ラオス、ベトナムイルカ棲む楽園1994年12月
ラオスに見る「メコン開発」
メコン川に生息するイルカは、その存在を広く知られる前に絶滅してしまうのではないか。そんな不安に駆られ、ラオス南部を訪ねた。
景気づくタイ
東西冷戦とラオスの鎖国政策で、最近まで容易には近づけなかっただけに、ここには世界にも類稀な自然が残ったと言える。だが今、メコン開発の大波がこの楽園にも押し寄せようとしている。膨らむ一方の債務にラオス政府が経済開発を急いでいるところへ、国際資本が中国とインドシナを結び、資源が豊かなこの地に意欲的な投資を始めたからだ。アジア開発銀行(ADB)、国連開発計画(UNDP)、日本の政府開発援助(ODA)、日本グローバル・インフラストラクチャー財団(GIF)などがプロジェクトを主導し、韓国やオーストラリア、タイ、ノルウエーなどの企業がその工事を受注している。だが、十年以上前からマスタープラン作成に関与し、その資金の多くを担っているのは日本である。開発ノウハウも資金もないラオスの影は、当事国でありながら薄い。
巨大リゾート
初日、車を借りに訪れた「農林産業(DAFI)旅行」パクセー支店で、コーンの滝のリゾート完成予想図を見た。そこはイルカの生息地から数キロと離れていない。
「いよいよ三月から、ホテルに着工します」。ソムチャイ・パタナマラ副所長(48)は警戒するどころか、自慢気に図面を広げた。敷地は五百ヘクタール。ホテル三軒の他、ゴルフ場やカジノを設け、ここでラオス全てを観光できるようにと少数民族の村も再現するという。また、施設の電力供給のためメコン川に二十九MWの発電ダムを、観光客を直接受け入れるためにコーン島には国際空港も建設するという。総工費は三億八千万ドル。タイの資本家、ソンポット・ピヤ・ウイ氏が興したラオス・ホールディング社がその七十%、ラオス政府は土地提供の形で三十%を分担する。同社は施設の経営権を日本や欧米の企業に転売するつもりだという。
イルカも大切な観光資源ではと、副所長に水を向けてみた。「調教師を呼んできて、芸をさせる予定なんです」と、この地で都会の水族館のような客寄せショーを考えていた。
ダム建設ラッシュ
イルカを見に行く前に、ラオス南部に点在するダム予定地へ足を運んだ。人口わずか四百十六万人、山がちでこれといった産業がないラオスが外貨を得る方法は、水力による売電と木材輸出くらいである。ベトナムとの国境をなす千五百メートル級の連山がそびえるアタプー県には、十五もの発電ダムの建設が決まっている。メコン支流の一つ、セコン水系だけで、政府目標の全国発電量九千八百三十二MWの約三分の一、二千九百五十四MWを発電させる予定だ。既に完成している二つを含め十七の発電ダムの総工費は、五千百億円余りに上る。
アタプーへの国道二十号線が驚くほど良いのは、四年前この国二番目のセセットダム(四十五MW)が出来たからだ。ここで発電された電力は、殆どがタイへ輸出され年間五百万ドルの国益となっているらしい。同発電所のヘンサワン技師(28)は「村にも電気が入って、電動ポンプで畑を広げ、夜も仕事できるようになり、みんな収入が増えていますよ」と、地元も恩恵に浴しているという。
せせらぎで本を読んでいたオランダ人観光客のサンドラさん(32)は「人々は親切で、自然も美しくて最高です。交通が不便なので、団体旅行は無理でしょうが、便利にするのは、両刃の剣ですよ。この国には“第二のタイ”になって欲しくないですね」と話した。
セセットを過ぎると途端に、四輪駆動車でも腹を擦るほど凸凹が激しくなった。チェーンソーの唸り声に、車を止める。「倒れるぞ!」。十数人の作業員が一斉に木を伐り、トラクターが倒木を道へ引きずり出している。「道の両側二十メートルを伐れという命令です」と、作業員。ダム建設の前段の国道の拡張だ。三年前まで農民だった彼は「この方がずっと儲かりますよ。家を新築できました」と笑う。「だけど、この仕事はあと二、三年じゃないですか、ラオスが開発されるまでの」。確かに、そのくらいの短期間で伐る木がなくなってしまうのではと思うほど猛烈な勢いで伐採が進んでいる。また農業に戻ると言う彼だが、その時農地が干ばつと洪水を繰り返すタイのようにはなっていまいか。
最優先に建設されることになったセカマン第一ダム予定地を訪ねた。道は途中からの旧ホーチミン・ルートに、森には十メートルを超すソ連製対空ミサイルが、発射台に載ったまま朽ちていた。運搬中にベトナム戦争が終結し、置き去りにされたという。かつてベトコンに支援物資を送ったジャングルロードは今、ダム建設の資材を運び込む道に生まれ変わろうとしていた。
