カンボジア移植された民主主義は…2018年2月
7月下院選を前に
カンボジアでは2013年の前回下院(国民議会)選で野党が過半数に迫る躍進を見せた。だが、外国人を含めた民主化リーダーたちは、国外退去を命じられたり、逮捕されたり、殺されたり、或いは、国外へ避難したりしている。昨年は英字紙『カンボジアン・デイリー』が巨額の納税を迫られて廃刊、続いて最大野党に最高裁が解党命令を出した。支持率が低落する政権政党が今年7月末の下院選挙を控えて、締め付けを強めている。カンボジアの首都、プノンペンを訪ね、各方面の人たちにそれぞれの現状を聞いた。
街角で
アメリカ政府は野党、カンボジア救国党が解党され、同党のシンクタンクだった自国NGO(非政府援助機関)が国外追放されたことなどから、渡航者に人混みへ行かないよう注意喚起し、カンボジア政府高官らへのビザ発給を停止。それに対抗してカンボジアのフン・セン首相は国内での米兵の遺体捜索への協力を延期し、演説の中で「カンボジアが怖いのか」と言い放った。
カンボジアとアメリカの関係は急速に悪化しているが、記者がアメリカ国籍ではないからか、首都プノンペンは平穏で活気さえ感じられる。「政府への注文は?」という問いに街の声は…。客席で新聞を読んでいた三輪タクシー運転手(44)は「このカンボジア製のタクシーを支援して、残して欲しいな。インドなど外国から三輪車がどんどん入って来て、あいつらガスだから、高いガソリン車だと勝負にならないんだ」と。外国人観光客も多い宮殿近くの雑貨屋店主(52)は「平和だし、何とかやって行けています。けれど、貯金はできないので、商売がもっと繁盛するようお願いします」と。仕事の帰り道、屋台で飲み物を買っていたカジノ従業員(21)は「この国の農産品がもっと高く売れるようにして欲しいです。どうかしたら輸入品の方が安くて、肥料とか殺虫剤も高いし」。彼女はコンポンチャム県の農家からプノンペンへ出稼ぎに来て1年半だという。
前回下院選とその後
救国党は下院123議席のうち55席を占めていた。与党カンボジア人民党は68議席。これほど野党が躍進したのは、この国で多党制民主主義が始まって初めてのことだった。だが、アメリカなど外国人と結託して、国家転覆を謀ったと提訴されていた救国党に最高裁が昨年11月、解党命令を出し、議員と党員の計118人に向う5年間の政治活動を禁じた。政府はその後、補欠選挙は行わず、こんな措置をとった。空席となった救国党の議席55のうち41を、前選挙で敗退して1議席も持っていなかったフンシンペック党に、2議席を愛国党に、1議席を経済開発党に振り分けた。そして、民主党連盟と反貧困党が甘受を拒んだ11議席を人民党議員で埋めた。その結果、与党・人民党が79、フンシンペック党が41、愛国党2、経済開発党1となっている。かつて連立し、今は言いなりになるフンシンペック党と合わせると、憲法改正に必要な3分の2を人民党が完全に抑えている。こうした対抗勢力不在の下院で今、言論や信条、結社などの自由を制限する法律が次々と通っている。
フン・セン首相は自党が確実に絶対多数を取れる状況下では、野党やメディア、NGOにも寛容だった。だが、支持率が低下して続投が危うくなると、これまでも強権を発揮してきた。救国党の支持者の多くは、ポルポト時代を知らない若い世代や、150万人はいると言われる工場労働者だった。その救国党を潰した今、フン・セン首相は毎週末のように若者や女性が働く職場を視察し、賃金や家賃、出産手当などで支援を約束し、救国党支持者の反発を和らげようとしている。この国にも投票1ヵ月前からという選挙運動期間はあるが、首相は例外だ。
来たる7月29日には2議席増えた下院125議席を、人口が増えたコンポンチャム県が分割されて一つ増えた全国25区で奪い合う選挙が予定されている。
