阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

ビルマ(ミャンマー)経済開放と民主化の狭間で1993年12月

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ラングーンの”秋葉原”に現れた高級欧州車

「ビルマ」。現地ではビルマ族の土地を指す。「ミヤンマー」だと、シャン州やカレン州も包含した、 つまり世界地図の国境通りの地域になる。軍事政府は八九年七月、あたかも少数民族と融和したかのように、対外的な国名を「ビルマ」から 「ミャンマー」に変えた。軍独裁に反対する国外の民主派ビルマ人や支援者は、今も「ビルマ」を使い続けている。 しかし、国内では何の抵抗もなく「ミャンマー」が使われていることに、内外の温度差のようなものを感じた。

ビルマではネウィン政権下の一九八八年八月、民主化デモに軍が発砲し、学生や市民の血が流れた。クーデターで全権を握った 法秩序回復評議会(SLORC、ソウマウン議長)は、アウンサン・スーチー全国民主連盟(NLD)書記長ら民主派リーダーたちを 「政治犯」として逮捕、監禁。 九〇年四月、三十年振りに複数政党制で行われた総選挙ではNLDが圧勝したが、未だ釈放されない「政治犯」も多く、 民政移管はなされていない。一方、軍任命の代表が八割以上を占める国民会議では軍事憲法が書かれ、世界が見守った総選挙は、 今や反故にされたも同然である。

今回、三年振りに現地入りし、国外の民主派が訴えている武力独裁や人権侵害を確認した。が、その一方で、経済開放と軟化政策が とられるなか、心情的には認めたくない現実も目の当たりにした。以下、昨年一二月二十四日から八日間に亘って、官憲とのトラブルを 避けながら、“垣間見た”ビルマの近影である。

ビザ

軍政府は九〇年、記者の総選挙ルポを「不愉快に思い」、当時在籍していた新聞社の現地連絡員に、 プレスカード発給を拒否している。外国人記者が再び入国を許され始めたのは、昨年一月の国民会議からだった。「もしかしたら、私も」と、 ミヤンマー連邦大使館へビザ申請すると、いとも簡単に翌日発行された。観光客が落とす外貨が欲しいのか、旅行者を通じて国内の実情が 世界に知れても、もう構わないのか。軍政府の自信すら感じた。

クリスマスイブ

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二、三年前には考えられなかった服装でダンスを楽しむラングーンの若者たち

ラングーン行きの飛行機は、三年前のくたびれたF28とは違い、ミャンマー航空がシンガポールとの合弁で運行を始めた B757だ。それでも着陸態勢に入った機窓から見える西側援助が途絶えて久しいラングーンの灯火は、目を凝らさないと闇に 溶け込んでしまいそう。

ビルマでの第一夜はクリスマスイヴ。椰子の葉が水面に揺れるプールサイドで催されていたダンスパーティーを覗いた。 殆どがロンジー(腰巻き)姿だった若者たちは、男はジーンズ、女はスカートにハイヒール。我流の猛烈なステップを踏んでいる。

「信じられる?」。ジントニックを手にした白人が、相槌を求めてきた。西側大使館の一等書記官であった。「小金を持っている市民は、 憂さ晴らしができるようになったよ」。カラオケやナイトクラブが、ここ一年でラングーンに十軒以上オープンした。 「これもSLORC(国家法秩序回復評議会)の“ガス抜き”戦術の一つさ」。外交官氏らしく、彼はさらに分析を加えてみせた。 「軍事政府の外貨準備高は、まだ二千六百万ドル位しかないはずだ(九二年八月末には千六百六十万ドル、軍政発表)。この額じゃ、 歳入が途絶えれば、三か月も持たないからね。そりゃ外貨は欲しいさ。観光客誘致に力を入れだしたのは、もはや外国人の目が気に ならないほど、統治に自信を持っているという見方もある。けれど、それは、ちょっとかいかぶり過ぎだと思う。国民会議では当選議員に これぽっちの権限も与えていないんだから」。彼の親指と人指し指は完全にくっついていた。

プールを挟んだテーブルに、黒いロングスカートの女性がいた。ここから車で十分と離れていない屋敷に軟禁されたまま 五回目の聖夜を迎えたスーチー女史側近の一人だ。彼女もスーチーさんと同じ八九年七月二十日に投獄されたが、九二年四月末から半年間に 釈放された「政治犯」約五百人の一人である。

「お話を…」と声をかけたが、「踊りましょう」とテーブルでは取りつく島もない。どならずには話せない激しいロックが終わるのを 待っていたら、お開きのチークダンスになってしまった。あれから一切、彼女とは会えてません。 ご主人(マイケル・エアリス英オックスフォード大教授)にも、私は敢えて接触していませんし……」。こんな近しい人でさえ、 憶測混じりの外電以上のことは知る術もない。曲が二コーラス目に入った。新婚でも人前では手さえ繋がないビルマで、 さしづめ弁護士といった固いイメージの彼女が大胆に身を任せ、しかし毅然と、耳元でこう囁いた。「(刑務所内で)肉体的な拷問や、 薬を使った洗脳はなかったわ。西側のマスコミがそう報道しているなら、SLORCの『教育』は完全に失敗に終わっていると報せて下さい。 『政治犯』は誰一人として信念を曲げてはいませんから」。ラストダンスが終わった。あちこちで交わされる 「メリー・クリスマス!」のざわめきの中、「私だと判らないように」と彼女は念を押した。

民主派のブレイン

翌二十五日、元「政治犯」X氏(58)を、コテッジ風の自宅へ訪ねた。八九年十月投獄された彼も、 九二年四月以降に釈放された一人だ。

ラングーンのインセイン刑務所には「私が出てくる時で、八百人。今でも五百人は入れられています」。 三十年前から七回投獄された経験を持つ彼は、部屋割りと釈放者数から、この数字を算出した。「刑務所はインセインだけではなく、 地方にも何十とあります。まだ千人は入れられているでしょう。それに、イラワジデルタでは政治活動とは無縁の農民を村ごと一挙に 『政治犯』として投獄してすぐに解放しました。逮捕は公表しませんが、釈放時には西側メディアに届くように発表します。 出てきて貰っては困る本当の『政治犯』は解放せずに、見せかけの融和政策を西側に宣伝するために他なりません」。

