阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

ビルマ(ミャンマー)軍政下のビルマ1989年1月

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ビルマの民主化運動が軍事政権によって“血の海”に沈められてから四か月。西側報道陣の入国を拒み“鎖国”状態を続けてきた ソウ・マウン政権は一九八九年一月十八日から三日間、在バンコクの外国報道陣を首都ラングーンなどに招き、タイ国境から帰国した 反政府学生らとのインタビューを許可、その安定振りを誇示した。しかし、タイ国境に逃れて、カレン族などと連帯、 軍事的抵抗も辞さぬとする学生は約七千人といわれ、一月中の期限付で“帰順”を求める政府軍との間で緊張が強まっている。 国境の三つの学生キャンプから、軍政下のその素顔を報告する。

「日本の援助金が弾薬に…」

山岳地帯に学生七千人八九年一月十四日昼前、タイ領ビルマ国境のメソート市からモエイ川沿いに北へ約百二十、 学生キャンプがあると聞くビルマ領クラディー村の対岸に着くと頻繁な砲撃音に迎えられた。砲撃音がやや間遠になったころ合いを見計らって モエイ川を渡る。それでもほぼ三分間隔で砲撃は続く。着弾すると地響きが足元から伝わってくる。

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政府軍の着弾音が徐々に大きくなる中、 塹壕に身を潜め銃を構える学生戦士=カレン州のクラディー・キャンプで

砲撃の度に思わず身を伏せる記者に、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)の二〇七連隊長(22) は「昨日(十三日)から始まった 政府軍の砲撃です。十二キロ位西から撃っています」と熱帯樹林に覆われた険しい山を指差した。

ここカレン州のクラディー村はビルマ族との対等な権利を求めて組織する民族民主戦線(NDF)の中心勢力、カレン民族同盟(KNU)の 解放区だ。前夜、メソートで密かに会ったABSDF、ツー・オン・ジョー議長(35) によると、昨年九月の軍クーデター後、政府の弾圧から逃れ、祖国の民主化を共通の旗印にNDFと連帯してタイ国境の山岳地帯に たてこもる学生は約七千人。ビルマ全学生のほぼ一割に当たる。

こうした学生キャンプはカレン州の五ヵ所三千数百人をはじめ、モン、カレニー、カチンの各州や西側のバングラデシュ、インド国境にも点在するという。ジャングルの厳しい 自然に耐えきれず“帰順”した学生は二千百人とタイ紙(バンコク・ポスト、十七日)は伝えている。

しかし、ネ・ウィン時代に四年十一ヵ月の投獄生活を経験したというツー議長は「ソウ・マウン政権は一月末までに帰れば罪は 問わぬと言うが、とても信用できない。真の民主化が実現するまでここに踏みとどまる」と、怯むところがない様子だ。

砲撃がじりじりと迫るクラディー・キャンプの学生二百三十人はモエイ川沿いに掘った深さ二m、長さ五十mの塹壕の中で暮らしている。

この二〇七連隊の武器は旧式の小銃わずか三十五丁。塹壕に五丁残し、武器を持てる三十人が交代で前線に出ていく。「ヤツらは日本政府の援助金を僕たちを殺す弾薬に充てているに違いない」という一人の学生戦士(21)の言葉が胸に痛い。

間断ない砲撃。塹壕から首を出してみると、ベレー帽に迷彩服のカレン民族解放軍(KNLA)の小隊七人がアメリカ製のピカピカの ロケット砲を担いでどこからともなく現れた。斥候役のゲリラ部隊と無線で政府軍の位置を確認、コンパスと分度器で手際よく照準を 合わせるカレン兵士を学生たちが取り囲んで見入る。耳をつんざく金属音と爆風の中、乾期の青空に吸い込まれていくロケット弾に 学生たちの間から歓声と拍手がわいた。

「さあ、今度は政府軍の反撃があるぞ!」。カレン族の小隊長に促されて船着き場へ走る。通りの両側の家々には人っ子一人いない。 ゴーストビレッジに響くのは砲撃と私たちの足音だけである。