自由で公正な選挙に向けて
かつて都心のオアシスだったバンコック湖を埋め立てた広大な更地では、中国がニュータウンを建設している。その更地を横切った先に以前からある住宅街の一角では、草の根民主党(GDP)の会議に朝から約70人が集まっていた。前の通りには私服警官5人がバイクで来ていたが、この党が弱小だからか、参加者の身元をチェックしたり、言葉に聞き耳を立てたりしている様子はない。事務局長のサム・イン氏(45)は「妨害はありますよ。党の看板を建てられないというか、建てても壊されるのです」と話す。党員や立候補者を募るのは、専ら人から人へという人海戦術だ。
この党は公約を『5S』といタイトルで解りやすく纏めている。「エス」と発音するクメール文字で始まるスローガンを5つ列挙していて、①経済・雇用、②教育・青年、③健康、④社会福祉、⑤行政となっている。経済・雇用では農業従事者や農産品の加工業者と輸出業者への年利5%での貸し付け、起業した若者には1,250米ドル相当の助成金交付を実現するとある。
この日は、北はバッタンバン県、南はスバイリェン県と全国各地からの代表も参集し、首都プノンペン選挙区への立候補者名簿の順位を決めるという会議。下院は全ての有権者が直接投票できるが、支持する政党へ投票する比例代表制だからだ。
自らも出馬するサム・イン事務局長は「84議席で、つまり3分の2以上で憲法を改正できるので、それを阻止するためにも42、3議席が目標です」と。しかし、プノンペン選挙区の定数12のところへ、立候補者がまだ11人しかいない。「あと一人、いや補欠も必要なので13人。立候補しようと思う人は来てください」と参加者に呼びかける。
政権政党の人民党では名簿の順位をフン・セン首相が決めている。しかし、この草の根民主党では愚直なまでも投票で決めていた。演説の順はくじ引きで決め、持ち時間は誰もが10分以内。投票所で使うコの字型のブリキ製の囲いの中で、検印が押された投票用紙に記された11人のうち5人の氏名にチェックを付け、その用紙を鍵のかかった投票箱に投入する。開票は全員が見守る中、まず用紙の枚数が投票者数と同じか数え、チェックが付いた候補者名を読み上げた後は全員に見えるよう投票用紙を一枚一枚掲げる。まるで小学校の社会科の授業の一コマを見ているようだ。サム・イン事務局長は「党内で物事を決めるときも民主的に、公正であることを特長としています。それに、きょう各県から来ている代表には、これと同じ方式で立候補者名簿を作ってもらうことになっているからです」と説明する。
立候補者11人は、29歳から45歳までの若い世代で、農業従事者や会社員、自営業者、障がい者のソーシャルワーカー、IT講師、ラジオのアナウンサーと職業は様々。投票前の演説では、学歴や職歴などを含めて自己紹介した後に「私が当選した暁には」と抱負を述べる。「正義があり、誰もが明るい法の下に暮らせる社会を」、「差別と暴力がない社会に」、「政府からの手当ては分け隔てなく全ての国民に」、「……」。これらの抱負は今のカンボジアでは実現していないことの裏返しで、社会問題が浮き彫りになっている。
解党させられた救国党の初代党首サム・レンシー氏には解党以前に帰国禁止令が出され、サム・レンシー氏の後を継いだケム・ソカ党首は国家反逆罪で昨年9月逮捕され、ベトナム国境に近い拘置所に収容されている。そして、この草の根民主党の創設者は、政治評論家のケム・レイ氏。彼は2016年7月、フン・セン首相の家族の収入について公言した直後、プノンペンの街中で暗殺されている。この日の会議は国歌斉唱に続いて1分間、ケム・レイ氏に黙祷が捧げられ始められていた。
