの」

日が暮れた。もう彼女の友達も大半が引っ越し、ぽつぽつとしか明かりの灯らない九龍城砦に、かつての活気はない。八七年には三万三千人(香港政庁調べ)いた住人は、彼女に会った八十九年で、すでに一万人を割っていた。

無資格名医

入れ歯を並べたガラスケース越しに、鄭凌生先生が手招きするのが見えた。「清朝の石」を見せてくれたのは一昨日。患者が途切れてランニングシャツ姿になった先生は、日本製の診察台をまた褒める。私が日本人と知っていてのことである。

「免許なんかなくったって……。大体、もし私の腕が悪かったら、何十年もこんなに患者が来てくれるはずがないだろう」。半額で治療する「鄭牙科」の患者は大半が城外からやってくる。

日本軍が香港を侵略した一九四一年、六歳だった彼は両親に連れられ中国へ逃げた。十五歳で生まれ故郷へ戻り身を寄せた九龍城砦は、まだ平屋がほとんどで、周囲には畑も残っていたという。先輩の下で修行し、開業したのは五八年だった。城内には無資格歯科医院が八十三軒あったが(八七年一月、香港政庁調べ)、この時すでに二十数軒が立ち退いていた。

「近所の噂だけど、日本人がこの跡地を買うって言うんだ。万一本当なら、日本企業のことだから結構な金を出すだろう。でも、保障金が安すぎるから、私は違うと思うね」。
鄭先生も六十万HKドルの補償金で立ち退きを迫られているが、まだサインはしていない。「政庁は廃業せよと言わんばかりだ。外で開業するのに必要な資金を全然計算に入れていない。最低二百万(HKドル)はもらわないとね」

問題は補償金の額だけではない。無資格の彼らが診療を続けられたのはここが「三不管」だからこそ。城内の名医も、外ではモグリでしかない。戦後、街頭で治療していた歯医者は“英国紳士”の推薦と申請料三十ドルで、また六十年代の自然災害や文化大革命で「大逃亡」してきた大陸の医者は簡単な試験で、免許が手に入った。

「私が勉強をしたころには、免許を持った歯医者なんていうのは、外人か金持ちの留学組だけだった。それに免許なんて政府が変われば無免許と一緒だから、私は欲しいとも思わなかったんだ」

そう言いながら鄭先生はバーナーや石膏が載った机の引き出しから一冊の本を取り出した。「正式の教育は受けたことないが、私だって西洋医学をちゃんと勉強しているんだ。ほら」と、本を手渡す。布貼りの表紙には「HEALTH AND PHYSICAL FITNESS」とある。出版は一九四三年、アメリカ。しかし、鄭先生の英語といえば「サンキュー」、「グッバイ」以外に聞いたことがない。

奥さんがアルバムを出してきた。三人の子供の写真だ。長男は香港政庁に、長女はシンガポールでドイツ系企業に勤めている。次男は目下高校生。「こいつは大学へ行かせて、西洋式の歯医者になってもらいたいんだ」と、凌生さんはずんぐりした自分とは対照的、痩せ型の末っ子を紹介した。

“秘密工場”

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インチキ時計工場。尹さんは完成品を見たことがない

受取人を失った郵便物が階段に散乱する。音のする方を見上げると、そこだけ明かりが漏れている。半裸の男がすぐ側に置いた扇風機に当たりながら何やら黙々と溶接している。どろどろに汚れた換気扇が轟音をたてる窓の外は、隣のビルが三十センチ程に迫り室内より暗い。

「これは腕時計のケースとバンド。日本の業者に納めてるんですよ」。尹達成さん(当時四十二歳)はガスバーナーの火を絞りながら答えた。孫受けの彼が受け持っている工程では、まだブランド名が入っていない。完成品は見たことがないという。だから、彼は本名も写真も構わないというのだろう。ここは紛れもなく香港名物インチキ時計の“秘密工場”なのだが。

