阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

カンボジア和平協定直前1991年9月

和平ムードに酔うクメール人たちの笑顔を期待したが…

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元来、雨季には水に浸き、肥沃な泥土がもたらされる地域なのだが…

「どこに降りるのだろう?」。上翼から脚が出されたが、眼下は一面の湖。英字新聞に小さく載っていた大洪水だ。九月三十日、パリでの和平協定調印を前にして、プノンペンに入る。

「家々は流され、水面に出ているのは大きな木だけです。大勢が避難している丘で産気付いた妊婦が難産だったのですが、病院に運べず死んでしまいました」。キュー・ソックカンボジア赤十字タケオ事務所長(48)は、担当のタケオ市へ百トンの米を届けプノンペンへ戻ったところだった。彼が子供の頃経験した一九五三年の大洪水以来のひどさで、タケオ市内だけで二万三千ヘクタールの田が水没し、家を失った千五百家族、八千八百二十七人は九か所の小学校や寺避難しているという。ただでさえ貧弱な交通・通信網があちこちで切断され全国被害は知る術もないが、少なくとも四十万人以上が家を失ったと推定されている。

「日本政府が水害に緊急援助してくれたというニュース、ラジオで聞いたよ。国交再開を記念して、こう名付けたんだ」。先月十九日に首都プノンペンの目抜き通りにオープンした「東京美髪院」のプ・キム・ボク店長(29)は壁一杯に貼られた鏡を背に自慢そうに話す。パーマは二千リエル(百リエルは実勢レートで約十二円)。開店以来、客は一日十人を下ることがないそうだ。二人いる美容師の取り分は水揚げの三十%、助手は月給制で八千から一万リエルという。助手のホー・コンさん(24)さんによると、プノンペンで今人気の髪型はショートのソバージュ。十六年以上、事実上の鎖国をしていたブランクを感じさせない。

市場経済

「東京美髪院」が面するモノロム通りは、日本製バイクと子連れの乞食が行き交う。きょうの米に困っている農民が大勢いるのに、ピカピカのベンツやBMWが横切るのには驚く。五年前は自転車とシクロ(輪タク)が主流で、全国で唯一の信号機もしょっちゅう停電していた。

「カンボジア人民共和国」は八九年一月に「カンボジア国」と名を変え、同年十一月には市場経済を導入した。パスポートを提示して外国製品を買った国営ドル・ショップは姿を消し、今や金さえあれば誰でもジョニ黒からホンダ・シビックまで私営商店で自由に買える。公務員に対するセッケン、砂糖、塩などの配給制度も、米とガソリンを除いて廃止された。

プノンペンの商店や食堂を回って、いろいろな品物の市場価格を調べてみた(単位はリエル)。上質米 (一Kg) 四百、砂糖(一Kg)二百四十、ガソリン(一L)三百四十、コーヒー(一杯)八十、ラーメン(一杯)二百五十、ズボン千五百、鉛筆二十、カラーフィルム(日本製)三千、テレビ(ベトナム製白黒十四・)七万七千、バイク(日本製五十・新車)八十八万、乗用車(日本製千六百・新車)七百七十万、分譲アパート(シハヌーク時代築2DK非商業地区)六百二十万。

社会福祉省に勤めるケオさん(40)の月給は一万五千リエル。国家公務員なので家賃、電気・水道代はタダだが、一家六人が暮らすには月六万リエル位必要という。聞けば、洋服の仕立てができる奥さんは一着で二千リエル稼ぎ、同居する工員の弟は最近買った中古バイクでタクシーのアルバイトをやって、平日は夕方からで千八百、日曜日は朝から流して六千リエル稼ぐというので納得した。

国営工場も民営化された。トップ九私企業の昨年の純利益(米ドル)は、タバコ工場百十万、ウイスキー二十一万、清涼飲料水十八万、機械整備工場十三万六千ドル、…、総額百七十七万六千ドルである。どれも従業員百人以上の“基幹”工場だが、日本の町工場にも及ばないささやかな収益である。外国企業の投資も始まっている。八月末までに七十社がプノンペン政府と契約し、うち十八社は既に資本を投下、瓶詰飲料水(ラオス)やホテル(シンガポール)、建設(アメリカ)など五社は事業所も開いている。