ところが、名簿作成のプロセスを取材している最中に、手元のスマートホンに速報が飛び込んできた。「故ケム・レイ氏の弟、ケム・リティサット氏が『ケムレイ党』を創設」。亡き兄が創った草の根民主党に入るのではなく、新党を立ち上げた理由は「兄の名を使う極左活動家を排除するため」とある。リティサット氏は兄の墓碑を建てるための資金として、フン・セン首相からの供物、数千ドルを受け取っているという情報もあり、野党を小さな党に分裂させ、一枚岩にならぬよう留めておきたいという与党の作戦にまんまと乗せられているようにも見える。
11人の立候補者の順位が決まった後の挨拶でサム・イン氏は「ケムレイ党も尊重し歓迎しよう、自由で公正、開かれた選挙なのだから」と参加者全員を前に話した。しかし、彼はこうも付け加えた。「もし自由で公正、開かれた選挙にならない場合は、選挙をボイコットすることも含め、来たる3月末に決断する予定です」と。そうなった時は、開票を待つまでもなく、人民党が絶対多数となるのが明白で、選挙する意味がないからに他ならない。
お手盛り上院議員選挙
今回のカンボジア滞在中に上院(元老院)選挙があった。直接選挙の下院とは異なり、上院は昨年各地方で選出された評議員と下院議員による間接投票で、62議席のうち58席を決める(2席は王室が、もう2席は下院が指名)。よって、街頭キャンペーンなどはなく、デモへの取り締まりも厳しくなっているため、街は全く平常通りだった。
だが、その背後では最大の野党が解党させられたことで、評議員と下院議員の計1万1,695人のうち3千余人の野党評議員が不在となり、その空席に与党・人民党は自党支持者を指名した。また、約千人の野党評議員は評議員であり続けることを優先させて人民党へ鞍替えした。その結果、評議員の91%が与党党員か支持者となった。投票当日の棄権25人、投票率99.79%、全58議席に人民党議員を選出という選管発表からも見え見えのお手盛り選挙だった。
この国の憲法によると、下院を通過した法案は上院が形式的に審議承認、最後に国王が署名して施行という運びなのだが、2012年に亡くなったシアヌーク前国王は、異論がある法案は各党に再度話し合うよう差し戻し、直ぐには署名しなかった。また、今回の取材期間中にもシハモニ現国王は定期健康診断を目的として訪中したが、国王が国を留守にしている間は、上院議長が国王の署名を代行することになっている。それ故、政府が思い通りに立法するためには、上院を自党で固めておく必要がある。
上院選挙の結果に救国党は即日、次の3つの理由から全面的に異議を唱えた。一つ、選管人事が憲法違反。二つ、評議員と議員が選出された代表ではない。三つ、救国党議員を含め国民が選出した代議士が欠席している。続けて、カンボジアに民主主義を再建するために友好国と国連の介入を要望している。救国党関係者はカンボジア国内で活動すると逮捕されるので、この声明文の問い合わせ先はアメリカの電話番号になっていた。
「選管はもはや中立ではない」
「地方で会議をしていると、アイスクリーム売りが来て、会議室の前で一日中ハンドベルを鳴らし続けるいった妨害もありました。そうです、与党の地方支部がカネでアイスクリーム屋を抱き込んで…」。COMFRELは2009年の発足以来、その名の通り自由で公正な選挙を実施するため、国の選挙管理委員会と協力して活動してきたNGO。だが、事務局長のコール・パンニャ事務局長は昨年12月、身に危険を感じてこの国を脱出し、タイやカナダ、オーストラリアなどでカンボジアの窮状を訴えているという。代わりに上級事業調整員のキム・チョロン氏(44)が同委員会中央事務所で状況を説明してくれた。