一連の釈放が終わった九二年十月、来日したSLORCオンジョー外相は「国家の安定と安全が保たれない限り軍政は続く。 危険人物を制限下に置くのは当然のことで、その数は国民の一%以下だ」と弁明している。

X氏はインセイン刑務所の処遇を明らかにしてくれた。四畳ほどの房に、一~五人収容され、房から出られるのは、 一日一回で十五分間だけ。シャワーを手早く浴びなければ、表に出る時間はない。食事は一日二回。朝が飯と豆のスープ、 夜は「雑草を放り込んだ」スープがつく。肉や魚は週一回、どちらか一切れだけ。衣料はシャツ二枚に、セーター一着、 毛布は麻と木綿の各一枚だけで、冬は全てを身に着けても寒くて眠れず、昼に寝ていたという。また、閉め切った小部屋は夏、蒸し暑く、 やはり眠れなかったそうだ。

家族との面会は、二週に一度、十五分間だけ。金網ごしの会話を、看守が両側から全てメモに取る。差し入れは可能だが、 刑務所売店で求めた果物、干し海老など八百グラムずつ五品目に限られる。病気になると、家族に薬を頼むしかないのだが、 面会日直後だと次の面会で依頼し、その次に差し入れて貰うまで、四週間待つことになる。

拷問については「私の場合、肉体的な拷問はなかった。しかし、独房は話し相手は誰もいないわけですから、落ち込むこともしばしばで、 感覚を自ら鈍麻させてしまうこともありました。そういう意味では、精神的な拷問は十分にあったと言えます」。

八八年の流血デモの直後から今も投獄されているある学生(27)は、気を紛らわすために刑務所内で自ら野菜作りを始めた、 と面会に通う父親がいう。八八年末には、収監された学生が重傷を追わされ、釈放直後に死亡した事件など取材したが、 どうやら最近の禁固の目的は、拷問や重労働で思想改造するというより、人望と統率力のある民主派を市民から隔離することにあるようだ。

X氏によると、釈放時には「罪」に応じた質問があるという。NLD党員なら、先ず「スーチーをどう思うか」と質される。 彼の場合は[1]SLORCに対する意見は、[2]国民会議を認めるか、[3] 出所したらどうするか、の三問だった。彼は自分で許せるぎりぎりのところで、次のように答えた。 [1] 民主主義を与えると明言しているSLORCを信じる、[2] 民主化への一ステップである国民会議を認める、[3] 歳を取り、もう二度と投獄されたくないので、政治活動には関わらない。 出所後は「何も表立ったことは出来ません。まだ、大勢の友達を刑務所に人質に取られていますから」と、彼は貿易業に専念している。 民主派のブレインだった彼は、ガンディのように世界世論の支持を得て非暴力による革命を成し遂げたいと言ったスーチーさんに 「だが、ガンディも賛同する軍の抑止力があったからこそ出来た」と、革命の必須条件を教えたという。それは、[1] カリスマ性、[2]実践的哲学、[3] 力ある腹心、だった。彼女は適時に帰国しカリスマ性は得たが「 デモクラシーというだけでない実践的な理論を持て」と助言したという。また、彼は背後から彼女を支えようと国軍を纏めた。

「最も多くの国民の支持が得られ、希望を託せるのは彼女以外にはいない。他のリーダーだと、旧ソ連より悪い分裂状態になるだろう」と 、彼はいう。スーチーさん解放については「逆に、彼女の方が中途半端な条件では出てこないでしょう」。 なぜなら、彼女にノーベル平和賞が決まった九一年十一月には、チャウミン国連大使が「出国を条件に軟禁はいつでも解く」と明言しているが、 彼女はその条件を拒否している。そして何より、面会の夫を通じて、彼女がビルマだけでなく、世界の民主化のシンボルになっていることを 自覚しているからであるという。

経済制裁は罪のない市民ばかりを苦しめ、独裁政権には効果がないとも言われるが「ビルマへ武器を一切売らないことをはじめ、 SLORCの子弟たちの留学にビザを出さないことも重要です。僅か百人ほどの二世が独裁体制を継ごうとしているのです」と、 彼は具体策を挙げる。現在の経済成長が、やがて中産階級を、市民団体を生むという説は、この条件下ではミドルクラスではなく “ミリタリークラス”を拡大するだけだと否定する。「SLORCに猶予を与えることは、彼らに確固たる地位を与えるのと同じです。 彼らはあの手この手で、そのための時間稼ぎに必死なのですから。逆説的ですが、時間は私たち民主派側にこそあります。 何故なら、私たちは怖がって信念を曲げてしまったのではなく、ただ私たちの方が強くなる時を待っているだけなのですから」。 そういって彼はサイドボード上の額入り写真に手を延ばした。笑顔の青年は、留学先から駆けつけたタイ国境で、 祖国の民主化に二十三歳の命を散らせたという。彼の息子である。

亡命者の留守宅

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全ビルマ学生民主戦線のシンボル、闘うクジャクを刺青し、銃を取る学生

髪を背中の中程まで垂らした彼女は、薄化粧をして出迎えてくれた。三日前にニューヨークに住む夫が記者の来訪を 電話で知らせてきたというから、もう当局の盗聴は外されたようだ。重厚だが埃が積もるチーク階段を上がり、広い応接間に通された。

夫は八八年八月の民主化デモのリーダーで、軍の銃弾を逃れてタイ国境のジャングルに籠もり、学生キャンプでは初代議長でもあった。 だが、タイ当局に挟み打ちにされ、一昨年アメリカへ亡命している。彼がジャングルに潜んでいた頃、母親は三度薬を届けに行ったが、 諜報部員に付きまとわれていた妻は、もう五年四か月会っていない。八歳の息子と七歳の娘にとって、 父親は写真と母の話の中だけの存在である。「今の政府とお父さんは仲が良くないと、子供なりにわかっています。昨年まで監視がいて、 出入りをチェックしていましたし……」と、鎧戸を開いて、誰もいない向こう側の歩道を指さした。

「実は、一月に子供二人を連れてアメリカへ行くんです。この状態では、主人は絶対に帰って来れません。戻れば空港で即逮捕されます」。 この国で一般市民にパスポートを発給し始めたのは九三年になってから。軍政府は「騒乱」の種となるインテリを海外に排除できると同時に、 彼らの仕送りする外貨を期待できるから、と憶測されている。夫が既に米国のグリーンカードを取得しているので、 バンコクの米国大使館でビザ申請するという。