工具や材料、日用品で足の踏み場もない工場兼住居は二十畳大のワンルーム。角の一畳程は台所と便所になっていて下着が干してある。これで月家賃は千五百香港ドル(約三万円)。城外で同じ広さだと最低五、六千ドルはする。希望の補償金は二十五万ドルだったが、彼はすでに十五万で立ち退きに同意している。期限の年末までに最大限稼いでおかなければ廃業だと、仕事を再開する。

「香港には消防法とか公害防止法なんていうのがあって、家(住宅内)で仕事(工場)をさせてくれないし、面倒な事業登記をしないといけないので弱っているんです。だいたい、ウチはそんな大それた商売なんてやってませんよ」。耐火煉瓦を敷いただけの木製の作業台に青い炎が這う。埃まみれの消火器が一本、申し訳のように壁に掛けてあった。
尹達成さんは一九六二年、広東省東莞から不法移民として香港にやって来た。「故郷では子供心にも『政府は変なことをやっている』と思いましたよ。作物は全部政府が取り上げて、どこかへ持って行ってしまう。家では牛、豚、アヒルを飼い、野菜も作っていたのに、そんなのは一度も口にできず、コウリャンばっかり食べていたんです」。四人兄弟の長男だった彼は小学校を三年でやめて、家の農業を手伝っていた。ある日、村人が香港から持ち帰った真っ白の小麦粉を見て、「こんなにいいものがあるのか」と感激し、密航を決心したという。

十四歳の少年が九龍城砦にもぐり込み、十三年間溶接工として働き、七五年にやっと手に入れたのがこの工場。しかし、パート工員を含め九人でフル操業できたのは八二、三年まで。今は社長の彼ともう一人だけの二人になってしまった。「この頃は一番いい月で十万ドル、平均五万ドルってところです。やっと喰える程度ですよ。年明けから三か月も注文が途切れてホント困りました」。香港でも所得水準が上がるにつれて3K職場は嫌われ、工場は中国の経済特区への移転が進んでいる。

四十二歳の彼だが、実は今年結婚したばかり。新妻は中国の郷里に離れて暮らしている。汽車で片道五時間、毎月二日間だけ会いに帰る。「香港で一緒に暮らせるよう、妻の身分証明書を申請しているんですが、早くて七、八年はかかるでしょうね、賄賂でもしない限り。子供? 今度帰ったらわかるんですよ」と、達成さんは初めて笑みを浮かべた。

安住の地

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強制送還された友人の子供も入れ七人の面倒をみる嬋郷さん

「お金より身分証。身分証より家族と一緒に住むことが私には大事です」と張嬋郷さん(当時三十歳)は気丈に言いきった。

ここは、九龍城砦から北へ約六キロ、四十階前後の高層アパートが林立するベッドタウン、沙田。そんな未来都市に不釣り合いな長屋が軒を連ねる「臨屋區」に嬋郷さんを訪ねた。「SHARP」の大看板をつけた二階建てバスからはき出された男たちは、油で汚れた体を引きずるようにしてに家族のもとへ帰って行く。

二日前の深夜、彼女の夫(当時三十四歳)もこの男たちと同じようにバスを降りた。だが、自宅前に停まる護送車が目に入った瞬間、彼は心臓が止まる思いだったという。「無証媽媽(身分証がない母親)」の嬋郷さん宅へ警察が来たのは、その夜で四度目だった。八三年広東省潮陽で二人は見合い結婚した。一つ屋根の下の新婚生活はわずか二週間。八〇年から香港で働き、既に身分証を持っていた夫は単身香港へ。寂しさ募った新妻は翌年、夫を追って密入境。それから三年半、警察を恐れて港の近くのバラックから一歩も外へ出なかったが、三人の子宝に恵まれ、とにもかくにも親子水入らずの生活だった。