五十メートルを超す大木が生い茂る森が突然開け、早瀬のあるV字谷が現れた。ダム予定地だ。川岸のボルトが打ち込まれた太い幹からワイヤーが対岸へと張られ、流量計がセットされていた。上流五キロまでの三村がダム湖に沈む。案内のアタプー県経済開発課のブンタイさん(36)は補償の話になると「誰が金を出し、村人たちをどこに移住させるかといった具体的なことは、まだ決まっていません」と、戸惑いを見せた。
仏領時代の遺物
イルカは水量の増す雨季には他の魚同様、アタプー県の支流へも回遊するという報告がある。が、今は乾季。イルカが集まっているというハンコーン村を目指した。村はパクセーから南へ百八十キロ、長さ三キロ、幅一キロほどのメコン川の中州にあり、対岸はもうカンボジアだ。
村へ向かう小舟が場違いな航路標識をすり抜ける。「昔、大きな汽船が通ったという話です」と、船頭。砂浜の船着場の横には、黒ずんだコンクリート建造物がそびえ立っている。半世紀以上前に、三百トン前後の貨物船が発着した桟橋である。仏領時代、チーク材を南シナ海へ運び出す船が滝を通過できないため、一旦陸揚げして中洲伝いに鉄道で運び、滝下流のこの村で再び船積みしていたのだ。陸側から回ると、錆びた蒸気機関車のボイラーが草に覆われていた。かつて移植された工業文明は、この村には根付かなかった。
寓話の村
中州のハンコーン村だけでなく、この辺には電話、ガスはもちろん、水道も電気もない。発動機付きの小舟はあるが、村の車は自転車と牛車だけ。宿もないので、「漁業とイルカ保護プロジェクト」に取り組んでいる農林省職員、ブンペン・ピラワットさん(29)の自宅に世話になった。
この村の正面には、ブーンパゴアンという深みがあり、流れが緩やかになっている。水の少ない乾季、イルカはその一キロ四方程の深みをねぐらとしているそうだ。早速、彼の舟でイルカ・ウォッチングに向かった。雨季には水没する樹木や岩山が、まるで箱庭のようだ。岩陰に舟をもやぎ、待つこと一時間。イルカは現れない。
ビエンチャンではテレビの影響でイルカのことをタイと同じく「パロマー」というが、ここでは「パカー」と呼ぶ。目だけを川面に凝らし、村に伝わるパカーの寓話を語ってもらった。「昔むかし、幸せを求めて、一組の夫婦がメコン川を筏で下っていました。リーピーの滝に近づいた時、一緒に乗っていた鶏や猿たちが危険を知らせようと騒いぎました。が、彼らはそれを理解できませんでした」。リーピーの滝は村の上流に実在し、梁(やな)を仕掛けた風景が絵はがきで有名になりつつある。「二人は滝に落ちて死んでしまいましたが、夫は『パカー』に、妻は『シダー』という白い鳥に生まれ変わったのです。だから、今でもシダーが川の上を鳴きながら飛ぶと、必ずパカーが現れるのです」
「パカーだ!」
諦めて場所を変える小舟の上を突然シダーが舞い始めた。と思うと「プシュー」。パカーの呼吸音だという。動物園のような獣の臭いが鼻を突く。「あそこ!」。彼は潮目で滑らかになっている川面を指さす。が、時すでに遅し。パカーは新鮮な空気を吸い、また水中に潜ってしまった。しかし、その次からは、私の目もパカーを捉えた。寓話の通りなので、狐に摘まれたような気がする。
パカーは海のイルカのようなジャンプはしない。五分から二十分ごとに一、二秒ずつ、背だけを水面に出す。魚を追っていたり、求愛期には、もう少し姿を現すそうだ。一頭で泳いでいるのもいるが、親子らしい大小のペアー、三頭以上の群れもいる。同じ淡水イルカでもガンジスイルカや揚子江イルカとは違って、パカーはくちばしが突き出しておらず、背びれはあまり退化していない。敢えて言えば、海のゴンドウクジラに似ていて、大きな個体は三メートル近い。彼によると、現在約百頭が生息し、ブーンパゴアンから下流約十キロが乾季の行動範囲で、つまりカンボジア領と行き来している。
保護プロジェクト
川魚ともち米の夕食をブンペンさんと囲んだ。「十二月から七か月間はブンパゴアンでの漁は禁止です。その季節には魚が産卵するんです。二年前から村の規則にしたんですが、皆、守ってくれていますよ。それに、イルカが定置網に掛かったときは、網を切ってでも逃がすことになっています」。駄目になった網代は、カナダの非政府援助団体(NGO)、アースアイランドが援助することになったが、幸いこの村の漁師の網には一頭のイルカも掛かっていない。
