阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

ビルマ(ミャンマー)モンスーンの終わり2014年8月

19年ぶりの国内取材へ

テインセイン首相が2011年3月、大統領に就任したのを機に、民主化と経済開放が一気に進んだと伝えられるビルマ。だからか、今回19年ぶりに4回目のビルマ国内の取材ができた。 1988年8月の国民総蜂起の民主化デモを受け、1990年に総選挙が催された。「公正な選挙をした」というメッセージを国際社会へ送り出すため、実質鎖国していた軍事政権が外国人ジャーナリストを選挙取材のために入国させた。武力弾圧からタイ国境へ逃れて来たビルマ人たちの証言を、既に署名入りで報じていた記者は却下される可能性もあったが、在東京ビルマ大使館にビザを申請をした。ビザは発給され、ラングーンの全国民主連盟(NLD)本部前で各地から入ってくる開票の集計を見届け、「民主派が82%を得票、地滑り的大勝」と報じた。だが、軍事政権がその選挙結果を反故にしたのは周知の事実である。

アウンサンスーチーさんら民主派幹部を自宅に軟禁し、選出議員たちを投獄し、国会を一度も開かぬまま、さらに四半世紀もの間、この国は軍に支配されてきた。あの総選挙で民主派が過半数に達せず野党のままで、軍人たちが直ちに既得権益を手放さなくてもよかったならば、同じく東南アジアで一党独裁の社会主義国だったカンボジアよりも一足早く議会制民主主義がスタートしていたかも知れない。

その間、民主派活動家や学生たちは軍政の弾圧から逃れると同時に、国際社会との接点や支援を求めてタイ国境沿いのジャングルに立て籠もった。同時に、軍政の愚民化政策や経済的搾取、強制労働、兵士の蛮行などに嫌気がさした市民は難民と化し、やはりタイ国境沿いに数千、数万人規模のキャンプを形成し、7万人以上が第三国へ移住した。欧米諸国は軍政に経済制裁などで圧力をかけたが、アメリカの軍事介入には、また、カンボジアのように国連による暫定統治などにも至らなかった。活動家の多くは外国にいる方が祖国民主化に貢献できると亡命し、活動家でなくても、自らの人生を切り拓こうとする学生や市民は、軍人が特権階級に居座る社会から新天地を求めて国を後にした。外国人登録しているだけでも8千人以上いる在日ビルマ人たちは、そうした人たちの一部だ。

自由戦士トオンジョーとの出会い

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開票を見守る人たちで賑わう国民民主連盟(NLD)本部前=1990年、ラングーンで

トオンジョー、64歳もその一人。最初に会ったのは1989年1月初頭、彼がラングーンを脱出して3か月余りが経った頃だった。全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)の初代議長として1万人近い学生を団結させキャンプを設営していた彼に、記者はコトの顛末とキャンプの状況、今後の見通しを取材したのであった。彼はその後、情報を発信し、国際支援を求めるためタイに潜入したが、ビルマ国軍とタイ入管の双方から追い詰められ、1992年アメリカ合衆国へ亡命した。しかし、2012年9月、民主化・開国を世界へアピールする軍政のプロパガンダに乗る形ではあったが、彼は祖国へ招待され、老舗ホテルで記者会見も用意されていた。帰国すれば政治犯として逮捕・投獄される身だったが、23年ぶりに祖国の土を踏め、様子を見ながらでも国内で民主化活動を出来るようになったのである。

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国境を成すモエイ川をタイ領へ渡るトオンジョー(中央)=1989年、タイ・ターク県で

アメリカのニューヨーク州イタカ市に住んでいたトオンジョーは昨年末、半日で祖国へ行ける日本に居を移し、日本ミャンマー経済文化振興協会の理事長に納まった。国内に有力な伝を多く持っていることから、ビルマへ進出しようとする日本企業のコンサルティングを生業としている。

今回はトオンジョーとビルマ国内取材に行くことにした。というのは、どんな「民主化」で、言論の自由はあるのか、どのくらい人権は守られているのかと、彼と彼の周囲を観察していればそれらが如実に判るからだ。同じ行くならば『8888祈念日』に二人でラングーンに居られるよう日程を組んだ。1988年8月8日に行われたゼネストとデモは民主化運動の象徴とされている。

彼のボランティア人生の原点は、大学4年の時に初めて訪れたカンボジア難民キャンプだった。戦乱や弾圧から命からがら逃れてキャンプに辿り着いた人たちに先ず必要なものは、水や食糧、寝泊まりする場所、病気やケガの応急手当といった緊急援助。その段階では、特にスキルや経験がない学生にも手伝うことは山ほどあった。だが、難民たちのキャンプ生活はカンボジアの国連暫定統治まで十数年と長引いたのである。

しかし、ビルマは未だ査免国でもなければ、降り立った空港でビザ申請することも不可能で、ミャンマー大使館で事前のビザ申請が必須。記者は一般の人が提出する書類に加えて、勤務先のメディア企業からの休暇証明書と見聞きしたことを発表しないという誓約書を、ビザ申請を代行する旅行代理店に求められた。写真やビデオのデジタル化とインターネットの普及で、いよいよ”人の口に戸は立てられない”時代になっている。この記事を公表して以降、再びビザが下りるか否かが、また一つ「民主化」のバロメーターとなる。

