ビルマ(ミャンマー)最後の弾丸1991年6月
総選挙でボロ負けしても居座る軍政府に、大勝した民主派が武力弾圧を受けている奇妙な国がある。 日本ではミャンマーと呼ばれる国。「ミャンマー」とはビルマ族にカレンやカチンなどの少数民族をふくめた民族名だが、 国際世論を意識した軍政府があたかも民族問題は解決したかのように変えた国名である。90年末民主派によって樹立された、 その名も「ビルマ連邦国民連合政府」を訪ね、タイとの国境をなすモエイ川の両岸で、その国を「ビルマ」と呼ぶ人たちに会ってきた。
「ビルマ」対「ミャンマー」
「ライバル政府の二大臣ラングーンヘ帰る ── ビルマ軍当局発表」。その総理府があるカレン解放区マンナプローヘ出発する朝、 タイ紙の記事を見て驚いた。
モエイ川はタイ・メソートを北へ、つまり内陸へと流れる不思議な川。その下流、約百五十mの対岸にあるマンナプローへは、タイ側の舗装道路が 切れた所からボートで行くのが便利。だが、途中の流域にはミャンマー軍が立ちはだかる。後はカレン解放区の船着き場まで、ゾウに乗ってしか進め ないような深いジャングルを気持ちだけが急ぐ。メソートから六時間、ようよう“ビルマ入り”を果たし腕時計を三十分遅らせた。
九〇年十二月十八日、連合政府を建てた八人の国会議員の一人、ラ・ペ官房長官(43)に二大臣のことを問う。「軍諜報部に拉致されたのです。 随行者からの報告ですから間違いありません」と、軍政府が発表した二人の「投降」を否定した。タイ紙「ネーション」のアムナット記者(37) は「内一人は政府発足後にやって来た九人目の議員だろ。軍諜報部に買収されてたかもね」と読む。
「SLORC(国家法秩序回復委員会)が銃剣を突きつける国内では表現・報道の自由もない。私が出て来た時で八十四人だから、 もう百人以上(軍の公表は二十一人)の当選議員が逮捕・投獄されているはず。彼らに代わって国内の『真実』を広報するのも暫定政府の役目です」 と同官房長官は言う。 邦紙は昨年十月「マンダレーで『反政府』僧を大量逮捕」とだけ伝えた。しかし真相はこうだった。「一丸となった僧侶が、 NLD(八割以上の議席を取った国民民主連盟)の連立政府設立の秘密会議に寺を提供し、武力鎮圧の犠牲者の三回忌法要でカモフラージュしようと したのです」。逮捕を逃れた僧ベン・ビマラ=仮名=(22)が国境にたどり着いていた。
「マンダレーでは自殺行為。実は、国会議員をここに招いたのは私だ。私たちは四十余年民族のために戦ってきたが、これからは彼らが政権をとれ るよう戦う。民主派議員は少数民族の人権を認めるから」。最強ゲリラ、カレン解放軍の将軍であり、反軍政二十一団体が結束したビルマ民主同盟の 議長ボ・ミャ氏(64)も新政府に賭ける。
「日本兵は拷問したり恐ろしかったが、民間人は当時から良く働き平和を愛したと両親が言っていた。日本が本当に民主主義を信奉しているなら、 国民に支持されたこの政府を承認してほしい。それとも軍政府への最大の援助国であり続け、四十九年前の過ちを繰り返すのですか?」。全国民主戦 線カイン・ス議長(44)は日本人記者に訴えた。
昨年十二月、国連本部での「ビルマ軍政非難決議」は日本の動議で今年に持ち越されている。
「正しかった選択」
「たやすい革命なんてあるはずない!」。投降して行った五千余学生たちへのコメントを求めると「我々は自由を愛しているから、 それも自由だ」と、全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)チョー・ツー・サロウィン・キャンプ議長=仮名=(22)はこれだけ言って唇を噛み締めた。
