阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

カンボジアポト派攻勢の前後を行く1993年1月

最大の砲撃戦

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クメールルージュの奇襲を受けたUNTACマレーシア軍駐屯地

今カンボジアは、米の収穫期。この季節は「涼期」と呼ばれるだけあって、朝晩の冷たい風が肌に心地よい。見渡す限りの黄金色の海で、一列になって稲穂刈る家族。だが、カンボジア西部のバッタンバン県ボベル郡は、そんな光景からは程遠く、戦場と化していた。

プノンペン政府軍第六連隊を訪ねた。本部のレンガ壁には、直径十センチ程の穴が四つも空いている。ケオ・ピセス少将(39)が指差しながら説明する。「午前五時だった。クメールルージュはあそこのグアバの木のあたりからB40(無反動砲)をいきなり打ち込んできた。五発目は逸れて、表のヤシの木に当たった。ほら、えぐれて焦げているだろ」。ポル・ポト派の本格的乾期攻勢は十二月九日夜明け前、連隊本部への奇襲で火蓋が切られた。

同本部北側に隣接していたUNTAC(カンボジア暫定統治機構)マレーシア歩兵部隊駐屯地にも七発が着弾した。直撃を受けた看板が倒れ無人の敷地には、重過ぎて運べなかった給水タンクが残る。テントが撤収され青空を仰ぐベッドの上にはトランプ散らばっていた。

クメールルージュが使った武器は85mm、105mm、D30-122mm、130mm各砲で、初日九日に四百五十~五百発、翌十日二百~三百発、十四日が百五十~二百発、二十一日には二百五十~三百発が、十三~四キロ離れた所から撃ち込まれた。

民間の被害は、死者二人、重傷者十人、焼失家屋二十八軒、殺された牛七十六頭、殺された豚二十頭。政府軍の被害は死者四人、重傷者十三人、捕虜になった者二人、破壊された車両四両などに上っている。ポト派に抑えられた四村からは千四百一家族六千四百三十四人が、その周辺の三つの字(あざ)コーダルタヘン、ボベル、アンプルプランバンからは三千百七十二家族二万人以上が、バッタンバン市寄りに避難してきている。この規模は十三年間の内戦史上、最大最悪のものだという。

「UNTACは全然助けてくれなかった。荷物をまとめて自分たちだけ先に逃げてしまって……」と、被災した四村の一つアンタヘン村から避難してきたポン・サワンさん(42)は呆れ顔で話す。カンボジア和平協定にある「武器の没収」、「停戦の監視、監督」をしないどころか、絶え間無い砲撃に塹壕から出ることも出来なかった一般市民を置き去りにしたことに、彼はUNTACへの不信感を強めている。

「UNTACは全然助けてくれなかった。荷物をまとめて自分たちだけ先に逃げてしまって……」と、被災した四村の一つアンタヘン村から避難してきたポン・サワンさん(42)は呆れ顔で話す。カンボジア和平協定にある「武器の没収」、「停戦の監視、監督」をしないどころか、絶え間無い砲撃に塹壕から出ることも出来なかった一般市民を置き去りにしたことに、彼はUNTACへの不信感を強めている。

第六連隊は昨年六月の第一次兵力削減で五百三十六人を減らし、マイナス十五%になっている。「そうでなければ、クメール・ルージュに人が住む地域への砲撃など許さないのだが」と、ポト派に甘く、不均衡な兵力削減をさせたUNTACに、ピセス少将も怒りを隠さない。

翌十二月二十八日未明ついに政府軍は、クメールルージュを追い返す反撃作戦に出た。バッタンバン県ワニ山の第196師団と合同で、十両近い戦車と約三千の兵員が動員さえた大がかりなものであった。

二十八日朝、バッタンバン守備隊セッティア・ロス大佐=政策担当(40)を訪ねた。「今朝の作戦ではクメールルージュは既に撤退した後で、衝突なく停戦時の領土を奪還できた。けれど、ポト派はタイ側五県を支配下に置き、西カンボジアに自分たちの政府を樹立することを狙っています」と、彼は予断は許されないという。

