阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

ビルマ(ミャンマー)ロヒンギャ難民80万 なぜ帰れぬ?2019年3月

ロヒンギャ族の少年
国際援助機関からの配給を運ぶロヒンギャ族の少年=バングラデシュ、コックスバザール県のクトゥパロン難民キャンプで

少数民族ロヒンギャ族に対する差別・迫害が長年続いていたミャンマーで、2017年8月25日、アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)がラカイン州の警察施設などを襲撃。それに対してミャンマー軍がロヒンギャ族の一般住民を「虐殺した」ことから、バングラデシュへ過去最大65万人以上の難民が一挙に流出した。NGOや難民組織の調査によると、1万人以上が死亡し、逮捕投獄と強姦された人がそれぞれ2千人前後、8万戸以上が放火されたという。

その結果、バングラデシュ・コックスバザールの難民キャンプは急膨張。現在80万人を超すロヒンギャ族が故郷ラカイン州へ帰れる日を待っている。

18年11月にはミャンマー・バングラデシュが難民帰還の合意書に署名したが、具体的な手順や期限は未だ何も決まっていない。また、アウンサンスーチー国家顧問はミャンマー世論の反感を買う「ロヒンギャ」という呼称を注意深く避けながらも、第三者による『ラカイン問題調査委員会』を設けてはいた。同委員会は(1)移動の自由を認め、(2)世代を超える居住者に国籍を授与し、(3)正規国民・準国民・帰化国民の一本化、を提言したが、それらが実現する兆しは全く見えてこない。

このロヒンギャ問題を、2018年1月から3月にかけて日本とバングラデシュ、ミャンマー、タイに取材。「なぜ帰れぬ?」を焦点にビデオリポートを制作した。尺は約22分。オリジナル映像はAVCHDのハイビジョンだが、ユーチューブ用に軽いmpeg4ファイルに変換、BGMは著作権フリー曲を使っている。

以下、「ロヒンギャ族 差別・迫害の経緯」という略年表を用意した。ビデオリポートをご覧いただく前か後にお目通しいただければ、この問題をより理解しやすくなると思う。

ロヒンギャ族 差別・迫害の経緯

[戦前]

(現在の)ラカイン州はイギリスの植民地となりバングラデシュからイスラム教徒の移民が流入。当時からラカイン州の仏教徒と軋轢はあった

[1942年]

日本軍がラカイン州へ侵攻し、日本が仏教徒をイギリスがイスラム教徒をそれぞれ武装化し、日英の代理戦争に

[1948~1962年]

ビルマ(現ミャンマー)が独立し、現存する文書にも「ロヒンギャ」という呼称が現れる。この間、ロヒンギャ族の議員やロヒンギャ語のラジオ放送も

[1962年]

軍事クーデターでビルマ族中心のビルマ式社会主義体制に。「不法移民調査」を理由にロヒンギャ族に対する嫌がらせが始まる。

[1982年]

改正国籍法でロヒンギャ族は土着民族ではないとされ、ロヒンギャと名乗る人は外国人とみなされるようになる

[1990年]

ロヒンギャ族が多いラカイン州北西部のマウンド-、プーディータウン両郡からの移動が許可制に

[1990~91年]

差別・迫害から数万人のロヒンギャ族がバングラデシュへ流出

[2008~2010年]

現行憲法が施行され、国名をビルマからミャンマーとし、アウンサンスーチー解放。しかし、軍と警察、国境警備隊は現在も軍人が所管し、シビリアンコントロールには至っていない

[2012年]

ラカイン州都シットウェで発生した民族暴動を機に、ロヒンギャ族を一区画へ収容

[2015年]

人口調査でロヒンギャ族を数えず「無国籍者」とする

[2016年10月、2017年8月、2018年1月]

アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)がミャンマーの警察や政府軍を襲撃し、それに対して軍が過剰に住民を封じ込めたことから、バングラデシュへ過去最大65万人以上の難民が流出

『国境なき医師団』による2017年末の調査では、同年8月から9月にかけ少なくと9千人のロヒンギャが死亡し、うち71%以上が殺害されたと。他方ミャンマー政府は死者432人、うち387人はバングラデシュ人のテロリストとしている

[2018年11月]

ミャンマーとバングラデシュが難民期間の合意書に署名。だが、具体的な手順や期限は合意に至っていない

[2019年2月までに]

日本政府はバングラデシュの難民にNGOを通じて累計8,270万ドルを援助。その一方で、中国とインドが既にインフラ建設などを進めているミャンマーのラカイン州へはJICAが日系企業の進出を後押ししている

(文・写真/阿佐部伸一)

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