阿佐部伸一 リポート集

東南アジアの人びと

カンボジアそこはまだ戦場だった1992年8月

宝石や森林など天然資源に恵まれるバッタンバン、タイとの交易が盛んなバンティミンチェイ、クメール人の聖地で世界的観光地アンコール遺跡で知られるシェムレアップはカンボジアで最も豊かな三県。ここにはタイ国境に逃れた三派の解放区もあるため、経済、文化のみならず、戦略面でも重要な地域である。そして、中央・プノンペンでは見えないカンボジア問題の現場でもある。バッタンバンに連泊して動き回ってみた。

戦場の村

cbantitank
対戦車地雷にトラックが吹き飛ばされた(左後方)=国道五号バッタンバン・ボイペット間で

椰子の並木に熱帯の朝日が昇る。出勤の自転車やバイクを押し退け、ロケット砲と重機関銃で武装したソ連製APC(装甲兵員輸送車)が轟音を響かせて前線へ出てゆく。モスクワ市民に阻止された同型のAPCが、世界のテレビに映し出されたのは記憶に新しいが、ここでは十二年以上続く、ごくふつうの朝である。

バッタンバン市を北へ出たとたん、スワイ(マンゴー)山の裾野を無数のニッパヤシ小屋が埋め尽す異様な風景が目に飛び込んできた。北隣りのバンティミンチェイ県で発生した避難民は八千八百三十四家族、四万六千九百三十四人。停戦合意の五月以降も変わらず、ここを含め九か所でキャンプ暮らしを強いられている。

「ズッ、ドーン。ズッ、ドーン」。雷ではない。市内から北北西へ一時間半。タイ国境まであと八十キロのバッタンバン県ボーベル郡庁には大砲の着弾音が響いていた。

「何が停戦合意ですか!カードル・タヘン村やアンプル・プラダム村(ボベールから南へ、それぞれ七キロ、十二キロ)には、五月一日からこれまでに八百発以上の砲撃がありました。雨期で避難民が田植えに帰っていた最中にですよ。この間(九月十八、九日)なんかは、アン・ルゥンルゥン村にクメール・ルージュが攻め入って、村人二人を殺し、四人が怪我をし、鶏とアヒル、米、ビデオセット、十万リエルを略奪したんです。それに、また新たな地雷を田に仕掛けて撤退してゆきました」と、バッタンバン県ボーベル郡のホ・ピーノ郡長(36)は拳を握る。戦場と化した村からの避難民は千四百五十八人、停戦以降、逆に二百十八人増えたが援助は前のまま、食料、物資のやり繰りに悩んでいる。

「おじさん、こっちだよ」。先月末、二発の砲撃を受けたスゥン・スラン村で、ルイ・ヌゥー君(12)は雨水が溜まった大穴に案内してくれた。彼はそこから三十メートルと離れていない自宅にいて、壁を突き破って飛んできた破片が背中に刺さったと、ケロイド状に固まった傷口を見せる。お父さんが家に保管していたロケットの残骸を持ち出した。軽合金の筒は爆発で、むいたバナナの皮のように曲がっていたが、中国製の百七ミリロケットと判別できた。

cbmine
森へイモを掘りにいって、両足を失ったという=モンコレボレー病院で

この村には、南七キロのタ・ヘン村の住人が避難してきている。オン・ヴォエンさん(30)には左足がない。「三年前、地雷を踏んだ主人を病院から連れ帰った五日後、今度は私が田へ行く途中に…」。八歳を頭に三人の子供を抱え、夫婦共に片足。「砲撃と無数の地雷で、もう三年も帰れていないんです。田は放ったらかしで…」。一ヵ月に一、二度来るNGOの配給と、親戚や隣近所の助けで生活しているという。

一九六三年日本の援助で建てられ、ロンノル時代までは日本人医師も駐在していたことから「ムンティペェン・ジャポン(日本病院)」と、今も呼ばれているモンコロボレー病院。ここは設備が良いため、数時間かかる遠方からも地雷を踏んだ人が担ぎ込まれる。今年三月には七九人が、八月には三十人が手術を受けた。

いま入院しているのだから当然ではあるが、皆、停戦以降に地雷を踏んでいる。国際赤十字によると、カンボジアに埋められている地雷は五十万個を越し、世界最多である。
停戦合意以降八月末までにバッタンバン県が被った戦禍は、砲撃八十三回(五千発以上)、(踏んだ)地雷二十九個、村への急襲六回、略奪六件、誘拐七件。民間人の死者三十三人、同負傷者四十二人、焼失家屋百八十七軒にのぼる(県の人民委員会調べ)。