全村五十二世帯の協力のもと、彼は毎日捕れた魚の数や大きさ、種類を集計している。この水域だけで希少種を含む百種以上の魚がいるという。雨季には十メートル近く水位を上げるメコン川は森を水没させ、魚たちに恰好の巣を提供する。だが、計画通り数多くのダムが完成し水位が人為的に調整されれば、そうした自然のゆりかごはなくなる。ビエンチャンから北へ二時間、ダム湖の汀にたどり着いて驚いた。徳用マッチをぶちまけたように、巨木が積み上げられている。この木は山からではなく、ダム湖の底から伐られてきたものなのだ。
生活との調和
ネズミ捕りのような竹製の罠を見て回る漁師、ヌーマイさん(34)は、めっきり魚が捕れなくなったと嘆く。「父の代まではこんな道具だけで、自分たちが食べる分だけ捕っていたんです。でも今は皆、商売のためにナイロン網でごっそり捕るでしょう」と、彼は自戒している。が、六人の子供を養う彼は、一ヵ月に最低二万キープ(約二千八百六十円)が要る。「殆どが米代ですが、塩や唐辛子とか、服も時々買わなければならないし…」。 保護プロジェクトを始めて二年が経っていたが、漁獲量が戻ったという話は他の漁師からも聞けなかった。ヌーマイさんは、魚激減の元凶はカンボジア側にあるという。「向こうでは電気を使って感電させたり、地雷を水中で爆発させたりして、魚を捕っているんです。そりゃ一度に沢山捕れるけど、稚魚もイルカも死んでしまいます。ここの魚はカンボジアのトンレサップ湖とも行き来していますからね」
爆破漁法の犠牲となったイルカの写真が昨年三月末、タイ紙に載った。そうした漁法はラオスでは禁止されていて、やれば刑務所行きだという。ブンペンさんは魚だけに頼る経済から脱しようと、村で鶏や豚を飼い、野菜を植えることを奨励し始めた。
「お国のため」?
くだんのリゾート開発で立ち退きに迫られているタコ村を覗いた。「賛成ですよ、お国のためなら」。食堂でたむろしていた老人たちは、愛国心を誇りにしていた。広場でバトミントンに興じていた娘は「早く電気が来てほしいな。テレビを見たいの」と屈託がない。この純朴な人たちがゴルフやカジノで遊ぶ姿は想像し難い。
イルカが生き残れる川
イルカは、ここメコン水系の食物連鎖の頂点に立っている。周辺の森林でイルカに該当するのは、二百頭と見積もられるマレートラや、僅か十頭前後と既に幻となってしまったジャワサイである。八七年には四十七%あったラオスの森林率は、現在三十%を割っていると見積もられている。環境の変化に弱く、真先に絶滅に追い込まれるのは、こうした大型動物である。
イルカ保護に熱心な村人にその理由を尋ねても、生態系の概念はなかった。「網に魚を追いやって漁を手伝ってくれるので」とか、「溺れる人を助けてくれるから」と、愛着を込めて答えた。だが、村人が共に暮らしてきた自然が今、大きく変わることに危惧を抱けばこそ、減収となる漁の自粛も徹底できるのであろう。イルカが生き残れるメコン川なら、同時にメコン川に暮らす村人も生きて行ける。
別れ際、ブンペンさんはこう呟いた。「コーンのリゾート開発は、あの鉄道と同じようになると思いますよ。外国人のための施設ですから」。また、村人が外国人観光客を相手にするサービス業に転職できるとは思えない。観光客は自然を楽しみにやって来ても、都会同様のサービスを求めるからだ。
想像も及ばぬ明日
「開発と引換えにこの自然が失われるかも知れないが」といった仮定は、ついぞどの村でも通じなかった。「その意味が彼らは分かりませんよ」という通訳の忠告通り、村人たちは口ごもった。当局の圧力でないことは、彼らの怪訝な表情から判った。魚やイルカが住めない川や、川の水が飲めないことなど、彼らには想像すら出来ないのである。彼らにとっては、外国人旅行者がこの自然に感動している姿の方が不思議なのである。
この国では社会主義の粛清こそ過去のものになったようだが、まだ民主主義が機能しているとは言いがたい。村人自身の開発より、巨大開発が先行してしまうのであろうか。
ラオスを後にタイのウボン・ラチャタニーへと、タイ王女の名を冠したシリントーンダム沿いを走る。多くの農民がバンコクへ出稼ぎに行っている東北タイである。そのバンコクでさえ、その昔、パカーが見られたという。滑らかなアスファルト舗装の路面に、メーターは時速百キロを指している。ラオスの楽園に迫る開発も急加速している。