だが八七年四月、不法移民に身分証発給の特赦を与えるという香港政庁の呼びかけに出頭すると、香港生まれの三人の子供は認められたものの彼女は翌年一月、五十七人の「無証媽媽」の一人として、四人目を身籠もったまま中国へ強制送還されてしまった。それでも彼女は八九年一二月「訪親(親戚訪問)ビザ」を工面し、赤児を抱いて再び香港へ。訪親ビザの有効期限は三か月。もうとっくに失効している。

「一番上の娘だけは覚えてくれていましたが、長男は私が抱くと泣きましてね…。高熱を出して記憶喪失になったと夫からの手紙で読んでいたんですが、長い間離れていたからなのか、よくわからないんです」。そう言って、人見知りもせず、ぴょんぴょん跳ね回っていた長男、馬林強くん(当時六歳)をふびんそうに引き寄せた。

嬋郷さんはあの時一緒に送還されたまま香港へ戻れていない「無証媽媽」の子供も預かっている。間口一間あるかなしの六畳ほどのこの部屋で、彼女は六歳を頭に合計七人の子をあやす。そんな彼女の姿を見たであろう警察官たちはその夜、嬋郷さんを連行することもなく、そっと立ち去ったという。

夫は初めて香港に来た時、検問を逃れるため列車から飛び下りて頭に大怪我をした。頭痛が発作的に襲う後遺症が残り、土木作業員や皿洗い、清掃員などの日雇い仕事を転々としている。それでも月収は約五千ドル(取材時点のレートで約十万円)。広東省に進出している香港資本の工場で働いてもこの五分の一、せいぜい六百人民元だから悪くはない。

外は雨足が強くなり、地面から二十センチもない低い床は濡れたようになってきた。「故郷でも食べてゆくだけなら何とか…」。手土産のアイスクリームを食べこぼす子供たちを雑巾を手に追っかけ回しながら嬋郷さんは途切れ途切れに答える。

小学校二年までしか行けなかった貧農の彼女たちでさえ、毎週共産党の勉強会へ行かなければならなかった。強化月間には週三日になった。休めば党員に「あなたは、もしかして…」と注意され、恐ろしかったという。

こうした話題に対する嬋郷さんの怪訝な顔つきに、インタビューを申し込んだある合法移民のことを思い出した。その彼女は中国の元女優で、日本の中堅商社の香港支店に勤めていた。英語のできる彼女は「今、日本からお客が来ていて,夜も接待で詰まってますから」と。「それじゃ日曜日は」と詰め寄ると「香港へ行っても中国を汚すような発言は慎むと、出るときに約束しましたから」と厳しい口調で断ったのである。

中国から香港への合法移民は、元女優に取材を試みた九一年には年間二万七千五百人が認められていた。抽選に漏れたり、袖の下にするカネや役人にツテがなかったりして合法枠に入れず、密航する中国人は後を絶たない。夜な夜な強制送還に脅える張嬋郷さんたちに“安住の地”、九龍城砦はもはや存在しない。

若者

商店や食堂などが並び、まだ往時の賑わいが残る城砦の北側、東頭村道をぶらつく。ご主人と飲茶(やむちゃ)から戻った籠の小鳥が、昼下がりのベランダで澄みきった声を響かせる。

「没有中国人本性的…同族良心何在」。錆びたシャッターには、イギリスべったりの政庁職員を非難するこんな檄文が貼ってあッた。その前で、白いスニーカーにジーンズのミニスカート姿の娘さんが、大きな荷物に囲まれて本を読んでいた。頼慶英さん(当時二十歳)。

「そう、引っ越しするのよ。タクシーを待っているんです」。両親と一緒に中国海南省から香港へ出てきたのは、八歳の時だった。以来、彼女はここで暮らしてきた。「私、ソーシャルワーカーになりたいの。九龍城もひどかったけれど、もっともっとひどい木屋區(スラム)もあるし、何の援助も受けていない中国人も大勢いるわ」と、明るく応えた。