バッタンバン市への帰り道、塹壕に機関銃を据えた陣地に立ち寄った。「今の戦いは、敵を殺すためではなく、人々を守るためです」と、チャン・ポーチ中尉(24)は答えた。停戦協定に基づきヘン・サムリン政府軍が前線を守備位置へ後退させると、クメールルージュはそれまで政府軍が抑えていた攻撃位置に進撃、より激しく攻撃してきた。安全だった地域の農民にも被害が出ていると戦況を説明する。

八四年から最前線でクメールルージュと対峙してきたポーチ中尉は、国連案への危惧を隠さない。「七十%の武器削減というけど、クメールルージュが守るはずない。私たちは命令があれば銃を手放すけど、その時に村の隅々まで国連軍が配備されていなければ大変なことになる」。秒針を見ていると一分間に三発の割りで、砲撃が続いている。

国連PKOを悲観

前線から戻った夕方、ホテルの隣にあるバッタンバン県守備隊本部へ、概況を聞きに行った。「よく現場を見に来てくれた」と、ヴァン・ソファス大佐(38)の方から握手を求めてきた。「ポル・ポト派が停戦にサインしたのは、バッタンバン県の七地区の軍事拠点を全て我々に抑えられていたからです。初めから破る積もりで停戦に合意して、こちらの停戦中に建て直しするという汚い作戦だったんです。その証拠に、二週間前(九月二十日)に百五十八台の中国製軍用トラックがタイのトラットからポル・ポトが抑えるパイリンへ入ったと、情報を得ています。近々、その写真を国連に提出するつもりです」と、パタヤ会談でポル・ポト派が意外にも早く妥協してみせた伏線を分析する。

ソファス大佐は、一九六八年シハヌーク政権の反政府勢力だった当時のクメールルージュに入隊、七五年ポル・ポト化するクメールルージュから脱走するが七八年に逮捕・投獄された。七九年ベトナムへ逃げ、ポル・ポトからカンボジアを解放することになるヘン・サムリン軍を組織した草分けである。

国連平和維持軍についてはソファス大佐も悲観的だ。「クメールルージュは決して一か所に留まっていないし、武器は深いジャングルの山の頂上や、地下要塞などに隠すだろう。七十%兵力削減といっても、やつらを監視して守らせれることは不可能だ。それに、地雷はそこらじゅうに埋めてあるだけでなく、竹製のや立木に仕掛けてあるのもある。十三年間に放たれた無数の砲弾の破片が反応して、ハイテク地雷探知機は鳴りっぱなしになる。外人部隊には手におえないでしょう。ソンサンとシハヌーク軍も実質的には無力で、ポル・ポト軍相手に戦えるのは我々だけですが、国連案に従うのが国策です。総選挙の後も戦争が続くことは火を見るより明らかなのですが…」。夕食の時間になっても、ソファス大佐は大切なことをまだまだ言い残しているかのように熱っぽく話し続けた。

帰還難民

帰還難民、メアス・サルン(40)さんが故郷のルーン・アンピル村にいたのはわずか二日間であった。八年前、サルンさん一家がタイ国境のソン・サン派難民キャンプ「サイト2」へ行ったのは「食べ物が足りなかって、キャンプへ行けば何でもあると聞いてたから」と、妻ポ・パリーさん(37)は悪びれた様子もなくいう。“帰ってきた”のはパリーさんと九歳の長男だけ。二男以降の四人の子供たちはキャンプ生まれなので、初めて祖国の土を踏んだことになる。「あの人は一体、何を考えているのでしょうね。また、国境へ行ってしまいましたよ」と、ずっとカンボジアにいた姑が小言をいう。

国連の帰還プログラムより一足先に国へ帰る“難民”は少なくないが、その数は出しようがない。既に帰った人の分までキャンプの配給を受け取ったり、食糧や医療で困れば再びキャンプへ戻る“難民”が多いためである。「五月に米の配給が(一人当たり)五百グラム減らされたから」というのがサルンさん一家の帰還理由だ。三ヘクタールの田を持つが「今年は田植えのときに水がなくて、今ごろ洪水。ダメだよ」とパリーさんはぼやく。上三人の子供は就学年齢だが、すぐ側にある小学校へも通っていない。「年に五百リエル(約六十円)の協力金が払えない」と言い訳するパリーさんの目はただただ虚ろである。