その日の夕方、郵便局のソファーで何気なく手にした新聞には我が目を疑った。「プロ・チャチョン(人民)」新聞はトップ記事こそフン・セン首相の演説だが、米建設会社のPR記事をはじめ、私企業が生産する商品広告が幾つも入っている。施術前後の写真を並べたエステティック・サロンの広告には恐れ入った。

SONYで設備を一新した「テレビ・カンプチア」も負けていない。カワサキのバイク専門店、トウキョウ・カンパニーだの、即席めんのミダナ・フードだの、毎晩三十分間もCFを流している。\

自由

カンボジアでの取材は、外務省報道局の通訳兼ガイドが必ず付く。観光ビザも団体以外は発給せず、やはり観光局のガイドが付く。ジャーナリストとしては、取材対象を制限したり、何か隠しているのではと勘繰りたくなる。

私のぶしつけな問いに、ホー・ソントン報道局長(38)は丁寧にこう答えてくれた。
「七九年解放以来、ジャーナリストが一人として誘拐されたり、殺されたりしましたか?それに政府の移動や取材許可書がなく、クメール語が出来なくて答えられなかったりしたら、スパイと疑われて連行されても仕方ないですよ。まだ、戦争は続いているんですから」。今回、私に同行するのはL氏(39)。今年三月にも付いたガイドで二回目である。

個人差もあるだろうが、五年前のガイドはプノンペン市内の貧しい地区を訪ねるだけでも、それを“社会主義の恥部”と思ったのか、びくびくしていた。だが、L氏は政府批判に相当する賄賂の話に至っても、決まり悪そうにこそするが、否定しない。

プノンペン二日目の夜、L氏には悪いが単独行動で、ある民家に上がり込んだ。「自由なんかありません。今、こうして何が自由でないかをあなたに具体的に説明できないことが、まずそうでしょう」。彼は国家公務員、四十八歳。「ポル・ポト時代は役人でも市民でもちょっと政治の話をしただけで殺されたし、密告することが忠誠の証として高く評価されましたから、仲間うちでも迂闊に話せませんでした。あの恐ろしさは誰もまだ忘れていませんよ。私だってまだ今の政府も、隣近所も百%信じることは出来ません」。ロンノル政府文部省の役人だった彼はポ時代に父母と姉を殺され、地方で砂糖椰子のジュース集めを強いられていた。

ポ時代に徹底的に破壊された首都は、中心を少しはずれるとまだ電気が復旧していない。民家を後にして真っ暗な通りを歩きながら考えた。「あと一カ月待ってください。国連監視団がやって来たらもう少しお話できると思いますから…」という別れの言葉に、カンボジア版グラスノスチを進めるかのように見える外務省報道局との大きなギャップを感じた。

合意

八七年一二月にフン・セン、シハヌーク二者による初の和平会談がパリで開かれて以来、国家最高評議会(SNC)にポル・ポト派を入れるか、各派の席数配分は、議長は誰に、そして兵力削減はと、揉めに揉めてきた。各派が兵力七十%削減に合意した八月末の第二回SNC会議の直前、ポ派を援助する中国とプ政府を支援するベトナムが、総選挙まで各派の軍事機構を温存するという密約を交わしていたことも西側外交筋が明らかにしている。