「一財産作ろうと香港に来る人、食い詰めて香港を目指す人。いろいろだけど、皆お金が目当て。だからか、儲けにつながらない社会福祉学を勉強できる学校は香港に少ないし、政庁の福祉課のソーシャルワーカーになっても、本当に困っている人たちのためには働けないの。その人たちが不法移民というだけでね」。まだ香港理工学院に在学中だが、キリスト教系の団体でボランティア活動を始めているという。

タクシーが来た。積みこむ大きなバッグからは、テニスラケットの柄がはみ出した。

清朝の末裔

蒋介石の国民党政府が一九二五年から三三年まで発行した不動産税納付証明を保管しているという長老、曽錦財さん(当時七十歳)を訪ねた。彼の家は立ち退きが最も早く進んでいる西三分の一の一階にあり、もはや階上は文字通りのゴーストタウンになっている。

「このあいだ、香港テレビが政庁の役人を連れて取材に来たんだけど、カメラに納税証明を見せて訴えた部分をカットして放送したんだ。何が真実の報道だ!」とマスコミに対する不信感をあらわに腕を組む。

いきなりバツが悪く、日本製のタバコを勧める。「ありがと。でも僕はこれを三十年以上吸っているから」と頑固そう。最初は取材拒否していた錦財さんだが「GOOD COMPANION=良友」という銘柄の紫煙を吹き出しながら少しずつ話しだした。

「親父は九龍城塞に駐在する清朝の官吏だったんだ。だから僕もここで生まれた。一九四八年、英軍がこん棒を持って住民を追い出しにかかった時、父は住民を引き連れて広州市へ逃げ、報復に英国領事館を焼き打ちしたんだよ。英軍はそれ以来、九龍城には手出ししなくなったね」

くだんの納税証明を拝見したいと頼む。「ダメだ。僕の言っていることが真実だと証明するために出した(広東省)宝安県発行の公文書も、英国は持ち帰ってそれっきりだからね。今、あれは用心のために子供や親戚に分けて持たせているんだ」

そういいながらも彼は黄ばんだ紙切れを差し出した。「此地契更有價之一八九八年租九龍條約原文」。わざわざ「原文」とあるのは復刻版だからだ。立ち退きに抵抗している住民が大切に持っている“切り札”である。「清朝の土地なら国民政府の土地、国民政府のなら僕の土地だ。勝手なことはさせるものか!」。額に汗する錦財さんをたしなめるように奥さんがタオルを差し出した。

曽錦財さん一家は九十歳になる母親を筆頭に四世代十八人。国民党政府が台湾に渡って四十余年、香港返還を英国に取り付けた中華人民共和国が取り壊しに同意した後も“清朝の末裔”は九龍城砦に立て籠もっていた。

盂蘭盆

龍津道は中国と香港の“国境”である。その外側に密集していたバラックは一足先に取り壊され、花壇やサイクリングコースのある公園に生まれ変わっている。

一九九一年八月十一日、公園に大きな寺院と劇場が仮設され盂蘭盆の祭りが始まった。のこぎり状の縁飾りをつけた朱色の三角旗が、黒ずんだビル群に鮮やかなコントラストを放つ。ゆっくりと風になびく旗は宙を泳ぐ龍のようだ。

人々は地面に膝をつく大きなジェスチャーで手を合わせ、鶏や魚の丸焼きと線香の束を供える。潮州出身者が多いこの地区では、そのむかし秦の始皇帝に虐殺された先祖の霊をも弔っているという。祭儀用の赤い紙幣が燃やされ、上昇気流に乗ったその灰が城砦を包む。

目の前に突然、黒い絹のズボンをはいた小さなお婆さんが現れた。古典劇をやっている舞台から抜け出してきたような妖艶な魅力を発散させている。私の目を見つめて何やら話しかけてくる。通訳氏に助けを求める。広東、北京語はもちろん上海語や福建語も話す彼でさえ全くわからない。「写真を……」と振り返ると、老婆の姿は忽然と消えていた。