彼女は、この国が急に民主化されなくても構わないという。全ての政治犯が釈放され、「政治犯」などという逮捕者がもう出なければ、 それで良いという。そうなりさえすれば、帰国を希望している。なぜなら、「アイ・ラブ・ビルマ」。

ABSDF

彼女の夫を追い詰めたタイの現状を、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)の中央委員A君(27)にバンコクで聞いた。 八八年国境のジャングルに籠もった約八千人の学生のうち、今も約二千二百人が十五のキャンプに踏み留まっている。 タイ国境にはそのうち約千五百人が、残りは中国やバングラデシュ国境と、インドのニューデリーにいる。既にキャンプを去った五千人余りは自主的に帰国したり、強制送還されたり、第三国へ亡命したり、行方不明になったり、戦病死した学生たちだ。

また、カレンやモンなどの少数民族も軍政の弾圧を逃れて、約七十万人がタイへ避難している。最近も「十一月二十一、 モン州タンビュザヤの村がSLORCの三四三連隊に焼き討ちされ、二百人が家を失った」ほか、村長殺害や婦女暴行などSLORC軍による 少数民族に対する蛮行は止むことなく、多数報告されている。

八八年十一月、少数民族や宗教の組織とABSDFの二十一団体が反軍政を旗印に団結したビルマ民主連合(DAB)の本部も、 タイ国境のマナプローに本部を置く。軍政側は昨年十月下旬から「民族融和政策」に乗り出し、DAB主力メンバーであった カチン独立機構(KIO、兵力約六千、ブランセン議長)と休戦協定を結んだ。既に、パオ族が九一年三月に、 カレニー族が九三年一月に停戦するなど、加盟していた十一の民族組織のうち、カレン、モン、アラカン、チン、プラオ、ワーの 六組織が現在もDABで共闘している。昨年末、カレン民族同盟(KNU、兵力約五千)のボミャ議長が個々の組織では交渉に応じないと、 軍政府の用意する停戦会議を突っぱねると、軍は十二月二十九日、マナプロー防衛の要所、ソーターに三個連隊で猛攻をかけてきた。

一方、A君のように世界世論にアピールし、支援を取りつけるためにタイ領内に出入りするビルマ人学生は、約五百人。 その中には国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から要庇護者として援助を受けている者もいるが、 八八年当初一人月三千バーツだったのが、八百バーツ(約三千八百円)にまで減額されている。 学生たちは不法就労で逮捕される危険が増すことを承知で、煉瓦工や古着商をして食いつないでいる。

学生キャンプに対する武力攻勢とは別に、いま彼らに新たな危機が迫っていた。「タイが対ビルマ政策を完全に変えました。 SLORC全面支持に、です。皆、いつ逮捕されるかと怖がっています」と、彼は危機を訴える。昨年十一月上旬、 タイ軍幹部のラングーン訪問に続き、プラソン外相が「反政府活動」をするビルマ人の取り締まり強化を発表。同月タイ内務省は、 バンコク西約百キロのラチャブリに新設した「セーフ・キャンプ」に、百三十人のビルマ人学生を収容した。 そして、タイのNGO(非政府援助団体)主催の人権勉強会に参加していたビルマ人学生三十人が逮捕された十二月三日を機に、 急に取り締りが厳しくなり、A君に会うまでの一か月間に逮捕者数は七十人に上っていた。

ABSDFは昨年十二月、これまで考えもしなかったSLORCとの話し合いに、条件付きながら用意があると議決している。 条件とは、・学生と少数民族、国会議員、そしてSLORCの四者会談であること、・会議はビルマでもタイでもなく、 第三国で開催すること、・国連とジャーナリストの傍聴を前提とすること、の三点である。

だが、こうした提案も空しく、DABの屋台骨であるKNUが一月十二日、単独でも和平交渉に応じる意思表明をした。 四十七年間一貫して軍政府と闘ってきたKNUも、タイの寝返りに背水の陣に追い詰められたのである。 KNUといえば、以前からアメリカ製武器を使っており、先の選挙時にはカーター元米大統領が参謀を送り込む程の親米ゲリラである。 この急転回は、昨秋訪米したボミャ議長に、アメリカの対ビルマ政策の変更が伝えられたとみるしかない。

NLD党員

ラングーンに話を戻そう。総選挙前後のNLD本部は支持者が詰めかけ、前の歩道には屋台まで出てお祭りのような 賑わいだった。懐かしくて見に行った。映画館に掲げられるようなスーチー書記長の看板は外され、僅かに孔雀マークの党旗だけが, ここがNLD本部であること知らせている。あの熱気が嘘のような不気味なまでの静寂を、運転手の緊張した声が破った。「私服だ! 諦めて下さい」。下車せず、車を発進させた。通りに面した食堂から銀縁メガネの中年男性が突然現れ、一直線にこちらへ向かって来たのだ。

雑踏で落ち合ったNLD党員(45)と、走る車中で話した。彼は昨年十一月中旬、国連人権委員会から派遣された横田洋三特使と 非公式に会えたが、彼がやっている海運業の話に終始したという。「政治のことを聞けば、私に迷惑がかかると気を遣ってくれたのでしょう。 でも、私は全てを話したかったのです。世界の目として訪れた彼に訴えることで、逆に私たちの安全は保証されるのですから」。

彼によると、柔和政策の発表が相次いだ昨年も、七月十九日にはアウンサン廟に献花しようとした学生三、四十人が、 八月には外国TVニュースのビデオ・チていた学生二十一人が逮捕され、最高二十年の刑を言い渡されている。 「インテリは外国人と会うのを怖がっているが、横田さんのような人やジャーナリストが訪れた時には、 勇気を奮い起こして接触するべきだ」と、彼も投獄されていたが、怯むところがない。

老政治家の嘆き

そもそも三年前の総選挙では、四百八十五議席中、三百九十二議席、八十一%をNLDが占めた。だが、 現在の「新憲法の基本理念を決める」国民会議は、常識で考えるところの国会とは全く別のものになっている。国民会議は、 当選した「政党代表」の他に、SLORCが任命した少数民族、農民、労働者、公務員、軍の代表が水増しされ、定数は七百二人。 九三年一月九日から開催されたが、選出議員は出席者の約七分の一しかいなかった。

