タイ復興にカムランチャイ2011年8月
東日本大震災にショックを受け、タイ・バンコク在住の矢野和貴さん(54)は今年8月末、スマトラ島沖地震の被災地をタイ南部へ訪ねた。矢野さんの行き先が日本の東北ではなくタイ南部だった理由は、旅費という経済的なもの以外にもあってのことだった。
ボランティア人生
今年3月タイのテレビでも三陸沿岸が壊滅的被害を受けている様子を大々的に報じていたが、矢野さんは身動きが取れなかった。ならばと、タイ南部を6年振りに再訪し、何か祖国日本のためになるものを学ぼうと考えたのであった。加えて、今年4月に被災地に完成する予定で、オープニングセレモニーでの公演を依頼されていた津波記念館が、未だ着工されていないと聞き、現地の様子が気がかりだったからだ。
2004年12月26日午前7時58分に起こったマグニチュード9.1のスマトラ島沖地震ではインドネシアを中心に約22万人が亡くなり、タイでも押し寄せた大津波で8千を超す命が犠牲になった。当時地方を厚遇し支持を集めていたタクシン政府の対応は速く、市民ボランティアも翌日には被災地に救援物資を積んだトラックなどで大勢駆けつけた。矢野さんはと言えば、被災150日後の2005年4月末、やはりタイ南部でボランティア公演している。それは被災民の慰問と同時に、あまり報じられなくなっていた「被災地のその後」をバンコク市民に伝えるためだったという。
矢野さんという人、実はタイで有名な日本人俳優。90年代から端役でタイの映画に出始め、2005年以降は監督から指名されるようになり、最優秀助演男優賞にノミネートされたこともある。街を歩いていると、サインや一緒に写真を撮ることをせがまれるほどの人気者だ。その傍ら、タイ国内をはじめミャンマーやラオス、バングラディシュなどの障害児学校や孤児院などでボランティア公演を続けている。その時の出し物はパントマイムによる一人芝居。映画と違って、言葉の壁がないからだ。
彼のボランティア人生の原点は、大学4年の時に初めて訪れたカンボジア難民キャンプだった。戦乱や弾圧から命からがら逃れてキャンプに辿り着いた人たちに先ず必要なものは、水や食糧、寝泊まりする場所、病気やケガの応急手当といった緊急援助。その段階では、特にスキルや経験がない学生にも手伝うことは山ほどあった。だが、難民たちのキャンプ生活はカンボジアの国連暫定統治まで十数年と長引いたのである。
矢野さんは一旦帰国し大学を卒業した後、在タイ日本大使館の難民定住調査員として再びキャンプを訪ね、日本定住を希望し、面接を受ける難民たちのスクリーニング(適格検査)をしていた。それ中で難民が第三国に受け入れられる条件や定住先で自ら人生を切り拓いて行くために必要なものが見えたと、自著『難民キャンプのパントマイム(1992年めこん刊)』に書いている。
身体一つで出てきた難民への援助は緊急のそれのみならず、彼らが定住先や帰還先で自立できるようになるまで必要だ。具体的には宿舎のほか、心身の健康管理と語学や職業訓練などの教育となる。矢野さんは当時、医師でも技師でも教師でもない自分に何ができるかと考えた。生活や将来の見通しが立たないまま、何年も閉鎖された空間のなか配給で暮らしていると、難民に限らず誰も夢や希望は湧いて来ないし、抱いていたとしても萎えてしまう。モチベーションを喪失したり、自暴自棄になっていたりした難民を前に、矢野さんは日本で覚えたパントマイムを演じたのである。彼らは腹の底から笑い、元気を取り戻す人も出てきた。同時に「何か役に立てることはないか」という矢野さん自身の悩みも雲散したことは同書に詳しい。
惨劇などなかったかのような熱帯ビーチ
バンコクから空路で1時間余り、降り立ったのは日本人観光客にも人気があるプーケット島。世界的に有名なパドンビーチに立ち寄った矢野さんは、まるで大津波などなかったかのような光景を目の当たりにした。砂浜と道路一本挟んで立ち並ぶホテルや商店は以前のまま、消波ブロックや防潮堤などの人工の遮蔽物はなく、海と空が水平線で接している。そして、何百メートルも並ぶ極彩色のパラソルの下、リゾート客がマッサージを受けたり、小説を読んだりしてくつろいでいる。