そして翌年の盂蘭盆には、二回に渡る大規模な強制立ち退きで、九龍城砦は完全にゴーストタウンとなっていた。

最期

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道路の真ん中に座り込んで抵抗する住民

九二年初頭に解体が始まるはずだった九龍城砦は、追い出された後も外壁沿いに野宿する住民たちの抵抗で、九三年の春にずれ込んだ。

三月二十三日午前十一時、南側の資機材置場。人っ子一人いない城内を吹き抜ける風に、もうあの匂いはない。ただただカビ臭いだけである。「九龍城砦折楼儀式」はマスコミが見守るなか、当局関係者だけで執り行われた。エドワード・ブランド都市計画局長らがテープカットした直後、クレーンに吊るされた鉄球が七階建てのビルにぶつけられた。第一撃を見守る約千人の関係者の間からは、長年にわたった住民や中国政府との交渉の労苦を労うように、歓声が上がった。「中国の“飛び地”に建っているからと、取り壊しを拒んだのは、中国人にとって恥ずべき時代でしたね」と、香港政庁の職員はほっとしたような笑みを浮かべた。

「補償問題はまだ解決していない!壊すな!政庁職員のペテン師ども!」。式典会場と高い防護壁で隔てられた道路では、警官に取り囲まれながら元住民約二十人がシュプレヒコールを挙げていた。彼らは、政庁の提示する補償金では同程度の物件を到底買えないと、立ち退きを拒否し最後まで“籠城”した住民たちだ。九二年七月に機動隊に強制排除されてからは、工事用の塀沿いや、西隣の公営住宅敷地内にベニヤ板や段ボールで小屋を作って寝起きしている。最近、政府が八か月に及ぶ彼らの路上生活に根負けして代替住宅をあてがうという噂が流れ、既にどこかに落ちついていた元住人たちも、ちゃっかり路上生活に戻ってきている。

工事事務所のゲートから式典を覗いているのは、あの歯医者の鄭凌生さんだ。「鄭さーん!鄭先生」。握手を交わしたその手で、彼は財布から角がなくなった記者の名刺を取り出して見せた。顔に絆創膏を貼っている。「塀によじ登った時に鉄条網で引っ掻いたんだ」。彼は自分の医院の最期を一目見ようとしたのだった。「知り合いを診る分にはいいけど、もし警官が来たらと思うとね……」と、廃業した彼は昔の友達と茶飲み話をしに行く途中だった。「最近は眼鏡なしじゃ、新聞も読めなくなっちゃったよ。仕事ができるのもあと二、三年だろうけど……」。歯学部に入れたい次男はまだ高校生だという。

『エキスプレス建設』と『クリーブランド解体』の共同企業体は、工費四千二百万ドルで来年五月までに、この城砦を更地にすることになっている。有力だった爆破案は、近隣の住宅と国際空港への粉塵被害を恐れて棚上げされた。中国人に重機操縦の指導をするためアメリカからやってきたジェームス・ハッチン監督は「こんないい加減なビルは、そうね、七階建てなら十五分で潰せるさ」と、朝飯前といわんばかり。幹部も予定より二ヵ月は早く終わるだろうという。

だが「儀式」から四日目にしてようやく始まった実質的な解体作業では、クレーンが高過ぎて身動きがとれなかったり、ショベルカーがエンストするなどして開店休業。初日は見事に空振りに終わった。あたかも九龍城砦が最期の抵抗をしているように見えた。

その日、陳美珊さんと久しぶりに会った。「この変化は必要よ。時代も変わってきているし、住民にとっても生活を良くするいいチャンスだと思うの」と、二年前と同じハキハキした英語で感想を語る。彼女は取り壊しには賛成だが、九龍城砦で生まれ育ったことは誇りにしているようだ。「だって、麻薬患者とか、売春婦とか、裏の社会っていうのかしら、小さい頃から目の当たりにしてきたでしょ。その分、同い年の娘より、ずっと世間が見えていると思うから」