公正でない選挙と分かっていながら支援すれば、その選挙を認めることになると欧米諸国が選挙制度改革から手を引いた後、日本政府はこの国の選管へ750万ドル相当の投票箱など選挙資材を贈ると発表した。彼は「日本が純粋に選挙の技術運営面だけを支援するならば良いが、選管が今や中立な機関ではなくなっているということを日本は知っているのでしょうか」と苦言を呈する。選管委員は9人で構成し、そのうち4人が与党から、別の4人は野党から、そして一人がNGOからというバランスが取れた構成だった。しかし、救国党に解党命令が出された去年11月以降は、野党からだった4人も与党寄りの小党からの委員となり、今の選管委員は9人中8人が現政権支持者となっている。
今年7月の下院選挙に向けてCOMFRELは当然、活動計画を立てている。(1)選挙手続きを研究、(2)投票所の設備を調査、(3)投開票の監視チェックリスト作り、(4)特別監視員約1万人を全国の投票所に貼り付け、(5)2,000の開票所で独自に票を数える。しかし、これを全面的に実施するか、一部実施するか、あるいは、全て取り止めるかは、政党と立候補者が出揃う4月初頭の状況を見て決定するという。「どんな場合に、全面的に中止するのか」という問いに、「それは答え難いですね、もうお分かりでしょう」と。つまり、公平公正でない選挙になると判れば、全ての活動が無意味になるということだ。「選管が全ての党と有権者に信用されていなければ、選挙結果も信用されません」。インタビューを終え、礼を言うと、キム・チョロン氏は「まるでUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)以前に逆戻りしたような感じですよ」と笑顔にならない笑顔を見せた。
強気の政府
選挙を支援し続けることは選挙結果を認めることになると、欧米諸国は支援を止めた。内閣府でインタビューに応じたパイシー・パン報道官は「選管は法の下で選挙を運営し、選挙結果を認めるか否かは、あくまでカンボジア政府の判断のよるもので、欧米など外国がどうこう言うべきことではない」と語気を強める。
彼は民主主義や日本史に見識があるようで、こう切り返してきた。「日本を含めて、どこの国で産業革命の前に民主主義があリましたか?」。カンボジアには未だ近代産業が興っていないかのような口ぶりだが、その一方で人民党は過去20年間、7%の経済成長率を維持して来たと強調する。それでも、他のアセアン諸国と肩を並べるために、とにかく外資が必要だと。「(民主主義よりも)平和と安定(投資環境)を優先するのは、この国が選択することです」。
旧西側諸国が民主化プロセスに介入して来ることは内政干渉だと、新法を作ってまで極端に嫌っている。だが、その一方で街中のみならず、この内閣府のトイレすら「?所」と表記され、どちらを向いても中国語が目にり、ここは中国の植民地かと思うほど中国の影響を受けている。中国との戦略的経済開発協力に調印した2010年以降、中国による国造りに拍車がかかり、ここは中国の植民地かと思うほど中国の影響を受けている。「日本はアメリカに敗戦し、アメリカの傘下にいるが、日本独自の文化を持ち続けているじゃないですか。カンボジアと中国の関係もそう。カネに(中国の)臭いが付いているわけではないですから」と言ってのける。
政府統計によると、カンボジアの2017年の国家予算は50億4千万ドル。外国と国際機関への累積債務は62億ドル。そのうち中国が半分近い47.5%を占め、アジア開発銀行が18%、日本は韓国よりも少なく3.9%に過ぎない。債務は野党の催促で公表されるようになったが、一党独裁が続けば再び統計は入手困難となり、民主化への道は再び遠のく。
「状況はさらに悪化する」