NLDは多数の議員が逮捕投獄されたり、議員資格を剥奪されたり、離党を強要され、崩壊状態である。先出のNLD党員の説明では、 「NLDの議員の方が、支持者も望むよう、SLORCのでたらめな国民会議をボイコットしている」ことになる。

二十六日、Y大佐(62)が夕食に招いてくれた。彼は総選挙で当選した数少ない前政権政党、元ビルマ社会主義計画党(BSPP)員で、 この国民会議にも出席している。「任命された連中に、問題意識がありますか?三権分立すら知りませんよ」と、 国民会議への苛立ちを隠さない。「総選挙で選ばれた国会議員は百七人だけです」。逮捕の口実を作るため、 怪文書を送りつけるのに悪用されているという国民会議の名簿を繰りながら、Y氏は数え挙げた。しかし、彼にとって最大の問題点は、 違った所にあった。「民主化フィーバーに乗って、政治の専門家どころか、文学、歴史、工学、何の専門家でもないデクノボーたちが、 大勢当選してしまった。採決に至るまでにも、憲法草記委員会に意見を揚げられる頭脳の持ち主が何人いるかだ」。 総選挙がムードに押し流されたと、彼は悔しがる。

議場の様子を尋ねると、錬達の政治家らしくこんな比喩で返した。「日本はサッカーが盛んになったそうですね。 私たちのゲームではハンドが反則にならないんですよ。もっともボールがどこにあるのかも見えないんですけど……」。 別の民主派当選議員(42)によると、その百七人のうち約九割がNLD。だが、国民会議は非公開で進められ、 発言は事前に原稿の提出を義務づけられ、発言の自由はないという。アウンタン議長の「新憲法に軍の役割を明記」や、 軍代表の「非常事態には軍が指導的役割」などの発言に、勇敢にも何人かは異議申立てをしようとしたが、その検閲に引っ掛かった。 たとえ原稿になかったことをゲリラ的に話しだしたとしても、議長に発言時間を切られるか、 それでも続ければ警備員に議場から引きずり出されることになるという。

「♪肩を並べて兄さんと 今日も学校に行けるのは 兵隊さんのお陰です」。杯を重ねたY議員はきれいな日本語で歌いだし 「ビンタは良くありませんが、日本軍の団結は良かった」と、繰り返す。確かに、民主派にとって最大の“武器”は団結である。 今まさに正念場に立たされているが、内外の民主派組織にはひびが目立つ。 在日ビルマ人協会は、会自体の民主的運営を巡って東京と名古屋組が不仲となり、タイのABSDFは、 ビルマ共産党へ支援を求めた前議長が分派を作っている。そしてビルマ本国では、NLDは離党が相次ぎ、党員数が百人余りに激減している。 遡れば、独立の父アウンサン将軍が初代委員長を務めたパサパラも五一年独立後初の総選挙で圧勝しながら、左右に内部対立し、 今日に至るまで軍部が政治に入り込む余地を与えた。「ここ一番という時にも、ビルマ人は我を張って、バラけてしまう」と嘆き、 この老政治家は全体主義の日本軍時代を懐かしむ。

Y議員が苛立っているのは、日本企業に知己が多く、投資のタイミングを尋ねられているからでもある。それは憲法が発布され、 民政移管された時であろう。いつ頃か尋ねると、財布から宝くじを取り出した。「これが当たるか外れるか、わかりますか?」。 それが彼の答えだった。Y議員は、東京の不動産業者、MCGが頓挫させた土地転がしについても良く知っていた。彼によると、 同社は本国の高まる民主化ムードに将来に不安を抱いていた駐日大使と共謀、 九〇年一月ミャンマー大使館の土地売買で「空中権」という細工をして大金を浮かせた。その金で三大臣を買収、 ラングーンにホテル用地を得たが、民主政権発足後の値上がりを待って、大企業に転売するという彼らの算段は外れたという。 ラングーン市内の現場を訪ねると、完成予定図の看板は色褪せ、中断した基礎工事が醜態を晒している。片や東京品川では「工期 平成五年三月末日完了」と工事用囲いに貼り出されたまま、平成六年になっても着工された様子はない。

「寄ってくるのは、混乱に乗じて一儲け企む日和見主義者ばかりだ」と、彼は持って行き場のない怒りをぶつける。 そして、外資誘致のためのインフラ整備は規模もリスクも大き過ぎて、私企業には無理。また、それが出来るのは、 流通で伸してきている韓国やシンガポール、タイではなく、アメリカやドイツ、日本だけだという。 「それと、公定レートと闇のこの格差!まともな企業は来やしませんよ」と、閣僚経験者でもあるY議員は嘆く。

日本大使館員

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中国の援助でラングーン郊外に完成した橋

では、日本側はこの時期をどう捉えているのだろうか。ある日本大使館員とラングーンのホテルで会った。 「『凄い不況だった』と驚いて、うちの大使が東京から戻って来ましたよ」。

彼は、ビルマでも見られる日本企業の撤退傾向を危惧する。「車や家電などでも、韓国やシンガポールに完全に抜かれてしまってます」。日本のODAは今も、ビルマが受け取る二国間ODAの八割弱を占めている。民主派から軍政支持と槍玉に上げられているが、 実は、小額の技術協力を除いて有償、無償とも八九年以降、止められている。八六年までの累計四千億円を越す有償資金協力に 毎年生じる利子数十億円の債務に対し、国連貿易開発会議に基いて救済措置をとっているためであると、彼は説明する。

そして「この国への民間投資は、いま米国が一位で、日本は六位か七位ですよ」と、驚くべき序列を揚げる。但し、手元の資料では、 八十八年以降の累積で、日本は投資件数こそ七位だが、金額では米、タイに続いて三位になっている。成長のためにはなりふり構わぬ 新興工業経済地域(NEIS)や東南アジア諸国連合(ASEAN)ばかりか、不況や失業などの国内問題の軽減を模索する欧米もが、 この処女市場へ進出し始めた。「日本企業はODA再開を待っているようだが、国が大手を振って出来ないからこそ、民間が…」といった苛立ち が日本大使館内の空気には混じっているという。