懸賞金出し「学生狩り」

ビルマ政府軍の砲撃が迫る、タイ国境沿いのクラディー村の学生キャンプを後にして四日目のことだ。 国境のモエイ川から五・入ったタイ領の難民村で、四日前にクラディー村で出会ったばかりの全ビルマ学生民主戦線の 学生たちに偶然出くわした。着のみ着のままの学生たちの表情には長い塹壕生活のやつれが目立ち、生気がない。鍋代わりに使う 空き缶を下げてい驍ェ銃は見当たらない。

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情報提供を求めて、タイの街で撒かれていた”学生狩り”のビラ

「どこへ」と問うと、ザウ・ザウ隊長は口ごもった。政府軍の猛攻に退却を余儀なくされ、いったんタイ領に逃れたらしい。 学生たちはかなり頻繁に国境を出入りしているようだが、タイ領に入れば必ずしも安全というわけではない。「ビルマ軍情報部に 学生を連行すれば一人五千バーツ(日本円約二万五千円)出すらしい」といううわさを耳にしたが、それを裏書きするビラを入手した。

ザラ紙の表裏にはビルマ語と英語で「REWARD WILL BE GIVEN FOR BURMESE STUDENTS」(ビルマ学生に関する情報提供者に報酬)と赤インクで印刷され、文末の連絡先は在バンコク・ビルマ大使館とある。 タイ領に逃れて来る学生をビルマ政府の“学生狩り”が待っている。

タイのチャワリット国軍最高司令官代行とビルマのソウ・マウン国軍参謀総長の合意に基づき八八年一二月二十六日から始まった タイ潜伏学生の送還も回を重ね、すでに三百二十人が“帰順”している。

タイ領に身をひそめているのは学生だけではない。この難民村はタイ政府が数年前からカレン族の非戦闘員だけに開放しているのだが、 先のクラディー村の村民約五百人を含めこの三ヵ月だけでも千人以上が流入、現在五千七百七十九人に膨れ上がり、 谷間には粗末な手作りの小屋が軒を連ねている。

十三日にこの村に逃れてきたばかりのカレニー州の高校の英語教師(44) は「カレン族でない私たちがここにいることが タイ当局に知れれば逮捕される。くれぐれも名前は出さないで」と流暢な英語で断りながら「民主化を求める罪もない教え子を 次々と殺すソウ・マウンに対して私も銃を取る」と政府軍への怒りをぶちまける。

この教師も十九年前までは国軍兵士だったが、少数民族を弾圧するネ・ウィン政権に嫌気がさして退役、田舎で教壇に立っていた。 しかし、政府軍の残虐行為への怒りから再び一兵卒として銃を取る決意をしたのだという。

戦う前に朽ちる“戦士”も ── なお帰順に警戒崩さず

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猛暑の中、毛布にくるまり震える学生に点滴を施す獣医のポ・テ・ピン=仮名= カレン州チーボブ・キャンプで

タイ国境沿いのビルマの三つの学生キャンプは“野戦病院”を併設していた。“野戦病院”とは言うが、 戦闘で傷ついた学生たちではなく飢えと栄養失調、マラリアに苦しむ学生たちが収容され、どこのキャンプも満床、 病棟の増築が追いつかない。竹で編んだ一枚の壁の隣は小学校の教室、授業を受ける子供たちの隣に学生たちが横たわっていた。

十五日、チーボブ・キャンプの野戦病院では患者の間を走り回るラングーン医学校生のソー・ポー・ギア(22) =仮名=に会った。 したたる汗でカメラのファインダーがにじむほど暑いのに、学生たちはマラリアの四十度を超す高熱で震えていた。入院二十人と一日平均六十人の外来を、獣医のポ・テ・ピン(28) =仮名=と二人で診ている。

このキャンプには学生が八百余人。三つある病院(計六十床)はマアラア患者であふれているが、医学生五人、医師は二人しかいない。 「学生の僕たちでは手に負えません。日本の医師に来てもらえませんか」とポ・ギアは訴える。

ジャングルでのキャンプ生活は五ヵ月目に入っていた。米だけはカレン民族同盟(KNU)が分けてくれているが、 一日二食でおかずはない。おまけに日温差が激しい山岳地帯に身一つで逃げ込んで来たので、夜は寒くて眠っていられないらしい。 体力が弱っているところに、この正月、霜が降りてロンジー(ビルマ式腰巻)に開襟シャツ姿の二人の学生が凍え死んだという。 “学生戦士”たちは戦う前に倒れていく。