ちなみに、難民パスポートでは自由に旅行できないとアメリカ国籍を取ったトオンジョーは在東京大使館ではビザ申請が受理されず、在バンコク大使館へ申請した。東京の事務所で打ち合わせをした数日後、バンコクのアイリッシュバーで合流した彼は、ビザがすんなり発給されるかと少し不安そうだった。8888祈念日で多くの活動家が入国しようとするので、毎年8月は審査が厳しくなるのだという。トオンジョーの後を継いでABSDFの議長を務めたモーティゾン氏にはビザが出なくなっているそうだ。彼も3年前にやはり政府に招待される形で帰国を果たしたが、トオンジョーに拠るとその際、演説で市民を扇動しようとしたそうで、別のビルマ人男性からは出迎えの動員をかけるためにカネを撒いたという話も聞いた。しかし、過去20年繰り返してきたタイ国境から陸路入国しての日帰り取材にまた甘んじなければならないのかという心配を他所に、彼にも記者にもビザは恙なく下りた。「政府に国を支配できているという自信があるのと、僕が言っているのは建設的意見であって、非難しているのではないから」と彼はその理由を想像する。

国会が一度も開かれなかった国会議員

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モンスーンの終わりの雨に煙るシュエッダゴンパゴダ=2014年8月、ラングーンで岸

久々に降り立ったラングーンは雨。時折止みはするが雨雲は低く垂れ込めたままで、突然バケツをひっくり返したような土砂降りになる。ビルが目立ち、少なくなった昔ながらのオープンエアの喫茶店で待ち合わせたのは、ディビッド・ラミンさん(54)。彼は26年前の8月、大学OBグループのまとめ役でデモに参加していた。後にNLDの党員となりノプド地区のオルグを担当、公認候補となって当選。しかし、「軍政は政権を委譲せず、私を含めて多くの議員を拘束するなど弾圧しました。国会を開くよう要求すると、拘束され拷問を受けました。1993年には軍政下のまま国民会議を招集しましたが、それは軍に都合の良い人を選んでの翼賛会のようなもので、我々NLDは国民会議を拒否したのです。軍は連行や尋問といった嫌がらせを2004年に止めましたが、未だに監視していて、電話の盗聴も続いています」。現在の肩書きは『1990年選出議員委員会代表』。国民に支持されながら、一度も議員活動ができなかった国会議員の一人だ。「軍人が軍服を脱いで、平服に着替えただけで、変化は感じられません。市民とはあまり関係ない2、3の局面で変化があっただけで、まだ軍が支配しています」。また、一番の問題は司法の独立がないことだという。「司法は政府に操作され、堕落しています。そして、今の政府はまだ半分軍事政府です。軍人たちが自分たちの地位や利益を守ろうとしているなか、司法の独立がないことには、この社会を改善しようとしても非常に難しいのです」

加えて、改憲の前に連邦制を認めなければ、国民のための憲法にはならないという。『連邦制』。この記事で国名を「ミャンマー」とせず、「ビルマ」としているのも、同じ理由からだ。ミャンマーと言えば国全体を指すことになり、ビルマと言えばビルマ族の土地になるのだが、軍政が1989年、あたかも少数民族と和解し、国を統一できたようなイメージを打ち出そうと、国会にもかけず、国民投票もせずにビルマからミャンマーと変更したからだ。ビルマにはカチンやラカイン、シャンといったそれぞれ州を持つ8つの部族と、それを形成する135の民族がいて、土地の利権をはじめ、言語や宗教を含めた文化でも中央との軋轢が未だ解消されておらず、一部では衝突も続いている。
以前ならば、匿名で、且つ走っている車の中などでしか口に出来なかった軍批判を連発するデイビッド・ラミン氏。他の客の目もある喫茶店で口角泡飛ばす彼の身を心配すると「私を含めて市民全員がこの安全でない体制下で暮らしています。どうして私だけが公言することを怯えないといけませんか?大した事ではありません」と。

あちこちで土地接収問題が

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「民主的な方法で土地を返してもらう」とテントで座り込むアウンチョーソーさんら=ラングーンの最高裁前で

遷都先のネピドーへ向かうハイウェーは冠水し、沿道の村は孤立したり、避難したりしていた。田を取り上げられた農家に会うため、ワネコーン村へ向かう。「1995、6年頃に農業の近代化をすると言ってきて、それに使う機械代を払えないならば農地を手放せと言われたんです」とトゥンチーさん(67)。それから20年が経ったが結局、圃場整備は国道沿いの見える所だけで、他は耕作もされず放置されている。トゥンチーさんは勝手に耕作していたのではなく、かつては政府が彼の田を農地番号「1026」と認めていた。

「我々の土地を返せ」、「我々の土地は我々の命。保証金は解決にはならない!」。こんなプラカードを掲げ、公園のフェンスの沿いに張られた30メートルほどのテントには、老若男女約3百人が入れ替わり立ち替わり寝起きしている。ディンガンジョン区ミジョンガンの人たちが、やはり軍に接収された土地を返してもらおうとラングーンに陳情に出て来て、最高裁判所前で座り込みを続けていた。リーダーのアウンチューソーさん(47)は親の代からミジョンガンに暮らす農民。ビルマ伝統のつば広帽に、赤い腕章を着け「民主化したというので、民主的な方法で土地を返してと訴えているんです」と。1991年、立ち退きを断れば投獄すると脅され、拒否すると逮捕され、承諾のサインするまで刑務所に収監されたという。子供を人質に取られた形となり、2週間でサインすると、村を破壊された。与えられた代替地は、マラリア蚊が飛び回っている辺ぴな所だったので、すぐに戻って来た。これまでに3回ここで座り込み、7回陳情書を提出している。プラカード群の中央には「座り込み138日目」という看板も。「我々の要求が通るまで、座り込みを続けるつもりです」。だが、今年5月31日午前3時頃、突然警察と公安が追い出しに来て、テントを壊された。寝泊まりしていたお年寄りと女性に、腕の骨を折ったりする重傷者が数人出た。7月1日には彼らの代表、センタン氏が事件の顛末を文書にして、国連事務所へ届けようとすると、その途上で軍か警察の工作部員に殴られ、今は刑務所にいるという。だが、こうした武力排除に遇いながらも、座り込みが続けられていて、外国人ジャーナリストの取材を止めに入る当局員もいなかったのは、ある程度「民主化」されたと解釈して良いのだろうか。