キンニョンが第一書記に就いた一昨年四月から、少数民族との停戦、スーチーさん家族訪問許可、政治犯釈放開始、 夜間外出禁止令解除、ロヒンギャ族帰還難民受入れ、国民会議開催など、矢継ぎ早に軟化政策が取られてきた。 「日本にとっても話し合いや援助を再開するチャンスが何度もあったのに、日本政府は大使館を通じてコメントを発表するくらいでした。 ビルマ人たちは口先では今も『日本とは特別な関係があり……』と言っていても、腹ではもう頼りにしていないでしょうし、 こちらからの影響力もなくなってしまいました」と、軟化政策を捉えて、民間チャンネルで何がしかのカネを流した欧米諸国との外交術の差を 指摘する。

また、この外交官は、日本のマスコミ報道に不満をぶちまけた。「ロヒンギャ族の難民問題でも、難民キャンプで聞いた話だけを基に、 この政府を非難しています」。村の生活改善のために橋が必要だと、この国ではその土木作業員を近くの農村から調達する。その橋の必要性が 理解できない人や、給料に不満がある人たちが逃げ出して、「強制労働だ」と訴えていると、例をひもとく。そして、昨年同大使館に便宜を はからせて現地取材したテレビ局が、説明していた企画を翻し、現状より六年前の発砲シーンを延々と放映したと彼は憤りを隠さない。

国際人権委員会の横田特使が昨年十一月、視察して回った市場や病院には、普段は欠乏している商品や薬が事前に並べられた、とラングーン市民から聞いた。が、この外交官は「そういう噂がたつ政府と国民の間の不信感は問題ですが、あれは所謂“バーミーズ・ホスピタリティー”という、客に対する篤いもてなしですよ。もし北朝鮮の“額縁”のような狡猾な芸当ができる政府なら、もっと早く良くなっていた筈ですよ」と穿った見方を窘めた。

ビルマ駐在が二度目という彼は「この五年間を見て下さい。ネウィン時代の五分の一の期間ですが、八八年以降の方がずっと成長しています。いろいろ問題はありますが、生活は底辺から良くなっています」と、 軍事政府の経済開放政策を賛美する。「BBC(英国放送協会)も映る香港のスターTVを見られるようになったのは、 衛星放送受信機の普及に、規制が追いつかなかったからです。こうして経済を通じて交流を増やしてゆけば、 自然と政治も緩めて行かなければならなくなりますよ」。

SLORC発行の経済白書によると、九二年度の国内総生産(GDP)は四億七千九百万ドル(実勢レート換算)で前年比十・九%の伸びで ある。しかし、公務員の月給は変わらず千二百チャット(K)前後なのに、九二年三月は一キロ四Kだった米が、昨年末には十二Kになっていた。主食が一年九か月で三倍に値上がりしていては、このGDPの伸びを、生活実感としては決して感じられないであろう。

この日本人外交官は、誰のことを話しているか周囲に悟られないためにだが、彼はスーチー女史を「オバサン」と呼ぶ。「会ってみて、 キンニョン氏は明晰な頭脳と行動力で第一書記になったことを実感しました。まだ若いですが、大変切れる人です。が、 ネウィンのような覇権はない。『説明できない金は受け取るな』と汚職を諌められ、末席に甘んじる年上の軍人たちは、 彼の失策を待っている筈です。ですから、彼自身はもうオバサンを解放してもよいと思っているらしいんですが、その結果デモが起き、 また軍が発砲でもすれば、彼は失脚必至。そうなれば、経済も政治も現在よりずっと悪くなるので、私はキンニョン氏を応援したいんです」。

日本政府もそういったスタンスか、と訊ねると、彼は首を縦に振った。そして、スーチー女史や民主派リーダーの釈放について彼は、 それを交換条件にはせずに、ASEANやアジア太平洋経済協力閣僚会議(APEC)に招き入れる方が、ビルマの民主化を早めるという。 軍政は既に二国間関係を中国やASEAN諸国と持っているので、追い詰めるのは逆効果だという。

ビルマ長期滞在者の目

世論に逆行する日本大使館員の意見に、こんな心情を語っていた人を思い出した。竹内輝さん(39)。 ヤンゴン日本人学校の教諭として、九〇年四月から三年間も現地に暮らした数少ない日本人である。

赴任する前は、『軍政イコール悪』で『スーチーさん軟禁=民主化が拒まれている』と、思っていました。 でも、二年、三年と住んでみて、一概にそうした図式で割り切れるものだろうか、という疑問が沸いてきたんです」。 地方はもとより、ヤンゴンでも、それを民度というのか、私たちが考えられないような生活をしている。「パガンへ旅行する前に、知人から『農村では平安時代の生活をしているよ』と聞かされました。実際、人々は高床式の簡素の家に住み、 電気はない。器は素焼きで、平安というより、まるで縄文式みたいでした。西洋式民主主義以前というか……」。

報道の自由は厳しく制限されているにも関わらず、旧ユーゴ内戦は、“他山の石”として国民に見せたいのか、 国営テレビがしばしば報道する。ビルマは陸続きに五国と接し、その国境沿いに多くの少数民族を抱える。 「この国を纏めてゆけるだけの集団が、軍以外に今のビルマにあるんでしょうか」。 確かに、この国からは夥しい数の頭脳が流出してしまっている。「『暴動(ママ)』を起こした民衆の大半は、 軍さえ去って民主政府になれば、自分たちの生活も一挙に良くなるというような、無責任な幻想を抱いていたんじゃないですか」。 NLDが政権政党になっても、国の発展を拒んでいるものは、軍以外に幾らでもある。役所の仕事の良い加減さ、 遅い停電の復旧作業、人材育成、文化の問題、……と、彼は指摘する。

「あのデモで彼らが叫んでいたのは、西洋人が考えているような『自由』や『人権』ではなかったのでは、 と思うようになったんです。もっと素朴に生活苦からの解放だったのでは」と振り返った。

逆流する「援蒋ルート」

ラングーンでの考えさせられるインタビューを中断して、二十七日マンダレーへ。飛行機が経由したペグーでは、日本人学者が参加して国連教育科学文化機関(UNESCO)の遺跡保存事業が始まっていた。日没までにラシオ入りするため、一路国道三号線を飛ばす。中国雲南省へ続くこの道は、かつて中国共産党と戦っていた蒋介石率いる国民党に、米国が援助物資を送り込んだ「援蒋ルート」である。だが、今は中国からやってくる工業製品を満載したトラックとひっきりなしに擦れ違い、ビルマの農林水産物を満載して喘ぐトラックを追い抜く。