工費約五千万ドルで九龍城砦の跡地に東洋風の公園がオープンしたのは、香港返還を目前にした一九九五年一二月二日だった。百年間の英国植民地時代を経て、歯医者の鄭凌生先生が指さして教えてくれた「清朝の石」は、公園の一角を掘り下げて展示保存されている。

香港返還

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返還を祝って色とりどりの電飾を点けた香港

一九九七年。街は祖国への回帰を祝って六月二十七日から五連休。オフィスビルの玄関には紅色の提灯が掛けられ、普段でもネオンが眩い九龍半島の彌敦道(ネーザンロード)は、有志企業によって中央分離帯にも電飾が施こされている。

日本軍が引き揚げた一九四五年、香港の人口は五十万人を割っていた。いま香港に暮らす六百三十万人のうち十中九人までが、香港にチャンスを求めて大陸から戦後移住してきた人たちなのである。チャンスを掴かもうと香港へ移住し、いまの香港を作り上げた香港市民。そんな香港人の要素を煎じ詰めると、かつての九龍城砦の住民たちに行き着く。家族の団欒や快適な住環境、世間体を犠牲にし、殺人や傷害以外の法は時に冒しても、貪欲にチャンスを掴もうとした人たち。そうして彼らが底辺から香港の繁栄を支えてきた。いま彼らが目指し、彼らが作り上げた香港が、彼らが後にした祖国・中国に回帰しようとしている。

返還式典の前後、ビクトリア港狭しと繰り広げられる花火大会。飲み物屋の陳燿南さんの引っ越し先は、そんな世紀のスペクタクルが見下ろせる獅子山山麓の高層アパートにあった。「持って行ったカネを使い切って戻ってくる奴も多いやないか。香港がどうなっても、俺は移住する気はあらへん。ここが生まれ故郷やから。向こうではカネがあったところで、二等国民や」。彼の鋭い発想は、元インドネシア華僑の妻の差別体験に裏打ちされているようだ。

九龍城砦で生まれた菁敏ちゃんは小学三年生になっていた。クラス三十三人中五番の成績だという。長男とは初対面だ。「アヘン戦争で勝ってたら、国民党が治めてたら、香港はこんな風にはなってへんかった。九龍城砦も出来へんかったと思うんや」。立ち退きに伴って店を閉めた後、彼は暫く定職が見つからなかった。が、後に始めた冷凍肉の商売が軌道に乗り、このアパートのローンも着実に返しているという。

彼は中国人として返還を誇りに思っている。「要はイギリスが弱うなって、中国が強うなったから返還するんやと思う」。端的すぎるぐらい端的な分析に感心しながら、子供たちとパンを買いに出かける燿南さんと一緒に表へ出た。

跡地

♪わたしが乗った小舟を あなたが牽く・・・台湾をふくめ全中国でヒットしたポップ演歌に合わせ、ピンクや黄色の造花で飾ったすげ笠が波打つ。歯医者の鄭凌生先生の家は、九龍城砦跡地で行われている返還イベントの音楽が風に乗って届く距離にあった。

「あれだけ沢山の人が住めていたのに、公園にしてしまって勿体ないネ。まあ欲を言えば、私はもう少しあそこで歯医者を続けていたかったし、引退すれば医院を誰かに貸そうと思っていたんだが…」。立ち退きの賠償金と、子供からの仕送りで隠居生活しながらも、心残りがないでもない。香港政庁の公務員だった長男は電気工事の会社を興していた。西洋式の歯医者にしたかった次男は本人にその気がなく、沙田工業学院のデザイン科へ進学している。以前からドイツの銀行に勤めていると言っていた娘が明日の夜、シンガポールから一時帰省する。一家揃って、花火見物に出かけるそうだ。