改憲なくしては…

ミャンマーの国会に相当する連邦議会は、下院にあたる国民代表院440議席と上院にあたる民族代表院224議席によって構成されている。しかし、憲法の規定で両院とも4分の1の議席は国軍司令官が指命することになっている。ビルマ初の総選挙から20年ぶり、2010年11月に行われた総選挙には37政党が参加し、投票率は約77%だった。だが、NLDはベースにある『2008年憲法』が非民主的であり、選挙法がアウンサンスーチー議長を排除するものだと、この総選挙をボイコットした。

2008年憲法は90年に選出された国会議員は憲法草案に全く関与できず、軍人たちだけで書かれたもの。ちなみに、前回の1990年総選挙時から残っている政党はわずか4党に過ぎず、2010年に約79%の議席を占めて第一党となったのは、軍政が総選挙のために設立した連邦団結発展党(USDP)だった。

NLDの公約は、1に「国内の和平」、2に「遵法」、3に「民主主義に則った改憲」。NLDも参加した「民主化」後の2012年4月に行われた補欠選挙では、MLDが45議席中43を獲得するという圧勝だった。アウンサンスーチー氏も立候補でき、当選している。1990年総選挙は公正でなく、選挙の体を成してなかったと欧米諸国は経済制裁を課した。しかし、「民主化」に期待する市民が生活に希望を持てるようにしなければ、政権維持が難しいと考え、補欠選挙を民主的にしたと見られる。当選者を何人でも出せそうな勢いのNLDだったが、改選議席という枠があった。

隔靴掻痒の民主派議員

2012年の補選で当選したNLD候補の一人、ピョーミンティンさん(45)は、ラングーンから北へ約50キロのレグー選出。「現在の憲法では改憲には76%以上の賛成が必要となっているのです。全ての民選議員が一人残らず結束しても、75%にしかなりません。つまり、軍からの議員が最低でも一人改憲勢力に加わらなければ実現しないのです」。軍人の中にも改憲に賛成の人は一人くらいいるだろうと訊ねると、与党内にはいないと。しかし、「アウンサンスーチー議長に対する国民の人気は軍も無視できないし、あやかりたいわけです。自分たちが権力を失いたくはないので、完全には無視せず、部分的に民主化政策を取り入れているということです。それでも、大統領はビルマ国籍でなければならない、且つ、彼は、または彼女は外国との二重国籍を持たず、外国人の家族も持たないという条項があります。これは個人の自由を侵害しているし、次世代の結婚や子作りをも制限しています。アウンサンスーチー議長が首長になることを止める不公正な条項だと思っています」

ピョーミンティン議員は88年当時、モータタウン大学の2年生だった。『ジューンストライキ』に学生として参加、両親は公務員だったが、タリアンの工場でオルグしたそうだ。比較的裕福な家庭で育って大学へ行けても、今も市民感覚は失わず弱者の側に立っている。市民が直面する喫緊な問題は、中央と地方の両政府による土地の接収問題だという。「我々は返還を求め、政府は10万エーカーを返還すると約束したのに、逆に接収を未だ続けています。国会ではティントゥ議員を委員長に土地接収問題調査委員会を設け、委員は実際に紛争現場へ行き、調査し、政府に報告書を提出し、土地を返すよう政府に勧告しても、政府は(軍に対して)何もできない状態なのです」。土地接収問題は現在、全国各地にあり、そのうち約1200件が調停中。彼の選挙区でも第11連隊が接収した土地を軍用地とし、それを農民に貸していて、農民は自分の土地に賃料を払わねばならなくなっている。「軍は農民の生き血を吸っているようなものです」という彼の言葉に、国が強引に土地に課税し、加えて、その税収の使途が不透明という印象を受ける。

「明日が立ち退き期日」

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村人から村の成り立ちを聞き取るハンシンミン弁護士(右から二人目)=ジーゴン村で

軍政時代だけでなく、「民主化」されて以降の土地接収にも出くわした。「日増しに恐くなって来ました。だって、軍は何をするか分からないでしょ。88年には市民を撃ち殺したのを見てますから」。シェービーター区ジーゴン村(25戸)でリーダー役を務めるタンタンミンさん(60)=アパート経営は不安を訴える。この村の各戸へ今年8月5日付けで2週間以内に立ち退けという文書が突然郵送されて来たという。補償金を払うとも、代替地を用意しているとも書かれていない。「ここは私たちの土地です。たとえ補償金を出すと言われても、引っ越したくないし、ここで平和に暮らしたいんです」。取材に訪れた日、立ち退き期日は翌日に迫っていた。ハンシンミン弁護士(59)は「全くの非合法行為で、あり得ない話だ」と憤る。早々に諦めたのか「売家 09-2×××―×××××」という看板を出している家もある。この村は日本軍が駐留していた頃、彼女たちの三世代前が開墾して以来、住民が家を建て、舗装道路を造り、電気や電話を引いてきた。ちなみに、その村造りに対して政府は何も文句を言って来なかった。だが、「軍がこの辺りにやって来たのは1970年。私たちの方が先に住んでいたんです。そこのお爺さんはこの村で生まれて、いま76歳。生き証人ですよ」。20年ほど前までは土地を登記するという慣習も意識もなかったので、法的な地権者は存在しなかった。軍はその辺りに付け込んでいるように見える。すぐ隣りの土地はすでに軍に接収され、11戸の住民は追い出され、家は壊され、周囲に巡らせた堀の内側でブロック工場が操業している。1989年からは銃を持って高圧的な態度で兵士が村に来るので、誰も軍の横暴を訴えられなかったが、「味方になってくれる弁護士も来てくれ、少しは良くなったのかと思っています」。