「共産党独裁の国は、欧米のような文句は言って来ず、あの国となら私腹も肥やせるからですよ」。外国人ジャーナリストの取材を受ける数少ない言論人の一人、モン・ハイ・ラオさん(72)。彼は国費留学生としてイギリスにいた時にポルポト時代となって帰国できず、1979年にタイ国境の難民キャンプへ戻った。「個人を批判するのではなく、あくまでも憲法に照らして話しているので、逮捕されることはありません。老いた虎の前に、より強い若い虎が現れたということです」。カンボジア国民はこの四半世紀に、教育を受けて健康になった。今の行政は上から下まで腐敗していて、賄賂を払わなければ何事も前へ進まない。こうした社会の理不尽さにも気づくようになり、要するに、政府批判をするようになったと、カンボジア市民の変化を説く。
彼は日本にも11回来たことがあるそうで、フン・セン首相はカンボジアの「Shogun(将軍)」だと言う。彼は今のカンボジアを日本の戦国時代に喩える。特に2年前から肩に五つ星の軍服を着ることが多くなり、最高司令官である自分への忠誠を軍に誓わせ、軍を警察や公安に送り込んで政府批判や反政府運動を押さえつけている。
現政権は法治国家の体だけを保とうとし、法を改正し、新法を作って、若い虎を抑え込もうとしている。それはかつての共産主義者のやり方で時代について行っていない。複数政党制の民主政治を装うため、自党が絶対多数を取れる範囲で、無力な新党を作りたいのだ。言論の自由がなく、(有力な)野党もいなくなった中で選挙をしても、若い世代を中心とした民意は変わっていないので、政治のゴタゴタは続き、さらに状況は悪化するだろう。忌憚のない観察と展望を語るモン・ハイ・ラオ氏だが、カフェの個室で二人きりでの話だった。
安定=独裁を歓迎? 日本人ビジネスマン
「日本人商工会のメンバーは安定の方が重要と思っていますよ」。カンボジアに暮らして20年以上、現地商社を営む日本人男性は、概ねフン・セン独裁を支持していた。彼が面談に選んだ場所は、フン・セン首相の娘が利権を握る『ダイアモンド・アイランド』と呼ばれる再開発地域。彼はネット上の自己紹介でも「カンボジアの経済成長と共に自分も成長できました。縮小傾向の日本ではなく、高度経済成長の国にいられて本当に良かった」と書いている。ここはメコン川の中洲。ほぼ農地だった所に欧州風の会議場や公園が既に完成し、中国企業による高層ビル建設が槌音高く進んでいる。
「間違いは間違いとする欧米の考え方も分かりますが、アメリカ一強ではなくなった世界で、そういう白か黒かというのは如何なものでしょうかね。むしろ、カンボジアは興味深いポジションを取っていますよ」。
日本の大学で開発経済学を学び、国連高等弁務官事務所(UNHCR)で学生ボランティアの経験もある彼らしく、こうも言う。「もし今、私が学生でこの国に来ていたなら、憤慨し、何らかの行動を取っていたと思います。ですが、もう立場が違うので…。それにしても、救国党の議員たちは”腰抜け”だと思いますよ」。家族や支持者を含め200人以上が外国へ避難しているが、逮捕されても国内に踏み留まっていれば、この異常事態にもっと国際社会の耳目が集まり、民主派にとって新たな展開もあったはずだというのが彼の考えだ。
「カンボジアのような小国ではなく、反民主化政策に転じたのが大国ならば、欧米は同じ対応を取らないでしょう。小国を舐めたような上から目線が、カンボジアを中国ベッタリにさせているんだと思いますよ」。日本人でありながら、長年この国に暮らす彼はカンボジア人の誇りも代弁する。
アメリカ政府は一連の反民主化の動きを遺憾とし、カンボジア政府高官へのビザ発給停止に続き、政府間援助のカットや減額を決めた。ホワイトハウスがカンボジアの中国依存をいよいよ高める措置であることを知らない筈はない。7月の下院選が公正に行われなかった場合、欧米諸国は経済制裁も辞さないだろう。現在無税で欧米へ輸出できている衣料品や靴などに課税されれば、カンボジアの工場は国際競争に負けて閉鎖に追い込まれ、何十万という労働者が解雇されることになる。その工員たちの殆どは、地方から出稼ぎに来ている女性で野党支持者が多く、民主化に明日を託す市民の暮らしを直撃することになる。