ビーチでTシャツや伝統衣装のサロンを売り歩いているチャイトラさん(32)は「津波の後、お客はガタッと減りましたが、今は大分戻ってきて、津波以前の7割ってとこですね」と。あの日もここで同じ商売をしていたというチャイトラさんは、昨日のことのように話す。地震の後、潮が引いて海底が現れ、観光客に地元の人も加わって跳ねる魚を面白そうに捕っていた。すると、島と本土を繋ぐ橋を越えて巨大な波が押し寄せて来ているのが見えたので、彼は一目散に内陸へ走って助かったという。しかし、津波が見えても魚捕りを止めず、逃げなかった人も多かった。「私は魚なんかどうでも良かったからですね」
タイで最も被害が大きかったのはプーケット島(県)の北側、パンガー県の海岸沿いだった。矢野さんが被災150日後に行ったのもそちら。主に漁業とゴム園で生計を立てるナムケム村と、タイの富裕層と俗化されたプーケットを敬遠する欧米人を相手に観光業が盛んなカオラックビーチを再訪することにした。
しょっぱい水の村
「お客さんたち、ついてますよ。こっちは昨日まで4、5日ずっと雨で」。地元運転手は久々の青空の下で我々を迎えられたことを素直に喜んでいる。津波記念公園や津波被害者墓地などがあるナムケム村は、プーケットから北へ2時間半ほどの海辺の村だ。ナムケムとは「しょっぱい水」という意味だという。地図を見ると、村は川が運んできた土砂が堆積して海に突き出した低地にあり、降り続いた雨であちこちに広大な水たまりが出来ていた。
海岸に面したナムケム村津波記念公園には「2004年12月26日 5メートル 津波」とタイ語と英語で書かれた青い鉄柱が建てられていた。その表記を目で追った矢野さんは、当時を思い出しな がら話し始めた。「これが津波のタイ語名『クルンヤック』なんですが、直訳すると『鬼波』ですかね。あの日バンコクで偶然ラジオを聞いていたんですが、最初『クルンヤック』と言っていたのが、数時間後には殆ど全ての放送局で『ツナミ』という日本語の名前に変わりましたね」。6年前造成中だった公園には、波を象って湾曲させた長いコンクリート塀と、犠牲者の氏名や生年月日、写真、それに遺族からのメッセージなどを焼き付けたタイルを貼った壁が対面するモニュメントが建てられていた。リゾート地なので外国人が多いのは想像に難くないが、タイルの名前の多くは外国人で、犠牲者のごく一部だ。
津波被害者墓地ではその墓石の数に、矢野さんは立ち尽くした。「本当に目の前に、これだけの遺体が実際あったわけですから。日本でも未だ行方不明の方が7千人(当時)からいらっしゃるわけでしょ、うぅーん」。コンクリートの墓石に貼られたステンレスの銘板には、アルファベットと数字だけで、氏名はおろか、性別、年格好も何も記されていない。遺族はこの中に自分の大切な人がいると思えるので、いわゆる無縁仏ではないが、遺体の損傷がそれだけ激しかったということだ。
パントマイムに腹の底から笑って
床にくっついて離れないほど重い鞄から、これまた重い上に生き物のように意思を持ったゴム風船が出て来たり、老若男女プラス性同一性障害者による重量挙げ大会、それに笛によるエンジン音だけで目には見えない大型バイクに子供たちを乗せての爆走。家を流され、家族や親戚、友達の誰かを亡くした子供たちが腹を抱えて笑った。「大したテクニックもない僕のパントマイムなのに、これだけ笑ってくれるんですから、もうやめられないですよ」。矢野さんは映画出演料で質素に暮らし、残したカネでこうしたボランティア公演をしているが、何よりも難民キャンプ以来のこのリアクションが原動力になっている。ただし、地方公演ではエレベーターやエスカレーターのネタは通じない。高い建物がなく、一度も乗ったことがない子供が殆どだからだ。