弁護士は聞き取り調査をして、村の歴史や土地の境界線を確認している。だが、「他の国では当然、法に照らして裁判所の判断となるところですが、ビルマは非常に例外的な国なのです。なぜなら、『2008年憲法』は、とにかく軍を絶対的存在としていて、法に基づいた調停ではなく、武力で一方的に決まってしまうのです。まだ民主国家ではありませんが、国民は市民権を持ちたく思って、一歩一歩前進しています。そうした運動が力になって行くに違いありません」。民主主義の三権分立以前に、まだ軍が超越した存在、つまり軍国主義というイメージが払拭できない。「法を無視する軍をメディアを通じて国際社会に訴えたいと思っています。証言を正義に照らすことが我々の戦略だからです」と、国内では限界を感じている彼は外圧に期待している。「裁判所や法曹界自体がまだ独立していません。少数民族との和平協定も軍の手の中で決められています。それでも、私はその違法行為の裏や上に誰がいるのかを見定め、その人と直接交渉するという手段で、これまでに4,5件は土地を返させてきています」。

ビルマの首都は国家平和発展評議会によって2006年3月ネピドーへ移され、ラングーンの一等地にあった軍本部は空き家となっている。以前はアメリカが支援する耳鼻咽喉科と眼科の専門病院だった建物にも『マックス・ミャンマー・ホールディングス』という看板が建てられ、もはや病院ではなくなっている。トオンジョーは「軍が本部に近いからと接収したのですが、本部が移転した後、この土地を外国へ移住したミャンマー人に与えたんです。市民は公共性が全くなくなってしまったと、大変残念がっています」と。そんな話を聞いていると、この建物の守衛数人に取り囲まれた。敷地には立ち入らず、公道上にいたのだが…。「まだそんな時代なのか」と思ったが、トオンジョーがビルマ語で何ら違法性はないことを説明すると、守衛たちは納得がいかない様子だったが、カメラやメモ帳を没収されることはなかった。

「民主化」は開放政策と対なので、近年の土地接収は外国からの投資と地価の値上がりが背景にあろう。ピョーミンティン議員はこんな注文を付けた。「私は外国からの投資を歓迎します。それなしに我が国の開発は不可能だからです。ただ、日本を含め外国企業は環境や社会に与える影響を真剣に考慮して欲しいのです。開発に伴って立ち退きが必要な場合、ビルマは未だ法が整備されておらず、遵法精神も浸透していないので、補償もないままに立ち退かされる人々が出ています。政府と外国企業は蜜月にあっても、市民には残酷な仕打ちをすることになりかねず、ビルマに来る企業の責任は重大です」。

日本ミャンマー経済文化振興協会の理事長でもあるトオンジョーも、日本企業のビルマ進出を支援する際、企業が環境と社会への影響に配慮することを条件にしている。

現代の若者たちはノンポリ

スープにココナツミルクを使ったビルマ伝統の麺『シェウダウンカウスイ』の有名店『ロイヤルローズ』は早朝から賑わっている。ウェイトレスのユットイェーピョーさん(19)は月28日働いて、月給30ドル。実家住まいなので何とかやって行けているが、資格を取ってプロフェッショナルな職に就きたいと微笑む。

そうして彼女が働いている日も、ラングーン市内のインヤー湖の堤には10メートル間隔くらいで何組もの若いカップルが抱擁しあっている。政治運動はもちろん、男女交際も政府が規制していたトオンジョーの青春時代には考えられなかった光景だ。カップルは雨も降っていないし、炎天下でもないのに雨傘で顔を隠している。しかし、公衆の面前ではキスなどしないという因習も近々過去のものになりそうだ。散歩するトオンジョーは「これほど自由になったのに、今の若者たちはノンポリばかり。この堤で多くの若者が亡くなった歴史も知らないのだろう」と嘆く。ここは1988年6月、ラングーン大学の学生が他大学の学生と合流しようと行進していると警察に止められ、強打されたり、湖に突き落とされたりした因縁の場所なのだ。全国に流布したこの事件のニュースが同年8月の国民総蜂起の発端になったとされている。湖から流れ出す小川に架かっていた白い橋も、後年学生たちが建立した祈念碑も軍政府によって撤去されたが、今でもこの場所は市民の間で『(血塗りの)赤い橋』呼ばれているという。「民主化」後、ここで催された祈念式典でテインセイン大統領は「力が正義のジャングル法ではなく、文明的な市民法を」と演説し、トオンジョーもそれには一定の評価をしている。

大学キャンパスでは

伝統衣装のロンジー姿ではあったが、その柄やブラウスなどで華やかにお洒落した5人連れの女子大生と講堂前で出会った。ビルマでもスマートホンが普及し盛んに写真を撮り合っている。商学や英語を専攻していると言うが、卒業後は家業を手伝うとか未定と、企業の求人は未だ少ないようだ。「民主化」で外資が国内で様々な事業を興し、マレーシアやタイなど外国へ出稼ぎに行かなくても良い時代が、一気に来るかも知れない。

日本でも安保闘争は学生が中心だった。ビルマでも振り返れば、常に学生が変革のイニシャティブを取って来た。軍政時代、そして今も権力は学生が団結することを恐れているようで、その現れの一つとして、大学寮の荒廃や縮小・移転が学生たちの間で問題になっている。ラングーン大学の寮は1970年頃、ゴム園だった土地にネゥイン将軍がソ連とアメリカに援助を依頼し建設されたとのこと。