フン・セン首相の通訳も兼ねるオッ・キム・オン官房長官は「このままUNTACがポト派支配区に立ち入らず、北西部を抑えられてしまえば、カンボジアは二つに割れてしまう。ソン・サン、シハヌーク各派の土地が協定後、ポト派に取られていても、UNTACは知らぬふりをしている」と訴えた。そして一月五日には、シハヌーク殿下とポト派のUNTAC批判に続いて、とうとうフン・セン首相も公式に「逃げ足が早い」と、UNTACへの不信感を表明している。各派から総すかんを喰らわされたことになった。

ベトナム系の人々

トンレサップ湖に浮かぶベトナム系移民の村々のひとつ、コンポンルウング。雨期には水面が七メートルも上昇し、面積が三倍にもなるトンレサップ。漁民たちは、半年で何キロも移動する岸には定住せず、住居や商店、ビデオ館、寺院など全てを船に浮かべ、湖上集落を作っている。だが、孤立しているわけではない。魚を買ってくれるお客さんでもある村落外の人たちとは上手くいっているし、祭や行事にはベトナム仏教とカンボジア仏教の僧侶が、それぞれ行き来している。

「だいたい昨日今日やってきたベトナム人なら、こんなにクメール語が喋れるわけないし、私なんかシハヌーク時代とヘン・サムリン政権の身分証明書を持っているのに…」と、パウ・ティ・ベアさん(44)は主張する。彼女は、ポト時代に森へ強制移住させられた二年間を除いて、ずっとここに住んでいるというが、有権者として登録してもらえない。夫と子供、兄弟を合わせた九人の家族は、二回登録を試みたが、だれ一人「カンボジア国民」とは認められていない。「UNTACの下で働いているカンボジア人学生は、怖い顔して頑として認めないんだ。どこかの党に入っているんじゃないの」と、彼らの不偏不倒を否定する。

この水上村の人口は、四百九十七家族、二千九百五十一人。有権者に該当する十八歳以上は千八十一人だ。年内とされていた登録締切は一月末に延期されたが、登録できた村人は、まだわずか二割程度だ。コミュニティーを作っているここでは、登録に必要な二人の保証人がいても、その人たちも「ベトナム人」と疑われている。

ベトナム系人虐殺事件が各地で続発しているが、この村でも和平調印後に八人が誘拐され殺されている。そして、昨年末から、シム司令官率いるポト派第二二連体三六分隊が市街地まで六キロの地点に迫り、「ベトナム人」を連行してきた者には、金塊の報償を与えると宣伝し、同時に車や列車の襲撃を始めた。

「(UNTACは年末)有権者登録はすでに四百二十万人に達したと発表したが、実際は四百万人を大きく割っているだろう」と、あるプノンペン外務省高官は観測する。ベトナム系カンボジア人の例のほかに、彼は根拠として、1)ポト派が出没する地域では、一旦発行されたカードが破棄されている、2)パイリン方面からの難民キャンプからの帰還が進まぬ一方で、国内で再会した家族らと国境へUターンした者が少なからずいるため、3)十五万人以上が国境にいる、4)忙しい商売人や無政府主義者は登録所へ行っていない、5)支持党へ複数票入れるための二重登録が頻発している・・・・ことを挙げる。

プノンペン政府によると、ベトナム系カンボジア人は約二十万人、全人口の二%強になる(ポト派は百万人以上のベトナム人がいると主張する)。職業は多い順に、・漁師、・家具職人・大工、・機械整備工、・貿易商、・喫茶・理容・風俗業。ポト派を筆頭に旧民主三派の民族意識を煽るプロパガンダは、ベトナム系人を弾圧するだけではなく、カンボジア人同士をいがみあわせ、プノンペン支持者にゆさぶりをかけるのが狙いなのだ。

援助の功罪

半年前二十セント程だったラーメンは四十五セントに値上がりしたが、公務員の月給は相変わらず二十から四十ドルだ。官庁や公営企業では、汚職というより、生きるためのサイドビジネスが横行し、街角には傷痍軍人や乞食の姿が目立つ。