ここは戦後、少数民族の独立を目指してネウィン軍と戦い、ビルマ共産党(BCP)も受け入れたシャン族が暮らすシャン州。 ビルマ民主同盟(DAB)に対する軍政の圧力に、シャン族は既にDABを脱会している。それでも、昨年二月には同州リンキン地区で シャン統一革命軍と政府軍との間に大規模な戦闘があり、軍政側の報告で六十一人が死に、百五十戸が焼失している。 深いジャングルが迫る要所や、鉄橋が架かる渓谷には、今も、自動小銃を手に警戒する国軍兵士の姿があった。

幾つもの峠を越える山道は、おんぼろトラックでも登れるように、綴れ折りになっていて直線距離の数倍は走ることになる。マンダレー・ラシオ間は地図上では約二百六十キロだが、ぶっ飛ばしても八時間もかかる。二車線ある所でも、舗装されているのは、真ん中の一車線分だけ。その舗装重量車両の通過に補修が追いつかない様子で、穴だらけである。英語の地図には「ビルマロード」と 記されるこの道を「ビルマハイウェイ」に整備するという中国の計画が、昨年半ばから聞こえてきた。

そんな悪路で車が故障し立ち往生していた貿易商を、ラシオまで便乗させた。「為替レートが無茶苦茶なので、 貿易は物物交換が多いんです。道路工事も交換条件のチーク材の分量で中国と折り合いが着かず、ラシオから中国寄りでも、 まだ本格的には始まっていません」。ラシオに近づくにつれ、路肩に積まれた材木が目につきだした。 闇に紛れて中国へ輸出されようとしたのを、当局が差し押さえたものだと貿易商は説明した。

共産党闘士

今回のビルマ滞在中に、一人の元ビルマ共産党(BCP)幹部Z氏(68)に会えた。彼は一九四四年以来、英国、日本、そして再び英国からの独立を目指して闘い、八〇年ラングーンに投降してきた。密会したアパートの壁には、自ら押収したという日本刀が 掲げてあった。

「英国のガバナーに何でもお伺いを立てなければ決められず、外国企業に独占権を与えたり、土地を売ったりで、私たちは真の独立には 程遠いと思っていました」。一九四八年、ビルマ独立の年、彼は共産党員として地下に潜った。[あの頃のBCPは、この前のNLDと 同じくらい、大変な人気でした。皆、当時の政府を嫌っていましたから」と、Z氏は自慢気だ。 そして、もしあの時BCPが生まれていなかったら、日本の軍国主義を踏襲するネウィンによってファシズムが続いていた、 と党の抵抗を自賛する。

中華人民共和国が成立した翌五〇年、彼は初めて中国共産党との連絡に成功したという。以来百人以上を幹部教育のため中国へ送り込み、武器援助や人民解放軍の派遣を引き出し、シャン州とカチン州を勢力下とした。だが、南部のペグーヨマやアラカン州へは、 ネウィン軍の抵抗に武器輸送の手段を確保できず、南部のBCPは政府軍から奪取した武器で戦っていた。BCPが弱体化し、彼も三十二年に亘る反政府活動から二百人の部下と投降したのは、中国からの援助が途絶えたためではないと、彼は言い切る。「七六年頃から、タンツン書記長をはじめ幹部たちは毛沢東のまねをして神がかりになり、中国での文化大革命と同じように同志の間で吊るし上げや暗殺が横行し、内部分裂してしまったからです。それに、私個人としては当時、中共政府はこちらの欲しいものを何でもくれましたが、その中国で人民が飢え苦しんでいるのが腑に落ちませんでした」。

Z氏は今でも、共産主義が間違っていたのではなく、スターリンや毛沢東が失敗したと解釈している。「世界のどこに共産主義を実現した国がありますか。その道程ははるかですよ」。彼の展望では、無計画な解放経済で貧富の差が拡大しても、この国で再び共産党が支持を得ることはない。ビルマ国民は、かつてのBCP支配地域でも、元地主の子は金持ちで、元幹部の子はやはりリーダーになったことを覚えている。「アウンサン将軍と、その娘のスーチーさんも、その意味では同じですよ」と、“民主化の星”にも陰りがあることを匂わせる。

「イノセントな人々はすぐ実現不可能な大きな夢を抱く。共産革命の前に、貧しく教育もないこの状態をなんとかし、 多くの問題を解決するために民主政府が必要です」。軍事政府を否定する彼に「総選挙では何党に?」と聞いてみた。 老マルキストは苦笑いしながら答えた。「NLDさ」。

「結局、我々は中国がラングーンと有利に交渉するために、圧力分子として利用されただけでした」。そう悟っている彼は、 今の中国をも訝っている。「経済だけ助けてくれるのなら良いが、SLORCとも緊密だ。私はマルキストの前に、愛国者だ。 今度は世界との駆け引きに、我々を使う気か?」と彼は、ビルマに落とされている中国の影が、 自分たちの時代より大きいことに気付いている。

ここは中国?

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本尊として鎮座していた張光璧の肖像

ラシオに着くころには、とっぷりと日が暮れていた。前月オープンしたばかりの国営「ラシオ・モーテル」のロビーは、雲南省大理産の大理石で敷き詰められていた。ここで問題の為替レートを体験することになる。外国人の一泊料金は、 ビルマ人七百二十Kの約六倍三十六ドル。対ドル実勢レート百十五Kに対して、公定レートは僅か六K。軍政の二十倍近いはったりである。 三十六ドルを公定レートで逆算すれば二百十六K。ビルマ人より安く泊まれるのだが、そこは軍政のご都合主義。ドルでしか受け付けない。 ビルマ入国時に強制両替させられた外貨兌換券でも払えるが、その兌換券が、また、漢字をビルマ文字に変えただけで、 中国のそれとそっくりなのである。軍政は外貨の落とさせ方も、中国から教わったようだ。モーテル支配人は、客の半数は中国人ビジネスマンだという。

夕食に街へ出て驚いた。しんしんと冷え込む大通りでは、夜市が活気を帯びていた。路上や縁台にうず高く積まれた様々な商品は全て中国製。 日本円に換算すると、毛糸の帽子約五十五円、ジャンパー千二百五十円、魔法瓶二百五十円、電気炊飯器千三百五十円。 タイ国境やラングーン港から入ってくる他国製品に比べて格段に安い。ビルマは中国へ大豆や生姜、果物、干し魚、活カニ、木材、牛革、 変わったところでは虎の革などを売り、中国からは工業製品を買っている。記者はこの日の午後、 中国製の真新しいトラックの陸送隊とすれ違った。