同大学学生連盟の前副会長、シタンマウンさん(26)はちょうど88年生まれ。「当時、ほとんどの学生がデモに参加したと聞いています。ここには歴史的な自治会の建物があったのですが…」。学生が殺された自治会館は跡形もなく取り壊され、雑草が生い茂る空き地を指差す。学生の銅像は撤去され、台座だけがポツンと残る。彼は「あの事件を知る在学生は少ないんです。自治会館の再建は、我々の次世代に対する義務だと思っています」と。

問題の学生寮を訪ねる。「どこへ行く?」、「何をしに行く?」と門番が執拗に聞いてきたが、現役の学生やOBと一緒だったので、何とか入ることができた。寮は一様に古びていて、ドアや窓、調理場やシャワーの水回り、それに照明や天井の扇風機、あちこちが長年壊れたまま放置されている。渡り廊下などは屋根が落ちたままで廃墟の体だ。不気味なまでに人気がない寮に、辛うじて干されている洗濯物で入居者がいることを確認した。シタンマウンさんは「学生寮は学生が集う所で、何かあれば学生は集会を開いて、意見を述べ合い、旗を振ったり、街をデモ行進したりします。全ての学生運動は寮から始まりました。だから、軍は寮を廃止したり、閉ざしたりしているのだと思います」。外国語大学の学生連盟副会長ニェインチャンメイさん(19)は「軍や公安の視線で私たちを見れば、自分たちの支配を維持するために、学生運動を押さえたいはずです。そのために2、3の寮しか残さず、しかも古くなっても修理はせず、学生を劣悪な環境に押し込めています。さらには、学生を管理しやすいように出入り口を1箇所にし、周囲には柵を設けました。門限も午後6時と国際的に見てもオカシナ規則を作り、学生たちの自由を制限し、運動し難いようにしているのです」。彼女の大学の組織率は、全学生約800人中150人ほどというから、2割弱。学生の間には将校の子どもなど裕福な家庭の子どもが多いからだという。

偶然なら奇妙な出来事

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奇しくも取材期間中に契約が成立したのか、この直後撤去された軍本部跡の広告=ラングーンで8月6日写す

広大な軍本部跡地のロータリーに面した角には、住宅デベロッパーを誘致しようと巨大な広告塔に「ダゴンシティ ヤンゴンでの豪華な暮らし 電話95-9-4×××―5×××× www.DAGOMCITY.COM」と英語で書かれていた。「民主化」に伴って、外国資本は我先に東南アジア最後の処女地へと、シェア争いにシノギを削っている。トオンジョーは「軍人は国有地を公開入札せず、秘密裏に売っています。透明性も自由競争もなく、腐敗の極みですよ」と憤る。実は、今回のわずか7日間の取材中、ロータリーにそびえていたその看板が突然剥がされて空白になったのである。

また、トオンジョーがぜひ大学の寮を取材してくれと言ったのは、彼が前回訪れた時はゴミや廃材が散らばっていて、その寮はもっと廃墟然としていたからだ。彼が撮っていたビデオと比較すると、我々が今回訪ねた寮は建物こそ古びて補修されていなかったが、ゴミや廃材はきれいに片付けられ、掃除だけは行き届いていた。広告塔の一件といえ、トオンジョーが日本人ジャーナリストと取材して回るという予定を察知した当局が対処したのではないかと勘ぐりたくなるほどのタイミングだ。釈然としないまま、取材を続ける。

言論の自由は気

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近作を手に初めてインタビューに応じたアーユさん=ラングーンの『ヒッタン』編集部で

しかし、こうも理不尽なことが起こっていたなら、ジャーナリストの奮闘が期待されるところだ。ラングーンの住宅街にある雑誌『ヒッタン(=モノ言う所)』編集部を訪ねた。半年前に創刊した発行部数約4千の週刊誌。パソコンが並ぶ編集室ではネウィン氏が他界した後に生まれた若い女性タイピストがネウィン将軍の生い立ちに関する記事を入力していた。レイアウト担当の青年は『ヒッタン』を「未だ歴史の浅い週刊誌だけど、政治に関する記事の評価は高いと思います」と。

出版報道条例第62条は、出版社は50レック(500万チャット=約55万円)を預託金として払わなければならないとしている。もし当局が出版物を気に入らなければ、預託金を罰金として没収するという条例で言論を制限している。その対象となるのは、以前同様に国家統一の足を引っ張ったり、行政を批判する内容だという。以前は検閲して墨を塗ったり、発禁処分にする露骨な方法だったが、今はカネで締め付けているようだ。

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アウンナインさんが用意した記者会見場で、泣き寝入りはせず被害を訴えるミンウィンサンさん=エラー村で

「彼とは刑務所で出会って、同じ房で話し合った兄弟のような同志なんだ」とトオンジョーが紹介するのは、筆名『アーユ』で知られる風刺漫画家のアウンナインさん(65)。「1975年から5年、2回目は99年からは2年、『泣いているミャンマー』という記事を書いたため投獄されました。でも、書くのが私の責務なので、その代償がどうあれ書き続けます。ビルマには真の出版の自由が未だないからこそ我々は闘わなければならないのです」。服役中は刑務所内の靴工場で働かされたり、畑仕事をさせられたという。最近描いた漫画は、票を入れた市民が玄関先で訪ねて来た議員に『お引き取り願えますか?』と言っている。公約を実行しないからだ。アーユさんは出所後も怯まず書き続ける一方で、不条理に苦しむ人に記者会見の場を設けている。この日は郊外のエラー村で、タナカ(伝統的日焼け止め)と毛布の行商人、ミンウィンサンさん(46)の会見を開いた。20社くらい集まることを期待していたが、臨んだのは6社。彼がある村へ行商に行くと、その村の有力者の息子にナイフで斬りつけられ、瀕死の重傷を負った。警察に届けたが、犯人の父親は警察幹部を抱き込んで、少額の示談金で事件をうやむやにされたという。隣りに座る妻、ミンチーさん(50)は悔し涙を拭い続けている。憲法を問題とする意見を多く聞くが、刑法も機能していないようだ。ちなみに、アーユさんが外国人ジャーナリストと接触し、インタビューを受けるのも今回が初めてだという。「ジャーナリストとしてすべきことはしなくては。もし逮捕するなら、逮捕しろと思っています」