プノンペン政府のホー・ナム・ホン外務大臣の子息であるホー・ソントン氏(38)は多忙な父親に代わって、政府の考えについて答してくれた。

-SNC会議での妥協に対する感想は?
ソントン) 戦い続けて国を破壊し国民をいじめることより、戦いを止めて国を建て直し国民を幸せにすることを選択した。
– 地球の一員で平和を求めるなら、誰もアメリカに楯突くことは出来ない。加速度的にまとまったが、何か理由でも?
ソントン) 中ソ関係の正常化が進んだから、中越も仲直りしたのだと思う。西側の新聞は「レッド・ソルージョン(共産主義同士の和解)」などと見出しを打ったが、いずれにせよ中ソ二大国の歩み寄りがなかったらカンボジア和平もなかっただろう。
-「ポル・ポト抜き」でなくても、本当にもう構わないのですか?
ソントン) 私たちはポ派を百%信用なんてしていない。だから兵力の百%削減なんて出来ない。防衛しなければ、ポル・ポトの虐殺時代に逆戻りしてしまうから。ポ派とは国連監視のもと選挙で闘えば良いとしたのだから、ポ派が選挙結果を反故にし武力で挑んできたときには国連に責任をとってもらう。
-三派連合が国連で承認され西側とのパイプを持っていたことから、何か曲解されていることは?
ソントン) 一九八九年に私たちは自由主義を選んだ。まだ一党独裁といわれるかも知れないが、社会主義ではない。ほとんどの国民がポ時代に社会主義の辛酸をなめさせられているのに、どうして社会主義体制が採れるか。その結果、貧富の差も拡大したが、どんな先進工業国でも“平等の実現”は難しい。
-日本の国連PKO(平和維持活動)参加については?
ソントン) 日本の内政問題だが、敢えていえば国際的な流れの中で仕方ないと思う。我が国もUN案に従って兵力を削減するわけだから。アセアン歴訪の際の「天皇のお言葉」を信じている。

歴史の抹消

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からまった衣類はまだ色褪せていなかった

その夜、国際援助団体の駐在員の溜まり場となっている、その名もレストラン・インターナショナルへ夕食に出かけた。「『トゥール・スレン博物館とチューン・エック村の納骨塔を取り壊すことになりましたので、明日見学会を催します』だって。うちのボスが今日の夕方、外務省に呼び出されて聞いてきたんだ」。国連関係機関の男性職員(45)は、料理より先に今宵の話題をテーブルに載せた。

トゥール・スレン博物館はポル・ポト派が一九七五年から三年八ヵ月間「S21国家中央治安本部」として使用した元高校で、少なくとも一万五千人が「政治犯」として「処刑」され、彼らの写真や遺品、記録文書、拷問に使われた道具などが、鉄条網を張り巡らされた「政治犯収容所」に展示保存されている。納骨塔は、S21の「政治犯」が殺され埋められたチューン・エック村(プノンペン南西、約十五キロ)に、八九年ベトナムの建築家によって建てられ、百を越す大穴から掘り出された一万人以上の白骨が安置されている。どちらを訪ねても、想像を絶する歴史の遺物に、一生忘れられない衝撃を受ける。

プノンペン政府内では「GENOCIDE(虐殺)」という用語の使用を控え、「INTERROGATION(尋問)」に置き換える指示が出ているらしい。日本政府が社会科教科書で中国への「侵略」を「進出」とするのとは訳が違う。虐殺の被害者は他でもない、今のカンボジア国民自身なのである。「アウシュビッツだってちゃんと残っているんだよ。ポル・ポト派の大虐殺は事実。SNCに入ったからって、何もそこまでポル・ポトの顔を立ててやることはないんじゃない」と、彼は腹が立つのを通り越して呆れている。

「頼みのソ連・東欧からの援助も最盛期の十分の一まで減っているというのに、ゼロから十二年間、この政府は良くやってきたよ。どうして、もっと認めてやらないんだ!こっちは七百五十万人。あっち(国連キャンプ)は国連の援助があって、わずか三十万人だよ」。名前を出さない約束に、援助現場十五年目の彼の話は国連批判に発展した。

票読み

「ヘン・サムリンは隣村の工場にあるテレビで見ただけだけど、シハヌーク殿下はウチの前にもやって来られて服を配って下さったもんだよ」。プノンペン市郊外の米作農家のおばあさん、チア・オンさん(68)は、村道に出した縁台で煙草や手作りのお菓子を売っていた。サトウキビを買って百リエル札を出すと、インフレであまり見かけなくなった、しわくちゃの十リエル札が何枚も返ってきた。