八十八年九月十八日の軍事クーデター後、タイ国境沿いのジャングルに立て籠もった学生は七千人を越えた。だが、乾期は二十度もの日温差、 雨期は蚊の大群といったジャングルの厳しい自然に、マラリアや肝炎などが栄養失調の学生の間に蔓延。初めての乾期には国軍の猛攻。来た道を 引き返したり、タイ・ミャンマー政府の送還プログラムにのって“投降”した学生も多かった。だが、今も二千七百三十九人が十五のキャンプに 踏み止まっている。中国とバングラデシュ国境の部隊を合わせると、軍政と戦う学生は五千人を下らない。
同志の犠牲のうえに勝ち取った総選挙に大喜びしたのも束の間。政治の基本ルールを破る軍政府に怒りをもんもんとさせながら、彼らは ジャングルで三回目の正月を迎えていた。そこへ連合政府を立てたばかりの国会議員三人が訪ねてきて、民主化への具体的な道標を説いてくれた のである。
「ジャングルにたてこもり戦ってきた僕たちの選択が正しかったと、皆その夜は声をあげて泣き明かし、決意を新たにしました」。 チョー・ツー議長は、連合政府は私たちの「最後の弾丸」だという。
二年前訪ねた三つのキャンプのうち二つは撤退を余儀なくされていたが、マラリアで死んだ三人のほかに学生に戦死者はないと、同議長。 「市民が情報や食料面で助けてくれている」。西約五〇・の前線部隊への補給から戻ったヤン・アウン司令官=仮名=(29)は「それに、 国内の蜂起警戒に国軍は兵力を取られているはず」と推測する。全ビルマ学生民主戦線は十一の武装民族が団結した全国民主戦線と共に戦う。 その家族や非戦闘員を含めると、ミャンマーの全人口四千百万の六割を占める。
だが、三月に入るとミャンマー軍の激しい乾期攻勢が再開された。学生やカレン解放軍が応戦するマンナプロー北約三十キロのパワタへ PC6戦闘機四機が空爆。同月十六日から三日間にわたった百五十発の爆撃で、農村の婦女子らに多数の死者が出たとABSDFは伝える。
祖国を流れてアンダマン海に注ぐサロウィン川。モエイ川がその川と合流する所に、この学生キャンプ「サロウィン・キャンプ」はある。 学生たちの思いも川の流れにのって国内へと下っていく。
「二枚カード」
国境の街、ターク県メソートにあるレストラン。古参のNGO(非政府援助団体)スタッフが視察団に 難民キャンプの状況を米語で説明している。「ビルマ」という箇所は「彼ら」に置き換えられている。
タイ政府は昨年十一月、タイ航空機ハイジャック事件を機に、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)を含む外国援助団体に 対ビルマ難民援助を禁止している。それでも、マンナプローの連合大学や各地のキャンプで、英語や政治学、経済学のボランティア先生に 出会った。どこのNGOにも属さず、個人の資格で教えている。二十三から五歳の男女六人の国籍は米国三、カナダ二、英国一で、日本は ゼロだった。年上も混じるビルマ人学生を前に「基本的人権」を黒板に並べていたカリフォルニア出身の青年(23)は言う。 「湾岸戦争に反対のアメリカ人はもっと多いはずなんだけど、『正義』にはなかなか逆らえないから……。僕はここで教えてるんじゃなくて、 彼らから教えてもらってます。自由とは、とね」。
メソートのビルマ人街。タイへ出稼ぎに来て二十年目というボ・ニー(34) とビルマ式ミルクティーを飲んだ。「出稼ぎビルマ人の日当は タイ人の半額が相場だ。でもね、タイ人の親方はちゃんと賄賂を贈って、当局の手入れをそらしてくれる。ギブアンドテイクっていうやつだよ」。タイ政府は昨年末、ビルマ人の不法入国者に対して取締り強化や収容所計画などをあい次いで発表したが、彼によると身辺に変化はないという。
越境してきたビルマ人たちを無料で診ることで“平和的に戦う”ビルマ人女医シンシアさん(31)は故郷の状況を話す。「貧しすぎて家族 全員が重い結核になるまで診察を受けなかったり、福祉行政は皆無だわ。医師一人一人の力ではどうにもなりません。政治改革が先決です」。 『シンシア診療所』の存在はこの町の役場も知っているが幸い一度の手入れもない。