編集部にいたトゥンゾウタイさん(58)は「人々は勇気づけられることを、いま起こっていることへの説明を求めています。それに応えられると思って」と86年、教師からジャーナリストに転身した。88年に学生と一緒にデモに参加したところ、学生を扇動したとして逮捕状が出され、暫く隠れていたが1992年に逮捕され10年の刑で投獄され、結局10年と6か月インセインとミェンジェン、マンダレー刑務所に入れられていた。インセイン刑務所が政治犯で満員になったこともあるが、家族が簡単に面会に行けず、士気が萎えるよう遠方へ送られたと彼は見ている。民主化後、多くの新聞雑誌が創刊されたにも関わらず、ほとんどは管制下にあり、独立編集しているのはごく一部だ。「私は政府の腐敗や不正を暴くメディアを加勢したいと思っているのです。それがジャーナリズムの本質ですから」。だが、政府は自分たちの支配下にあるメディアにしか情報を出さないので、独立したメディアやジャーナリストにとって取材は難しい。「調査報道はビルマでは非常に厳しい状況にあります。出版報道条例違反だと逮捕投獄され、重労働を強いられますから」

寄稿できているトオンジョー

トオンジョーはアメリカにいる時から、いま住んでいる東京からもビルマで発刊されている複数の週刊誌へ寄稿している。この取材直前には1988年から92年の全ビルマ学生民主戦線の活動を、自分史を交えながら振り返る記事が『ヤンゴンタイムズ』に掲載された。在バンコクミャンマー大使館前でデモする本人の写真付きで、読み物ページの上半分と大きな扱いだ。回顧ものばかりではなく、むしろ今ビルマで起こっていることに焦点を合わせたものが多い。労働環境をはじめ、経済開発による土地接収や森林、地下資源、公害の問題などと多義に亘っている。背景から解説する記事は、時には中国などの状況と比較もする。「開発で病気になってしまっては本末転倒。私は健康が第一だと思っているので、環境保全や公衆衛生にも力を入れています。以前の軍事政権は批判しますが、現政権には改善すべき方向を示したり、建設的な意見をしているだけです。官僚も読んでいると思います」。マンダレーへの高速道路での事故多発に関してトオンジョーが書くと、政府は車線を増やしたり、居眠り防止の凸凹舗装を取り入れた。これまでも多くの記事を書いてはいたが、個人のフェースブックに載せるくらいで、ビルマ国内で報じることは出来なかった。しかし、いまチャンスが訪れ、過去に書いた記事を含め、『ヤンゴンタイムス』や『チャンセラー』、『ヒッタン』、『フォートニュース』など多くの新聞雑誌に寄稿している。「こういうことが出来るようになったのは、進歩と認めざるを得ないね」と、彼もある程度は「民主化」を感じている。

トオンジョーが寄稿する週刊誌の一つ、『チャンセラー』は公証7千部、全国で読まれている。いつかは軌道に乗るだろうと自己資金を投入している編集長、ニョトゥンさん(50)は「トオンジョーの記事は人気があります、歯に衣を着せない政治論評がですね。彼の記事を掲載しても、当局の妨害はないですよ。テインセイン政権になって1年後くらいからですね、節度を守っていたら、今は報道の自由がありますよ」。ニョトゥンさんは元政治犯連盟の会長でもあり、政治犯の支援を続けている。「まだ多くのジャーナリストが長期刑を受けて収監されていて、自由は制限付きです」。懲役20年で入れられているジャーナリストは化学兵器工場のことを、もう一人は軍政に対して人民政府樹立の準備が進んでいると報じ、社会を混乱させるという理由で逮捕され、ニョトゥンさんは合法的に処遇するよう弁護士と一緒に訴えている。「化学兵器工場は軍事機密だったから、市民による別の政府などは最も警戒されていることですから、政府が早い段階で潰しにかかったと見ています。トオンジョーの場合は、誰もが真実だと思うことしか書きませんし、非難ではなく、改善すべき点を冷静に挙げているので、こうやって掲載を続けられ、入国ビザも下りたのだと思っています」

そんな中、労組も

ミャンマー労働組合連盟には、鈴タクの運転手や荷役作業員、ペンキ屋、露天商も含め、工員らブルーカラーとホワイトカラーの両方が所属している。アウンリン書記長(52)は「ブルーカラーは安全でない環境で肉体労働をしていて、死傷しても何の補償もありません。ホワイトカラーは頭脳労働に就いているのですが、適正な賃金が払われていません」と。連盟は約150の労組から成り、組合員は約2万人。だが、「組織率は雇用主による弾圧で離脱する者も多く、安定していないのが実状です」。組織率を繰り返し聞いても、数字は出て来なかった。代わりに、その理由として政府でさえ、労働者数を把握しておらず、統計がないことを挙げた。