「昨日、『ドロボー!』と叫びながら大勢の人が、二人乗りのバイクを追いかけていったよ。今年になって三回目の泥棒だ。シハヌーク殿下のころは、そんなこと全然なかったし、どこへ行くにも安全で、夜も出歩けたもんだ。そうそう、アンコール・ワットへも行ったよ」。シハヌーク殿下が宮殿から地方視察に出かける道沿いに住んでいたオンさんは、家の前に立って彼を十回以上見送ったことが自慢だ。

「ここも二週間前までは胸まで水があったんだよ。縁台を積み重ねてその上で料理してたもんだから、ほら」と、黒こげを隠していたバナナの葉をめくった。「こんなに農民が困っていても、今の政府は全然助けてくれない」と、彼女は“古き良き時代”が忘れられないようだ。隣家のヴァン・ロスさん(32)が口を挟んだ。「“墓場”から家族を救ってくれたヘン・サムリンの方が私はいいわ。だってあの人は外国にばかりいたじゃない、みんな大変な目に合ってるときに」。彼女の父と叔父はポ時代、一日中車を牽かされ疲れきっていた牛をかばって仕事を断ったため刑務所へ。叔父は獄死している。

「CIAが票買いの資金を出せば、ソン・サン派は二十%取るだろう。シハヌークが議長としての中立を守らなければ、シ派は三、四十%。ポル・ポト派はまあ良くて五%だね」と、L氏は予想してみせる。「意見や利権の対立から各派は最低二、三の政党に分裂するだろうね」と、やっかいなことになるといった口調だ。「うちかい?九十%以上の国民がプノンペン政府の行政区にいるんだけれど、実際みんな生活が苦しいから、実現不可能な甘い宣伝文句に乗せられる人も多いだろう。まあ、三、四十パーセントというところかな」と冷静だ。

国道五号線に沿って

十月三日午前七時、四輪駆動の青いトヨタが迎えにきた。これから国道5号線を一路、タイ国境へと旅するのだ。報道局のソチア氏と運転手の他に、AK47小銃を携え、眼光鋭い二人の男が同乗している。「内務省役人だよ。ボディーガードさ」とL氏。さしずめカンボジア版KGBと解釈すれば良いのか。五月一日から自主停戦しているはずなのに、まだそんなに危険なのかと思う。

暫くは道は良いのだが、まるで海の中を無限に続く橋のようだ。五号線の右側、つまり東側は東南アジア最大の湖「トンレサップ」の水面が広がっていて当然なのだが、左側も地平線までがそうなのである。椰子の丸木船で蓮の実を集め、投網で小魚を採っている風景は一見長閑なようだが、その水面下の稲は全滅である。

古都ウドン

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境内を案内してくれたキン・クンさん

首都から三十分。真新しいモスクが幾つも現れる。足場を組んだ建設中のものもある。カンボジア総人口の約四%を占めるイスラム教徒チャム族の村の一つ、トゥール・ナッオックで車を停めた。「ポル・ポト時代は豚肉を食べないと殺されました。ここに写っている人で、今いるのは私だけです」。村の百五十五世帯の寄付で八八年完成した真っ白のモスクで、クープ・コップさん(39)は、ポル・ポト時代に壊されたモスクでの記念写真を取り出した。

古都ウドンの象徴、ストゥーパ(仏塔)が天を突き刺す丘に寄り道する。「この寺を衛るのが僕の仕事さ。カンボジアの宝だよ」。誇らしげにそう言って、銃を肩に案内してくれるのはキン・クンさん(25)。彼は八九年バッタンバン県で敵のB40ロケット弾で腹部を負傷、兵役三年目だったこともあり退役し、故郷のここウドンの人民委員会に推挙されて民兵を務めている。八五年にヘン・サムリン、ベトナム連合軍がウドンを完全解放して以来、クメールルージュの出没はないものの、森林伐採、野性動物の捕獲、文化財持ち出し、観光客への追いはぎなどの違法行為に目を光らせている。