店主の殆どが華僑で、街の看板は必ず中国語併記。「来来餐廰」の若女将、張菊玲さん(28)は「昨年から一週間のビザが出るようになって、中国人が急に来だしたわ。お寺参りのお年寄りばかりでなくて、若い人も。 何がビルマで売れるか見に来ているようです」。彼女はビルマ生まれ、ビルマ人の友達が沢山いる。「新しい中国人とも、ビルマ人とも別に問題ないわ」と、この国で中国人が弾圧されたのは、母の世代だという。

当時の模様を彼女の叔母(52)に聞くと「そんなこと、恐ろしくて言えません」と断りながらも、 「当時はよく強盗が家に来てね、お金やゴールドを奪っていったよ」と話してくれた。「国境貿易で不法に財を成し、 ビルマ共産党と共闘を組んだ」として、六七年から八〇年代半ばまで華僑を弾圧した当局は、彼女にとって「強盗」に他ならなかったのである。 だが、その叔母でさえ「父が貿易商なんですけど、昨年から急に景気がよくなってね……」と、すぐ笑顔に戻った。

翌朝、「国民党の落人村」とも呼ばれるラシオの中国人街に「龍華宮」を訪ねた。本堂は三年前焼失したというのに、 台北の中正紀念堂を想わす立派な鉄筋コンクリート造りが、中国系ビルマ人の力を物語る。堂内に入ってまた驚いた。 上座部仏教のカラフルな仏像の脇に、弾圧されながら「天道」を広めた張光璧の写真が「天然古仏」として祀ってあった。

「不是共産党、不是國民党……」。社務所へ迎えてくれた老人たちが、旧漢字でこんなメモを差し出した。「もはや共産党でもなく、国民党でもない。我々はお互い戒律を守って、心清く善行に心掛けます」。 五、六十年前に福建省や広東省などから入植した彼らと、いま隣の雲南省からやってくる中国人とは、共通の宗教倫理に則って取引し、トラブルはないという。壁に掲げられた額は、昨年七月六日、中国共産党中央委員や雲南省委員会書記長らが参拝した際の記念写真だ。銭其□外相がラングーン入りし、経済協力を更に強めることでキンニョン第一書記と合意したのは、その五カ月前であった。

マンダレー観光

二十八日夜、ラシオから戻り「皇宮旅社」に投宿した。古都マンダレーに、ここ二、三年、相次いで新築された中国資本のホテルの一つである。夜間外出禁止令は九二年九月解除され、昼間から続く停電にもめげず、 発電機を備えた隣のカラオケホールのダミ声が、夜遅くまでホテル全館に響きわたっていた。「時の過ぎ行くままに」など、日本の曲もあったが、歌詞は全て北京語だった。

明けて、名所旧跡巡り。一九二〇年、学生たちが英国からの独立を誓い合ったインドーヤパゴダを訪ねた。抜けるような乾期の空に、 尖塔が白く輝く。天秤棒を担いだお年寄りが、閑散とした境内を横切ってゆく。八八年八月には、学生や市民、 僧侶数千人が一ヵ月に亘ってこの広場を埋め尽くしたという。総選挙後には国会の場として議員たちに僧房が貸されたが、 九〇年十月情報が漏れて軍が突入、当時の高僧たちは未だ獄中にいる。 僧侶たちに話し掛けようとすると「袈裟を着た諜報部員が混じっているので……」と、同行の民主派ビルマ人が袖を引っぱった。

学生たち

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ボート祭のノボリには、協賛する米清涼飲料水会社の広告が

ビルマでは、いつの時代も学生たちが改革の先頭に立ってきた。B君はマンダレー大学で数学を専攻する四年生。 八八年のデモ参加者だ。「選挙以降、街の雰囲気はマシになりましたよ、とにかく」。観光客が戻り、ガイドなどのアルバイトも出てきたという。 「もうあんな派手には運動しません。卒業が遅れて、僕はもう二十四歳です。早く仕事を見つけないと……」と、 どこかの国のしらけた学生のようなことを言う。彼の知る限りでは、マンダレーでは一月四日の独立記念日にも、 反政府活動は何ら予定されていなかった。「今年やっと卒業なのですが、この国には仕事がありません。叔母がいるオーストラリアへ行きます」。

コンピュータを学ぶCさん(22)は、政治に関心がある様子だ。「話題が少しでも政治的になると『そんな大きな声で話しかけないで!』 と返されるか、聞こえないふりをして逃げてゆきます。皆、また学校が閉鎖されるんじゃないかと、怖がっています」。高校以上で延べ二年から四年間閉鎖された。 彼女によると、この軍政下で地位のある親の子は別枠だが、 新卒で仕事を得られるのは十人に一人の割合。「殆どの学生は、政治のことより、自分の将来の問題で頭が一杯です」。

人気の職種や就職先は、宝石ブローカー、大学教員、シンガポールとの貿易会社、コンピュータ塾の先生、通訳ガイド、そして海外出稼ぎ。例えば、シンガポールでコンピュータのオペレターをすれば、月給三百米ドル。向こうでは低賃金だが、国内では到底稼ぎだせる金額ではない。現在ヤンゴン市内で親子四人が暮らすには、月々二百ドルは要る。公務員の月給は八~十三ドルと極めて低く、到底生活できないため、志望者がいても、それは公務員の地位を“本業のサイドビジネス”に利用するためだという。

マンダレーでの午後、各地の寺で指導的役割を果たす僧侶を養成する「大修道院長養成学校」を訪ねた。

「先進工業国は物が豊富で、高い教育もあります。しかし、社会問題は山積し、人々は幸せそうではありません。瞑想を通して、その不足する何かを見つけるのです。心の清らかさ、平和、そして成長を」と、同校の英語担当教師(54)。こうして内なる幸福を見出せれば、 不条理な軍政も混乱経済も達観できるかも知れない。「最近、よく欧米の旅行者が瞑想してゆきますよ。あなたもいかがですか」と勧める彼だが、現代ビルマの若者がついてくるかという問いには「家庭環境にも拠りますが、まあ、お喋りや音楽が好きな学生の方が多いですな」と、元大学教授でもある彼は呆れ顔で返した。