見えないバイクに矢野さんと一緒に乗ったヌサラーさん(14)は「パントマイムは初めて見ました。私たち皆を幸せな気分にしてくれました」。バンコクから映画スターが来るとあって、セーラー服姿に薄化粧を施している。「楽しくて、ストレス解消になりました」というのは同い年のキンカモンさん。矢野さんは一番知りたい復興に必要だったものを聞く。キンカモンさんは「生きて行くための『カムランチャイ=心の支え』でした」と。ヌサラーさんは「落ち込んでいた私たちを励まし『心の支え』になってくれた人がいたから、挫けずここまで来られました。ストレスに押し潰されそうになった時、励ましの言葉をかけてくれたので、暗い気持ちも消えて行きました」。復興に必要だったものを尋ねると、二人からは教室や教科書、制服などのモノは出て来ず、「カムランチャイ=心の支え」だったと口を揃える。
今回矢野さんはもう一校、第35ラチャパチャ学校を訪ねた。津波の4ヶ月後に、国王の援助で高台に新設された学校だ。丘の下の草むらには、かつての学校の土台と門柱だけが残っている。幼稚園から高校まで約750人が学び、その8割が敷地内にある寮に住んでいる。開校当時は3割が津波で親を亡くした子供たちで、海岸沿いの多くの学校が流されたため、通学できないほど遠い村の子供も多いからだという。ファンでコメディアン志望という少年らに連れられ寮を見学した矢野さんは「これだけの年齢差のある子供たちが一緒に暮らすって、すごい良いことだと思いますよ。日本ではなかなかあり得ない光景ですけど…」。寮では次から次へとサインや写真を求められ、どの子もパントマイムを楽しみにしているのが判った矢野さんは、全員が見られるようにと30分の休憩を挟んで3回公演することにした。
ここでもナムケム村学校に勝るとも劣らない笑いの渦が起こった。公演中だけかも知れないが、子供たちは悩みや不安を忘れていたような笑顔だった。それでも高校生のチャダターンさん(19)は最近までトラウマに悩まされていたと話す。「津波があった日から、いつも何かに怯えていました。例えば、飛行機の音が聞こえて来ても、何か起こるのではないかとびくびくしていました。高い所へ逃げれば安全と言われても信じられなくて…」。津波が襲ったその日、彼女は母親が働く海岸の食堂で手伝いをしていて、急に潮が引いたのを見た母親たちとピックアップトラックで山へ逃げて助かったそうだ。親戚がたくさん亡くなり、とても悲しかったという彼女だが、「生き残った人たちが『カムランチャイ=心の支え』になってくれたから今まで生きて来られたと思います」と振り返る。あたかもナムケム村の子供たちと申し合わせたかのように、チャダターンさんの口からも『カムランチャイ』という言葉が出てきた。少なくとも子供たちは物的援助ではなく、精神的支援に助けられたと語る。
経験を後世に
子供たちと一緒に矢野さんの来訪を喜ぶタナカーン副校長(36)は、援助や慰問で多くの人が訪れたのは被災の2、3年後までで、近年は誰も来ないと打ち明ける。今回矢野さんが公演先に第35ラチャパチャ学校を選んだのは、開館式のアトラクションとして公演を依頼されている津波記念館はこの学校の敷地内に建てられる計画だからだ。その経緯を聞いた副校長は矢野さんを建設予定地に案内した。パンフレットを手に彼女は「水に浮く構造になっていて、本当に津波が来たら避難所になるんです」と自慢気に話す。だが、建設予定地はただの空き地で、まだ基礎工事すら始まっていない。
パンフレットには情報通信省、交通省、技術省、チュラロンコン大学、天災防災センター、TOT(インターネット企業)など8団体が名を連ねている。王室がスポンサーの学校の副校長という立場上、言葉を濁すが、着工が遅れている原因は、要は多すぎる事業主体の間での利権争いに、近年の内政混乱が輪をかけているからということだ。津波記念館の正式名称は『津波避難所・天災学習センター』となっていて、ひとたび津波が再来した時には避難所となる一方、津波災害を記録し、津波が起こるメカニズムや防災知識を次世代に広く伝えて行くことを目的としている。