連休を過ごす家族連れやカップルで賑わう九龍市民公園を凌生さんと散歩した。「もっと広いところだと思っていたけど、何もなくなると案外狭いね」。息をし、汗をかき、はち切れんばかりのエネルギーを周囲に発散していたあの巨体が、この地に建っていたとは想像し難い。皿回しなどの曲芸が披露されている特設舞台や、築山に建つあずま屋は、彼の目には入っていない。「やっぱり取り壊されなければ、危険だったよ。基礎がデタラメだったから」と、深呼吸しながら言う。かつて鄭凌生牙科があった辺りは、石畳の遊歩道沿いに節の詰まった中国の竹が植えられている。「ここは私にとって人生の折返点だったな。それまでの貧乏で困った生活から、仕事がうまく行き、結婚し、いい家族を持てた意味でね」。日本製の診察台と同じ位置に据えられた公園のベンチに腰掛け、そう呟いた。
四十年ここに住んだ凌生さんに、城内で偽ブランド時計の工場をやっていた尹達成さんの消息を尋ねる。達成さんは田舎へ帰ったという。農業以外これといった産業がなかった彼の故郷、広東省東莞にも開放経済は波及しているはず。香港で叩き上げた腕と貯めた資本で、今や大工場を経営しているかも知れない。通い婚状態だった妻のお腹にいた子供は、もう小学校へ上がるはずだ。彼を密航へと突き動かした「真っ白な小麦粉」が村でも手に入るようになったから家族の元へ帰ったのだろうと、どちらからともなく頷いた。

祝いのご馳走

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返還の前日というのに訪れる人もない義塚

清朝の末裔、曽錦財さんは存命なら今年七八歳。彼の消息が掴めなくて、郊外へ車を走らせた。九龍から北西へ四十分のベッドタウン開発が進む丘陵地に、錦田村という十六世紀に建造された城壁集落がある。この地方の原住民・蚤族の村で、先祖は百六十年前のアヘン戦争で戦っている。同じ城でもビクトリア港に面し開発が進んだ九龍城砦とは違って、スラム化することもなく独自の文化を残している。ショッピングやグルメではないが、香港の重要な観光スポットである。

広いつばに黒い簾を垂らす独特の帽子を被った周美妹さん(75)は、「イギリスの悪事をいつまでも覚えていても仕方ないよ。それより皆でお祝いだ。日本軍が来た時と違って、ご馳走が食べられる」と、祖国回帰を素直に喜んでいる。

当然のことだが、いま生存している村人全員が英領になってからの香港で生まれているので、彼らが今回、中国と比較しているのはイギリスではなく、半世紀前の日本であった。「日本軍はここから香港島を目掛けて大砲を撃っていたんだ。私たちは焚き出しをして、梅干し入りのお握りを作って……。正直言って、日本軍はこんな質素なものを喰っているのかと思いましたよ」と、当時三十歳だった鄭楚白さん(85)は昨日のことのように話す。美妹さんらの話を総合すると、三年八か月に及んだ日本統治時代は、賃金や保障金が出ても弱い軍票で支払われ、物価が高騰して身重の婦人も働きに出て、身内に餓死者も出たという。また、楚白さんは城内に入って来て女性を追いかける日本兵の士気の低さに目があまり、台湾出身の日本軍下士官に直訴したと話す。

もし共産党政府が中国国内の経済格差を早急に均そうと「一国両制」の公約を破り、香港の富を搾取し、自由を奪えば、彼らは日本統治時代のような苦境に追いやられる。しかし、彼らは「いまは共産党でも何でも構わない。あの時と違ってご馳走も、酒もあるから」と楽観している。

アヘン戦争では村人たちは白旗の意味を知らなかったため、敗走した山中まで大砲を撃ち込まれて非戦闘員を含め多数の犠牲者が出たと歴史は語る。若者がオフィスへ働きに行っている昼間、老人たちは入城料を集めたり土産物を売る観光客相手の商売に忙しい。アヘン戦争でイギリスに抵抗して亡くなった祖先の墓は、城壁からそう遠くない寺・妙覚園にある。百五十七年ぶりに屈辱が晴れる日、英霊を祀る「義塚」にはただ蝉時雨が降りそそぐだけであった。