プノンペンのホテルの近くで、通行人に手を合わせる乞食の母子に会った。「米が二十キロ買えたら、帰ります」と、カム・リンさん(26)は力なく答える。赤ん坊だろうと思っていた腕の中の女児は、三歳。だが、体重は見かけ通り、わずか七キロだという。コンポンスプーから出てきて五日目。一日の恵みは千から千五百リエル(約八十円)ほど。すでに十五キロ分の金がたまったという。だが、故郷は干ばつで収穫がなかった上、夫は地雷で両足を失い働けない。

タイ国境のココン島とコンポントムを馬蹄形に結んだ外側は、ポト派が軍資金を得るために木を切り尽くし、草むらにしてしまったと、ロス大佐は環境破壊を非難していた。バッタンバンからの帰り、プルサットの県境にさしかかった国道五号線で、直径一メートルはあろうかという大木を三本ずつ積んだ三台のトレーラーと出会った。「輸出禁止はラジオで聞いているよ。だけど、あれは原木のことだろ。この木は、バッタンバンの製材所へ運び込むわけだから、問題ないんだ」と、運転手のリエノフ・アンさん(55)は悪びれた様子もない。半製品の板や家具なら良いわけだ。

国道の西遙かに横たわる山から、一週間かかって切り出してきたという。ところで、あの山は確かクメールルージュの支配下のはず。「そうさ。一台のトラックで四人以上が入山するのは許さなし、いつも向こうの言い値で、とっても値切れるような雰囲気じゃないけど、まあ連中も私たちは歓迎してくれてるね」。聞けば、一立米当たり千三百バーツ(約六千五百円)の代金をポト側に支払うという。それでも、一立米につき二十ドルの純利益が出るそうだ。

バッタンバンで原木の買値は一立米当たり七十四ドル。どうも計算が合わないので、詳しく問う。「プノンペン政府へ税金として一立米当たり一万リエル(約五百五十円)と、製材所が別に中央の高官に二百バーツ(約千円)払っているんだ」。これでは、協定破りのポト派への経済制裁には程遠く、同派の財源となる原木をボイコットするどころか、プノンペン政府が統治する領土から公認で出荷させてやっていることになる。

六〇年代には国土の七割を覆っていた森林が、今はわずか三割だと衛星写真は警告する。昔を知る年配の農民たちが指摘するように、保水力を失った土地は、ちょっとした気象の変化で洪水や干ばつを引き起こし、満足に収穫できない農民が増えている。

そんなカンボジア農業の増産をと、日本政府は昨年五月末、カンボジア復興・開発援助の第一弾としての五億円規模の農業援助を決めた。今年二月にも、一億円相当三十トンの農薬を含む資機材が現地へ届こうとしている。だが、この援助に対し、在プノンペンNGOと国際機関の十九団体は十二月十八日「農薬導入は、害虫と天敵のバランスがまだ保たれているこの国の生態系を破壊し、かえって減産を招く」と、今川幸雄駐カンボジア大使に、科学資料と署名を添えた意見書を提出している。

内情に詳しいNGOプノンペン駐在員によると、東南アジアの実情に明るい今川大使は「本当は(農薬なんか)要らないんだがね……」と、呟いたそうだ。

コンポントム県判事兼法務長官だったメン・セッタドア氏(46)は昨年、外資系の運輸会社に転職した。「たった四十ドルの月給では子供を大学に遣ることもできず、かといって汚職は絶対に嫌だったものですから」と、動機を話す。そもそも高校の数学教師だった彼が、政府の要職に推されたのも、ポト時代の虐殺で人材が不足していたからだと言う。
「汚職は世界中どこでもありますが、我が国の場合は状況が悪いので余計にひどい。これ以上悪くなると、ポト時代に家族を亡くした人でも、ポト派の極端な農本主義に傾倒するかも知れない。予定通り選挙をして、とにかく経済復興を急がないと……。選挙を遅らせるのも、やつらの作戦なのですから」と、元判事も混乱をする世相に危惧する。

十二月二十六日、日本政府のカンボジア復興援助第二弾としての「日本橋」修復工事の起工式に向かう途中、お経のような歌が車の無線機に飛び込んできた。「プノンペン政府は、人民から金をせびりとって、毎夜ナイトクラブで使いまくっている。そんなベトナム野郎を追い出そう!」。ポト派の宣伝放送である。