ここタイ南部のアンダマン海にはモーゲン族という漂海民がいる。現代はホテルやゴム園で働き、陸に家を建てた人もいるが、小舟で海上生活する伝統は残っている。タナカーン副校長は7年前の大津波の際、モルゲン族では死者が少数に留まったという話を始めた。「この辺りは宝飾品なんかが出土しているように、昔はとても豊かな土地だったんです。彼らには津波がその全てを洗い流したという言い伝えがあるんです。でも、タイ人の間にそんな伝承はありません」。海と共に暮らすモーゲン族の殆どは異様な潮の引き方から津波襲来を予知して沖へ逃げたわけで、犠牲者の大きな差はそこからだ。「これが完成すれば、私たちも津波の経験を後世に伝えられます、正に津波を記念する施設なので」と、雑草が生え放題の予定地で副校長は笑った。
命あってのモノダネ
被災地援助で新築された住宅2,800戸の内、1,800戸が集中しているナムケム村。津波のその日まで約4,000あった人口は半減し、7年後のいま3,600人と9割まで回復して来ている。プラターンさん(50)は援助住宅の一軒に妻と末の息子の3人で暮らし、津波前と同じ菓子商を生業にしている。彼はあの日、余震が続く市場でヘリコプターの爆音のような音がする海の方を見ると、壊れた船や木材と一緒に黒い津波が押し寄せて来ていたと話す。泳げずしがみついてくる妻を後ろから抱いて木立まで泳ぎ、既に何人かが登っていた木に妻を押し上げ、二人とも助かったという。だが、家にいた実母は流されて行方不明となり、後に遺体で発見されている。「命あってのモノダネです。財産は失っても、命さえ助かれば、また作れますから」。生死の境を体験したプラターンさんの言葉に、矢野さんはシンプルだと思うと同時に、重みと逞しさを感じた。
ナムケム村の中心部には津波が内陸へ運んだ中型木造漁船がモニュメントとして残され、その周囲には4階建てほどの高さで窓がなく、通気口のような穴だけが空いたビルが林立している。盛んに鳥の鳴き声が聞こえるので、目を凝らしていると、それらのビルをツバメが頻繁に出入りしている。聞けば、津波後に村で盛んになった『ツバメの巣』の養殖で、鳴き声はより多くのツバメを呼び込むために録音素材をスピーカーで鳴らしているという。ツバメの巣は高級中国料理の食材として世界中で珍重されている。その一軒、チャムナーンさん(58)は津波までは養豚と雑貨屋を営んでいた。
「津波だ!早く逃げよう」と血相を変えて浜から駆けてきた息子に急かされ、何も持たずにバイクで高台に逃げ、助かったという。だが、豚を全て失い、家も水タンクを載せるためにコンクリートで作った部分だけを残してすっかり流されてしまった。「友達が何人も死んだけど、連中はカネ目のモノを運び出そうと、家でぐずぐずしていたから。半信半疑だったけど、息子と一緒に逃げて良かったよ」。彼は以前と同じ場所に、ツバメが巣をかけるビルを建設業者に頼まず、息子と二人完成させたところだった。
あの日養魚池で仕事をしていて、傍にあった小舟に飛び乗って助かったソムラックさん(54)も、被災後6ヶ月間に家と船、漁具を援助で貰え、以前の生活に戻れていると話す。ただ家はタイル貼りなど仕上げには自己資金6万円ほどを費やしたそうだ。プラターンさん同様、ソムラックさんも「お金はそんなに大事ではありません。命さえ助かれば、それで良いんです」と言い切る。