それでも学生たちは、政府の帰順呼びかけには警戒をくずさない。タイ領メソート市で会った全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)の シュー・ティー副議長(21) は、八八年十二月三十日付けのビルマの日刊紙(ワーキング・ピープルズ・デイリー・ニュース)の葬儀広告に注目するよう求めた。

「一月一日十三時からXX寺でマウン・チョウ・セイ(21) =仮名=の葬儀をとり行う。喪主連名」。チョウ・セイは ビルマ・タイ両国政府の学生送還計画の第一陣として同月二十六日、空路帰国した九十一人の一人。これは言論統制をかいくぐって 遺族が広告の形で出したメッセージだという。商人を装ってこの新聞を学生キャンプに届けたのは姉のティン・ティン・ウー(25) =仮名。彼女によると、チョウ・セイはラングーン空港に着くなり逮捕、投獄。拷問を受けた後、釈放されたが、 衰弱がひどく三十日死亡したという。

シュー・ティー副議長は「さらに奇妙なことがある」という。同十一月十八日、徒歩でラングーンへ帰って行った 約五十人の“帰順”第一陣は、反政府側二カ所のチェックポイントを通らぬまま行方不明になったという。徒歩で“帰順”した 約千八百人についても「無事着いた」という知らせがラングーンの反政府地下組織からも得られていない。

本当の戦いこれから ── カレン族と学生の共感

十六日、ビルマ・コムロー村の学生キャンプの軍事訓練を取材して驚いた。何とタコつぼで手榴弾の処理やおとり作戦を 指導しているのは白人兵ではないか。国籍を問う記者に彼は右腕を指差して見せる。そこには西独軍のマークがあった。

「この子たちを見殺しには出来ないじゃないか。はやる学生に銃を与えるだけではビルマの正規軍に向かって自殺させるようなもんだよ」。 彼は元西独軍准尉、ヘニング(36)と名乗った。友人の退役軍人と二人で毎年休暇をとって乗り込んでくる。ビルマ軍と銃火を交えたことも あるという。「独裁政権と孤立無援で四十年も戦い続けるカレン族への共感」が動機だと説明してくれた。が、こうした国際的な支援は 例外に属する。そのカレン族は学生たちをどう見ているのだろうか。

「学生にもいろいろある。われわれはもう四十年戦っているが、彼らはまだ四ヵ月にしかならない。ただ友達についてきたとか、 国境に来れば外国の援助が得られるのではないかという甘い考えの学生は脱落していく。残念だが仕方ないことだ。 これからが本当の戦いなんだが……」。カレン族の学生支援担当幹部、ジョージ・クレイトン(38) は冷静にこう分析している。「我々は少数民族ごとの独立ではなく、まず学生たちと一緒にこの国の民主化を望んでいる。 民主化の中で少数民族の主張もいかされるのではないか」とカレン軍のトゥーラ陸軍大佐(56) も学生への気遣いを見せる。

しかし、大佐は取材に応えた開口一番で「日本の商社が大量に買い付けるチーク材の利益がビルマ軍の戦費に回されている。 援助停止だけでなく経済制裁も必要だと伝えてほしい」と強調した。面会直前に発表されていたビルマ援助停止の日本政府発表を 一面トップで伝えたタイ紙の報道を踏まえての発言である。

カレン族の発言にはさすがに四十年もビルマ政府と戦い続けてきた自信からか余裕すら感じられるのだが、 追い詰められて国境に逃げてきた学生たちには動揺も不安もある。学生たちは年明け早々、就任直前のブッシュ米大統領あてに ABSDF(全ビルマ学生民主戦線)名の手書きの手紙を送った。ビルマ政府の残虐行為を訴えた後、「ビルマ軍にわれわれを殺させないで欲しい。今すぐ手を打ってください」と結んでいる。国際世論に救援を求める学生たちの悲鳴を 耳にする思いであった。

(文・写真/阿佐部伸一)

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