起工式会場にはためくのは水色のSNC(最高国民評議会)旗だが、カンボジア側窓口はホー・ナムホン外相。援助対象となるインフラも、それを管理している機関も、全てプノンペン政府の下にあるのが現実だ。他派がパリ協定違反と批判するのも頷ける。

ポル・ポト派は語る

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ゴム草履に中国風の帽子を被るクメールルージュ=ポーコー山で

ポル・ポト派のプノンペン事務所を何度も訪ねたが「幹部や英語を話す党員は、今パイリンへ行っていて留守だ」と埒(らち)があかない。それではと、同派ゲリラの幹部をコンポート県の山岳地帯に訪ねた。

国道三号線をコンポート市から西へ出ると、小銃を手にした四、五人の警察官が一キロごとに警備していた。クメールルージュが出没し、バス一台につき十万リエルの通行税を取られるという苦情に、一ヵ月前からの措置だという。ピ・ドク巡査長(27)は、集まってきた村人の視線を意識して、こう耳打ちした。「UNTACの登録は上手くいっていないよ。コンポントムやバッタンバンと同じさ、ここも」。

ポト派ゲリラとの連絡場所になっているチョンハー村の飯屋に入った。しかし、目指す司令官は、副司令官とボディーガードと共に、九月二十日のベトナム系雑貨商殺しの容疑で、十月二十六日にプノンペン警察に逮捕され、コンポート市刑務所に投獄されたという。

近くのプレック・スマック村に民意を探りに立ち寄った。お尻の破れたズボンを穿いて昼間から酔っぱらっていたエム・チンさん(52)は、警官がいないことを確かめて演説調で始めた。「オレたちのことをオイハギ呼ばわりするが、プノンペンだって税金を取っているじゃないか。ここを通ってシハヌークビル港からベトナムへ材木なんかを輸出して、大儲けしている連中から、ちょっと位頂いても、何がいけないんだ。警察は喰えているのだから、無心などするなというが、そんなことない。今回の収穫はゼロだ」と、一方的にぶち上げた。

そんなポト派支持の村だが、きこりのオン・ソタルさん(34)は、少し違った。「このままじゃ、来年はもう切る木がなくなってしまうよ……。昔と変わらず問答無用のクメールルージュは大嫌いなんだけれど、農閑期には連中の山できこりをしないことには妻子を喰わせていけないんだ」。彼はポト派スパイの嫌疑をかけられ、現政権に四年間投獄されたが、職業選択の自由と働き口のある現プノンペン政府時代が一番好きだという。

獄中にいるポト派司令官との面会許可をコンポート警察署長から得た。二重の鉄扉で外界と隔てられた運動場で、三重の鉄格子をくぐって独房から出てきた三人と握手を交わした。きっと冷酷な目をしているのだろうと思っていたが、赤銅色の顔にぎょろぎょろする目は、意外に優しかった。

「ベトナム人を殺したのは私たちじゃない。証拠も示さず、裁判もなく、刑期も知らされずぶち込まれた。助けてくれ!」。小銃を下げた看守が遠巻きに監視するあずま屋で面会したポト派第二七連隊ロス・ホーン司令官(40)は、押し殺した声で必死に訴える。ほかの二人にマラリアの薬を渡す間に、彼はUNTACへ手紙をしたためた。「仏軍司令官に申し上げる。私たちは既に二か月間、コンポート市刑務所に収監されている。救済をお願いする。ロス・ホーン、レン・ワニー、チョン・オーン 一九九二年一二月三十日。有り難うございます」

副指令官によると、拷問こそないが、食事は米だけで一日二回、水は体を洗う分を含め一日五リットルだそうだ。事件の真相をこちらから問い質すと「ベトナム人を殺すなんてことは国際的に許されることではない」と、まっとうな答えが返ってきた。だが「ベトナム人排斥は絶対」という思想には変わりなく「連中を追い出すためには、威嚇する武器が必要だ」と言い切った。