しかし、ソムラックさんは「津波を予知できていたら、あんなに多くの村人が死ぬことはなかった。あの時は大波を珍しがって、逃げるどころか、逆に見に行って…」と悔しそうに言う。村では彼やプラターンさんら有志が、防災チームとセンターを立ち上げ、避難指示も出すようにしていた。防災センターには無線やサイレン、ゴムボートが備えられ、避難集合場所が記された地図や組織の連絡系統などが貼り出されている。バンコクから危険を知らせる防災放送もあるが、それでは「遅すぎると思った」からだという。 援助住宅から100メートルくらいの幹道沿いや、リゾート施設が建ち並ぶ海岸通りには、赤い字で『TSUNAMI』と書かれた3階建ての避難ビルが6棟建設されていた。「立派なのが出来たな」と見上げた矢野さんは内部も覗いてみる。3階建てと言っても、1、2階には壁や床はなく、部屋になっているのは3階だけ。平時には村の集会所にもなりそうだが、室内はがらんとしていて使っている気配はない。施錠はされておらず、いつでも誰でも部屋に入れ、屋上にも上がれる。ここへ避難すれば、10メートル超えの津波が来ても助かりそうだ。
ナムケム村は津波後も内陸へ移転することなく、現在も海辺にある。プラターンさんも、チャムナーンさんも、ソムラックさんも引っ越しは全く考えなかったと言っていた。3人が異口同音に「命さえ助かれば、何とかなる」と言ったように、防災対策にも津波が来た時には身体一つでとにかく高い所へ逃げようという考えが如実に現れている。
依然、オーシャンビューに人気
ゴム園を経営しながら観光ガイド兼運転手もやっているマーノプさん(56)は「津波の後、観光客はガタッと減り、来るのはボランティア関係の人たちばかりでした。でも、2、3年後から徐々に観光客が戻って来て、今では津波前の6、7割に回復しています」と話す。マーノプさんは自分の車で矢野さんを、復興した典型的なリゾート、カオラックビーチへ案内した。道中には打ち上げられたままモニュメントとして残されている沿岸警備艇や民間の『ツナミ・ミュージアム』などがあり、建設中のホテルも目に付いた。
あの日は前夜がクリスマスイブ。夜遅くまで騒いでいた客は、殆どがコテージで遅くまで寝ていた。それが災いし、カオラックビーチでは95%と客と従業員の殆どが津波の犠牲となった。全て瓦礫と化したリゾート施設を3年目で元通りしたという『カオラック・グリーンビーチ』ソムチャート支配人(53)は、矢野さんに被災直後の写真を見せながら精力的に話す。「僕の考えでは、被災しても落ち込んでいてはいけません。ゼロからの再出発だったので、早く着手する必要がありました。早く始めれば、早く立ち直れるというものです」
ソムチャートさんは以前と同じく、満潮時の波打ち際から10メートルくらいの浜にコテージを建てた。室料は海に近づくほど高くなっているにも関わらず、予約はオーシャンビューの方から埋まる。その一方で、防潮堤のようなものは建設されていない。何世紀かに一度、地形が変わるほどの自然の猛威に襲われるが、無粋な人工物などない常夏のビーチ。それを愛する常連客が先陣を切って戻って来てくれたと彼は話す。パンガー県観光協会チャイラトパートン会長(32)に拠ると、津波前に約7,000室あったホテルの部屋は、昨年末で約4,000室まで回復し、今年末の目標は5,500室。年間約70万人だった観光客も40万人まで戻っているとのことだ。
そして日本、またタイ
毎年帰日している矢野さんだが、今回はタイ南部の被災地で得たものを反芻しながらの帰省となった。日本ではボランティア団体と会うのも目的の一つ。故郷熊本県にある蓮華院誕生寺の川原英照貫主(59)も矢野さん同様に30年前のインドシナ難民がきっかけで『れんげ国際ボランティア会』を立ち上げ、東南アジアを中心に援助活動をして来た。矢野さんは川原さんに報告する。「6年経って、タイ南部はかなり復興していましたよ。あの土地を離れないと決め、必死でやっている人たちがいるからだと思いました」。以前から知り合いの二人、話の流れはやはり「復興には何が必要か」と援助のあり方を確認し合うことになる。「一番大切なことは被災者自身が立ち上がるための支援を周囲がどれだけ継続的に出来るか。そして、その人たちが団結し、コミュニティーを作り直す。そうなれば、もう後は放って置いて良いんです」。二人の意見は被災者自身が立ち上がるための支援という点で合致する。