香港人気質

「将来、子供が出来たら、あの公園に連れてって、城内でよくした捉迷蔵(かくれんぼ)の話をしてあげるの」。四年前、そんなことを言っていた陳美珊さんに、香港がイギリスから中国に返される前日、つまり六月三十日に再会した。まだ独身。前言は実現していないが、「友達をよく連れて行ってるわ。だって、香港のことを知らな過ぎるんだもん」と、彼女のなかの九龍城砦は未だ存在しているようだ。

「返還って言っても、騒いでいるのはテレビばっかり。私は滅多にない五連休の方が嬉しいわ。友達とタイのプーケットへ遊びに行くことにしていたんだけれど、飛行機が取れなくて……」。美珊さんは植民地最後の日を、ボーイフレンドと二人でワンタン麺を食べ、封切りされたばかりの『ジェラシックパーク・ロストワールド』を観て過ごした。「歴史的な転換期かも知れないけど、別に何とも思わないの。たとえ香港が変わっても、それを止める力なんて私にはないし、これからも生まれ育った香港にずっといるわ」

彼女が映画から沙田のアパートに戻ったのは、午後十時半。返還まであと一時間半である。九龍城砦とは比較にならないほど明るく清潔だが、ここも十二畳ほどの1Kと広くはない。ベニヤ板で仕切って、二段ベッドを置いた寝室が二つ。親子五人で暮らしている。
返還式典の生中継を、陳家の中国製SONYの大画面が映し出している。式典が行われている新国際会議展示場は、真珠貝をイメージしてデザインされたという。公言こそしないが、「墓に見える」という香港の人が少なからずいる。そう言われてみれば、鳥瞰すれば真珠貝でも、水平方向から見れば、その屋根が描く円弧は沖縄にもある亀甲墓を彷彿させる。ライトアップされた「墓」を映し出す画面にチラチラ目を遣りながら美珊さんは話す。「海外へ移住した友達もいるけど、香港の将来に不安を感じて海外に行くなんて信じられないわ。その外国が好きなら、それでもいいけど。私は香港が好きだから。なぜって、失敗してもそれで終わりじゃなくて、失敗がチャンスになるような街が、香港だと思うの」

この日の返還が中国とイギリスの間で調印されたのは一九八四年だった。将来への不安から外国パスポートを取る市民や、資本を海外に分散させる実業家が続出し、株価の下落も幾度かあった。しかし、どれも一時的なことで、八九年の天安門事件で急落した株さえ六か月後には新高値を更新し、上がり続ける一人当たりのGDPは二万米ドルに届こうとしている。美珊さん自身、電話番から求職失業を経て、いまや一流貿易会社の総合職に就いている。信用状作成を任され、月給は一万四千ドル(約二十万円)だという。

桑畑が蒼い海に

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「鄭凌生牙科」があったあたりに立つ鄭先生

美珊さん宅を後に、たったいま百五十余年ぶりに祖国へ回帰した香港を歩く。高層アパートの無数の窓明りが夜空を埋める。かつて九龍城砦に暮らした人たちの灯も確かに含まれているのだが、それがどれなのかは知る術もない。

中国共産党政府は本土開発の牽引車となる「繁栄する香港」を維持するため、本土からの香港への越境をより厳しく制限する。そして、香港と中国の格差は少しずつだが着実に縮まって行く。中国、イギリス、香港政庁の力が拮抗し、危うくも存在したアナーキな空間が九龍城砦だった。植民地という特殊な培地がなくなったいま、第二の九龍城砦が出現する可能性は極めて低いのである。別れ際、元歯医者の鄭凌生さんは高血圧で震える手をおし、私のノートにこう書いた。『滄海桑畑 世代変化』。桑畑もいつしか蒼い海に変わり、世の中は目まぐるしく変わるといった意味か。だが、ノートから上げた彼の得意気な笑顔は、「清朝の石」を見せてくれたあの時から変わっていなかった。

(文・写真/阿佐部伸一)

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