サルンさんは木の根から作った歯痛の薬を2瓶持って、再び国境へ行ったそうだ。いい値で全部売れたとしても、千リエルがやっと、姑が怒っているわけである。

西側に開いた窓

スレソポン市はバンティミンチェイの県庁所在地だが一軒のホテルもない。昨夜は知事公舎の三階に泊めてもらった。イタ・ルアル知事(40)は八九年バンティミンチェイがバッタンバン県から分離するまでは、政府の通訳官を務め、英、仏、タイと四か国語を自由に操る。大変、歯切れの良い人で、国連の手前ハッキリものを言わなくなった中央政府を代弁してくれたような気がした。

「(タイの)チャチャイ前首相の『戦場から市場へ』という政策に賛同し、国境貿易再開の話し合いは、国連の5・1停戦とは関係なく進めていたんです。四月十四日に再開していたはずなんですが、タイでクーデターがあって六月十五日にずれ込んだという訳です」。十六年振りに西側と陸続きの国境、ボイペット・アランヤプラテート間を開いた経緯を話す。

理由をたずねる。「自由思想や社会問題も一緒に入ってくることは承知していますが、いい面の方がずっと多いと思っています。悪ければ国民が受け入れませんからね」と、さばけている。西側へのアピールは?「プノンペン政府は主義主張より、国民をポル・ポトの残虐行為から守り、国民の暮らしが向上するよう努力してきた。カンボジアの行政はまだ六十%社会主義、四十%が資本主義という感じですが、その比率が逆転する日もすぐですよ。もとより農地や家の私有や売買は認められているし、すでにシンガポールやタイなど西側からの輸入も公認されてます」と、知事は社会主義色を払拭したいといわんばかりである。

言論の自由があるかというちょっと意地悪な質問には、「言論統制がないといえば、嘘になるからね。今はまだ、非常にむづかしい状態なんですよ。また、ごちゃごちゃになってしまうと、国の再建ができませんから…。ご覧のように国土は戦争で荒れ果て、国民は貧しく教育も受けていないのですから、たとえ理想がどんなに崇高でも、それを急に実現しようとすれば、あなただって“ポル・ポト”になってしまいますよ」と、きついジョークで結んだ。

翌朝十月六日、スレソポンから県の役人が便乗してきた。この小柄な中年男性は、昨夜部屋にろうそくを持ってきてくれ「私の教え子なんだ」と、見覚えのある運転手の写真を自慢そうに見せた。そして、カンダール県立高校の地理学の「プロフェッサー」だったと自己紹介した。写真の彼は英語力が買われてプノンペンでも羽振りが良い方だ。車中で、突然紙切れを差し出す。間違いだらけの英文を解読すると「貧乏でこどもの学費に困っている。五ドル恵んでくれないか」という内容だ。公務員の月給が安いのは聞いているが、私の反応をおどおどとうかがう「プロフェッサー」に心を痛めた。キャンプの難民と違って、カンボジア国内のクメール人は概して誇り高いという印象をもっていただけにショックであった。

国境市場

bmbordermarket
ゴザを積めるだけ積んで国境の市場を目指す農民=国道五号線で

そこへゆくと、この人たちは逞しい。赤いラテライト土がぬかるむ五号線もなんのその。かご、ござ、米、生きた鶏、陶器など積めるだけ積んだ自転車を押す農民たち。タイ国境に開かれたボイペット市場では、かご一つが十バーツ、四百五十リエルで売れる。タイ人にとっては屋台のラーメン一杯分だが、クメール人には公務員の日当に相当するのだ。この日は日曜日。バンコクから“日帰り買い出しバス”も出ているだけあって、アンコール・ワットの尖塔をかたどったゲートを潜って、怒濤のようにタイ人が押し寄せてくる。国境のオ・チョロー橋を挟んだ幅百五十メートル程の緩衝地帯の両端にチェックポイントがあり、タイ・カンボジアの各入管に五バーツずつ払えば、当日の午後四時まで有効の「フロンティア・パス」をくれる仕組みだ。国境線の向こう側、アランヤプラテートにも同規模の国境市場があり、値段も政府間の申合せで同じなのだが、タイ人たちは「折角、国境まで来たのだから」と見物かたがたカンボジアに入国してくる。

六・十五国境再開と同時のオープンしたボイペット市場は、トタン屋根だけの建物が十二棟並び、三百軒近いさまざまな店が入っている。整地しただけの足元からたちのぼる湿気と、ごった返す買物客の人いきれでムンムンしている。

「五百バーツ(約二千六百円)で売っているのはニセ物だけど、これは本物の『SEIKO』だから八百十バーツだ」と胸を張るクメール人店主、ユー・チェンさん(43)。漢字名「將任瑚」と書く華僑だ。ポル・ポト時代には店を取り上げられ、トラック運転手をしていたという。「平和、いいねぇー。ひと儲けして、カンボジアで精米工場をやりたいんだ」と、彼は水を得た魚のような笑顔を見せた。