「我々、労働者が直面している最大の問題は、労組が公認されておらず、無視されていることです」。対策としては、先ず労働者の意識を高め、自分たちにどういう権利があり、それを行使するためにはどういう戦略を立て、どう実行しなければならないのかといった基本的なことを教育する必要がある。これまで全くそういう機会や場面はなかったので、組合活動をするにも一からというわけだ。「私を含めて、オルグが全国を回って、そういう教育をしていますが、労働者は生活していける賃金を得ることが第一の課題ですし、なかなか困難なことが山積です。先ず雇用主は組合を作るのを止めさせようとしますし、作れば圧力をかけて来ます。経営者はリーダーを解雇し、工場から追い出します。団結して連盟でデモやストライキをして、政府に圧力をかけるほかありません」。「民主化」といいながら、武力で労働運動を抑え込むようなことがないことを祈るが、労働争議のデモすると警察に規制されているという。「先ず労働者の権利を勝ち取って雇用主と闘い、労働法を改正する時には政府と闘うことになります。本来、労組は雇用者と労働者の間に立って、労働環境を良くして、経営にも寄与するものですが、リーダーたちはそういう知識がなく、ただ雇用主と闘うばかりで、未だ未だというのが実状です」

虐殺現場に立って

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26年前、軍に銃殺された市民の追悼記事が載る新聞を手に自ら目撃した現場に佇むトオンジョー=ラングーン市内で

2014年8月8日。トオンジョーは26年前のこの日に立っていた場所を訪れた。「ここに兵隊たちが二列に並んで、有刺鉄線のバリケードが置かれ、そこに白線が引かれていました」。非武装、非暴力でデモ行進していた子どもも混じる市民に兵士が発砲した現場である。彼がいた木造のカフェは5階建てのビルに建て変わり、周囲も高級住宅が建ち並び、デモ隊が埋め尽くした広い道路には中央分離帯ができ、車は渋滞するほど増えた。ビルのシャッターの隙間に巣を作るスズメがクラクションに負けじと鳴いている。このスズメはあの時もいたスズメの十数代目の子孫かも知れない。司令官は押し寄せるデモ隊に「白線を越えるな」とメガホンで叫んだ。「群衆の中に子どもや女性も多くいるのを見て、兵士たちも微笑んでいたので、よもや発砲するとは思わなかったのです」。しかし、司令官の「撃て!」という号令で、兵士たちは無抵抗の市民に向けて発砲したのであった。「足がちぎれる者、胸を撃たれて血を吹き出す者、『なぜ撃つんだ!』と驚きの目で兵士を見上げた次ぎの瞬間、ガクッと絶命する若者。地獄絵のようでした」。アメリカ大使館の車が現場に来て、下りてきたアメリカ人が惨状を写真に撮ったが、司令官はカメラを没収するでもなく、兵士たちが死体を大急ぎで片付けるだけだったという。怒り心頭に発していたトオンジョーに「あなたも殺される」と沿道の住民が声をかけ、庭を通して裏道へ誘導、彼は無事だった。

軍はこの時、ラングーンだけで約3千人のデモ参加者を殺したという。「民主化を求める人たちと一緒に反撃を決意したのですが、武力を行使する軍に素手では敵いません。全国民に支持されながら、負けてしまいました、銃を持っていなかったがために。我々は武器を手に入れ、反撃したかったので、9月18日の軍事クーデターの2日後、国境を目指したんです」。こうしてトオンジョーはタイ国境沿いのジャングルに籠もって、国軍と戦うことになったのである。

8888祈念集会

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ビルマ民主化運動のシンボル「8888」の前で我が子の記念写真を撮る88世代=ティンガンキュン修道院で

会場のティンガンキュン修道院の境内には『8888』を象った大きな真っ赤なモニュメントが置かれ、その前で盛んに記念写真を撮る参加者たち。中には子供や孫と一緒に納まる人も。88世代が同窓会を堂々と開くことが出来ている。政治犯として8年投獄されたABSFU元副議長のコーコージーさん(53)は、「今日は26回目の民主化運動の記念日です。なぜ我々は刑務所にいなくてはならなかったのかと、毎年我々は勝ち取った自由を祝福しています。行進したり、叫んだり、デモすることは表現の形の違いでしかありません。また違った形として、今日ここに色々な活動家や少数民族、政党、仏教僧などの団体が集い、統一声明を出しています。これも一種のデモンストレーションです」と。NLDの重鎮ティンウ副議長(86)や全ビルマ学生自治会連盟のミンコーナイン元議長(51)らが基調講演をし、アトラクションには若者のバンド演奏などもある。トオンジョーは「まだ多くの人が率直にモノを言う勇気を持ち続け、励まし合っているので、彼らの精神は強靱だということです。しかし、この流れでデモはしたくないのだと思います。政府を狼狽させたくないし、今の安定と組織内外の良い関係を維持したいからでしょう。加えて、我々はいくつかの局面で自由を勝ち取って来ているので、ある程度満足しているのだと思います」

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警察や軍に止められることもなく、シュプレヒコールを上げながら行進したデモ隊=ラングーン市内で

だた、女性活動家ナウオンラさん(52)は山猫デモを計画していた。「私たちのグループは違うアピールのし方で、3時半にタムウェイからスーレパゴダまでデモ行進します。誰でも参加できますし、やる気がある人は歓迎です」。トオンジョーはビザが発給されなくなることを案じて、デモには参加しないという。昔ながらのシュプレヒコールは「デモクラシーヤシエ!ヤシエ!(=民主主義を手に入れるのは我々の道!我々の道!)」、「いかなる独裁にも、反対!反対!」、「偽りの民主主義は、要らない!要らない!」と。手に手に赤いバラの花束を持つ50人くらいのデモ隊には、かつて学生だった中高年に二十歳前後の現役学生も混じる。久しぶりのデモに、通りに面するアパートの住民たちがバルコニーに出て来て、驚いたような表情で見守る。少なくとも白いセダンに乗った4人の公安が併走していたが、途中で止められることもなく、デモは無事スーレパゴダにゴール。解散の前に、26年前に倒れた学生たちを追悼し、血で染まった市庁舎前の路上にバラを供えた。