国際報道とのギャップ
『カンボジアン・デイリー』の廃刊と並んで、昨年9月『ラジオ・フリーアジア』が閉局したことは「言論統制・民主化の逆行」だと国際ニュースになった。ポルポト時代が終わった直後に新聞記者となり、ラジオ・フリーアジアのカンボジア開局から2015年まで同局の記者だったウン・サリン氏(58)は、その真相を紐解く。「記者たちは閉局を2ヵ月前から知らされていました。あれは自主的な閉局だったのですが、カンボジア政府に追い出されたというニュースに化けました」
米上院議員が年200万ドルの予算で始めたフリーアジアは1997年、放送機材をアメリカ大使館から護衛付きで支局へ運び込んだ。この国で外国メディアが支局を開設する際には、政府情報省への届け出が必要なのだが、当局は調査にも来なかったというか、アメリカ政府の手前、来られなかったという。
地元メディアの月給が300から500ドルの時代に、フリーアジアは2、000ドル。記者の旧友は「実は僕も当時誘われたんだけど、危なすぎて断ったよ」と明かした。フリーアジアでは端から「この国に自由はない」という大前提があり、常に政府や政策についてネガティブな批判記事を書くよう強いられ、無法地帯のジャングルで行われていた違法伐採など、殺される危険がある取材にも行かされたという。被取材者から恨みを買ったり、仕返しに遭ったりすることも多く、30人ほどいたカンボジア人記者の中には、車に突っ込まれて今も精神を病んでいる人や、バイクで走っていて突然開いた車のドアに激突し長期入院の果て亡くなった人もいるそうだ。
今回閉局となった理由をウン・サリン氏は「フン・セン続投をプロパガンダ放送では阻止できなかったので、ワシントンが『効果なし』と予算をカットしたからですよ」と話す。閉局の2年前にフリーアジアを辞めた彼は今、地元ラテ兼営局CNCのプロデューサー。先日の上院議員選挙も何の妨害もなく報じることが出来たという。ただし、結果だけを肯定的に。最高裁が違法とした救国党の声明などには触れられない。かといって、裏さえ取れれば、大富豪が開発事業のために土地を強制接収していることや、役人の不正も下の方なら批判的に書ける。「しかし、上の方は…、命あっての物種ですからね」と彼は自嘲する。ヘン・サムリン政権、国連統治時代、人民・フンシンペック党連立時代、そしてフン・セン独裁時代と、彼がこの国で30余年ジャーナリストを続けて来られたわけだ。
移植された民主主義
1991年内戦に終止符を打ち、日本も参加した国連PKOを経て、1993年には暫定政府が発足したカンボジア。その過程を取材しながら、憲法草案を和訳したが、模範的な民主憲法だったことを鮮烈に覚えている。
国連暫定統治機構(UNTAC)が撤収する直前、明石康UNTAC特別代表にインタビューしたことがあった。「我々は民主主義の種を蒔いただけで、あと水をやって育てるのはカンボジア人の仕事ですよ。英、仏、米だって民主主義が定着するまでに200年以上かかり、まだ完全なものではないでしょう。国それぞれのプロセスがあり、カンボジアらしい民主主義で良いということです」。彼は独立自治の尊重とも、責任を限定した逃げとも取れる言い方で、カンボジアPKOの意義を振り返っていた。
この国の知識人の間では、民主主義が曲げられても、経済社会が安定している限り、もう外国が政治的介入してくる時代ではないと囁かれている。それは北隣のタイが軍政下にありながら、東隣のベトナムが共産党独裁を続けながら、安定的な経済発展を遂げていることからも想像に難くない。ただし、2013年の前回下院選の時のようにフン・セン首相と国王がサム・レンシー氏を恩赦し、潜在的に人気がある彼が選挙前に帰国すれば、何が起こるか予測はつかない。