「ホンネとタテマエに似てるんじゃないですか。常に『二枚カード』で外交をするのが、四カ国と陸続きのタイの伝統です。 一枚は一国家として襟をただす白黒はっきりした『カード』、もう一枚は隣国それぞれに対する玉虫色の『隠しカード』です。 アジア特有なのでしょうが、欧米社会に仲間入りした日本の外交にはもう見られませんね」。 タマサート大学近代政治史ナカリン・メクライラット助教授(33)はタイ政府の柔軟な二面性を特徴づける。
だが二月二十三日、そのタイで軍事クーデターが起きた。二週間後に訪れたバンコクの国連ビル。 大理石のロビーにロンジー(ビルマ式腰巻き)姿で座り込む男女の群れが目に入った。 タイの右急旋回にUNHCRの難民認定を受けようと面接を待つビルマ避難民である。 「難民の条件」を充たすのは、そのうち約二割だが、国連はタイ政府の通達を無視し、一旦認定したビルマ難民には、 一人につき月額最高三千バーツの援助を続けている。いうまでもなく、タイ政府から見たこの人たちは、 収容所へ送り込むべき不法入国者でしかない。
「マンナプローだってミャンマー軍にタイ領から攻めるのを許可すれば、落とされてしまうだろう。セイン・ウイン(連合政府)首相も、 亡命政府を受け入れてくれる第三国を探していました」。 ファー・イースタン・エコノミック・レビューのビルマ担当記者、B・リントナー氏(38)はタイのクーデターの影響を憂慮する。
軍人経済論?
消し炭になった柱だけが林立する異様な風景に、モエイ川の向こう側から着弾音がこだまする。ここはタイ領ワンカー。二年前、お茶を飲んだ国境市場がここにあったとは信じられない。越境したソウ・マウン軍の焼き撃ちに合ったのだ。
軍政府にとって“闇市”は反政府側の財源であり、民主派に開かれた国境。重点攻撃目標である。代わりに近くにあった少数民族の難民村は 倍近くに膨れ上がっていた。
同じく軍に攻略されたバンコク北西の国境、スリーパゴダパスの二百五十一人の学生はタイ領に一時避難している。また「クワイ川鉄橋」で 有名なカンチャナブリには、ヤンゴンに多いビルマ族を含め五千人以上の、タイ国境全体では五万人以上の難民が押し寄せている。
「輸出額は二年前、十億バーツ(一バーツ=約六円)の半分だ。昔からのビルマ人との商売が政治に巻き込まれるのは御免だね」。 タイ国会への立候補を考えているターク県商工会議所ニヨム会頭(45)は頭を抱える。 ミャンマー政府は昨年十一月末メソートの対岸・ミャワディーで起きた爆弾事件を、タイが黙認する民主派の犯行とし、 以来一方的に国境を閉めている。
ミャンマー南部の港町・メグイの職安には、その日の職を求める小学生が早朝から並ぶ。乾物工場で夜まで働いて 十五チャット(実勢レートで約四十五円)という職にさえあぶれる子の方が多い。難民が伝える近況だ。
その南部で昨年十二月二十九日、学生たちはタイのトロール船をだ捕した。カルカッタで記者会見ができたあのハイジャック事件のようには 行かず、追い詰められた彼らは六日後にその船を爆破することになる。
「自国の漁民を犠牲にしてまで領海の漁業権をタイの水産会社に売る軍政府を外国世論に訴えるためでした。爆破は予定外だったのですが、 タイからの通報で迫ってきたミャンマー海軍に私たちの言い分を揉み消され、単なる海賊にされないためだったのでしょう。
だから、爆破前に乗組員とハイテクぎ装は島に降ろしたのですが…」。全ビルマ学生民主戦線外交担当タウン・トゥン医師(34)は 苦しそうに弁明する。彼らのアピールも、この事件も邦紙には一行も出なかった。