ビルマは旧正月を祝うのだが、軍政府は年末年始にも、伝統的なボートレースや、オリンピック選考会を兼ねたスポーツ大会など、派手な祭典を各地で催していた。「金持ちはそれに興じ、貧乏人は祭日も生活に追われ、結局、両方とも政治のことなど考えていませんよ。 忘れさせようとする軍政の狙い通りだ」と、通訳が自嘲する。ラングーンの大通りを飾るそのボートレースの旗には、後援するアメリカの清涼飲料水メーカーの商品名が大書きされていた。

時間と空間

昨年十一月中旬、ニューヨークでは「国際ビルマ会議」が催されていた。参加者が取った議事録によると、国際人権団体のジャネル・ディラー法務部長は、国連に次の四点を要望した。武器禁輸、安保理の関与、移住や労働の強制禁止と 、監視グループの派遣、国連下部組織の対ビルマ政策見直し。

ところが、「ビルマは南アフリカと政治、経済、社会の構造が大きく異なるので、外国企業の撤退は民主化をもたらさないだろう。逆に、もっと投資する方が、ブラジルや、台湾、韓国のように、ビルマは民主化を早めるだろう」といった意見が出席者の間から出され、 会議は白熱した。コロンビア大学経済学部ロナルド・フィンドレー教授は「二者選一なら、私は撤退側につく」と返し、次のような理由を挙げた。外資は雇用を拡大するが、ビルマの教育を受けた労働力は非常に限られている。外国企業が参入すれば、 既にビルマの軍や政界に食い込んでいる中国と競合することになる。中国は当然、今のポストと、良質の労働力を手放さないであろう。だから外国企業はSLORCに外貨を与えるだけに終わり、政策を見直させたり、政権を代わらせることは出来ないだろう。中国との“王者決定戦”に勝つには、やはり西側が軍事政権を孤立させ、民主的システムで貫徹するしかない、と。

フィンドレー教授は、もう一つビルマ民主化に有力な動きとして、西側民主主義国が中国との地政学的なバランスを計ろうとすること、 を挙げた。「中国を後ろ楯に、もしビルマがタイに圧力をかけてきたら、ASEAN諸国に何が起こるか想像してみればよい」、と彼は参加者に問いかけている。ビルマ民主化を支援することは西側諸国にとって長期的にも利益のあることだと、教授は国際政治の力学に希望を託していた。

「人権」か「金」か

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差し障りのない新作ならアメリカとほぼ同時に掛かる映画館

英領時代からの豪華ホテル、「ストランドホテル」が昨年十一月、SLORCと英国資本の合弁で改装オープンした。 ビルマを去る三十一日、最低で一泊二百ドルという、そのホテルで、クリスマスイヴに知り合った外交官と再会した。

「APEC会議に象徴されるようアメリカも対アジア外交を変えてきている。我が国も、そうだ。日本よりは人権問題に触れるだろうが、 オール・オア・ナッシングといった交渉はもうしないだろう」。タンシェ政権になってからの変化は小さいが確かにあり、政治的にも悪い方向ではないと、彼は認識している。

いつも取材を受ける立場の彼は、逆に注文した。「特にバンコク駐在員は、未だにこの国は『真っ黒』と報道している。 ジャーナリストというより、彼らはまるで政治家だね。
まあ、そんな原稿の方がウケるからだろうけど……」。彼は、注意深く観れば、濃いグレーになって来ているという。その変化を無視して、批判ばかり続けていると、折角の変化を遅らせてしまう、というのが彼の意見だ。

SLORCに最も説得力を持っているのは中国だが、日本は天安門事件後にいち早く制裁を撤回し、アメリカも昨年六月、中国の最恵国待遇を延長している。その上「中国はビルマよりはるかに魅力的な市場ですから、日米の中国説得は期待できそうにないですね。 かと言って、SLORCへの制裁を続けると、唯一の友好大国、中国にビルマが呑み込まれてしまうという危惧を各国が持っています」。

内陸の工業化を急ぐ中国にとって、中東の油を環境にうるさいマラッカ海峡を遠回りすることなく、インド洋から直接パイプラインで雲南省へ揚げるにはビルマの利権が、至ってはインド洋の制海権が不可欠だ。中国がイラワジ川河口に海軍基地を建設しているのは九二年十月、北京で確認されている。

昨年末SLORC使節団の受け入れたインドネシアは「世界世論を考慮して歓迎しないだろう」という通信社の事前報道に反して、スハルト大統領がキンニョン第一書記と握手までした。また、タイは年末からSLORCとの友好関係を公表している。外交官氏は、 「遅くとも七月十九日(スーチー女史軟禁五年の満了日)までには、米、豪、そして日本も、新たな対ビルマ外交を打ち出すのでは」と、 予測する。襟を正すことを自他ともに求められる民主主義国家は、ODA再開には条件を付けることになる。「付ければ、軍政は突っぱねるだろう。だから、とりあえず国際赤十字(ICRC)など政治色なしの援助から先ず始めて、国連開発援助(UNDP)と間口を広げてゆくのが得策だと思うんですがね……」。外交官氏に見送られ、空港へ向かった。

一月十八日再開された国民会議でSLORCは「大統領には、本国に連続して二十年以上居住している人。 外国の市民権を持っている人を除く」という憲法草案を挙げ、スーチーさんを排除した上で、彼女の軟禁延長がないことを匂わせている。そうした条件に、スーチーさんは軍政とのさらなる根比べを選ぶであろうか、 それとも海外からビルマ民主化を呼び掛けることになるのだろうか。ビルマ国民と、世界の対応にかかっている。

実名で書けない原稿

「この次、お出でになった時に、全てをお話ししましょう」と四年前、返答をお預けにしたチーマウンNLD書記長代行は、今回獄中にあって、その約束を果たしてくれなかった。そして、このルポでもインタビューに応えてくれた人々の名前は出せない。 SLORCが人物を特定した時、彼らにどんな迷惑がかかるか、まだ全く計り知れないからだ。「君ももう同じ船に乗っているよ」。密会した政治家は別れ際にそう言っていた。近いうちに、またビルマ取材に行け、そして次回は実名で書けるのなら、少しは進歩があると記者も認めたい。

(文・写真/阿佐部伸一)

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