ボランティア仲間として矢野さんは川原さんの目にこんな風に映っているようだ。「動かずにおれなくて行ったわけでしょ。色んな犠牲を払っても、それを犠牲と感じていないわけです。そこが矢野さんの素晴らしさですよ。普通の人はそんなことを思い付きもしません。それに、次があったら、もう忘れる。それは本気で関わっていないから忘れるんです。例えば、本気で愛した女性ならば、振られてもずっと忘れないように」。川原さんは僧侶だが女性への思いに喩えて矢野さんのモチベーションの強さを話す。
カンボジア難民のキャンプを原点に、タイに住みつき、ボランティア活動を続ける矢野さん。そこには、やはり本気になる経緯があった。帰省したら必ず登ることにしている虚空蔵山。矢野さんは市街地を眼下に昔話を始めた。「あそこにクレーンが2台見えるでしょ」。指差す先には日立造船。その造船所へ転勤となった父親と大阪から引っ越し、矢野さんの高校に転入して来た娘がカノジョだったそうだ。「その娘が京都の大学へ行ったので、僕も一年浪人して京都へ行ったんですが、振られました」。失恋の傷心から、全く違う環境で、これまでにやったことがないことをしたくて難民キャンプを目指したと打ち明ける。本当のきっかけというものは、政治などの理屈ではなく、こうした極めて個人的な体験なのであろう。
空き家が目立ち、視野に人影が入らないことの方が多いガランと街。炭坑閉山とともに人口が減り続け、寂れてしまった古里、荒尾市に矢野さんはショックと寂しさを隠せない。実家はこれまた全国的にも珍しくなってしまった貸本屋で「私が元気なうちは…」と、87歳になった母、敏子さんが店を守っている。亡父はやはり炭坑関係の溶接工だった。
賑わう縁日に限らず、良く遊んだ虚空蔵山にある四山神社。境内のクスノキの下、矢野さんはタイ南部を振り返る。「津波の年には、大スターや政治家、大企業のお偉いさんもたくさん来てくれたけど、もう今は誰も訪ねて来ない。そんな時に来てくれたのが嬉しいと副校長は仰ってた。東北の方も一緒だと思いますけど、残った傷はすごく深くて、だからこそ、5、6年経っても来る人がいるという、たったそれだけで、あんなに喜んでくれたんだと思うんです」
矢野さんのバンコク暮らしは、もう29年。タイが第二の故郷になっても、母国がある外国人だからこそ彼には見えるものがあるようだ。「やっぱり復興は、その土地の人がいなくなっちゃうとダメだということがハッキリしてますよ。海に生きてきたナムケム村であるし、ビーチやジャングルといった自然を最大限利用して営んできた暮らしだから、その土地に人がいなくなった時点で街の力がガクンとゼロか、マイナスまで落ちてしまいますからね。そこから復興して行くには、やっぱり人が、その土地の人がいないとダメですね」。故郷の荒尾市が寂れる一方なのも、人口減が一番の原因である。
帰省はせいぜい十日間。バンコクのアパートに戻った矢野さんは、インフラや行政サービスは日本ほど発達していないタイだが、逆に日本にないものがあると話す。「自分たちの生活を立て直すだけで精一杯で、別に防潮堤が作られたわけでもなく、未だに低い所は低いまま。タイの人たちには、自然には絶対敵わないと最初から諦めているような所があって、逆に強いかなと思うんですよね」
彼の暮らし向きはタイ人の間でも簡素な方だ。月家賃6千円程のアパートに寝起きし、近くの大衆食堂で一食は100円以下。「何と言いますか、タイ人の良い加減さと、外国人を差別しないタイ社会が居心地良いですね」。矢野さんはバンコクの下町に飄々と溶け込んでいる。贅沢品に囲まれて暮らし、災難に遭った時や老後の保障に固執する日本の幸福観とは違ったタイのそれを体得しているようにさえ見える。一日の終わり、アパートのバルコニーからタイの焼酎片手に夕焼けを見るのが日課の矢野さん。「やっぱりタイ人と日本人との運命というものに対する考え方って、大分違うんだろうなって気がしますね。どっちが良いのかなぁ」。タイと日本をその日のうちに往き来できる現代ならば、それぞれの価値観も時空を超えられないものかと矢野さんは思っているに違いない。