モエイの川床は無数の雲母片でダイヤを撒いたように輝き、岸辺の断層は蒼(あお)いスズ鉱脈をむき出しにしている。 ルビーの一大産地でもある。鉱山技師だったソー・ツー=仮名=(29)が国営鉱山のひどい搾取を非難し、連合政府の外国資本誘致計画に 夢を託す。その間にも、軍政府はヤンゴンでの宝石即売会に日、独、伊などのバイヤーを招き、二千二百万・の商談をまとめていた (共同通信)。
マンナプローの帰り道、夜の闇に紛れて走る十台の大型トレーラーを追い越した。タイ経由で輸出されるチーク材だ。「軍費を得るため、 ミャンマー政府は資源を食いつぶしています。ビルマにはちゃんと伐採法もあったのですが…」と、ボ・ラ・ティン資源エネルギー大臣(33) は指摘していた。
「独立四十三周年に際しミャンマー国民の方々に謹んでお祝い申し上げます。日本ミャンマー文化経済友好協会」という広告と 「投資家のみなさん、新しい魅力があります。国営化と貴社の利益を国家が保証します」と見出しが付いた記事。 日本のある英字紙はこの正月、こんなラブコールを抱き合う形で載せた。 さすがに、文末には「この記事は在東京ミャンマー大使館の寄稿です」ということわり書きがあった。
「希望」
国境の連合政府がゲリラ部隊の「最後の弾丸」なら、「オガタは国内ビルマ人の最後の『希望』だったんです」。 バンコクのアジトで二年振りに再会した二人のキャンプリーダーは地下工作班に転属していた。イェ・トッ=仮名=(25)の任務は、 国連人権調査団長として昨年十一月ヤンゴン入りした緒方貞子さん(63)に国内民主派が告発できるよう工作することだった。 港湾労働者や行商人に化け、偽造の身分証明書で検問を突破して潜入。国内十都市の反政府組織と秘密会議を無事果たしてきた。
彼は目撃談を映画の一シーンのように語る。「確か三日の午前十一時ごろ、オガタへの直訴の方法を民主派リーダーたちと話し合い、 スーレパゴダ近く(ラングーンの中心)のビルを出た時だった。表で軍諜報部の動きを警戒していた約五十人の学生たちの前を、 奇しくも彼女の車列が通りかかったんです。「WE WANT DEMOCRACY & HUMAN RIGHT 」。女子学生二人は勇敢にも横断幕を広げた。車列は急にスピードをあげて通り過ぎ、 彼女たちは戻って来た先導車に一瞬にして押し込まれてしまった」。
緒方さんの宿舎がインヤレークホテルから軍の敷地内に変更させられたことは、側近筋の情報としてタイ紙が報じていた。 だが、彼女の“軟禁状態”はそれ以上に厳しいものだった。イェ・トッ自身も僧侶に扮し、シュェダゴン・パゴダで緒方さんを待った。が、絶えることない参拝客を追い出した境内に現れた彼女は、 両脇を軍人にがっちりガードされ、近寄ることすら出来なかったという。
ハイジャックされたタイ航空機の折り返し便は、緒方団長の出国便であった。全ビルマ学生民主戦線が所属を否定するハイジャック犯も 狙いは彼と同じだったようだ。
地下組織の集計によれば、記録資料を持って日本大使館へ飛び込もうとしたり、緒方さんに「真実」を伝えようとして逮捕された人は 二百五十人に達した。「その資料のフィルムをタイまで持ち出したんだけど、オートカメラだったので全部ピンぼけで…」と イェ・トッは悔しがる。
その翌月、国連高等難民弁務官に選出された緒方さんは今年二月、ジュネーブに着任した。決死の覚悟で上げられた横断幕は 彼女の目に入っただろうか。
「おとうさん、ぼくはおぼえています……。いちにちもはやくかえってきてください」。 丁寧な鉛筆書きの文字は八八年九月二十二日以来会っていない息子(6)のもの。地下活動担当リーダー、アウン・ミェン=仮名=(39)にラングーンの自宅からいく人もの手を経て届いた手紙だ。 英訳しながら読み上げてくれていた工作員の声が詰まった。
タイ当局に追い詰められたこの工作員は九三年初頭に渡米。現在はニューヨーク州の大学で勉強を続けるかたわら、 アメリカでのビルマ民主化運動を率い、国連本部前やワシントンDCでデモを行ったり、 カナダへも現状報告にでかけている。