翌朝、ポト派支持の農民の案内で、獄中会見したホーン司令官の連隊を、コンポート市西十二キロほどのポーコー山に訪ねた。カンボジアでは珍しい標高千メートルを超すこの山は、仏領時代は避暑地として賑わい、内戦中は戦略ポイントとして重要であった。そして今は、UNTAC仏軍が頂上に駐屯している。
中腹の密林を分け入った基地で、シアー司令官(35)がインタビューに応えた。「三人を釈放しないなら、フランス軍をこの山から追い出す」と、のっけから不穏なことを言う。ロケット攻撃を加え、撤退しているうちに地雷を埋めれば、仏軍を追い払うのは簡単というが、今のところ交渉条件に留めている。

十四歳でクメールルージュのゲリラ兵士になった彼には、今、五十人の部下がいる。連隊全部では百七十五人だという。この連隊の任務は、[1]麓の村人たちにベトナム排斥教育を行い、兵士と工作員を育てること、[2]その家族に田を与え、定職を持たない人に漁師をさせてベトナム人漁師と取って代わらせること、[3]ベトナム人から有権者カードを没収すること、だという。

眼下に見えるコンポンソムへ続く国道三号線は、今年から日本の自衛隊が補修を始めている区間である。「あらゆる手段で国連要員の殺害を──ポト派が声明」という十二月五日、通信社が流したニュースの真偽を司令官に確認した。「それは、我々を陥れるため、プノンペン政府の情報操作だ!毎週、パイリンの本部と無線連絡を取っているが、UNTAC攻撃命令なんて出ていない。外国人の追放といっても、任務でカンボジアに来ているフランス人や日本人のことではない。選挙権をとるベトナム人のことだ」と、外国報道陣は情報戦に惑わされていると嘲った。

コンポントムを中心に頻発するUNTAC兵拉致事件を、ポト派本部がその関与を否定することから、たたき上げのゲリラ闘士のタ・モク参謀長と、文民出身のイエン・サリ副首相の対立があり、同派内部で中央の指揮が及ばないグループの存在が観測されている。

日本の自衛隊近くに展開するこの第27連隊は、国道四号線のコンポンソムとコンポンスプーの県境にある補給地点へは往復二か月かかり、半ば孤立しているという。シアー司令官は、投獄された三人の救出作戦は本部の了承を請わず、彼自身が案出したことを明らかにした。

あるシナリオ

「十二月九日の砲撃戦は、プノンペン政府の『ヤラセ』だとは思わないか?」と、旧知の国連職員(47)は真顔で相槌を求めた。前線や避難民キャンプの惨状を見てきたばかりの記者は、釈然としない。

彼は、一月十三日から始まるポト派難民の受入先を話し合ってきたポト派幹部の常識的な応対からは、今回の猛攻が信じられないという。ポト派は武力でバッタンバンを陥落させることができても、この国を統治する能力を持ち合わせていないことを知っている。中国やベトナムが経済開放政策を採った今、旧西側を敵に回し、孤立するような選択は避けるだろうから、こうした大規模な攻撃は不可解だと分析するのである。

記者も昨年六月プノンペンを訪れた際、与党が反動で世論誘導するため野党を水面下で操るように、プノンペン政府とポト派があるところで通じているといった噂は耳にしたことがあった。元はと言えば、プ政府もポト派もシハヌーク、ロンノル時代の反体制派であった。プノンペン外務省高官は、ベトナム軍がポト派の虐殺政治から解放してくれた時はベトナム万歳だったが、政策や人事への干渉に嫌気がさし、現在は約三五%の国民がベトナムに嫌悪感を持っているという。そして、この国連職員は、カンボジア最大の財宝地帯で当時からポト派の根拠地だったパイリンが、最後までベトナム軍に陥されなかった経緯を、ベトナムの財宝目当ての下心を既に読んでいたプノンペンがあまり協力しなかったからだと推察する。

彼はヤラセと勘繰るだけの不審点を列挙した。[1]十一月末、プ政要人からオフレコで聞いていた反撃予定が、二十八日の作戦と合致した、[2]ポト派事務所がこの大規模な攻撃について沈黙している(一月二日外電で否定表明)、[3]政府軍にとって重火器の移動が容易で、ゲリラに不利な乾期にもかかわらず、攻撃をかけてきた。今までの乾期攻勢ならゲリラに有利な川沿いを狙った、[4]これまでの支配区拡大の手口は、戦区ごとの停戦会議の場所を少しずつ前進させ、後方に挟まれた村をオセロゲームのように支配下に繰入れてきたが、今回は違う、[5]これまでの攻撃は、事前に「やるぞ」と宣伝し心理的プレッシャーをかけることで、実際には散発的な攻撃をより有効なものにしていたのだが、今回は前触れなしの大攻勢だった。