客は八割以上がタイ人。スピーカーが一つでも「STEREO」とあるカセットや、「NIPPON」というブランド名で国籍不明のラジオ、「にほんせい」と平仮名で明記されている電卓など、冷やかすだけでも楽しい。工業製品や酒・タバコの輸入品でもカンボジア経由の方が安い。高い関税で保護すべき国内産業もまだ少ないからであろう。中国製の電動工具と一緒に並ぶソ連製ポンプを見つけた。プノンペンでは定価五十五ルーブル、一万リエルのポンプが、ここでは八万三千リエルで売られている。それでもタイ人にとっては掘り出し物の一つだ。お陰でプノンペンではポンプが品薄になり、値段が倍以上に跳ね上がっているという。

ボイペット市場を訪れるタイ人は平日二万人、土曜日四万人、日曜日五万人前後。一人五バーツの“ビザ代”だけでもカンボジア入管はかなりの収入だ。以前のブラックマーケットとは違って関税もちゃんとある。化粧品、自転車は四十%、電化製品は二十から四十%、医薬品は五%で、農薬・肥料は免税という具合に、贅沢度にスライドさせた課税率だ。プノンペン政府のここでの関税収入は、月三千万バーツにのぼる。

不平等条約

実は、このままタイへ入国して難民キャンプの取材に移ろうと計画していた。だが「ダメ、ダメ、ジープン(日本人)は。ここは日帰りのクメール人だけ。パスポートに押す入国スタンプも置いていないんだから」と、タイ入管は頑として入れてくれない。外務省のL氏が実務レベルの交渉に入った。「うちだってボイペットにはスタンプも置いてないけど、現におたくの方は、ここから西側ジャーナリストをプノンペンへ送り込んでくるじゃないか。うちは彼らをここで追い返したりしてないし、プノンペンに着いてからでもビザを出してやっているのに…」。タイが査証免除国としている日本のパスポート故に、バンコクがプノンペンを下手に見ていることがハッキリと露顕した。L氏は“不平等条約”に腹を立てている。

しかし、そこは入管職員もタイ人。争いごとは好まない。「カメラとパスポートをここに置いておくなら、いいよ」という。つまりカンボジア人になれということだ。それから二時間、タイへ入国。クラッシュドアイスを一杯詰めたジョッキでコカ・コーラを飲み、タイ料理に舌鼓を打ってきた。しかしである、これから、またあの凸凹道を二日がかりでプノンペンへ戻り、バンコク経由で三日後の夕方、またここへ来ることを思い浮かべると、「国境」というものの実感が急にわいてきた。

和平の行方

帰国前日の十月十日。クーデターがあったポル・ポト派の難民キャンプ「サイト8」に責任者が釘付けになり、予定していた国連国境救援機構(UNBRO)の話は聞けなかった。クメール・ルージュはタカ派のリーダーを送り込み、難民を国連案に従わせず解放区へ送還するのが狙いだった。

締切直前の電話取材に、国連職員(40)は近況を伝える。「サイト8」ではその後、国内のマラリア禍から逃れて約千人が新着し、四万四千二百五十七人(十一月十五日調べ)と、逆に人口が増えている。「ポル・ポトもマラリア蚊だけは殺せないから」と彼は軽口を飛ばす。和平協定調印の十月二十三日やシハヌークが帰国した十一月十四日には、難民キャンプ内でも祝賀パレードが起きたが、同時に緒方貞子国連難民高等弁務官が視察に訪れる来春には「帰還拒否」のデモも懸念されている。和平実現と共に帰還が現実味を帯びるに従って、帰国後の生活苦や差別などに対する不安が増し、どの派の難民も手放しには喜んではいないという。

アランヤプラテートのNGO職員(29)は「八割が国連帰還案に同意してますが、故郷へではなくバッタンバンまでの希望が多いんです。三派の解放区で田を耕していれば、プノンペン側の人たちに迫害される心配がなく、また何かあったらすぐに国境へ逃げて来られるからと言ってます」と、聞き取り調査の感触を話す。

解放区に詳しいタイ人記者、ウィティット氏(38)によると、ポル・ポト派は今、地雷を除去した田や水牛などのプレゼントをちらつかせて自分たちの解放区へ難民を一足先に呼び込もうとしている。まるで国連との“難民争奪戦”だと彼は見る。国際電話のタイムラグの後、いつもの彼の含み笑いが聞こえた。「難民の大半は、国連でも何派でも良いわけですよ。とにかく飢えずに、平和に暮らせたら…」。

(文・写真/阿佐部伸一)

トップに戻る