「民主化」後もデモは事前の届け出が必要だが、彼女は敢えて無届けでデモを敢行した。区役所から後日2万チャット(約2300円)の罰金が彼女に請求された。もし、納めなければ、3か月の懲役となる。何はともあれ、こうしたデモが出来るようになったこと自体、以前と比較すれば、大きな進歩だと言わざるを得ない。

国に残った幼なじみは

新鮮な食材が所狭しと市場のように盛られるレストランで、トオンジョーは旧友たちとランチを囲んだ。味や値段もさることながら、自由に食材を選んで調理法を指定できるスタイルが人気のようで、ほぼ満席だ。石材店自営のティンキャインさん(59)は「国を出て行ったトオンジョーは我々よりずっと自由があっただろうが、彼がいなくなって寂しかったし、何よりリーダーがいなくなってしまいました。私は監視されていたので、親戚が住んでいた農村に身を隠し、川で魚を採ったりしてました。2、3か月すると、ラングーンの監視が緩んだと聞いたので、戻って来たのです」と。元税務署員のタントゥンアウンさん(68)は「彼は去りたくてビルマを去ったのではなく、この国を自由にするためだったと思います。だから、彼を応援してましたが、ジャングルで死んでしまったりしないかと大変心配していました。彼は外国へ亡命。私はと言えば、とにかく働かなければなりませんでした。運転手をやったり、畑で野菜を作ったりして食いつなぎました。というのは、公安がいつも監視していて、職探しをしていたり、安定した仕事に就いていると、邪魔するんです。一つ忘れられないのが、トオンジョーの親父さんが亡くなった時、新聞社は訃報を敢えて出さなかったんです。葬式を手伝っていると、弔問客を公安が止めたんです。職質を受けた友達は『きょうは葬儀だ!』と怒ってその公安を殴りましたよ。彼がABSDFを辞めて、アメリカに亡命した時には、ある意味安心しました。安全で自由な所へ行けたわけですから」

軍人が経済を牛耳り、国内では長年ビジネスのチャンスがなかった。トオンジョーの幼なじみで、大学では地学部と学部も同じだったテインゾウルインさん(64)さんは結局、国に留ることを選んだ。「1974年、ちょうど大学卒業の年でした。我々が尊敬していたタント元国連事務総長の葬儀が不自然なまでに簡素だったんです。トオンジョーとどう弔意を示そうかと話し合い、学生を集めて国家行事に使われているチャカサン式典場へ哀悼行進をすると、一般市民も集まって来て式典場を埋め尽くしたんです。結果はどうあれ、とにかくバスの屋根に登って市民に向かってタント氏の追悼演説をしたんです」

テインゾウルインさんはその後、宝石商としてタイやカンボジアへ。国境の町、アランヤプラテートに事務所を構え、クメールルージュが立て籠もって政府軍と戦闘を続けていたパイリンへも宝石の買い付けに行っていたという。「今は政府も市民も民主国家への変革の真っ直中にいます。我々は半世紀の間、開発への参加を許されず、したくても開発できなかったんです。現在は一変し、政府と市民は良い関係にあるので、この取材も受けた次第です。一市民として国を愛していますし、若い頃の夢も捨てていません。彼はアメリカ国籍を取っても、ルーツはビルマ、間違いなくこの国を愛していますよ、彼なりの形でね」。テインゾウルインさんはアメリカ留学から戻った息子とラングーンのビルの一室で『ゲオ土地投資有限会社』を営んでいる。この頃の愉しみは、高級ウイスキーを舐めながら懐メロをカラオケで歌うことだという。

「ラングーンで再会しよう!」は実現したが

“See you in Rangoon!”と口癖のように言っていたトオンジョーとラングーンにいる。「うん、ティンガンキュン修道院ラングーンで会えて、嬉しく思います。しかし、それほど嬉しくありません。なぜなら、未だ統制下だから、半民政で完全な民政移管ではないからです」。ネウィン将軍が62年、軍事クーデターで軍政を敷いて以来、人々は暴力をふるわれるのではないかと怯え、何も公言できずに暮らしてきた。徐々にだが、人々の士気が高まり、市民団体などを組織し、公言することを恐れなくなり、希望を感じているようだ。だが、自由はまだ制限付きだ。「民選された政府だと宣言していますが、同じ事は1962年にもありました。ネウィン将軍は文民大統領になりましたが、同じ人間が服を変えただけでした。今回は2回目。将校たちは軍服から平服に着替えただけで、支配力を維持しています。歴史は繰り返されるとも言われます」

傍若無人な軍に辟易している国民が多いのは、先の補欠選挙で、殆ど政府関係者しか住んでいない新首都ネピドーでも全議席をNLDが獲得したという現実が立証している。「2015年の総選挙で本当に民主主義国となるのかどうなるかは、人々がどれだけ自由を渇望しているかによると思います」。自由戦士トオンジョーは今回の検証取材をこう結んだ。その総選挙では、憲法改正がなくても、民主派が絶対過半数を取るのが目に見えている。だからか、14年年末に近づくに連れ、在バンコク大使館が軍直轄になったり、再びトオンジョーら民主派活動家へのビザが下りなくなったという情報が、在ノルウェービルマ人から入って来ている。日本は冬、ビルマではモンスーンの季節は終わったが、また大雨が降るのだろうか。

(文・写真/阿佐部伸一)

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