また彼は、「病気治療のため」シハヌーク殿下が北京に引き籠もっていることで、穿った見方としながらも「プ政府とポト派が組んで、殿下を追い出そうとしているのでは」と疑う。確かに、殿下の息子ラナリット氏が率いる最大野党フンシンペック党では、昨年後半から選挙事務所に手榴弾を投げ込まれたり、幹部が暗殺されたりするテロ事件が続発し、殿下も治安の悪さを批判していた。

そしてこのポト派の大攻勢直前、不可解な出来事があった。この国連職員は、シハヌーク殿下とポト派の双方に話が出来るフィクサーをカンボジアに呼び寄せ、十二月十七、八日シェムレアップで両者の調停を準備していた。だが七日北京のシハヌーク殿下から「帰国できないかも知れない」という、消極的なテレックスを受け取った。再度の帰国要請に対して殿下から「帰国しない」と最後通知が届いたのは、奇しくも大砲撃開始の朝、カンボジア時間で九日の午前九時であった。殿下もこの攻撃を事前に知っていた節があると、彼は言う。

アフリカでの国連和平工作に従事したこともある彼は、内戦が行われている国へ外国や国連が仲介に入ると、敵対関係にあった勢力が背後で手を結ぶことがあった、という。そして、カンボジアの場合はプノンペン政府が「ポト派と組んで陽動作戦に出たとしたならば、将来国連から有利な援助を引き出すために、国連の弱みを握ぎろうとUNTACの計画を失敗させるのが、両者共通の狙いではないか」と、ベテラン国連職員は読んでいる。

今回取材中に入手したポル・ポト直筆とされる論文でも、UNTACを新しい敵と捉え、和平計画を座礁させることを祖国解放の戦術と目していた。また、プノンペン政府をベトナムの傀儡と非難し続けている。だが、この主張が同派の存在意義を理論武装するためだけとすれば、国連に失望し始めた各党派に「カンボジア民族の自決」という共通意識が芽生えても不思議ではない。

PKOの行方

東西冷戦の終結で、民主三派からプノンペン政府へ掌を返したように鞍替えした国連だったが、カンボジア国内でのUNDP(国連開発計画)の動きが、他国の例に比べていやに遅い。普通ならこの時期までに、コンサルタント業者を使って復興事業の実行計画を既に完成させ、後は入札を待つだけとなっているはずだが、カンボジアではインフラ整備は素人のNGOに委託し、小規模な計画しかたてていない。一足先に工事が始まっている国道の橋の架け替えも、ささやかな規模である。これは国連安保理が、こうしたカンボジアの混乱の根深さをみて、五月の選挙結果に不安を抱いているからではないだろうか。プノンペンの総理府で、予算編成会議中のキュー・カンヤリSNC代表委員に会った。

「一党で過半数は無理だろうから、連立政権は考えている。が、そんな(ポト派との)“レッド・ソリュージョン(共産党同士の和解)”はあり得ない。なぜなら、ポト派が望んでいることは問題の『解決』ではないわけだから、そもそも『解決』の仕方がない。それより国土復興を急がなくては、“(資本主義側との)ピンク・ソリュージョン”とでも言うか……」と、当然ではあるが、国連職員の仮説を真っ向から否定した。

有権者登録は一月待つで締切り、大統領選挙と総選挙は五月、UNTAC解散は新政府が発足し次第九月までに───・国連はこの予定を、威信にかけても貫徹するだろう。だが、ポト派抜きで、公正さに関しては他党も不満を抱いたまま、日程通りに選挙しても、「あんな選挙は無効だ!」と負けた党が訴えるのが目に見える。また、そんな訴えを、説き伏せるだけの証拠や実績をUmTACは十分にもっていない。和平に失敗し“元の木阿弥”になるくらいなら、多少の遅れや、予算オーバーなど問題ではない。カンボジアPKOの問題点を洗い直すなら、今しかない。

(文・写真/阿佐部伸一)

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