だが、古都ウドンの荒廃振りには目を覆う。神仏を否定したポル・ポトの仕業で、大仏は台座だけ、寺院は柱が残るに過ぎず、観音様や唐草模様が彫られた瓦礫が山のように積まれている。

骨董品のような小銃を持った老民兵が腰を下ろした。ブン・パイさん六十四才。第二次世界大戦中にソ連、中国が使ったCKC単発狙撃銃だ。「あそこが、日本村と呼ばれていた所じゃ」と、ただのジャングルを指差して昔話を始めた。ポル・ポトが来るまでは、タイから持ち込んだ見本をもとに焼いた日本瓦を葺いた家と旧日本軍の倉庫が建っていて、地元の女性と結婚した日本軍の士官が住んでいたそうだ。「日本のヘイタイサンはポル・ポトとは違って暴力は振るわなかった。仕事はきつかったけど、毎日、米七百五十グラムと干魚をくれ、別に給料もあった。給料日には酒にギャンブルにダンスに……」。日本軍の飛行場を作っていたというパイさんの思い出は尽きない。

自衛隊派遣案があることを説明し、彼の反応をうかがってみた。「あの時はフランスからわしらを独立させてくれた。今度はポル・ポトの息の根を止めに来てくれるんだろ」。

日の丸食糧

トンレサップの港町、コンポンチュナンで昼食を取ることにした。植民地の名残、フランスパンのサンドイッチ屋台で、何と「日の丸」印のツナ缶を見つけた。ラベルには「日本政府寄付 非売品」とある。タイ国境の三派のキャンプで配給されている代物だ。二種類あり、赤いラベルはトマト煮、白いのはサラダ油漬けである。日本のスーパーで買えば五百円はするが、赤は二百リエル(約二十五円)で、白はその倍。ケチャップ味は不人気のようだ。元はといえば、どちらもタダだが、何人もの手を渡ってカンボジア奥深く入って来るうちに、しかっり定価がついている。難民キャンプ放出の“珍品”でお昼となった。

ポーティサットとの県境に到る。国道五号線は車高の高い四輪駆動車でさえ、大きな穴ぼこを避けて道幅いっぱいの蛇行を強いられる。時速十キロ以上出すと、体はシートから跳ね上がり天井で頭を打つ。かつてのアスファルト舗装が部分的に残っているから余計に凸凹が激しい。同じ国道でも、プノンペン・ホーチミンを結ぶ一号線は、ソ連の援助でメンテナンスが良く、国境の手続時間を差し引けば二都間は四時間を切る。我々が今、苦闘している五号線は、もともと一九二〇年代にフランスによって建設されたが、七〇年、ロンノル支援の米軍の追手を阻もうとしたクメールルージュが、二〇メートルおきに深い溝を掘った。その後は“西側へ続く道”として東側からの補修援助もないまま、戦車などの重量車両が前線を往復するため、こうした悪路になっている。

家が建て込んできた。二部制授業で遅く下校する小学生の群れに会う。「医者になりたい。僕も、わたしも」。四、五年 生男女五人ずつに聞いてみたのだが、十人中七人もが医師志願なのに驚く。三人は教師、警官、百姓だった。社会主義政府の役人が、ぼそりと言った。「貧乏人の子はなれないよ」と。「早く!もう時間がない」と撮影を急かされる。プノンペンだけは例外的に午前零時からだが、カンボジア全土には今も午後七時から翌朝五時までの外出禁止令が出ている。

薄暮のバッタンバン市に入る。人口約八万二千、カンボジア第二の都市である。タイ領を源に市内を流れるサンカイ川は、カフェ・オーレ色に濁っている。「上流のポル・ポトが抑えているパイリンで、宝石を探すのに水を吹きつけているからだよ」。休憩と取材で計二時間停車したが、プノンペンから二百八十キロを十時間かけての旅であった。

(文・写真/阿佐部伸一)

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